鳴かぬ蛍が身を焦がす
なまえ
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燭台の明かりが、朧げに大広間を照らしていた。
左右の壁には正装に身を包んだ男たちが座し、皆表情を固く凍らせたまま、広間の中央を向いて沈黙を貫いている。広間の最奥には純白の屏風と松の枝が生けられ、その前には今日の主役である二人の男女が座していた。
男の名を、風魔小太郎という。
女の名は、なまえ──それが私だった。
直垂姿の風魔殿が、巫女姿の女から盃に酒を注がれる。それを一口飲むと、盃は再び巫女の持つ膳へと戻された。巫女は一礼ののち、同じ盃を今度は私へと差し出す。隣に座るよく知らぬ殿方がつい先ほど口をつけた盃を、私は震える手で手に取った。
盃の中の酒が、小刻みに揺れる。それを見て見ぬふりするように、巫女は無感情に酒を注ぎ足した。
白く濁った酒に、燭台の明かりがぼんやりと映り込む。
私は今、どんな顔をしているのだろう。
白濁した水面は、私の表情を映してはくれない。
誰も顔を上げていないのに、部屋中から刺すような視線が私に注がれているのを感じる。指の震えが増す。風魔殿は前を見据えたまま固まったように動かない。否、室内にいる誰一人として、置物のように指先一つ動かさない。目の前にいる巫女でさえ。ただじっと息を潜めて、しかし確実に、私が盃に口付けるのを今か今かと待っている。
生まれて初めて紅を引いてもらった下唇を小さく噛む。それから覚悟を決めると、盃に注がれた酒をほんの少しだけ、喉に流し込んだ。
「なまえ、ちょっと来な」
それは、もう間もなく小田原の桜の蕾も花開くかと思われる、春先のことだった。
突然女中頭に呼びつけられた私を待ち受けていたのは、一通の書状だった。
私は字が読めない。
手渡されたそれをどうすることもできないままぼんやりと眺めていると、女中頭は面倒くさそうに呟いた。
「お前に、縁談だってさ」
「えっ」
突然告げられた言葉が信じられず、思わず驚きの声が口からまろび出た。普段「はい」しか返事しないものだから、女中頭が訝しげに眉を顰める。縮こまって視線を床に下ろすと、女中頭は投げやりにため息をついた。
「お前みたいなのは一生この城の小間使いで終わるもんだと思ってたけど、世の中には奇特な人もいたもんだ」
「はあ……その、ありがたいことでして……?」
「調子に乗るんじゃないよ」
ピシャリと断絶する物言いに、か細く「すみませんでした」と頭を下げる。
女中頭は、うっすらと白髪の混じるほどの歳だが、まだ嫁入りの予定は無い。否、嫁入りする者は、必然的にここを辞めて去っていく。今ここに残っているということはつまり、そういうことなのだ。だからここはいつだって、女の幸せを決して祝福したりはしない。
頭を下げて身を縮こませる私に、女中頭は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「縁談の相手が誰かも知らないくせに、おめでたい女だよほんと。散々可愛がってやった私に、これで一泡吹かせてやったとでも思ってんだろう。まったく、可愛くない女だねお前は」
「い、いえ、そんなつもりは微塵も」
「うるさいよ、誰に口ごたえしてるんだい」
明らかに苛立っている。私はもう一度小さく「すみません」と頭を下げた。
思えば最初から苛立っていたのだろう。私はいつだってそういうことに気がつくのが遅いのだ。だから愚図だと、お前は分からないやつだとなじられる。ほんとにその通りだと自分でも思うから、腹も立たない。ただ申し訳ないと思って、次こそはちゃんとしようと心に誓いながら頭を下げるしかない。
ちらりと許しを乞うように女中頭を見上げると、彼女は満足げに笑ってみせた。
「いいかい。お前のお相手はね、忍の者さ」
それを聞いて、私は最初、女中頭の意図がよく分からなかった。
忍に嫁ぐのが、何か問題でもあるのだろうか。
危うく小首を傾げそうになったが、私が嫌味を理解出来ていないと分かれば、さらにネチネチとなじられるのは目に見えていたので、私は努めて驚き、怯えたような表情を浮かべてみせる。私の反応を見て気を良くしたのか、それからすぐに女中頭は私を解放してくれた。
忍は人ならざる者であり、犬畜生と同じ扱いを受ける身分のものだということ。
そしてその忍に嫁ぐということは、自分もまたそういう身分になるのだと私が知ったのは、輿入れの直前になってからだった。
最後の酒を喉に流し込み、盃を下げる。いつの間にか、広間に集まったその他大勢の男たちの手にも、酒の入った盃が握られていた。
空になった私の盃に、再び巫女が無感情に酒を注ぎ足す。
隣に座る風魔殿の盃にも同じように酒が注がれる。
この酒を全員が飲み干した時、私はいよいよここに──風魔の里に、迎え入れられるのだ。
お城から、引き戸のない小さな輿に乗せられて、長い長い時間揺られ続けた。そして次に輿が開けられた時には、そこは見たことも無い山の中の小さな里だった。
ここまでどこをどう通って来たのか、まるで分らない。忍の里とは、絶対に外部の者に知られてはならない秘境の地なのだという。だからここにたどり着いてしまった以上、私はおそらくもう二度と、外の世界をこの目で拝むことは出来ないのだろう。里をぐるりと取り囲んで聳え立つ山々の稜線を眺めながら、そんな望郷の念に駆られていた。
私には、帰る場所などないのに。
私は生まれてすぐに、とあるお武家様の屋敷前に捨てられていたそうだ。
それを不憫に思った屋敷の主人が私を養うことに決め、女中見習いとして衣食住を与えてくださったから、私はどうにかこうにか死なずに済んだ。
私が七つになる頃、主人の大殿である北条様のお城女中が足りないからと、私はお城に移されることになった。
私よりも遥かに仕事の出来る女中は屋敷にたくさんいたが、主人は
「お前は一番熱心に仕事をするからね。お城女中になればここよりもっと良い暮らしが出来るようになる。お前の働きぶりを見ていて、お前にはその権利があると私は思ったのだよ」
と言って、最後に「幸せにおなり」と微笑んで私をお城へと送り出してくれた。
お屋敷を出て、もう十年が経とうとしている。
主人は良い人だったが、あの屋敷は決して私の帰る場所ではない。私はあくまで捨て子の女中なのだ。主人に言われればお城へでもどこへでも行くが、屋敷を出た後の私が誰に嫁ごうが、どうなろうが、おそらく主人の耳にすら入ることはないのだろう。
そう思うと、どこにも身寄りのない、居ようがいなくなろうが誰にも迷惑をかけない私は、ある意味では忍の嫁にぴったりだったのかもしれない。
忍の嫁になるということはどういうことか。
それを半笑いで他の女中仲間から聞かされた時、私の心に去来した感情は、怒りでも悲しみでも、まして絶望でも無かった。
忍という仕事は、常に危険と隣り合わせなのだと言う。敵地に潜入して、そのままひどい拷問を受けて帰らぬ身となる者が山ほどいるのだと。
名前のない、使い捨ての存在。
だから忍は人扱いされないのだ。
それは──私も同じだ。
名前は一応あるかもしれないが、私一人が消えたところで誰も困りはしない。今こうして、私が風魔の里に嫁に行ったとしても。身内が忍の嫁になったと蔑まれる家族もいない。
それどころか、私は忍のように、大殿様に敵国の重要な情報を持ち帰るなんてことはおろか、戦うことも、文字の読み書きすら出来ない。出来るのは炊事、洗濯、そして針仕事だけ。
忍が犬畜生と同じだと蔑まれるなら、彼らよりも遥かに役に立たない私は、それ以下の存在じゃないか。
だから、怒りも悲しみも湧かなかった。
ただどこか荒涼とした虚しさだけが、胸の奥の方をすきま風のように流れていった。
もう一度、ちらりと視線を広間へと向ける。盃を手にした男たちはまるで人形のように微動だにしない。息遣いすら聞こえてこない、痛いほどの静寂が張り詰めていた。
まるでこの広間の中で、私だけが生者であるかのような錯覚に陥る。
急に不安になり、視線を風魔殿へと向けると、風魔殿は私の視線に気付いたように黙ったまま盃へと口付けた。
それに呼応するように、一斉に広間の男たちが手にした盃へと口付ける。
統率の取れた一糸乱れぬその仕草に、私も遅れぬようにと慌てて手元の盃に口付けた。
何度目かの、喉が焼けるような熱さが臓腑へと落ちていく。咳き込みそうになるのを必死に我慢して、盃の酒を飲み干す。
酒と一緒に、この部屋にいる忍たちの空気が、風魔の里そのものが、私の中に入り込んでくるような気がした。
今日より私も、この一部となるのだ。
ただ虚しい風が胸中に吹き荒ぶ、音のしない忍たちの一部に。
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