第二話 未体験の知識

「キャインっっ!」
「!?」
「動くなっ!」

シルヴィーが目を閉じる寸前、オオカミと彼女の間を石が飛び抜けた。石はオオカミの鼻先を掠り、一瞬怯むと一歩飛退く。その一瞬の隙に一つの影がシルヴィーの前に割り込んだ。
「えっ誰っ…!?」
「黙って」
シルヴィーはオオカミから自分を隠すように立つ人物を見上げた。
…背中しか見えないが、恐らくまだ若い青年で、背は高い。髪はボサボサで…服装は泥の付いた農作業着と長靴。
「グルルルッ!」
「ひっ…」
盾になってくれている人物に視線を向けている場合ではない、今はオオカミが先だ。
先程より群れ全体は殺気立ち、敵意が刺さる感覚が伝わってくる。シルヴィーは体の震えが抑えられなくなった。

「……落ち着くけぇ」
「……え」
「動かねぇで、ゆっくり息を深く吸って…静かに吐いて…」
青年はオオカミの視線の高さに合わせるようにしゃがむと、振り返らず小声で言った。
シルヴィーからはその目付きは見えないが、青年は身動きもせずにオオカミを凝視している。

静寂が森に広がる。時が止まったかのような錯覚さえ感じてしまう。
風もない、張り詰めた空気の中、オオカミと青年の睨み合いは数分続いた。



「グゥ…」
先頭のオオカミが短く唸った。そしてツイッと顔を反らすと、今までの殺気が嘘のように、オオカミ全てが踵を返して走り去って行ってしまった。

森にまた暗く不気味な静寂が戻った。

「はぁ…」
シルヴィーは大きく息を吐いた。同時に抑え込んでいた恐怖が体の震えとして出てしまう。
──馬車の暴走だけでなく、オオカミに殺されそうになるなんて…自分の不運が嫌になってしまう。

「だいじ?」

俯くシルヴィーの頭上から声がした。
「どっか怪我してねぇへ?」
「……」
…農民だ。
もじゃもじゃのくせ毛薄紫髪に、小さな濃い緑の瞳。着ているTシャツは所々に泥が付いていて、長靴と作業着が今まで農作業をしていた事を物語っている。歳は…自分と同じ位か。背が高く、農作業を生業としている為か日焼けしている。
「立てっぺ?」
そんな農民青年は柔らかく微笑み、座り込むシルヴィーに手を差し延べた。

しかし、

「……結構です」
シルヴィーはその手を無視し、自分で無理矢理立ち上がった。
「助けて頂いた事には礼を言います。しかし、これ以上の手助けは遠慮します」
シルヴィーがキツく睨みつけると、農民青年は困ったように頭を掻いた。
「貴方の姿を見れば、この場所が農国イエソドだと分かります。…結構!知国の隣ならばすぐにこちらの捜索隊が見付けてくれるでしょう。よって、貴方はここにいる必要はありません。安心して作業に戻って下さい、農民さん」
シルヴィーはスラスラと言葉を並べ、農民青年から数歩身を離した。

農国は文明文化レベルが低く、知識なども皆無で粗野で品がなく、ガサツな愚か者ばかりだと百科事典に書いてあった。前に立つ青年とて、口調や服装からしてその通りだ。
「(こんな者に助けられたと知られたら、フェルナンド様に迷惑がかかる)」
もしかしたら王子の許嫁を助けた謝礼を要求してくるかもしれない。それがヴィーナス領がしたように"貸し"となってしまったら…

「立ち去りなさい!もう、私に関わらないで下さい!!」
シルヴィーの声は暗い森に木霊した。ザワザワと風が葉を撫ぜる。


「……でもなぁ」
しばしの後、場の空気に合わない、柔らかく気の抜けた声が返って来た。
「ここ危ねぇけぇ。すぐ離れねと」
青年はピリピリした雰囲気に気付いてないのか、頭を掻いた。
「とりあえず一旦、森から出るでな。オラんち行くへ」
「…もうっ!!」
青年のゆるゆるとした言葉と態度にシルヴィーのイライラは最高潮となり、怒鳴った。
「貴方、私の言ってる言葉の意味分かっていませんね!?単刀直入に言いましょう!いいですか?私は、もう、貴方とは関わりたくないんです!この森が危ないのは今ので理解しました!しかし、オオカミは学習する動物です!貴方達農国民と違って!一度対峙して立ち去れば、もう人間の前には現れないはずです!!分かりましたか、農民!」
「……」

…流石に言い過ぎたか。青年は困ったような表情をしている。
確かにこんな場所に女性一人を残しておくのは男性としてどうかと思う。だから立ち去る事も出来ないのは当然だ。
ゆるい言葉も、こちらが震えているからと和ませる目的で言ってくれたのかもしれない。

…ちょっと罪悪感を感じた。

「……私は知国ケフラーの次期王位継承者、フェルナンド王子の許嫁の者です…婚姻も近日行われます。そんな、私が貴方のような平民に借りを作る事はあってはならないのです」
シルヴィーは、ぼそりとクッション代わりに付け足した。
これなら流石に青年も納得するだろう。
王子とは国の未来を担う者。五つの国でも頂点に近しい身分。その王子の許嫁と言えば誰でも恐れ退き、言う事を聞かざる得ない。
立ち去るまではいかないだろうが、とりあえず距離はとってくれるはずだ。心身共に。

「あぁ!フェルナンドの!あ~……なら、尚更こっから出ねぇと」
──効果はなかった。
農国民は教養が無いと百科事典に書いてあったが、まさか王族がどんな存在かという事も理解出来ていないのではないだろうか?というか農国にも王族がいるのだが、そこらへんはどういう扱いをしているのだろうか?
「さ、"様"を付けなさい!フェルナンド"様"です!高貴な方なんですよ!私はその許嫁、将来の知国国王の妃で──」
「分かってっぺよ。前に聞いたでな、よいしょっと」
青年は言葉を遮ると、シルヴィーを抱き上げた。
「なななぁっ!?」
「急ぐっぺ!しっかり捕まってるだ!」
「えぇえええ!!?」

叫ぶと同時に、シルヴィーの視界に映る風景が凄いスピードで流れ始めた──
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