虚との出会い〜松下村塾編
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交叉
私の知らないところで何かが起こっていたらしい、としか言えないことがあった。その何かには松陽さんと銀時くん、加えて晋助くんと小太郎くんが関わっていると思っている。しかし四人はそのことを秘して語らなかった。こうなってしまうと蚊帳の外に置かれてしまった私はお手上げだ。思い返しても全ては突然のことだったのだ。ある日の真夜中、偶然目が覚めた私は喉の渇きを潤すために台所へ向かった。水を飲み終わり部屋に帰ろうとしたところ玄関先で音がしたため向かうと、知らない間に出て帰ってきたらしい松陽さんと出会う。そして挨拶もそこそこに脈絡もなく「旅にでましょう」と言われ、私は驚きを通り越して冗談として受け止めた。その後松陽さんの後ろにいた三人の子ども達に気が付いて、不良少年だと嘆いたのは余談である。
結局のところ起こった変化としては大きく二つある。一つ目が晋助くんと小太郎くんが正式に松下村塾の門下に加わったこと(これに関しては随分二人ともこちらに馴染んでいたため今更感が拭えない)、そして二つ目が私達は根を下ろしたはずの土地を手放すことになったことだ。松陽さんの言った「旅にでましょう」は何の捻りもない文字通りの意味だったのだ。
そして私達は現代で言うところの山口県、長州へと辿り着いた。長州は私の知る歴史上の松下村塾が存在した場所だ。あるべきものがあるべき場所にある。そのことは私に二つの世界の在り方について考えさせるには十分だった。私は似て非なる二つの歴史の交わりを目の当たりにしたのだ。胸に宿る一抹の不安の正体は、史実の吉田松陰の最期。倒幕の思想を持った彼は安政の大獄で死罪に処された。歴史の教科書のたった数行で語られた事件。松陽さんに国家転覆の意思はなくとも周囲の目は一体どんなものだろうか。土地を追われた理由を思うと不吉な予感がした。
しかしそんな私の不安をよそに再び松下村塾は開かれた。以前のように多くの生徒が通い、私の警戒とは裏腹に拍子抜けするほどに平穏な日々が続いている。新天地での生活に慣れるに従って私の胸に巣食っていた不安も徐々に奥へ隠れていくようだった。
***
異国の空のようにはっきりとした青空が広がっている。強烈な日差しに反して気温自体は思うほど高くない。ここにはコンクリートの塊もアスファルトの地面もないからだろうか。単純な私はそれだけで夏が以前よりも好きになれる予感がしている。
「銀時くん。授業はサボっていいの?」
洗濯日和な今日という日。大量の洗濯物を干し終わった私は休憩も兼ねて松陽さんの授業を覗くことにした。そこでいるはずの銀色が見当たらず、気持ちの良い風に誘われるように探しにきたのだった。
「座ってるだけってダリ―んだよな」
新松下村塾の近所にある神社に銀時くんはいた。器用にも木の枝の上で横になっている。欠伸をしながら答える様子はすっかりサボりが堂に入っている。よく見てみると銀時くんのふわふわの頭には小鳥が乗っていた。自分が休むだけではなく、小鳥まで休ませているなんて。可愛いと可愛いが合わさってここまでくるとあざとい。対私にかなり効果のある攻撃だ。
「じゃあ、サボりが得意な銀時くんに一つ提案があります」
「なんですかー」
「アイスキャンデーを食べて帰ろう」
「帰る!」
「午後の授業はちゃんと受けてね」
「受ける!」
「よろしい」
提案した途端するすると木から降りてきた銀時くんは、子どもらしい素直な現金さで目を輝かせている。本来は外国との交易で得るはずの技術や物品がこの世界では天人により日本に齎され始めている。アイスキャンデーもその一つだった。ちなみに甘いものに目がない銀時くんの夢はホールケーキを一人で完食することらしい。実現するとなると流石に糖分の取りすぎが心配になる。
「じゃあ、行こうか」
銀時くんの頭に乗っていた小鳥が無事に飛び立ったことを確認して私は手を差し伸べる。するときゅっと小さな手に力を込められた。最初は私が手を引くばかりだったことを思い出し、嬉しくなってしまう。気まぐれな猫に認められた気分だ。
「んだよ。一人で笑って」
「目ざといね」
「なまえが分かりやすいんですー」
二人で神社の石段を下りていく。石段と草履が擦れる音が小気味よい。ここに来るまではお祝いの席でしか着物を身に着けてこなかった影響で、着物に合わせるのは高さのある履物がイメージとして定着していた。実用的な草履で生活しているとたまにそんな過去の小さな間違いを思い出す。
「それで何で笑ってたんだよ」
「猫は愛情を向けるとその分だけ返してくれる。そう誰かが言ってたことを思い出してたの」
「猫?どこ?」
聞くやいなやきょろりと周囲に目を走らせる銀時くん。その首を動かす様子こそ、昔動画サイトで観た飼い主に遊ばれる猫そのものだ。吹き出しそうになるのを必死に抑えながら、なんてことないような態度を装う。
「……多分銀時くんには見えないかも。本当に可愛い子だけどね」
「いじめだー。そうやって大人は俺みたいなか弱い子どもをからかって喜んでるんだー」
「アイスキャンデーきっと美味しいだろうなあ。でも私は銀時くんにとっていじめっ子だからどうしようか」
「なまえ様は誠に素晴らしいお人にございます。だから何卒この不肖、私めにもご慈悲を……!」
無気力そうに見えて、銀時くんは思っているよりよく喋るし表情も豊かだ。言葉を打てばポンポン打ち返してくれるけれど、どこから色々な言葉を学んだのだろうか。まさか松陽さんだけではないだろう。この年頃の子は何でも吸収するって言うし、寺子屋の子や近所の人達の影響があったに違いない。
「よくそんな難しい言葉を知ってたね。銀時くんの語彙力に免じてアイスキャンデーを献上しましょう」
「えっ二個もいいって?」
「それはだめ。ただでさえ銀時くんを贔屓してるって言われてるんだから」
「誰だそんなこと言った奴」
長い石段がやっと終わる。手を繋いだまま私達は街に向かって歩き出した。その間も会話が途切れることはない。銀時くんと一緒にいると私は随分とお喋りになってしまうようだ。私は銀時くんの問いに答えるために口を開いた。
「匿名希望のイニシャルSくん」
「高杉あの野郎……」
「ばれちゃった?」
「まーな。なまえも気を付けろよ。あいつは松下村塾一の粘着タイプだから」
「なにそれ」
「アイツは昨日だって……」
街道に着くと人通りが少し増える。その中には私達のように手を繋ぐ親子の姿もあった。街の景色一つでもどこか現代より時間の流れがゆっくりに感じられる。せかせかと歩く人もいるけれど、大抵の人が店先で商品を選んだり誰かと言葉を交わしている。人々が会釈をして通り過ぎていく。時間に追われている人がここにはあまりいないのだ。
「なまえ」
「どうしたの?」
目的地までもう少しとなった時、銀時くんに名前を呼ばれた。銀時くんの手に力が籠るのを感じて私は柔らかく聞き返した。
「なまえに家族っていんの?」
銀時くんの目線の先には手を繋ぎ笑い合う親子の姿があった。親子は飴売りのところで何かを言っている。もしかしたら子どもが銀時くんのようにもう一つと強請っているのかもしれない。ありふれた幸福の光景。それがなぜ銀時くんの心に引っ掛かってしまったのか。その理由に私は気が付いている。松陽さんに銀時くんが戦争孤児だと教えてもらったからだ。孤児も貧困も画面の向こうの話ではない。理由は分かっても銀時くんのガラスのような瞳からは、はっきりとした感情を読み取ることはできなかった。
「いるよ。お母さんとお父さん」
「じゃあ何で松陽のところにいんだよ」
「迷子で帰り道が分からなくなったの」
「ふーん。じゃあいつか帰るってことか」
「多分、そうなるのかなあ」
歩く速さが次第にゆっくりになっていく。それでも私達は歩みを止めることはなかった。
私の両親は仕事が忙しい人達で、それでも一人娘の私に愛情を惜しみなく与えてくれた。こちらへ来て一日たりとも思い出さない日はない。それでも臆病な私は考える行為に蓋をして寂しくないふりをしている。そうしているうちに松陽さんや銀時くんを始めとした寺子屋の皆のことも大切になってしまった。今ではどちらとも手を繋いでいたいのだから私は欲張りだ。
「でもね、もし帰り道が分からないままでも、皆はずっと一緒にいてくれるでしょ?」
どうして、なぜ、分からない、理不尽、不条理、私でないといけなかったのか、家に帰りたい、そんなことを思ったのは一度や二度ではない。どれだけ時間が経とうともこの世界は私にとっては泡沫の夢のようなものだ。それでも、万が一、本当に万が一の可能性。私があるべき場所に戻れなかった時は散々泣き喚いて、その後は時間がかかったとしても皆がいてくれるのなら笑えるようになるのだろう。
「……皆って俺も?」
「勿論」
「アイスキャンデーを奢ってくれるならな」
「じゃあ約束ね」
「ん」
会話に一旦きりが付いたところで丁度私達は目的の出店に着いた。着いた途端に銀時くんはパッと繋いでいた手を離し、何味を食べようか選ぶことに夢中になった。ちなみにアイスキャンデーはクーラーボックスに保管されている。どうしようもない時代的な違和感を抱きながら、私は目に着いたミルク味のものを手に取った。銀時くんがいくつも手に取りこちらに縋るような眼を向けてくるけれど、無言で首を横に振る。どうやらさっきの会話で諦めていなかったらしい。
「だめ?」
「だめ」
「……じゃあ、これにする」
熟考の末に差し出されたのはいちごミルク味。私はお会計を済ませて目で急かしてくる銀時くんに笑いながらアイスキャンデーを渡した。少し行儀は悪いけれど許してほしい、と誰かも分からない存在に心の中で謝罪しながら、二人アイスキャンデーを頬張り歩く。冷たさが口の中に広がっていく。きっと甘いのだろう。ちらりと横を見ると銀時くんは満足そうな顔をしていた。
「俺は甘いものに埋もれて死ぬ」
「甘いものだけ食べてると病気になるよ」
「俺は大丈夫」
「そう言ってる人が一番危ないって皆が知ってるのに」
「大丈夫だって……なあ」
中身のない会話をしていると、その途中で銀時くんに着物を軽い力で引っ張られる。どうしたのだろう、そう思っていると銀時くんから手が差し出された。私はアイスキャンデーを持ち換えて銀時くんの手を握った。二人の体温が繋ぎ目から融け合う。銀時くんが何も言わなかったからどうやら正解だったようだ。そのまま私達は街を抜けていく。いつの間にか銀時くんのアイスキャンデーは棒だけになっていた。そこらに投げ捨てないように先に注意すれば、気の抜けた肯定が返ってきた。
「銀時くんの手は温かいね」
「そっちの方が」
「でも知ってる?心が温かいのは手が冷たい人なんだって」
「なにそれ」
「ただの迷信。でも銀時くんの手が温かいから嘘って証明されたね」
「どーだか」
太陽がもうする真上に来る。昼は簡単に出来るから基本おにぎりだ。あらかじめ作っておいたけれどもう皆食べてしまっただろうか、松下村塾に近付くにつれて沢山の顔が頭に浮かんでいく。私達は神社を通り過ぎて畦道を歩く。一匹の蛙が飛び出して来たのを避けた。その拍子に外れてしまった手はまたすぐに繋がれた。
「銀時くん。お昼からの授業はちゃんと受けてね」
「えー」
「約束を破る人のことは松陽さんに言うけど」
「守ります」
「……やっぱり松陽さんの拳骨って痛い?」
「普通の奴の頭なら割れてる」
松陽さんが誰かを叱る時に拳を使うところは何度も見たことがあるけれど、どうにもそんなに力を入れているように見えないのに相手は沈んでいく。デコピン一つをとっても嘘のような反応を皆(対象になるのは殆どが銀時くんだけれど)がするからずっと不思議に思っていた。それでも松陽さんの名前を出せばサボりの申し子も素直に言うことを聞くのだから、そこには私の知らない物理法則が働いているのかもしれない。
それから五分も経たないうちに私達は松下村塾に着いた。予想外のことに門のところには皆が勢揃いしていて、私達二人は目を丸くした。そして何があったのだろうと首を傾げた。
「おかえりなさい、二人とも」
「ただ、いま?」
松陽さんは笑顔で迎えてくれるものの、私達二人の不安定な声が重なる。そのまま何も分からないうちに子ども達に囲まれた。最初に晋助くんが私と銀時くんの手を手刀で外して言った。
「サボりに優しくすんな」
「えっと、ごめんね」
晋助くんにはこの間私が銀時くん贔屓だと言われたばかりだ。素直に謝ると胡乱な目で頷かれる。晋助くんは私が子ども達に甘いことをよく理解しているのだ。
「なまえに余計なこと言いやがって。お前のせいで俺のアイスキャンデーが一つになっちまったじゃねーか」
「あ?」
「銀時!お前は真面目に授業に参加しろ。高杉もすぐ喧嘩腰になるな」
銀時くんと晋助くんが対立するとその間にすぐに小太郎くんが割って入る。この光景もすっかり見慣れたものだ。お互いが危ういように見えて不思議な均衡で保たれている三人組。三人が話し始めると私は他の子達に遊びやお出掛けを一斉に強請られる。アイスキャンデーの棒が証拠になってしまい言い逃れもできない。浮気を問い詰められた恋人のようだ、そんなことを思いながら一人一人と約束をする。これでしばらくは予定に困らないだろう。最後の一人と指切りをすると満足したのか皆は私から離れていった。
「松陽さん。結局どうして皆で集まっていたんですか?」
私が尋ねると松陽さんは笑って答えた。
「この子達がお昼は銀時となまえさんとも一緒に食べたいと言ったので、授業が終わってから待っていたんです」
私の知らないところで何かが起こっていたらしい、としか言えないことがあった。その何かには松陽さんと銀時くん、加えて晋助くんと小太郎くんが関わっていると思っている。しかし四人はそのことを秘して語らなかった。こうなってしまうと蚊帳の外に置かれてしまった私はお手上げだ。思い返しても全ては突然のことだったのだ。ある日の真夜中、偶然目が覚めた私は喉の渇きを潤すために台所へ向かった。水を飲み終わり部屋に帰ろうとしたところ玄関先で音がしたため向かうと、知らない間に出て帰ってきたらしい松陽さんと出会う。そして挨拶もそこそこに脈絡もなく「旅にでましょう」と言われ、私は驚きを通り越して冗談として受け止めた。その後松陽さんの後ろにいた三人の子ども達に気が付いて、不良少年だと嘆いたのは余談である。
結局のところ起こった変化としては大きく二つある。一つ目が晋助くんと小太郎くんが正式に松下村塾の門下に加わったこと(これに関しては随分二人ともこちらに馴染んでいたため今更感が拭えない)、そして二つ目が私達は根を下ろしたはずの土地を手放すことになったことだ。松陽さんの言った「旅にでましょう」は何の捻りもない文字通りの意味だったのだ。
そして私達は現代で言うところの山口県、長州へと辿り着いた。長州は私の知る歴史上の松下村塾が存在した場所だ。あるべきものがあるべき場所にある。そのことは私に二つの世界の在り方について考えさせるには十分だった。私は似て非なる二つの歴史の交わりを目の当たりにしたのだ。胸に宿る一抹の不安の正体は、史実の吉田松陰の最期。倒幕の思想を持った彼は安政の大獄で死罪に処された。歴史の教科書のたった数行で語られた事件。松陽さんに国家転覆の意思はなくとも周囲の目は一体どんなものだろうか。土地を追われた理由を思うと不吉な予感がした。
しかしそんな私の不安をよそに再び松下村塾は開かれた。以前のように多くの生徒が通い、私の警戒とは裏腹に拍子抜けするほどに平穏な日々が続いている。新天地での生活に慣れるに従って私の胸に巣食っていた不安も徐々に奥へ隠れていくようだった。
***
異国の空のようにはっきりとした青空が広がっている。強烈な日差しに反して気温自体は思うほど高くない。ここにはコンクリートの塊もアスファルトの地面もないからだろうか。単純な私はそれだけで夏が以前よりも好きになれる予感がしている。
「銀時くん。授業はサボっていいの?」
洗濯日和な今日という日。大量の洗濯物を干し終わった私は休憩も兼ねて松陽さんの授業を覗くことにした。そこでいるはずの銀色が見当たらず、気持ちの良い風に誘われるように探しにきたのだった。
「座ってるだけってダリ―んだよな」
新松下村塾の近所にある神社に銀時くんはいた。器用にも木の枝の上で横になっている。欠伸をしながら答える様子はすっかりサボりが堂に入っている。よく見てみると銀時くんのふわふわの頭には小鳥が乗っていた。自分が休むだけではなく、小鳥まで休ませているなんて。可愛いと可愛いが合わさってここまでくるとあざとい。対私にかなり効果のある攻撃だ。
「じゃあ、サボりが得意な銀時くんに一つ提案があります」
「なんですかー」
「アイスキャンデーを食べて帰ろう」
「帰る!」
「午後の授業はちゃんと受けてね」
「受ける!」
「よろしい」
提案した途端するすると木から降りてきた銀時くんは、子どもらしい素直な現金さで目を輝かせている。本来は外国との交易で得るはずの技術や物品がこの世界では天人により日本に齎され始めている。アイスキャンデーもその一つだった。ちなみに甘いものに目がない銀時くんの夢はホールケーキを一人で完食することらしい。実現するとなると流石に糖分の取りすぎが心配になる。
「じゃあ、行こうか」
銀時くんの頭に乗っていた小鳥が無事に飛び立ったことを確認して私は手を差し伸べる。するときゅっと小さな手に力を込められた。最初は私が手を引くばかりだったことを思い出し、嬉しくなってしまう。気まぐれな猫に認められた気分だ。
「んだよ。一人で笑って」
「目ざといね」
「なまえが分かりやすいんですー」
二人で神社の石段を下りていく。石段と草履が擦れる音が小気味よい。ここに来るまではお祝いの席でしか着物を身に着けてこなかった影響で、着物に合わせるのは高さのある履物がイメージとして定着していた。実用的な草履で生活しているとたまにそんな過去の小さな間違いを思い出す。
「それで何で笑ってたんだよ」
「猫は愛情を向けるとその分だけ返してくれる。そう誰かが言ってたことを思い出してたの」
「猫?どこ?」
聞くやいなやきょろりと周囲に目を走らせる銀時くん。その首を動かす様子こそ、昔動画サイトで観た飼い主に遊ばれる猫そのものだ。吹き出しそうになるのを必死に抑えながら、なんてことないような態度を装う。
「……多分銀時くんには見えないかも。本当に可愛い子だけどね」
「いじめだー。そうやって大人は俺みたいなか弱い子どもをからかって喜んでるんだー」
「アイスキャンデーきっと美味しいだろうなあ。でも私は銀時くんにとっていじめっ子だからどうしようか」
「なまえ様は誠に素晴らしいお人にございます。だから何卒この不肖、私めにもご慈悲を……!」
無気力そうに見えて、銀時くんは思っているよりよく喋るし表情も豊かだ。言葉を打てばポンポン打ち返してくれるけれど、どこから色々な言葉を学んだのだろうか。まさか松陽さんだけではないだろう。この年頃の子は何でも吸収するって言うし、寺子屋の子や近所の人達の影響があったに違いない。
「よくそんな難しい言葉を知ってたね。銀時くんの語彙力に免じてアイスキャンデーを献上しましょう」
「えっ二個もいいって?」
「それはだめ。ただでさえ銀時くんを贔屓してるって言われてるんだから」
「誰だそんなこと言った奴」
長い石段がやっと終わる。手を繋いだまま私達は街に向かって歩き出した。その間も会話が途切れることはない。銀時くんと一緒にいると私は随分とお喋りになってしまうようだ。私は銀時くんの問いに答えるために口を開いた。
「匿名希望のイニシャルSくん」
「高杉あの野郎……」
「ばれちゃった?」
「まーな。なまえも気を付けろよ。あいつは松下村塾一の粘着タイプだから」
「なにそれ」
「アイツは昨日だって……」
街道に着くと人通りが少し増える。その中には私達のように手を繋ぐ親子の姿もあった。街の景色一つでもどこか現代より時間の流れがゆっくりに感じられる。せかせかと歩く人もいるけれど、大抵の人が店先で商品を選んだり誰かと言葉を交わしている。人々が会釈をして通り過ぎていく。時間に追われている人がここにはあまりいないのだ。
「なまえ」
「どうしたの?」
目的地までもう少しとなった時、銀時くんに名前を呼ばれた。銀時くんの手に力が籠るのを感じて私は柔らかく聞き返した。
「なまえに家族っていんの?」
銀時くんの目線の先には手を繋ぎ笑い合う親子の姿があった。親子は飴売りのところで何かを言っている。もしかしたら子どもが銀時くんのようにもう一つと強請っているのかもしれない。ありふれた幸福の光景。それがなぜ銀時くんの心に引っ掛かってしまったのか。その理由に私は気が付いている。松陽さんに銀時くんが戦争孤児だと教えてもらったからだ。孤児も貧困も画面の向こうの話ではない。理由は分かっても銀時くんのガラスのような瞳からは、はっきりとした感情を読み取ることはできなかった。
「いるよ。お母さんとお父さん」
「じゃあ何で松陽のところにいんだよ」
「迷子で帰り道が分からなくなったの」
「ふーん。じゃあいつか帰るってことか」
「多分、そうなるのかなあ」
歩く速さが次第にゆっくりになっていく。それでも私達は歩みを止めることはなかった。
私の両親は仕事が忙しい人達で、それでも一人娘の私に愛情を惜しみなく与えてくれた。こちらへ来て一日たりとも思い出さない日はない。それでも臆病な私は考える行為に蓋をして寂しくないふりをしている。そうしているうちに松陽さんや銀時くんを始めとした寺子屋の皆のことも大切になってしまった。今ではどちらとも手を繋いでいたいのだから私は欲張りだ。
「でもね、もし帰り道が分からないままでも、皆はずっと一緒にいてくれるでしょ?」
どうして、なぜ、分からない、理不尽、不条理、私でないといけなかったのか、家に帰りたい、そんなことを思ったのは一度や二度ではない。どれだけ時間が経とうともこの世界は私にとっては泡沫の夢のようなものだ。それでも、万が一、本当に万が一の可能性。私があるべき場所に戻れなかった時は散々泣き喚いて、その後は時間がかかったとしても皆がいてくれるのなら笑えるようになるのだろう。
「……皆って俺も?」
「勿論」
「アイスキャンデーを奢ってくれるならな」
「じゃあ約束ね」
「ん」
会話に一旦きりが付いたところで丁度私達は目的の出店に着いた。着いた途端に銀時くんはパッと繋いでいた手を離し、何味を食べようか選ぶことに夢中になった。ちなみにアイスキャンデーはクーラーボックスに保管されている。どうしようもない時代的な違和感を抱きながら、私は目に着いたミルク味のものを手に取った。銀時くんがいくつも手に取りこちらに縋るような眼を向けてくるけれど、無言で首を横に振る。どうやらさっきの会話で諦めていなかったらしい。
「だめ?」
「だめ」
「……じゃあ、これにする」
熟考の末に差し出されたのはいちごミルク味。私はお会計を済ませて目で急かしてくる銀時くんに笑いながらアイスキャンデーを渡した。少し行儀は悪いけれど許してほしい、と誰かも分からない存在に心の中で謝罪しながら、二人アイスキャンデーを頬張り歩く。冷たさが口の中に広がっていく。きっと甘いのだろう。ちらりと横を見ると銀時くんは満足そうな顔をしていた。
「俺は甘いものに埋もれて死ぬ」
「甘いものだけ食べてると病気になるよ」
「俺は大丈夫」
「そう言ってる人が一番危ないって皆が知ってるのに」
「大丈夫だって……なあ」
中身のない会話をしていると、その途中で銀時くんに着物を軽い力で引っ張られる。どうしたのだろう、そう思っていると銀時くんから手が差し出された。私はアイスキャンデーを持ち換えて銀時くんの手を握った。二人の体温が繋ぎ目から融け合う。銀時くんが何も言わなかったからどうやら正解だったようだ。そのまま私達は街を抜けていく。いつの間にか銀時くんのアイスキャンデーは棒だけになっていた。そこらに投げ捨てないように先に注意すれば、気の抜けた肯定が返ってきた。
「銀時くんの手は温かいね」
「そっちの方が」
「でも知ってる?心が温かいのは手が冷たい人なんだって」
「なにそれ」
「ただの迷信。でも銀時くんの手が温かいから嘘って証明されたね」
「どーだか」
太陽がもうする真上に来る。昼は簡単に出来るから基本おにぎりだ。あらかじめ作っておいたけれどもう皆食べてしまっただろうか、松下村塾に近付くにつれて沢山の顔が頭に浮かんでいく。私達は神社を通り過ぎて畦道を歩く。一匹の蛙が飛び出して来たのを避けた。その拍子に外れてしまった手はまたすぐに繋がれた。
「銀時くん。お昼からの授業はちゃんと受けてね」
「えー」
「約束を破る人のことは松陽さんに言うけど」
「守ります」
「……やっぱり松陽さんの拳骨って痛い?」
「普通の奴の頭なら割れてる」
松陽さんが誰かを叱る時に拳を使うところは何度も見たことがあるけれど、どうにもそんなに力を入れているように見えないのに相手は沈んでいく。デコピン一つをとっても嘘のような反応を皆(対象になるのは殆どが銀時くんだけれど)がするからずっと不思議に思っていた。それでも松陽さんの名前を出せばサボりの申し子も素直に言うことを聞くのだから、そこには私の知らない物理法則が働いているのかもしれない。
それから五分も経たないうちに私達は松下村塾に着いた。予想外のことに門のところには皆が勢揃いしていて、私達二人は目を丸くした。そして何があったのだろうと首を傾げた。
「おかえりなさい、二人とも」
「ただ、いま?」
松陽さんは笑顔で迎えてくれるものの、私達二人の不安定な声が重なる。そのまま何も分からないうちに子ども達に囲まれた。最初に晋助くんが私と銀時くんの手を手刀で外して言った。
「サボりに優しくすんな」
「えっと、ごめんね」
晋助くんにはこの間私が銀時くん贔屓だと言われたばかりだ。素直に謝ると胡乱な目で頷かれる。晋助くんは私が子ども達に甘いことをよく理解しているのだ。
「なまえに余計なこと言いやがって。お前のせいで俺のアイスキャンデーが一つになっちまったじゃねーか」
「あ?」
「銀時!お前は真面目に授業に参加しろ。高杉もすぐ喧嘩腰になるな」
銀時くんと晋助くんが対立するとその間にすぐに小太郎くんが割って入る。この光景もすっかり見慣れたものだ。お互いが危ういように見えて不思議な均衡で保たれている三人組。三人が話し始めると私は他の子達に遊びやお出掛けを一斉に強請られる。アイスキャンデーの棒が証拠になってしまい言い逃れもできない。浮気を問い詰められた恋人のようだ、そんなことを思いながら一人一人と約束をする。これでしばらくは予定に困らないだろう。最後の一人と指切りをすると満足したのか皆は私から離れていった。
「松陽さん。結局どうして皆で集まっていたんですか?」
私が尋ねると松陽さんは笑って答えた。
「この子達がお昼は銀時となまえさんとも一緒に食べたいと言ったので、授業が終わってから待っていたんです」