鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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目を開けると、世界はまだ夜明け前だった。
紫紺色の薄明かりが障子を一面に染めている。
ゆっくりと、出来るだけ衣擦れの音を立てないように上体を起こす。周りには──隙間なく敷き詰められた布団と、互いの領土を侵さないように寝息を立てて横になる女中仲間の姿があった。
煎餅布団をたたみ、誰よりも早く奉仕姿に着替える。夜中じゅう鳴いていた秋虫たちも寝静まり、雀たちが目を覚ますまでのほんの僅かな時間、夜明けの色に染められた世界は無音に包まれる。この音のない世界が、私にとって唯一の贅沢な時間だった。
履き潰し、すっかりくたびれた草鞋に指を通す。吸いつくように肌に馴染むそれは、履いた瞬間に足と一体化した。それから、できるだけ気配を消して戸口を出る。ほかの女中仲間たちが起きてくる前に、誰もいない裏庭の澄んだ空気を独占するためだ。
顔を上げると、まだ黒々とした影にしか見えない木々の合間から、徐々に薄紺色に色褪せ始めた早朝の空が見えた。枝葉に切り抜かれた空は染め絵のようだ。大きく息を吸い込んだところで、頭上からちゅん、と晴れやかな鳴き声が聞こえた。
黒々と影を纏う枝の先から、ぱたぱたと可愛らしい羽音を立てて、雀が一羽舞い降りる。その小さな嘴に、桜の小枝が咥えられていた。
またか、と思わず笑みが浮かぶ。
いつからだろうか。一羽の雀が、ある時からこうして季節の花を咥えては、庭先にぽとりと落としていくようになった。
夏には桔梗を、秋には菊を、早春には梅の花を、どこからか摘んできては、その小さな嘴に収まるだけの一輪を携えて、庭先に落としていく。それも決まって、人気のないこの早朝に。
今日もまた舞い降りた雀は桜を咥えたまま小首を傾げると、何度か跳躍して私のすぐ足元に近寄り、いつものように小枝を落とすと、再び飛び立った。
雀の落としていった桜の小枝を拾い上げる。ぷっくりと膨らみ、今にも咲きそうなたわわな蕾たちの中で、一輪だけ、咲いた花があった。
そういえば、桜の開花を見るのは今年はこれが初めてだ。
気の早い盗蜜でもしてきたのだろうかと、先ほど飛び立った雀の、丸々と肥えたふっくらした姿を思い出し、苦笑する。
改めて、指先に握られた小枝に目を落とす。庭先にただ落ちていただけではきっと誰にも気づかれず、踏みつけられて土くれと同化していたかもしれない、小さな小さな枝。
あの雀が運んでくる花はいつだってそうだ。誰の目にも止まらないそれは、落とされる瞬間を目撃している私にとってだけ、特別な一輪になる。それをそっと拾い上げ、誰にもばれぬよう、こっそり厨の格子窓の脇に飾るのだ。
そうして、私だけが知る秘密の一輪を仕事の合間に盗み見て心を和ませるのが、忙しい日々の中での唯一の癒しだった。
先ほどの雀が仲間を起こしに行ったのか、気がつくと静寂の世界には、晴れやかな雀の鳴き声が燦燦と降り注いでいた。
雀の鳴き声は、女中たちの一日が始まる合図だ。もうすぐ仲間たちが起きてくる。何をしていたのかととどやされる前に、誰より早く厨に行って仕込みの準備をしなくては。
雀の鳴き声を浴びながら、視線を空から逸らす。すると視界の隅に小さな違和感が映り込んだ。
時をさかのぼるように、視線をもう一度戻す。
淡く紅の掛かった薄青色に染まる朝焼けの中、栄光門が空を切り抜くように威風堂々と聳え立っている。
その屋根の上に、人影が立っていた。
──あ。
思わず息を呑む。
遠く、豆粒ほどにしか見えないその人影は、この距離でもはっきりと分かるほど鮮やかな赤色の髪を燃えるように風に靡かせて、まるで朝日に挑むように一人ぽつんと佇んでいた。
私は、彼を知っている。
年に何度かだけなんの前触れもなく現れる、目に焼きつくような強烈な──赤。
夜と朝のごくわずかな合間だけ、ふらりと気配もなく栄光門の上に佇んでは、しばらくすると朝日にかき消されるようにどこかに去ってしまう。
少し前から気になっていた。いったい、彼は何者なのか。
どうしていつも、朝日から逃げるようにして消えてしまうのか。
──今回もまた、すぐに消えてしまうのだろうか。
いつの頃からか、彼が栄光門に姿を現す時には、彼の姿が消えるまでじっとその様子を目に焼きつけるのが習慣になっていた。
夜と朝の狭間に現れる、白昼夢のような存在。
それが私の幻覚などではないことを、目を焼きつけることで確かめたかった。
その時、それまでただの一度も顔を動かしたことのなかった彼が、急にこちらを見下ろした。
どきりと、心臓が掴まれたように緊張する。
まさか。
いいや、そんなわけない。
だって、こんなに遠く離れているのに。
私の視線に気付いたなんてこと、あるわけが──ない。
それなのに、彼は私から一切視線を逸らすことなく、遥か高みからじっとこちらを見下ろしていた。
心臓の鼓動が少しずつ、追い立てられるように早まっていく。それは恐怖にも期待にも似た感情だった。
目が、離せない。瞬きすら惜しまれる。その一瞬の隙に、彼がまた音もなくどこかに消えてしまうことを考えると、胸の深いところが切なくなった。
行かないで。
あなたは何者なの?
どこから来て、どこへ行くというの?
胸のうちに燻る疑問の数々を視線に乗せる。この距離では、届くわけがないと知りながら。
すると、柔らかな風が頬を撫でた。
それと同時に地平線の彼方から、太陽が顔を出し、強烈な閃光が闇を切り裂いていく。
朝が、来てしまう。
それは彼が姿を消す時刻の訪れを意味していた。
その瞬間を見逃さぬよう、目を大きく開けて、彼を見る。赤い髪を靡かせながら、男は私と目を合わせたまま、やはり今日も朝日から逃げるようにして、音もなく姿を消した。
は、と息を吐く。
しばしの間、呼吸を忘れていたらしい。
心臓が、普段感じたことがないほど速く鼓動している。
今のは、なんだったのか。
考えても答えは出そうになかった。ただ全身に血潮がぐるぐると駆け巡り、頬も首も、熱くて仕方なかった。
そのうち、女中部屋の中からざわざわと人の気配がし始めた。ああ、朝が来てしまった。仕事に追われるばかりの帰るべき日常が、すぐそこで私を待っている。
どこに行っていたとどやされる前に、帰らなくては。
首から上の熱を冷ますように、朝の澄んだ空気を割きながら、厨へと急ぎ踵を返した。
もう一度、眠りの浅瀬からゆっくりと目を覚ます。
紫紺色の薄明かりが、障子を一面に染めている。
その風景は、夢とそっくり同じだ。
しかし体を起こしてみても、もうどこにも、あの狭苦しい雑魚寝の風景は広がっていない。
広い私室で私だけが一人、ぽつんと横たわっているだけである。
──昨晩も、小太郎様は褥には来られなかった。
ここに嫁いできてからもう二月ばかり経つが、小太郎様とはまだ褥を共にしていない。任務で日の入りと同時に発ってしまわれるか、寝室までお越しになられても、以前と同じく、しばらく褥の上で膝を揃えて向かい合ったのち、無言で部屋を出て行ってしまう。
向かい合っている間も相変わらずの無表情で、何を考えているかさっぱり分からない。ああいうお人だからこそ、これも何か訳あっての行動なのだろうと勝手に解釈している。
ただ、長い沈黙ののち、あの方がおもむろに腰を上げて寝所を出て行く後ろ姿を見送るたび、緊張から解放された安堵と少しの淋しさとがないまぜになり、ただ小さく胸の奥が締めつけられる思いがするのだった。
ぱちん、と両の手で頬を包む。
感傷的になりかけた心を無理やり奮い立たせる。
落ち込んだところで現実はなにも変わらないし、前に進むことはない。今自分が置かれている居心地の悪さを変えられるのは、いつだって自分自身だ。
そうやって、今までどうにかこうにか生きてきた。
生きる場所がまた変わっただけで、やることは変わらない。
──与えられるのを座して待つだけでは、なにも得られない。
よし、と気合を入れ直すと、褥から起き上がった。
* * *
「……」
「あ、引佐殿。おはようございます」
雑巾掛けした先に男性の足が見えたので顔を上げると、引佐殿が無表情でこちらを見下ろしていた。
表情筋こそ動いていないが、纏う空気から「呆れ果てた」という心の声が伝わってくるようだ。
「……掃除なら、もう十分ではないですか」
「そうなんですけど……一度やり出すと次々気になってしまって。あ、もうあとは濡れ縁を水拭きしたら終わりにしますから」
慌てて弁明すると、引佐殿は私に見せつけるようにして目の前で深々とため息をついた。
「……掃除はひとまずそこまでにしていただきたい。今日は、別の仕事をあなたにお願いしたく伺ったのです」
「別の、仕事?」
予想だにしていなかった発言に、思わず居住まいを正して座り直す。引佐殿もその場に腰を下ろした。
「長に、届け物をしていただきたいのです」
「届け物……ですか」
引佐殿の目が、胸中を伺うようにじっと私の目の奥を見据えた。
「先ほど、長がお戻りになられました。今は里外れの滝にて水浴びをされております。そちらまで、着替えの衣類を届けていただきたい」
──小太郎様が、里に戻られている。
にわかに胸の内が熱を帯び始めるのが分かった。
我ながらあからさまな反応に、一人羞恥心がこみ上げてくる。どうかこの熱と動揺が引佐殿にバレていませんようにと、無理やり平静を装った。
「お引き受けいただけますか」
「は、はい!」
現実に引き戻すかのような引佐殿の問いかけに、つい、大きな声が出てしまった。
「では、召し物はこちらに。……それから」
廊下の奥から引佐殿の背後を通って、音もなく女中さんたちが私を取り囲む。あっという間もなく室内へと誘導され、たすき掛けしていた紐がほどかれた。
「そのような姿で長の前に出られては困ります。あなた様も、お着替えを」
引佐殿は目を伏せながら頭を下げると、開け放たれていた障子を丁寧に閉めていく。それから障子越しの影が音もなく消えると、私を取り囲む女中さんたちが慣れた手つきで小袖を脱がせ始めた。
こうなってはもはやどうすることもできない。されるがまま、大人しく用意された新しい着物に袖を通すと、ふわりと雅な香りが立ち昇った。
着付けされながら、おそるおそる襟元に顔を近付けてみると、再び同じ香りが立ち昇った。どうやら着物全体に香が薫きしめてあるらしい。大きく息を吸い込むと、柔らかくも気品を帯びた甘い香りが鼻腔を満たした。
まるで見たこともない京の都の宮中にいるような心地になり、ほう、と短く嘆息する。
いつも用意される着物は上等なものばかりだが、香りまでつくと、今日はいつにも増して雅な仕上がりだ。なにか大事な用でもあっただろうかと首をひねるが、思い当たる節はない。着付けしてくれる女中さんたちに尋ねてみようかとも思ったが、無表情で義務的に着付けする彼女たちの表情を見ると、とてもそんな雑談に応えてくれる気はしなかった。
小太郎様がおられるという、里の外れにある滝──聞けば、そこは小太郎様以外使うことはおろか、近付くことさえ許されぬ禁域らしい。故に、長屋敷の裏門から続く小道を辿っていくほかに道は無いのだという。
裏門を開けた女中さんは「ここから先はなまえさまお一人でお願いします」と頭を下げると、静かに屋敷へと戻っていった。
一人、小太郎様の着替えを携えて鬱蒼とした森の中を歩いていく。時折頭上を見上げると、木漏れ日が目に飛び込んできてその眩しさに目を細めた。
しばらく歩き続けて、小川のほとりに出た。上流に目をやると、遠くに白く流れ落ちる滝の姿が見える。おそらく小太郎様がいるのはあそこだろう。あれくらいの距離なら幾ばくも掛からずにたどり着けるはずだ。
小川に沿うようにして伸びる小径をさらに足を急かして歩き進めると、次第に流れ落ちる水の音が大きくなる。その分だけ小太郎様に近付いているのだと思うと、胸の内が徐々にそわそわとして、落ち着きを失っていく。
風の音も鳥の声も何もかもかき消されるほど水音が激しく轟くようになった頃、ようやく目の前に真っ白な滝が姿を現した。頂きから絶え間なく流れ続ける水を見上げると、細かな飛沫が霧のように降りかかり、涼しげな風が首筋を撫でていく。
小太郎様はどこにおられるのだろう。
辺りに人影は見えない。
すると──白い靄の立ち込める滝壺のあたりに、赤々とした影がゆらりと見えた。
見覚えのあるその色に、再び胸中が燻る。
釣られるように自然と視線がその色を追いかけ、そして──思わず背を向けた。
先ほどまでとは違う意味で心臓がざわつく。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
見覚えのある赤い髪。そして──見慣れない、その下に続く肌色の体。
水浴びをしているのだから、当然召し物は脱いでいるはずである。そんな簡単なことを、たった今本人を目の前にして思い出すなんて、なんと考えが足りぬのだろう。どうしていいか分からず、とにかく大慌てで背を向けた。
「あ、あの! 小太郎様!」
当然、返事はない。
混乱した頭のまま、とにかく抱えてきた着替えを頭上に掲げた。
「お着替えを! お持ちいたしました!」
背後からは絶え間なく流れ落ちる滝音だけが響いている。姿が見えないというのは、まるで虚空に向かって一人話しかけているようで、虚しさがこみ上げてくる。着替えを抱えたまま私は固まっていた。
この後、どうすればいいのだろう。
自分の声が聞こえているのかどうか、確認するすべがない。
聞こえていると信じて、このままそっと河原に着替えを置いて帰るべきか。でも、滝壺のあたりにいるのなら水音にかき消されて、やっぱり私の声は上手く届いていないのかもしれない。まずもって反対方向に向かって叫んでいるわけだし。
どうしたものかと両手を上げたまま逡巡していると、すぐ近くで水面が揺れ動く音が聞こえた。
そう、まるで、今しがた水から上がってきたような、そんな音が。
うん? と思う前に、掲げていた着替えが背後から伸びた腕に掴まれ、私の手を離れていった。
かすかに頭上に見えた逞しい腕に、心臓が喉から飛び出そうになるほど体に緊張が走る。
誰かなど、聞くまでもない。
小太郎様だ。
どうやら、私の声は正しく届いていたらしい。無事自分の仕事を完遂できた安堵感と同時に、すぐ背後に川から上がったばかりの小太郎様がいるということへの羞恥心がみるみるうちに湧き上がり、首から上の体温をぐっと押し上げた。
先ほどたしかに腕は見えたものの、背後からは小太郎様の気配はまるで感じられない。
もしかして、全部自分の幻覚だったのではないか? とすら不安になるが、ここで振り向いては絶対に大変なことになるのは目に見えている。
大丈夫、きっとそこに小太郎様はおられるはずだと、自分に言い聞かせた。
「あの、それでは、私は先に屋敷に戻っておりますので──」
するりと音もなく、先ほどと同じ逞しい腕が、私の腹へ回された。
何が起きたか理解できない私をよそに、今度はうなじに誰かが触れる。──それが、鼻先を寄せられているのだと気付くのには、数秒を要した。
全身に力が入り、体が硬直する。耳のすぐ後ろで、すん、と鼻を鳴らすかすかな音が聞こえた。
「こ、こ、こ、小太郎様!?」
「……」
慌てて身を捩って逃げようとするが、腹に回された腕ががっちりと体を押さえ込み、まるで身動きが取れない。
鼻先が何かを探るように、うなじから首にかけてをゆっくりと巡り、肌をなぞる感触に背筋がぞくぞくと粟立つ。
時折私を捉える腕に力がこもり、熱い吐息が首筋にかかる。いつの間にか背中全体が小太郎様に密着し、首筋を這う鼻先は襟を押し広げて、さらにその先へ侵入しようと、ぐりぐりと押し当てられている。
突然の事態に、頭がついていかない。心臓が狂ったように暴れまわって、さっきから耳のすぐ横で鳴り響いている。それがうるさくてうるさくて、正常な判断ができない。滝壺から吹き上がる爽やかな風もあっという間にぬるくなるほど、耳も頬も熱くて仕方がない。
「っ、小太郎、様」
悲鳴にも似た声が勝手に出た。すると肌の上を滑っていた小太郎様の鼻先がぴたりと止まり、ゆっくりと離れていった。
同時に、背中に触れていた肌の感触も、腹に回されていた腕も、するすると離れていく。
火照った体のまま、河原に一人、私だけが取り残された。
相変わらず小太郎様の気配はない。だがきっと、すぐ背後に、まだ彼はいるのだろう。
「し、失礼いたします!」
一人だけ真っ赤になって熱を帯びていることがどうにも恥ずかしくなって、結局小太郎様の姿も確認しないまま、一目散に屋敷へと逃げ帰った。
この日は何故か、屋敷にお戻りになられているというのに、小太郎様はただの一度も私の前に姿を現すことはなかった。