虚との出会い〜松下村塾編
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順応
一度遠ざけられてしまえば文明の利器がなくても存外人は困らないものだ。毎日決まった時間に私を起こし続けたスマホのアラームは朝日の柔らかな眩しさに取って代わった。癖で目覚めるとスマホを手繰り寄せようとすることもあるけれど、いつかそれもなくなるだろう。現代っ子の私が何のためか江戸時代に身一つで放り出されて早一月。寝て起きたらただの受験生に戻っていることもなく、私は昔の時代を生きている。私にとって正しい世界は一体どちらになってしまったのか。こちらの時間の流れが元の時代と同じように進んでいるのならば今頃私は大学の本試を受けていたはずだ。
小さく溜息を吐きながらすっかり慣れた手つきで着物に袖を通す。松陽さんから与えられたいくつかの女用の着物は、この土地に来る前に人助けをしたお礼にと貰ったものらしい。助けた相手は着物専門の古物商だったのだそうだ。道理で人の手が入った良い物だと納得した。
「おはようございます。なまえさん」
朝ご飯の準備をするために部屋から出たところ丁度松陽さんと出会った。松陽さんは羽織を身に着けておらず竹刀を持っていた。朝稽古をしていたのだろう。たった一月だけれど松陽さんの強さには感じ入るものがある。松陽さんの願いであった寺子屋は先日ついに開かれ既に数人の生徒が通っている。稽古で銀時くんを始め彼らを軽々とあしらう姿からは強さの底が見えない。
「松陽さん、おはようございます。銀時くんは?」
亜麻色の傍にいるイメージが定着している銀色が見当たらなくて思わず尋ねた私に、松陽さんは頬を緩めて答えた。松陽さんは銀時くんの話をする時にいっとうその瞳を優しさで湛える。
「いつも通り朝は苦手みたいで。先程まで稽古をしていましたから少し休憩してからくるでしょう」
「ご飯の匂いに釣られて、ですね」
「そうですね。あの子は人一倍鼻が利きますから……では、身なりを整えてから準備を手伝いにいきますね」
「あ、大丈夫ですよ。お汁やおかずは昨日のものを温めて、あとはご飯を炊くだけですから。ゆっくりしてください」
「なら、お言葉に甘えましょうか」
「はい」
当初苦労していた家電を使わない家事も一月も経てば随分と慣れた。きっと松陽さんも私に任せても大丈夫だと思ったのだろう。立ち話を切り上げて私は予定通り台所に向かった。江戸時代には当然のことながら炊飯器はない。現代っ子の家事が出来るというのはこの時代に比べたら言うまでもなく楽をしている。ボタンを押すだけでは何もできないのだ。
「……竈をこんなに使いこなす女子高生って私くらいじゃない?」
人間という生き物は図太い。生活習慣や環境といった根本的な違いにどうなることかと思っていたものの、今では多少のことでは動じなくなり不安だった体力面も成長を見せている。ここに来て少し逞しくなったような気がしている。水仕事をするようになりいつの間にか出来ていた皸も松陽さんがくれた軟膏のおかげで治まった。本当に松陽さんは人のことをよく見ている。こちらの生活に順応出来ているのは私自身の変化もあるけれど、後ろからそっと手を添えるように支えてくれる松陽さんの存在は言うまでもなく大きい。
「ふう、」
燃え盛る炎をじっと見つめる。ガラス細工はもっと熱いのだろうか、刀鍛冶はそれ以上なのだろうか、そんなことを考える。毎日決まった時間に起きて学校に行って勉強するだけだったはずの私。それだけで全てが完結し許されていたはずだった。一歩その道から外れると世界は知らないもので溢れている。炎の揺らめきが心を落ち着かせることも知らなかった。しばらく火の調整をしているといい匂いが漂ってきた。お腹が小さく鳴るのを身体の不思議だと苦く思う。痛覚と同じように味覚も失ってしまったことに気が付いたのは松陽さんと銀時くんと出会った日だ。不思議な世界の始まりの時、少年と食べたチョコは確かに甘かったはずなのに。
「よい、しょ」
頃合いを見計らって釜を引き上げる。ご飯は炊き方さえ分かってしまえばよかった。仕事で帰りの遅い両親に代わり日頃から料理をしていて良かったと思う。私の作る料理の味付けは完全に感覚に頼っている。いつか言わないといけないとは思っていても、二人が違和感に首を傾げるまではと甘えてしまっていた。いつか元通りになるかもしれないと淡い期待を抱きながら。
「部屋でじっとしているのも落ち着かなくて来ちゃいました。どうですか?」
「飯食いてえ」
お汁を温めながら櫃にご飯を入れていると台所まで松陽さんが銀時くんを連れてやって来た。二人が並んでいると容姿はかけ離れているものの本当の親子のように見える。銀時くんは待ちきれないのか盛大にお腹を鳴らしている。可愛くて微笑ましかった。
「お汁ももう温かくなったでしょうし、あとはよそうだけです。銀時くんも遅くなっちゃってごめんね」
「別にいーよ。すぐ食えるんだし」
「銀時、最後の仕上げだけですが手伝いましょうか」
松陽さんに言われて銀時くんも素直に手伝い始める。銀時くんはお茶碗一杯にご飯を盛った。松陽さんよりも背が高くなるのだと息巻くその姿は年相応だ。あと少しだったこともあり、三人が揃えばすぐに用意は終わった。居間に移動し足の付いたお膳にご飯を乗せる。松陽さんと向かい合うようにして私と銀時くんが並ぶのが何となく初日から決まった座り方だった。習い事以外ではすることのなかった正座も着物では当然の座り方だ。松陽さんが手を合わせるのに倣い私達も手を合わせる。三人分の「いただきます」が重なった。
「やっぱり飯は炊きたてじゃないとな」
「銀時、頬に米が付いてますよ」
「えっどこ?」
かきこむようにご飯を食べる銀時くんはよくお米を零したりあらぬところへくっつけたりする。食べている時は必死の様子でいつも松陽さんに指摘されるまで気が付かない。私は自分の頬を指でつついて場所を示した。
「銀時くん。ここ」
「んー……ない!」
「その反対」
「お、ほんとだ。ありがとな」
「どういたしまして」
会話がひと段落して再び私と銀時くんはご飯に箸をつける。味覚は戻らない。舌先で感触だけを確かめる。好んで何かを食べるということが出来なくなってしまったから、食べる量は少しずつ減っていく。それなのにお腹は空くのだから上手くいかないのだ。
「食わないならこの沢庵俺が食っていい?」
「ん、いいよ」
私にとって酸味も旨味も感じられない沢庵はいい音が鳴る食べ物にすぎない。味が感じられないのだからお米の付け合わせとしての役割も果たせない。銀時くんに快く譲ったのも何もおかしいことではない上、今回が初めてのことではなかった。しかし松陽さんはそんな私達を困ったような顔をして見ていた。
「松陽、どうした?」
どこか様子のおかしい松陽さんに気が付いた銀時くんが尋ねた。私も首を傾げる。いつも穏やかさを崩さない松陽さんにしては珍しい表情だったからだ。
「……いえ、なまえさんは与え慣れた方だと思っただけです。せめて食い意地くらい銀時のように張っていてくれればよかったのですが」
予想外の言葉に目を瞬かせる。私が何か言うよりも銀時くんが「どういうことだ!」と松陽さんを問い詰める方が早かった。無意識に身体に入っていた力がふっと抜ける。味覚のことについて指摘されるかもしれないと心のどこかで思っていたのかもしれない。松陽さんの髪と同じで色素の薄いその瞳に見つめられていると何もかもが見透かされているような気になる。松陽さんの瞳には外見では測れない深みがあるように感じられるのは単なる考えすぎだろうか。
「銀時がなまえさんと仲良くなることは予想通りでしたが、二人を一緒にしておくと私が一人にされてしまうような気がして。銀時はこの間も一人に一つずつ配った饅頭を満足気に二つ食べていましたね。二人の間にどんな秘密のやり取りがあったのやら」
「気付いてたのかよ!……まー、なまえが松陽じゃなくて俺に魅力を感じて饅頭を献上してもおかしくはないってことで。ドンマイ松陽」
「午後の稽古はやる気が出ますね」
「オテヤワラカニオネガイシマス」
「いつも通りですよ。いつも通り」
「はい……」
軽快に言葉を重ねる二人にホッと息を吐く。松陽さんもいつもの調子を取り戻したみたいだった。反対に項垂れていた銀時くんもすぐに顔を上げて残りのご飯を食べ始める。そんな銀時くんをじっと見ていたら目が合った。初対面の時に野良猫のようなイメージを持った銀時くんも、この一月接してみれば放し飼いをされた飼い猫のように見えてくるから月日は偉大だ。私がこの時代に慣れてきたように銀時くんも私に少しでも慣れてくれたと思うと嬉しい。
「……お前も沢庵が自分で食いたかったら自分で言えよな」
「え、」
「だから自分が我慢してまで俺にあげなくてもいいってこと!」
銀時くんは耐え切れなかったのか最期はそっぽを向いてしまった。銀時くんが自分なりに松陽さんの言葉を呑み込んでその言葉を発したと思うと、何だか擽ったいような気持ちになる。銀時くんが私にご飯のおかずを強請り始めたのは私が食べるのが遅いということもあるけれど、先に私が銀時くんにお菓子をあげたからだ。少しだけふてくされて少しだけ申し訳なさそうにする不器用な少年を見ていると、きっとこの先も私は自分から何か与えずにはいられないだろう、そう思った。銀時くんには申し訳ないけれど私は一人っ子だったからお姉さんぶりたいのだ。
「松陽さん。お子さんがとても可愛いくて胸が苦しいです」
「おや。やっと気が付きましたか」
「え?なにこれ、どういうこと?」
「私達は銀時くんのことが好きすぎるって話」
「ですね」
「全然ついていけないんですけどぉ!」
誰かが喋って、誰かがそれに乗っかって、いつの間にか皆が笑っているご飯の時間。口に運んでもそこにあるのはただの何かの感触だけ。それでも皆で食べるご飯の時間は好きだと思えるのが小さな救いだった。
***
朝ご飯を食べ終えた私達はそれぞれの行動を開始する。松陽さんと銀時くんは寺子屋での授業、私は掃除や洗濯などの家事を中心に、日によっては買い出しに行く。洗濯を早々に終わらせ、今日は庭先の草が伸びてきたからそれらを刈ることを決めていた。庭には立派な桜の木が生えていて、満開を終えた桜が美しく一片の花びらを落としていく。何度も見惚れそうになりながらも腰をかがめて鎌で草を刈っていく。小さな頃、旅行先で手を切った名も知らない草を見つけた。散々泣き喚いた記憶は今でも鮮明に残っている。
「なまえさん。頃合いを見て休憩もしてくださいね?」
「松陽さん」
黙々と作業に夢中になっていると松陽さんがいつの間にか傍に立っていた。汗を手ぬぐいで拭ってから立ち上がった。授業はどうしたのだろうか。
「今は休憩時間ですから、心配しなくてもいいですよ」
こちらの心配を見透かして先に言葉を掛けられると敵わないな、そう思ってしまう。人の心の機微に敏い松陽さんにとって先生は天職だ。きっと今にももっと多くの生徒がこの寺子屋に通い、様々な学びを得ていくのだろう。そして成長し大人になっていくのだろう。
「松陽さんが言うなら私も休憩しますね」
「ええ。特にあなたは自身も気が付かないうちに無理をしてしまいますから」
「そんな風に見えます?」
「残念ながら見えてますねえ」
「……以後気を付けます」
「そうしてあげてください。他がどれだけ大切にしても、あなたがあなた自身を大切にしなければ意味はないのですから」
松陽さんの紡ぐ言葉はどうしてこんなにも真っ直ぐなのだろうと思うことがある。先生、そう松陽さんを慕う寺子屋の子ども達を知っている。そして誰よりも松陽さんを慕う銀色も。その理由の一つを改めて目の当たりにした。嬉しさと同時に感じた照れくささを隠すように、未来に思いを馳せる。こんな人が父親の銀時くんは将来とんでもない人たらしになるに違いない、と。
「松陽さんも、松陽さんも自分を大切にしてくださいね」
「私ですか?」
「はい。松陽さんのことが皆大好きでしょうがないって話です」
そしてそう思う人はこれからもっと増えていくだろう。松陽さんが子ども達に囲まれて笑っている姿はこれ以上ないほどに幸福に包まれている。簡単に想像できてしまう素敵な未来に目を細めた。
「……なんだか照れくさいですね」
「やっと気が付きましたか」
「……はい。あの、なまえさん」
「どうしましたか?」
「ちょっと後ろを向いてくれませんか?」
松陽さんからの突然の要望に目を丸くしながらも頷き素直に従う。桜の木を前にする。目の前をひらりと舞う花びらを掴もうと手を伸ばした。その時、松陽さんが動く気配がした。手のひらを開いてもそこに花びらはなかった。逃してしまったようだ。もう一度挑戦してみても結果は変わらなかった。
「いいですか?」
「もう少し」
松陽さんは私の髪に何かしたいらしい。髪を束ねたり軽く引っ張られる感覚がある。短いようで長く感じられるような時間が過ぎた。
「できましたよ」
松陽さんを振り返り、おそるおそる頭に手を伸ばす。綺麗に纏められた髪とそれを纏めたのは。滑らかな玉に手が触れた。
「簪、ですか?」
「はい。この間街に出た時に行商の方から買いました。なまえさんがいなかったらこの松下村塾も開くのにもっと時間がかかったでしょうから、そのお礼です」
「お礼って……私のほうがよっぽど感謝している立場なのに」
「あなたに似合いそうだったので買ってきました……と言ったら素直に受けとってくれますか?どちらも本当のことなんです。並べられた簪の一つを見てなまえさんの顔が浮かんできたことも、日頃の感謝を伝えたかったことも。その簪は桜色をしているんです。春の優しい色合いがなまえさんによく似合っています」
ここまで言わせておいてまだ反論が出来る人はよほど贅沢に違いない。私は小さく頷いた。自分だけに贈られたものというのはこんなにも嬉しい。きっと私は毎日だって飽きずにこの簪を刺すだろう。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「本当に松陽さんは人たらしですね」
「えっ」
一度遠ざけられてしまえば文明の利器がなくても存外人は困らないものだ。毎日決まった時間に私を起こし続けたスマホのアラームは朝日の柔らかな眩しさに取って代わった。癖で目覚めるとスマホを手繰り寄せようとすることもあるけれど、いつかそれもなくなるだろう。現代っ子の私が何のためか江戸時代に身一つで放り出されて早一月。寝て起きたらただの受験生に戻っていることもなく、私は昔の時代を生きている。私にとって正しい世界は一体どちらになってしまったのか。こちらの時間の流れが元の時代と同じように進んでいるのならば今頃私は大学の本試を受けていたはずだ。
小さく溜息を吐きながらすっかり慣れた手つきで着物に袖を通す。松陽さんから与えられたいくつかの女用の着物は、この土地に来る前に人助けをしたお礼にと貰ったものらしい。助けた相手は着物専門の古物商だったのだそうだ。道理で人の手が入った良い物だと納得した。
「おはようございます。なまえさん」
朝ご飯の準備をするために部屋から出たところ丁度松陽さんと出会った。松陽さんは羽織を身に着けておらず竹刀を持っていた。朝稽古をしていたのだろう。たった一月だけれど松陽さんの強さには感じ入るものがある。松陽さんの願いであった寺子屋は先日ついに開かれ既に数人の生徒が通っている。稽古で銀時くんを始め彼らを軽々とあしらう姿からは強さの底が見えない。
「松陽さん、おはようございます。銀時くんは?」
亜麻色の傍にいるイメージが定着している銀色が見当たらなくて思わず尋ねた私に、松陽さんは頬を緩めて答えた。松陽さんは銀時くんの話をする時にいっとうその瞳を優しさで湛える。
「いつも通り朝は苦手みたいで。先程まで稽古をしていましたから少し休憩してからくるでしょう」
「ご飯の匂いに釣られて、ですね」
「そうですね。あの子は人一倍鼻が利きますから……では、身なりを整えてから準備を手伝いにいきますね」
「あ、大丈夫ですよ。お汁やおかずは昨日のものを温めて、あとはご飯を炊くだけですから。ゆっくりしてください」
「なら、お言葉に甘えましょうか」
「はい」
当初苦労していた家電を使わない家事も一月も経てば随分と慣れた。きっと松陽さんも私に任せても大丈夫だと思ったのだろう。立ち話を切り上げて私は予定通り台所に向かった。江戸時代には当然のことながら炊飯器はない。現代っ子の家事が出来るというのはこの時代に比べたら言うまでもなく楽をしている。ボタンを押すだけでは何もできないのだ。
「……竈をこんなに使いこなす女子高生って私くらいじゃない?」
人間という生き物は図太い。生活習慣や環境といった根本的な違いにどうなることかと思っていたものの、今では多少のことでは動じなくなり不安だった体力面も成長を見せている。ここに来て少し逞しくなったような気がしている。水仕事をするようになりいつの間にか出来ていた皸も松陽さんがくれた軟膏のおかげで治まった。本当に松陽さんは人のことをよく見ている。こちらの生活に順応出来ているのは私自身の変化もあるけれど、後ろからそっと手を添えるように支えてくれる松陽さんの存在は言うまでもなく大きい。
「ふう、」
燃え盛る炎をじっと見つめる。ガラス細工はもっと熱いのだろうか、刀鍛冶はそれ以上なのだろうか、そんなことを考える。毎日決まった時間に起きて学校に行って勉強するだけだったはずの私。それだけで全てが完結し許されていたはずだった。一歩その道から外れると世界は知らないもので溢れている。炎の揺らめきが心を落ち着かせることも知らなかった。しばらく火の調整をしているといい匂いが漂ってきた。お腹が小さく鳴るのを身体の不思議だと苦く思う。痛覚と同じように味覚も失ってしまったことに気が付いたのは松陽さんと銀時くんと出会った日だ。不思議な世界の始まりの時、少年と食べたチョコは確かに甘かったはずなのに。
「よい、しょ」
頃合いを見計らって釜を引き上げる。ご飯は炊き方さえ分かってしまえばよかった。仕事で帰りの遅い両親に代わり日頃から料理をしていて良かったと思う。私の作る料理の味付けは完全に感覚に頼っている。いつか言わないといけないとは思っていても、二人が違和感に首を傾げるまではと甘えてしまっていた。いつか元通りになるかもしれないと淡い期待を抱きながら。
「部屋でじっとしているのも落ち着かなくて来ちゃいました。どうですか?」
「飯食いてえ」
お汁を温めながら櫃にご飯を入れていると台所まで松陽さんが銀時くんを連れてやって来た。二人が並んでいると容姿はかけ離れているものの本当の親子のように見える。銀時くんは待ちきれないのか盛大にお腹を鳴らしている。可愛くて微笑ましかった。
「お汁ももう温かくなったでしょうし、あとはよそうだけです。銀時くんも遅くなっちゃってごめんね」
「別にいーよ。すぐ食えるんだし」
「銀時、最後の仕上げだけですが手伝いましょうか」
松陽さんに言われて銀時くんも素直に手伝い始める。銀時くんはお茶碗一杯にご飯を盛った。松陽さんよりも背が高くなるのだと息巻くその姿は年相応だ。あと少しだったこともあり、三人が揃えばすぐに用意は終わった。居間に移動し足の付いたお膳にご飯を乗せる。松陽さんと向かい合うようにして私と銀時くんが並ぶのが何となく初日から決まった座り方だった。習い事以外ではすることのなかった正座も着物では当然の座り方だ。松陽さんが手を合わせるのに倣い私達も手を合わせる。三人分の「いただきます」が重なった。
「やっぱり飯は炊きたてじゃないとな」
「銀時、頬に米が付いてますよ」
「えっどこ?」
かきこむようにご飯を食べる銀時くんはよくお米を零したりあらぬところへくっつけたりする。食べている時は必死の様子でいつも松陽さんに指摘されるまで気が付かない。私は自分の頬を指でつついて場所を示した。
「銀時くん。ここ」
「んー……ない!」
「その反対」
「お、ほんとだ。ありがとな」
「どういたしまして」
会話がひと段落して再び私と銀時くんはご飯に箸をつける。味覚は戻らない。舌先で感触だけを確かめる。好んで何かを食べるということが出来なくなってしまったから、食べる量は少しずつ減っていく。それなのにお腹は空くのだから上手くいかないのだ。
「食わないならこの沢庵俺が食っていい?」
「ん、いいよ」
私にとって酸味も旨味も感じられない沢庵はいい音が鳴る食べ物にすぎない。味が感じられないのだからお米の付け合わせとしての役割も果たせない。銀時くんに快く譲ったのも何もおかしいことではない上、今回が初めてのことではなかった。しかし松陽さんはそんな私達を困ったような顔をして見ていた。
「松陽、どうした?」
どこか様子のおかしい松陽さんに気が付いた銀時くんが尋ねた。私も首を傾げる。いつも穏やかさを崩さない松陽さんにしては珍しい表情だったからだ。
「……いえ、なまえさんは与え慣れた方だと思っただけです。せめて食い意地くらい銀時のように張っていてくれればよかったのですが」
予想外の言葉に目を瞬かせる。私が何か言うよりも銀時くんが「どういうことだ!」と松陽さんを問い詰める方が早かった。無意識に身体に入っていた力がふっと抜ける。味覚のことについて指摘されるかもしれないと心のどこかで思っていたのかもしれない。松陽さんの髪と同じで色素の薄いその瞳に見つめられていると何もかもが見透かされているような気になる。松陽さんの瞳には外見では測れない深みがあるように感じられるのは単なる考えすぎだろうか。
「銀時がなまえさんと仲良くなることは予想通りでしたが、二人を一緒にしておくと私が一人にされてしまうような気がして。銀時はこの間も一人に一つずつ配った饅頭を満足気に二つ食べていましたね。二人の間にどんな秘密のやり取りがあったのやら」
「気付いてたのかよ!……まー、なまえが松陽じゃなくて俺に魅力を感じて饅頭を献上してもおかしくはないってことで。ドンマイ松陽」
「午後の稽古はやる気が出ますね」
「オテヤワラカニオネガイシマス」
「いつも通りですよ。いつも通り」
「はい……」
軽快に言葉を重ねる二人にホッと息を吐く。松陽さんもいつもの調子を取り戻したみたいだった。反対に項垂れていた銀時くんもすぐに顔を上げて残りのご飯を食べ始める。そんな銀時くんをじっと見ていたら目が合った。初対面の時に野良猫のようなイメージを持った銀時くんも、この一月接してみれば放し飼いをされた飼い猫のように見えてくるから月日は偉大だ。私がこの時代に慣れてきたように銀時くんも私に少しでも慣れてくれたと思うと嬉しい。
「……お前も沢庵が自分で食いたかったら自分で言えよな」
「え、」
「だから自分が我慢してまで俺にあげなくてもいいってこと!」
銀時くんは耐え切れなかったのか最期はそっぽを向いてしまった。銀時くんが自分なりに松陽さんの言葉を呑み込んでその言葉を発したと思うと、何だか擽ったいような気持ちになる。銀時くんが私にご飯のおかずを強請り始めたのは私が食べるのが遅いということもあるけれど、先に私が銀時くんにお菓子をあげたからだ。少しだけふてくされて少しだけ申し訳なさそうにする不器用な少年を見ていると、きっとこの先も私は自分から何か与えずにはいられないだろう、そう思った。銀時くんには申し訳ないけれど私は一人っ子だったからお姉さんぶりたいのだ。
「松陽さん。お子さんがとても可愛いくて胸が苦しいです」
「おや。やっと気が付きましたか」
「え?なにこれ、どういうこと?」
「私達は銀時くんのことが好きすぎるって話」
「ですね」
「全然ついていけないんですけどぉ!」
誰かが喋って、誰かがそれに乗っかって、いつの間にか皆が笑っているご飯の時間。口に運んでもそこにあるのはただの何かの感触だけ。それでも皆で食べるご飯の時間は好きだと思えるのが小さな救いだった。
***
朝ご飯を食べ終えた私達はそれぞれの行動を開始する。松陽さんと銀時くんは寺子屋での授業、私は掃除や洗濯などの家事を中心に、日によっては買い出しに行く。洗濯を早々に終わらせ、今日は庭先の草が伸びてきたからそれらを刈ることを決めていた。庭には立派な桜の木が生えていて、満開を終えた桜が美しく一片の花びらを落としていく。何度も見惚れそうになりながらも腰をかがめて鎌で草を刈っていく。小さな頃、旅行先で手を切った名も知らない草を見つけた。散々泣き喚いた記憶は今でも鮮明に残っている。
「なまえさん。頃合いを見て休憩もしてくださいね?」
「松陽さん」
黙々と作業に夢中になっていると松陽さんがいつの間にか傍に立っていた。汗を手ぬぐいで拭ってから立ち上がった。授業はどうしたのだろうか。
「今は休憩時間ですから、心配しなくてもいいですよ」
こちらの心配を見透かして先に言葉を掛けられると敵わないな、そう思ってしまう。人の心の機微に敏い松陽さんにとって先生は天職だ。きっと今にももっと多くの生徒がこの寺子屋に通い、様々な学びを得ていくのだろう。そして成長し大人になっていくのだろう。
「松陽さんが言うなら私も休憩しますね」
「ええ。特にあなたは自身も気が付かないうちに無理をしてしまいますから」
「そんな風に見えます?」
「残念ながら見えてますねえ」
「……以後気を付けます」
「そうしてあげてください。他がどれだけ大切にしても、あなたがあなた自身を大切にしなければ意味はないのですから」
松陽さんの紡ぐ言葉はどうしてこんなにも真っ直ぐなのだろうと思うことがある。先生、そう松陽さんを慕う寺子屋の子ども達を知っている。そして誰よりも松陽さんを慕う銀色も。その理由の一つを改めて目の当たりにした。嬉しさと同時に感じた照れくささを隠すように、未来に思いを馳せる。こんな人が父親の銀時くんは将来とんでもない人たらしになるに違いない、と。
「松陽さんも、松陽さんも自分を大切にしてくださいね」
「私ですか?」
「はい。松陽さんのことが皆大好きでしょうがないって話です」
そしてそう思う人はこれからもっと増えていくだろう。松陽さんが子ども達に囲まれて笑っている姿はこれ以上ないほどに幸福に包まれている。簡単に想像できてしまう素敵な未来に目を細めた。
「……なんだか照れくさいですね」
「やっと気が付きましたか」
「……はい。あの、なまえさん」
「どうしましたか?」
「ちょっと後ろを向いてくれませんか?」
松陽さんからの突然の要望に目を丸くしながらも頷き素直に従う。桜の木を前にする。目の前をひらりと舞う花びらを掴もうと手を伸ばした。その時、松陽さんが動く気配がした。手のひらを開いてもそこに花びらはなかった。逃してしまったようだ。もう一度挑戦してみても結果は変わらなかった。
「いいですか?」
「もう少し」
松陽さんは私の髪に何かしたいらしい。髪を束ねたり軽く引っ張られる感覚がある。短いようで長く感じられるような時間が過ぎた。
「できましたよ」
松陽さんを振り返り、おそるおそる頭に手を伸ばす。綺麗に纏められた髪とそれを纏めたのは。滑らかな玉に手が触れた。
「簪、ですか?」
「はい。この間街に出た時に行商の方から買いました。なまえさんがいなかったらこの松下村塾も開くのにもっと時間がかかったでしょうから、そのお礼です」
「お礼って……私のほうがよっぽど感謝している立場なのに」
「あなたに似合いそうだったので買ってきました……と言ったら素直に受けとってくれますか?どちらも本当のことなんです。並べられた簪の一つを見てなまえさんの顔が浮かんできたことも、日頃の感謝を伝えたかったことも。その簪は桜色をしているんです。春の優しい色合いがなまえさんによく似合っています」
ここまで言わせておいてまだ反論が出来る人はよほど贅沢に違いない。私は小さく頷いた。自分だけに贈られたものというのはこんなにも嬉しい。きっと私は毎日だって飽きずにこの簪を刺すだろう。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「本当に松陽さんは人たらしですね」
「えっ」