虚との出会い〜松下村塾編
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黎明
松下村塾と吉田松陽。私が正しく知っている人物は陽ではなく陰の方だったけれど、この差異は何を意味しているのだろうか。しかしそれ以上にこちらの歴史と私が教科書を捲り暗記した歴史との決定的な違いは天人と呼ばれる宇宙人の存在だった。ここは中心の江戸から離れているからか、日常的に天人を見ないのは幸いだったと言えるのかもしれない。どう考えても開国を迫ったのが黒船ではなく宇宙船って怖すぎる。技術力の差を恐れず立ち向かった英傑の話を聞くと、相手が違っても日本人が最初に行ったことは同じで少し感心してしまったけれど。外からの来訪者達の星は私の知る世界よりも文明が進んでいるのは確かだろう。私の知る限り人類は宇宙へ足を延ばしてたったの一世紀。地球外の生物を探そうと躍起になっていた。
私が歴史規模の差異に驚いていても日々は変わらずに進んでいく。今のところ私は元の場所に戻ることもまた別の場所に放り出される予兆もない。夢の中のような暮らしは続いている。一日を丁寧に重ねているうちに松下村塾に通う生徒は随分と増えた。寺子屋としての形も徐々に整い始めた。それでもするべきことはいくつも残っている。
そんなある日のこと、道場破りに来たという少年の介抱を松陽さんに頼まれたのは私が本棚の整理をしていた時だった。驚く私に松陽さんはその子は銀時くんと勝負し負かされたと語った。松陽さんが一番強いのは間違いないけれど、他の子と比べた時に銀時くんの強さは抜きんでている。その子の身体には手当をした今では湿布や包帯で隠れているけれど容赦ない痣が残っている。布団に伏せる姿を見ているとどうしても心配になってしまうのは、その子が銀時くんや寺子屋に通う子達と同じくらいの年齢だということもあるのだろう。塗り薬を持って帰ってもらおう、私がそう考えて部屋を離れたうちにその子は目を覚ましたらしい。
「目が覚めたんだね」
「アンタは……」
多少の警戒心を滲ませた緑がかった澄んだ瞳が私の姿を映す。道場破りに来るくらいなのだからどれだけ気性の荒い子かと思えば、意外にもその様子は落ち着いていた。利発そうな顔つきからはどことなく育ちのよさが伺えた。塗り薬を畳の上に置き、布団の傍に腰を下ろす。
「怪我をしていたから手当てと介抱を松陽さん……この寺子屋の先生に任されたの。包帯は苦しくない?あとは頭が痛かったり、何か身体におかしいところはない?」
「別に、平気」
「それならよかった」
安心して頬が緩む。手を伸ばしてその子の頭を撫でる。それは無意識の行為だった。毎日子ども達と接しているうちに癖になってしまっていたらしい。艶のある黒紫色の髪がびくりと揺れて気が付いた。初対面なのに少し不躾だったかな、と反省し手を引いた。
「ごめんね。無意識で」
「……吉田松陽もアンタもいつもそうなのか?金のない子どもの世話をしてそれが当たり前だと言うように笑ってる」
「松陽さん?」
「さっき少し話した」
私が部屋を離れているうちに何かがあったらしい。この少年が松陽さんに何を言われたのか詳しいことは分からない。けれど、松陽さんのことだから先生としての言葉を与えたのだろう。今私を見つめる凛とした光を内包する瞳は、もしかして元々は私のような迷子のものだったのかもしれない。
「じゃあ、私と話す前にお互い自己紹介をしよう。話はそれからね」
「は?」
「前に一度ある子と自己紹介しそびれてそのまま別れちゃったの。だからそれからは積極的にしていこうと思って」
「意味わかんねえ」
「私はなまえ。きみの名前は?」
時代を、世界を超えた人間でも自分の物だと胸を張って言える自らの名前。名前を認識し呼び合うことはお互いの存在を認め合うことなのだと思う。ここでわざわざ名前がどんなに大切なものかを説くことはしないけれど。私が引かないことを感じ取ったのか、その子は小さく息を吐いて眉を寄せた。
「……高杉晋助」
「字は?」
「高い杉、古い中華の国の晋に助ける」
「かっこいい名前だね」
「どーも。それで?」
晋助くんに続きを促される。晋助くんが最初に尋ねたこと、お金のない子ども達を何故世話するのか……だったか。松陽さんに拾われた身分の私が語るべきことではないかもしれない。それでも松陽さん、そして寺子屋と関わってきた期間で少しは考えることもあったのだ。特に私は何不自由ない生活を生まれてから今までずっと享受していた身だったから。
「まず、松陽さんはどうなんだろう。ちゃんとそういう話を聞いたことがないから予想になっちゃうけど、松陽さんは見返りを求めているわけでも、慈善のために動いているわけでもないと思うよ。うーん……言葉にするなら、松陽さんは子ども達の未来の可能性を広げる手伝いをしている、かなあ」
よく松陽さんは子ども達の未来について楽しそうに語る。子ども達の歩み、子ども達が成長していく姿を誰よりも喜んでいるのだ。教育が当たり前ではない時代だからこそ目の当たりにした清廉な教育者の姿。その在り方は美しいと思う。
「じゃあ、アンタは?」
「私は教育者でもないし、松陽さんに拾われて手伝いをさせてもらっているだけ……それでも、子どもの学びは何にも妨げられてはならないし、どんな子どもにも学ぶ権利はあるのだと思うよ。そしてそれを守るのが大人の役割……どうだろう。答えになったかな?」
「……ああ」
晋助くんはしばらく俯いて考えているようだった。この時代の人にとって私の時代の常識を理解することは難しいのかもしれない。都合のよい理想論だと言われたらそれまでだ。私の知る世界はきっと理想論の上に建っていた。誰かが傷つけられないために、救いの手が差し伸べられるように、弱い立場の人が怯え暮らすようなことがないために。平和の均衡を、正義と優しさの均衡を崩さないように人は生きていた。そこに至るまでは幾多の犠牲の積み重ねと反抗と生存の歴史があった。
「晋助くんはここへ来て何かが見つかった?」
「……自分が弱いことは分かった」
「じゃあ、強くならなくちゃね。またここへ道場破りに来たらいいよ。銀時くんとあれだけ戦える子はきみが初めてだから、もっと強くなれるよ」
晋助くんの身体に刻まれた尋常じゃない数の擦り傷や痣。それは銀時くんとの間に実力の差が少ないことを示している。二人の実力がかけ離れたものであったのなら、銀時くんは数回の打ち合いで勝っていたはずだ。道場破りに飛び込む無鉄砲さと気絶するまで立ち続ける負けず嫌い。もしかしたら晋助君はいつも飄々としている銀時くんが対等に接することの出来る相手になるかもしれない。そうなってくれたら嬉しいと思ってしまうのはあまりに理想的すぎるだろうか。
「アンタは道場破りが何か分かってんのか?」
「勿論。でも晋助くんが強くなろうと思って行動するのなら、ここでは誰も止めないよ」
「……呑気すぎる」
呆れたような眼差しからは最初に感じたような警戒の色はもう見えない。そんなにおかしなことを言っただろうかと首を傾げるも、晋助くんは僅かに目を細めるだけだった。なんだか精神年齢で負けているような気分になったけれど気のせいだ。多分。今度は自分の意思で晋助くんの頭に手を伸ばす。銀時くんと比べて真っ直ぐな髪の毛の持ち主。この子はどんな大人になるのだろう。遠いようで短い先の未来、どうかなりたいと願った姿を叶えていますように。
***
季節は春の終わりかけ。瑞々しい青葉を眺めているとこちらまで朗らかな気分になるようだ。灰色の街並みでは気にすることもなかった四季の移り変わりをこの目で見ることができる。多くの芸術家達が自然に心を揺さぶられた意味が少し分かったような気がした。私にその手の才があったのなら詩でも絵でも残すことが出来たというのに。万年暗記科目だけ安定していた私は結局のところ凡人なのだ。寺子屋の子に猫を狸と勘違いされた画才は伊達ではない。
松下村塾に道場破りにやってきた晋助くんはあれから毎日銀時くんに勝負を挑んでいる。負けて悔しそうな顔はしてもその闘志が絶えることはない。寺子屋の子達も今では二人の勝負を心待ちにしているくらいだ。そして心のどこかでは下克上を期待している。いつの時代も挑戦者を応援したい大衆の気持ちは変わらないのかもしれない……銀時くんが聞いたら怒りそうだけれど。
「小太郎くんは今日も見ているだけでいいの?」
晋助くんがこの寺子屋に通い始めてから数日後、私は一人の少年がその様子を見ていることに気が付いた。生垣より中に入ってくることはないその少年名前は桂小太郎くん。さらりとした黒髪を高い位置で括っている。大きな瞳と相まって初見では女の子と勘違いしてしまったくらい可愛らしい。しかし小太郎くんは晋助くんと同じく私塾講武館に通う立派なお侍さんだ。本人も武士というものに誇りを持っているらしく、同じ年頃の子に比べて喋り方に格式が感じられる。
「なまえさん。オレは……いや、同輩として高杉が無茶をしないかを気にしているだけだ」
「晋助くんのことを心配しているんだね。二人は仲がいいの?」
「別に特別仲がよいというわけではないが、話す頻度が他の奴らと比べて少し多いだけにすぎない」
真面目な様子で語る小太郎くんを微笑ましい思いで見やる。私がこのくらいの年齢の時は何を思っていたのか、はっきりと思い出すことはできない。けれど、今の私から見て小太郎くんにとって晋助くんが大切な友達であることははっきりと分かる。他の子よりも話して、何より心配して毎日様子を見に来るなんて少し仲のいいだけの子にすることではない。
「それ、どこからどう見ても小太郎くんと晋助くんは立派な友達同士だよ」
「な!そんなことは……」
「今日の銀時くんと晋助くんの勝負はまだ決着がつかないだろうから、その間少し私の手伝いをしてほしいな。もうすぐお昼だから皆におにぎりを握ろうと思ってるの」
友達という言葉を完全に否定できず口ごもる小太郎くん。それが全てだった。この不器用で友達思いの子を生垣の中に引き込んでも誰も文句は言わないだろう。ずっとひたむきに試合を見つめていたことを私は知っている。沢山の感情で満たされながらも真っ直ぐで貫くような瞳は綺麗だ。それに松陽さんも「今日もあの子は来ていますか?」なんて生徒を気に掛けるように尋ねてくるくらいだ。どんな答えが返ってくるだろうか、そう思いながら小太郎くんが口を開くのを待つ。刹那の沈黙の後、小太郎くんは口を開いた。
「道場で握ってもよいだろうか。別に二人の試合が終わることを危惧しているわけではないが」
「手伝いは試合が終わってからでも大丈夫だから、先に台所に行っておこうか?」
「いや、頼まれ事を引き受けておいて中途半端にするのはおばあに駄目だと言われている」
「なら急いで用意して道場に行かないとね」
どこまでも生真面目な小太郎くんの手を引いて台所に向かう。そして朝に用意しておいた炊いた米の入った櫃や具材を持ってすぐに道場へ向かった。道場では銀時くんと晋助くんを中心に子ども達の輪が出来ていた。子ども達はどこか興奮して、それでも静かに二人の試合をじっと見ていた。ある子は拳を握りながら、ある子は胸元を掴みながら、食い入るように。道場の端に荷を下ろし、私も試合から目が離せなかった。
打ち、躱し、打ち、躱し、打つ。
永遠に続くと思われた攻防。しかし、それは晋助くんの渾身の一突きにより終わることになる。素人の私は銀時くんに隙があったのかは分からない。それだけ二人の実力は拮抗していて、試合がどう転ぶかなんて予想すらできなかったのだ。晋助くんの勝利が決まった瞬間、歓声が道場を包んだ。誰もが手放しに晋助くんを褒める。晋助くんは瞬く間に皆に囲まれた。こうして見ていると、皆はずっと晋助くんと喋ってみたかったのだろう、そう思う。
「お前らと俺は同門か!?」
晋助くんにとって寺子屋の皆の態度は予想外だったらしい。無邪気に笑う子ども達の中、困惑の声を上げる晋助くんに私達と同じように試合を観ていた松陽さんが近付いた。
「あら、そうじゃないんですか?てっきりうちに入ったと思ってました。だってだれより熱心に毎日稽古に……いや、道場破りに来てたから」
確かにここ最近の稽古で一番熱心だったのは、次こそは銀時くんに負けまいとする晋助くんだったのかもしれない。皆も松陽さんに言われて気が付いたのだろう。沢山の笑い声が重なる。晋助くんは皆の中心で年相応の照れたような顔をしていた。
「オイ―!何アットホームな雰囲気に包まれてんだ!そいつ道場破り!道場破られてんの!俺の***ぶち破られてんの!」
「もう敵も味方もないさ。皆でおにぎり握ろう」
すっかり晋助くんの勝利ムードに流され、銀時くんのことが頭から抜け落ちていた。晋助くんに飛ばされた後、近くに転がっていた銀時くんが身体を起こして猛抗議する。そこで小太郎くんがすかさずおにぎりを差し出したけれど、一体いつの間に握っていたのだろう。試合に夢中で気が付かなかった。
「敵味方以前にお前誰よ!何で得体の知れねえ奴が握ったおにぎり食わなきゃならねえんだ」
「誰が食っていいと言った。握るだけだ!」
「何の儀式だ!」
銀時くんが小太郎くんに夢中になっている間、綺麗に握られたおにぎりを輪から抜け出してきた松陽さんが掴む。目が合うと悪戯っ子のように微笑まれた。
「あ、すみません。もう食べちゃいました」
「早!」
顔が自然と笑みを形作る。渾沌としていて、歪で、それでもこんなに心の底から楽しいと思える場所に私はいる。幸せを絵に描いたとしたら、きっとこんな光景が広がっているのだろう。晴れ晴れとした笑顔と笑い声で溢れている。自分が不明瞭で不確定な存在であることを忘れたことはない。だからこそ大切になりすぎたもの達に苦笑して、忘れないように一瞬を目に焼き付けるように見つめた。
松下村塾と吉田松陽。私が正しく知っている人物は陽ではなく陰の方だったけれど、この差異は何を意味しているのだろうか。しかしそれ以上にこちらの歴史と私が教科書を捲り暗記した歴史との決定的な違いは天人と呼ばれる宇宙人の存在だった。ここは中心の江戸から離れているからか、日常的に天人を見ないのは幸いだったと言えるのかもしれない。どう考えても開国を迫ったのが黒船ではなく宇宙船って怖すぎる。技術力の差を恐れず立ち向かった英傑の話を聞くと、相手が違っても日本人が最初に行ったことは同じで少し感心してしまったけれど。外からの来訪者達の星は私の知る世界よりも文明が進んでいるのは確かだろう。私の知る限り人類は宇宙へ足を延ばしてたったの一世紀。地球外の生物を探そうと躍起になっていた。
私が歴史規模の差異に驚いていても日々は変わらずに進んでいく。今のところ私は元の場所に戻ることもまた別の場所に放り出される予兆もない。夢の中のような暮らしは続いている。一日を丁寧に重ねているうちに松下村塾に通う生徒は随分と増えた。寺子屋としての形も徐々に整い始めた。それでもするべきことはいくつも残っている。
そんなある日のこと、道場破りに来たという少年の介抱を松陽さんに頼まれたのは私が本棚の整理をしていた時だった。驚く私に松陽さんはその子は銀時くんと勝負し負かされたと語った。松陽さんが一番強いのは間違いないけれど、他の子と比べた時に銀時くんの強さは抜きんでている。その子の身体には手当をした今では湿布や包帯で隠れているけれど容赦ない痣が残っている。布団に伏せる姿を見ているとどうしても心配になってしまうのは、その子が銀時くんや寺子屋に通う子達と同じくらいの年齢だということもあるのだろう。塗り薬を持って帰ってもらおう、私がそう考えて部屋を離れたうちにその子は目を覚ましたらしい。
「目が覚めたんだね」
「アンタは……」
多少の警戒心を滲ませた緑がかった澄んだ瞳が私の姿を映す。道場破りに来るくらいなのだからどれだけ気性の荒い子かと思えば、意外にもその様子は落ち着いていた。利発そうな顔つきからはどことなく育ちのよさが伺えた。塗り薬を畳の上に置き、布団の傍に腰を下ろす。
「怪我をしていたから手当てと介抱を松陽さん……この寺子屋の先生に任されたの。包帯は苦しくない?あとは頭が痛かったり、何か身体におかしいところはない?」
「別に、平気」
「それならよかった」
安心して頬が緩む。手を伸ばしてその子の頭を撫でる。それは無意識の行為だった。毎日子ども達と接しているうちに癖になってしまっていたらしい。艶のある黒紫色の髪がびくりと揺れて気が付いた。初対面なのに少し不躾だったかな、と反省し手を引いた。
「ごめんね。無意識で」
「……吉田松陽もアンタもいつもそうなのか?金のない子どもの世話をしてそれが当たり前だと言うように笑ってる」
「松陽さん?」
「さっき少し話した」
私が部屋を離れているうちに何かがあったらしい。この少年が松陽さんに何を言われたのか詳しいことは分からない。けれど、松陽さんのことだから先生としての言葉を与えたのだろう。今私を見つめる凛とした光を内包する瞳は、もしかして元々は私のような迷子のものだったのかもしれない。
「じゃあ、私と話す前にお互い自己紹介をしよう。話はそれからね」
「は?」
「前に一度ある子と自己紹介しそびれてそのまま別れちゃったの。だからそれからは積極的にしていこうと思って」
「意味わかんねえ」
「私はなまえ。きみの名前は?」
時代を、世界を超えた人間でも自分の物だと胸を張って言える自らの名前。名前を認識し呼び合うことはお互いの存在を認め合うことなのだと思う。ここでわざわざ名前がどんなに大切なものかを説くことはしないけれど。私が引かないことを感じ取ったのか、その子は小さく息を吐いて眉を寄せた。
「……高杉晋助」
「字は?」
「高い杉、古い中華の国の晋に助ける」
「かっこいい名前だね」
「どーも。それで?」
晋助くんに続きを促される。晋助くんが最初に尋ねたこと、お金のない子ども達を何故世話するのか……だったか。松陽さんに拾われた身分の私が語るべきことではないかもしれない。それでも松陽さん、そして寺子屋と関わってきた期間で少しは考えることもあったのだ。特に私は何不自由ない生活を生まれてから今までずっと享受していた身だったから。
「まず、松陽さんはどうなんだろう。ちゃんとそういう話を聞いたことがないから予想になっちゃうけど、松陽さんは見返りを求めているわけでも、慈善のために動いているわけでもないと思うよ。うーん……言葉にするなら、松陽さんは子ども達の未来の可能性を広げる手伝いをしている、かなあ」
よく松陽さんは子ども達の未来について楽しそうに語る。子ども達の歩み、子ども達が成長していく姿を誰よりも喜んでいるのだ。教育が当たり前ではない時代だからこそ目の当たりにした清廉な教育者の姿。その在り方は美しいと思う。
「じゃあ、アンタは?」
「私は教育者でもないし、松陽さんに拾われて手伝いをさせてもらっているだけ……それでも、子どもの学びは何にも妨げられてはならないし、どんな子どもにも学ぶ権利はあるのだと思うよ。そしてそれを守るのが大人の役割……どうだろう。答えになったかな?」
「……ああ」
晋助くんはしばらく俯いて考えているようだった。この時代の人にとって私の時代の常識を理解することは難しいのかもしれない。都合のよい理想論だと言われたらそれまでだ。私の知る世界はきっと理想論の上に建っていた。誰かが傷つけられないために、救いの手が差し伸べられるように、弱い立場の人が怯え暮らすようなことがないために。平和の均衡を、正義と優しさの均衡を崩さないように人は生きていた。そこに至るまでは幾多の犠牲の積み重ねと反抗と生存の歴史があった。
「晋助くんはここへ来て何かが見つかった?」
「……自分が弱いことは分かった」
「じゃあ、強くならなくちゃね。またここへ道場破りに来たらいいよ。銀時くんとあれだけ戦える子はきみが初めてだから、もっと強くなれるよ」
晋助くんの身体に刻まれた尋常じゃない数の擦り傷や痣。それは銀時くんとの間に実力の差が少ないことを示している。二人の実力がかけ離れたものであったのなら、銀時くんは数回の打ち合いで勝っていたはずだ。道場破りに飛び込む無鉄砲さと気絶するまで立ち続ける負けず嫌い。もしかしたら晋助君はいつも飄々としている銀時くんが対等に接することの出来る相手になるかもしれない。そうなってくれたら嬉しいと思ってしまうのはあまりに理想的すぎるだろうか。
「アンタは道場破りが何か分かってんのか?」
「勿論。でも晋助くんが強くなろうと思って行動するのなら、ここでは誰も止めないよ」
「……呑気すぎる」
呆れたような眼差しからは最初に感じたような警戒の色はもう見えない。そんなにおかしなことを言っただろうかと首を傾げるも、晋助くんは僅かに目を細めるだけだった。なんだか精神年齢で負けているような気分になったけれど気のせいだ。多分。今度は自分の意思で晋助くんの頭に手を伸ばす。銀時くんと比べて真っ直ぐな髪の毛の持ち主。この子はどんな大人になるのだろう。遠いようで短い先の未来、どうかなりたいと願った姿を叶えていますように。
***
季節は春の終わりかけ。瑞々しい青葉を眺めているとこちらまで朗らかな気分になるようだ。灰色の街並みでは気にすることもなかった四季の移り変わりをこの目で見ることができる。多くの芸術家達が自然に心を揺さぶられた意味が少し分かったような気がした。私にその手の才があったのなら詩でも絵でも残すことが出来たというのに。万年暗記科目だけ安定していた私は結局のところ凡人なのだ。寺子屋の子に猫を狸と勘違いされた画才は伊達ではない。
松下村塾に道場破りにやってきた晋助くんはあれから毎日銀時くんに勝負を挑んでいる。負けて悔しそうな顔はしてもその闘志が絶えることはない。寺子屋の子達も今では二人の勝負を心待ちにしているくらいだ。そして心のどこかでは下克上を期待している。いつの時代も挑戦者を応援したい大衆の気持ちは変わらないのかもしれない……銀時くんが聞いたら怒りそうだけれど。
「小太郎くんは今日も見ているだけでいいの?」
晋助くんがこの寺子屋に通い始めてから数日後、私は一人の少年がその様子を見ていることに気が付いた。生垣より中に入ってくることはないその少年名前は桂小太郎くん。さらりとした黒髪を高い位置で括っている。大きな瞳と相まって初見では女の子と勘違いしてしまったくらい可愛らしい。しかし小太郎くんは晋助くんと同じく私塾講武館に通う立派なお侍さんだ。本人も武士というものに誇りを持っているらしく、同じ年頃の子に比べて喋り方に格式が感じられる。
「なまえさん。オレは……いや、同輩として高杉が無茶をしないかを気にしているだけだ」
「晋助くんのことを心配しているんだね。二人は仲がいいの?」
「別に特別仲がよいというわけではないが、話す頻度が他の奴らと比べて少し多いだけにすぎない」
真面目な様子で語る小太郎くんを微笑ましい思いで見やる。私がこのくらいの年齢の時は何を思っていたのか、はっきりと思い出すことはできない。けれど、今の私から見て小太郎くんにとって晋助くんが大切な友達であることははっきりと分かる。他の子よりも話して、何より心配して毎日様子を見に来るなんて少し仲のいいだけの子にすることではない。
「それ、どこからどう見ても小太郎くんと晋助くんは立派な友達同士だよ」
「な!そんなことは……」
「今日の銀時くんと晋助くんの勝負はまだ決着がつかないだろうから、その間少し私の手伝いをしてほしいな。もうすぐお昼だから皆におにぎりを握ろうと思ってるの」
友達という言葉を完全に否定できず口ごもる小太郎くん。それが全てだった。この不器用で友達思いの子を生垣の中に引き込んでも誰も文句は言わないだろう。ずっとひたむきに試合を見つめていたことを私は知っている。沢山の感情で満たされながらも真っ直ぐで貫くような瞳は綺麗だ。それに松陽さんも「今日もあの子は来ていますか?」なんて生徒を気に掛けるように尋ねてくるくらいだ。どんな答えが返ってくるだろうか、そう思いながら小太郎くんが口を開くのを待つ。刹那の沈黙の後、小太郎くんは口を開いた。
「道場で握ってもよいだろうか。別に二人の試合が終わることを危惧しているわけではないが」
「手伝いは試合が終わってからでも大丈夫だから、先に台所に行っておこうか?」
「いや、頼まれ事を引き受けておいて中途半端にするのはおばあに駄目だと言われている」
「なら急いで用意して道場に行かないとね」
どこまでも生真面目な小太郎くんの手を引いて台所に向かう。そして朝に用意しておいた炊いた米の入った櫃や具材を持ってすぐに道場へ向かった。道場では銀時くんと晋助くんを中心に子ども達の輪が出来ていた。子ども達はどこか興奮して、それでも静かに二人の試合をじっと見ていた。ある子は拳を握りながら、ある子は胸元を掴みながら、食い入るように。道場の端に荷を下ろし、私も試合から目が離せなかった。
打ち、躱し、打ち、躱し、打つ。
永遠に続くと思われた攻防。しかし、それは晋助くんの渾身の一突きにより終わることになる。素人の私は銀時くんに隙があったのかは分からない。それだけ二人の実力は拮抗していて、試合がどう転ぶかなんて予想すらできなかったのだ。晋助くんの勝利が決まった瞬間、歓声が道場を包んだ。誰もが手放しに晋助くんを褒める。晋助くんは瞬く間に皆に囲まれた。こうして見ていると、皆はずっと晋助くんと喋ってみたかったのだろう、そう思う。
「お前らと俺は同門か!?」
晋助くんにとって寺子屋の皆の態度は予想外だったらしい。無邪気に笑う子ども達の中、困惑の声を上げる晋助くんに私達と同じように試合を観ていた松陽さんが近付いた。
「あら、そうじゃないんですか?てっきりうちに入ったと思ってました。だってだれより熱心に毎日稽古に……いや、道場破りに来てたから」
確かにここ最近の稽古で一番熱心だったのは、次こそは銀時くんに負けまいとする晋助くんだったのかもしれない。皆も松陽さんに言われて気が付いたのだろう。沢山の笑い声が重なる。晋助くんは皆の中心で年相応の照れたような顔をしていた。
「オイ―!何アットホームな雰囲気に包まれてんだ!そいつ道場破り!道場破られてんの!俺の***ぶち破られてんの!」
「もう敵も味方もないさ。皆でおにぎり握ろう」
すっかり晋助くんの勝利ムードに流され、銀時くんのことが頭から抜け落ちていた。晋助くんに飛ばされた後、近くに転がっていた銀時くんが身体を起こして猛抗議する。そこで小太郎くんがすかさずおにぎりを差し出したけれど、一体いつの間に握っていたのだろう。試合に夢中で気が付かなかった。
「敵味方以前にお前誰よ!何で得体の知れねえ奴が握ったおにぎり食わなきゃならねえんだ」
「誰が食っていいと言った。握るだけだ!」
「何の儀式だ!」
銀時くんが小太郎くんに夢中になっている間、綺麗に握られたおにぎりを輪から抜け出してきた松陽さんが掴む。目が合うと悪戯っ子のように微笑まれた。
「あ、すみません。もう食べちゃいました」
「早!」
顔が自然と笑みを形作る。渾沌としていて、歪で、それでもこんなに心の底から楽しいと思える場所に私はいる。幸せを絵に描いたとしたら、きっとこんな光景が広がっているのだろう。晴れ晴れとした笑顔と笑い声で溢れている。自分が不明瞭で不確定な存在であることを忘れたことはない。だからこそ大切になりすぎたもの達に苦笑して、忘れないように一瞬を目に焼き付けるように見つめた。