君と僕とロックンロールと
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蒸し暑い8月の上旬。
夕方17時になっても夕陽は赤々と街を照らし、蝉たちはまだまだこれからと言わんばかりに、けたたましく鳴き喚いている。
じっとりと汗ばむ肌を首に掛けたタオルで拭きながら、私は駅前の仄暗い路地を一つ入ったところにある、小さなライブハウス前に佇んでいた。
ちょうどビルの影に隠れるように立地するライブハウスの入り口は、夏の強い西日も差し込まず、どこか怪しい影を纏っている。ここで佐助くんが働いているということを知らなければ、決して自分から近寄ることはないだろう。
建物に窓はない。真ん中にはスナックの入り口みたいな扉が一つ、ぽつんと備えつけられている。
その真上に設置された看板のネオンの灯りが、扉をより怪しく浮かび上がらせていた。
扉に近付いてみるが、中から物音は聞こえない。
本当にここで合ってるのだろうかと心配になって、ポケットにしまったチラシをもう一度引っ張り出して、場所を確認する。
間違いない。住所も、ネオン看板に掲げられている店名も、ここで合ってる。
……入ってみるしか、ない。
こみ上げてくる不安を振り切るようにして、ドアの取手を引いた。
思ったよりも重くて分厚い扉は、力を込めて引くと、ゆっくりと開いた。
すると店の中から溢れ返る、人々の談笑する賑やかな声。
薄暗い店内はところどころダウンライトが設置され、見た目以上に中は広く、天井は高く感じられた。
その空間に、同い年くらいの男女がおよそ50人ほど集まっていた。
外で扉に耳を澄ませていた時は全く聞こえなかった人々のざわめきが、室内に充満している。
まるで扉を開けて異世界にでも飛び込んでしまったかのような気分だ。
重い扉をキッチリと閉めると、いよいよ本当に外界から遮断されたような感覚に陥った。
路地を歩いている人たちは、まさかあの窓のない薄暗い建物の扉を開けた先に、こんなにも賑やかな空間が広がっているとは思いもしないだろう。私がまさにそうだったように。
扉の前で、一人茫然と室内の様子を眺めていると、不意にすぐ横から咳払いの声が聞こえた。
音のした方へ顔を向けると、薄暗い闇の中、輝くように美しい金色の髪を靡かせた絶世の美女が、丸いバーテーブルに肘をつきながら、じっとこちらの顔を凝視していた。
そのあまりの美しさに、思わず息を呑む。
まるで闇夜に咲く白百合のようだと思った。
「チケットの取り置きはしているか?」
「あ、はい。えっと、このバンドで取り置きをお願いしてるんですけど……名前は綾芽椿です。」
「綾芽……これか。入場料1000円を頼む」
斜め掛けのボディバッグから財布を取り出し入場料を払うと、代わりに女性は小さなカードを手渡してくれた。
「これがドリンクチケットだ。バーカウンターで出せば好きな飲み物と交換できる」
「あの、お酒以外の飲み物はありますか……?」
「大丈夫だ。ソフトドリンクもちゃんとある。飲みきれないと思うならペットボトルの水も用意してあるから、好きなのを選ぶといい。詳しくはカウンターにいる男に聞けば教えてくれるだろう」
「ありがとうございます。ご丁寧にどうも」
軽く会釈すると、金髪の美女は固く無表情のままだった顔を少しだけ緩めて、小さく微笑んだ。
「気にするな。楽しんでいってくれ」
髪と同じ金色の睫毛が、暗闇に浮かぶ色白な肌に小さな影を落とす。同性なのに、なんだか妙にドキドキしてしまった。
受付後、人混みの合間を縫うようにしてゆっくりとライブハウスの奥へと足を踏み入れた。
入り口から見て左側にステージが設けられており、その反対側、入り口から見て右の奥に、バーカウンターがあった。
カウンターの前は多くのお客さんが集まり、ひときわ賑わっている。
少し離れたところから小さく背伸びして、その人混みの奥を覗き込む。
人と人との隙間から、ふわりと、見慣れた鷲色の髪が揺れるのが見えた。佐助くんだ!
彼を無事見つけられたことが嬉しくて、つい頬が緩んでましまう。
佐助くんはバーカウンターの中で忙しなく動き回っては次から次へとドリンクを用意していた。
だけどお客さんに向ける表情は常に笑顔で、ドリンクを待つお客さんと軽く雑談を交わしながらも手元の仕事はきっちりとこなす姿は、実に手慣れている。
大学で見る佐助くんとはまた違う、仕事に真剣に取り組む見慣れないその姿に、なんだか背中の辺りがそわそわした。
話しかけようか悩んだけど、仕事の邪魔をするのも申し訳ないし、でも仕事中の佐助くんをもうちょっとだけ見ていたくて、結局私は人混みの隙間を縫うようにして、少し離れたところからチラチラと、働く佐助くんを眺めていた。
ライブハウスの中は、女性客が多いように感じられた。しかも、みんな結構オシャレだ。
ロングスカートの人もいれば、中にはミニスカートにがっつりヒール靴で来てる人もいる。
この間佐助くんと一緒に行ったライブは男女比は半々くらいだったし、服装だってバンドTシャツみたいな動きやすい格好をした人が大半だった気がする。
ライブハウスや出演するバンドが違うと、こんなにお客さんの服装にも違いが出るんだなあ。
ヒールを履いた人は危なくないんだろうか。揉みくちゃになったりしたら大変だと思うけど……。
しばらくの間周り女の子たちを眺めてそんなことを考えていると、それまで会場内に散っていた人混みは、次第にステージ前に集まり始めた。
ふと腕時計を見ると、ライブ開演まで残り20分を切っている。
次から次へとステージ前に集まっていく人波の中、どこでライブを見ようかと何気なく会場を見渡すと、ライブハウスの後ろの方にいくつかバーテーブルが置いてあり、ミニスカートやヒールを履いた女の人がお酒を飲みながらテーブルや壁にもたれ掛かってステージを眺めているのが目に入った。
なるほど。前に行くと揉みくちゃになって危ないから、ああやって後ろの方からゆっくり全体を見渡して楽しむのか。それなら確かにしっかりオシャレも楽しめる。
きっとライブ慣れしている人たちなんだろうなあと感心しながら眺めていると、不意に視界の隅からチクチクと刺さるような視線を感じた。
何気なく、その視線のする方へと視線を向ける。
ステージ前に人が寄ったことで、落ち着きを取り戻したバーカウンター。
その中から、カウンターに頬杖をついて、実に不機嫌そうな顔でこちらを凝視する佐助くんと、ばっちり視線が合ってしまった。
あ、やばい。
多分、その感情が顔にありありと出ていたのだろう。
佐助くんは相変わらず不機嫌そうな顔のまま、もう片方の腕を顔の高さに掲げると、無言で手招きした。
ほぼ反射的に、佐助くんの方へと小走りで駆け寄る。まるで躾けられた犬みたいだと頭の片隅で自嘲するしかなかった。
「さ、佐助くん……! あの、お、お疲れ様!」
「……もうちょいこっち寄って」
「うん? え、なに? どうしたの?」
「…………」
「ふぎゃあ!? な、なにふるの!?」
手招きされるがまま、仏頂面の佐助くんに顔を近付けると、それまで手招きしていたしなやかな指が突然私の鼻先をつまんだ。
突然のことにびっくりしすぎて、思わず変な声が出る。
佐助くんはそんな私の鳴き声を気にも止めず、むっすりとした顔で、慌てる私の顔をじっと覗き込んでいた。
「俺様に気付いたくせに、一向に挨拶にも来ず人混みの中からこそこそ盗み見してたのは、どこのどいつでしょう?」
「ゔ……き、気付いてたの……?」
「あんたがここに入ってきた時からずっとね」
「ご、ごめんなひゃい……だって佐助くん、忙しそうだったから、つい……」
「あれくらい通常営業だっつーの。ずーっと、あんたがこっちに来るの、待ってたのにさ」
ぱっと佐助くんの手が離れて、私の鼻はようやく解放された。
それから佐助くんはバーカウンターにうつ伏せになると、組んだ腕に顎を乗せて、少し拗ねたような目でこちらを見上げた。
「……俺様に会いに来てくれるんじゃなかったのかよ」
ぽつりと呟かれた、店内のBGMに掻き消されてしまいそうな、独り言。
それは確かに、まっすぐ私へと向けられた言葉に違いなかった。
いつもしっかりしている佐助くんが、こんな子どもみたいな拗ね方をするなんて。
ああまた、今まで知らなかった新しい佐助くんの姿を知ってしまった。それがなんだか嬉しくて、でもそんなことを言えるわけもなく、私はただただ、緩みそうになる頬を引き締めるだけで精一杯だった。
「ごめんね、佐助くん。たくさん待たせて。でも、あのさ」
「……なに?」
「……お酒を作ってる佐助くん、その、すごく、かっこよかっ……た……よ」
ああ、なんでちゃんと最後まで言えないんだ、私は。
なんだか言ってるうちに段々と恥ずかしくなってしまい、最後の方は多分本当にBGMに掻き消されてしまったんじゃないかと思う。
佐助くんの顔をまっすぐ見ることも出来なくて視線を上下左右に彷徨わせていると、佐助くんは少し固まったように間を置いて、ゆっくりと上体をカウンターから起こした。
それからすぐに私に背を向けてしまうと、背後の冷蔵庫からジンジャーエールを、お酒の瓶が大量に並ぶ棚からは赤い液体が入った瓶を取り出した。
慣れた手つきでプラスチックカップに氷を入れ、取り出したドリンク類を次々とカップに注ぎ入れる。すると佐助くんの手の中であっという間に、鮮やかな赤い色の煌めくカクテルが出来上がった。
カップの底から立ち昇る無数の気泡が、真っ赤なドリンクの中でキラキラと光り、宝石みたいだ。
仕上げに、くし切りにしたレモンをカップの縁に引っ掛けると、佐助くんはドリンクカップをバーカウンターの上でスライドさせてこちらへと寄越した。
気がつけばずっと佐助くんの手つきに目を奪われていたことに気付き、慌てて顔を上げる。
佐助くんは私の顔を見て、先ほどの拗ねたような表情から一転、ニンマリと得意げに笑って見せた。
「どうよ、俺様かっこよかった?」
「え、あ、うん! かっこよかった!」
「んっふふ、味も自信あるぜ?」
「あ、でも私そんなにお酒強くないし……」
「知ってるよ。ノンアルコールのシャーリーテンプルだから、安心して飲みな」
どうやら佐助くんはなんやかんやで機嫌を直してくれたらしい。やっぱりかっこいいって言われるのって、そんなに嬉しいものなのかな。
佐助くんなら、しょっちゅう色んな人から言われ慣れてるんじゃないかと思うんだけど。
ドリンクチケットを差し出すと、「ライブの後喉乾くだろうから、それは取っときな」と言って押し返されてしまった。
佐助くんが目で催促してくるので、おもむろにシャーリーテンプルに口付ける。
しゅわしゅわと舌の上で炭酸が弾ける感覚と、その後に追いかけてくる甘いシロップに包まれたジンジャーエールの味わいが絶妙で、一口飲んだだけで勝手に笑顔になってしまった。
佐助くんもまた、そんな私の様子を見て、満足げに目を細めて笑う。
すると店内に流れていたBGMが突然ぴたりと止み、フロアを照らしていたダウンライトも同じくして消えた。
ライブハウスが変わっても、ライブが始まる合図は同じだ。予告なく突然もたらされる暗闇が、観客の心のボルテージを一気に引き上げる。
室内は一気に歓声と拍手に包まれた。
すっかりライブの開始時刻を忘れていた私は、佐助くんに作ってもらったドリンクを手にしたまま、今にも最初のバンドが登場しそうなステージを眺めてどうしたものかとオロオロしていると、背後からトントンと肩を叩かれた。
振り向くと、バーカウンター越しに身体を乗り出した佐助くんの顔が至近距離に迫っていて、ぎょっとして思わず肩が飛び跳ねてしまった。
「ドリンク飲みながらでいいから、ここで一緒にゆる〜く見てようぜ」
なんて、至近距離で囁かれた甘いお誘いに、ほぼ条件反射のように首を縦に振ってしまった。
それがなんだか自分でもあまりに素直すぎる気がして、恥ずかし紛れにストローに口をつける。
少しばかり緊張した喉を潤すシャーリーテンプルも、やっぱり甘かった。