虚との出会い〜松下村塾編
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忘却
「お前か。私に要らぬ希望を浴びせたのは」
再会
事実は小説より奇なりとは昔の詩人はよく言ったものだ。見知った駅からどこかの森を経て、次に私はビル一つない古い町並みの中に閉じ込められてしまったらしい。現代では珍しい平屋が続いている。歴史の教科書を脳内で捲るも古い時代の景色と遜色ないということしか分からなかった。受験勉強で詰め込んだ知識はここではあまり役に立たないみたいだ。太陽の角度から朝早いこと、風の温かさから大体春くらいだろうと検討をつける。
「……にしても、荷物はないし……あ」
手を開閉させて首を傾げていると、ニットについた血が目に入った。フラッシュバックするのは少年との別れ。自分に何が起きたか理解すると同時に起こった恐慌に飲み込まれそうになるのをどうにか耐える。しかしそれは激しい目眩を引き起こした。平衡感覚が保てず地面に強かに身体を打ち付けるその直前。強い力により身体を引き上げられ支えられた。
「大丈夫ですか?」
「えっと、多分……ありがとうございます」
こちらを覗き込んだ相手の顔は整っていて女性的だった。人一人を支える強い力と低い声がなかったらそのまま勘違いしていただろう。それほどまでに中性的で美しかったのだ。しばらくの間、目の前にある美形のご尊顔に呆然としていた私だけれどようやく我に返り離れようと手を動かした。いつの間にか嘘のように目眩は治まっている。
「怪我をしているように見えるのですが」
眉を下げてこちらを見る相手の反応に苦笑する。確かにこの姿でふらついていたら心配してしまうのもしょうがない。実際のところ私の肌は何事もなかったような様子なのだけれど。その証拠にニットの血は乾いている。
「今倒れそうになったのは怪我が原因ではないので大丈夫です。服は散々ですけど傷一つないので。目眩も一瞬のことでしたし」
「なら、家に来て休憩していきませんか?また目眩がしないとは限らないですし、その恰好では往来を歩くことも難しいでしょう」
相手の提案に戸惑いながら、再びニットに目を落とす。ニットには裂けた跡がいくつもありそこには乾いた血が生々しい事件性を訴えている。憎悪と愉悦を滾らせて私の身体を壊した男の姿を思い出す。あの時は必死でわが身を顧みる余裕がなかったのは確かだけれど、ここまでの惨状が引き起こされているとは気が付かなかった。傷一つない今となっては性質の悪い悪夢から目覚めたような気持ちだった。心臓はまだ少しざわついているけれどいずれ落ち着くだろう。
「お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
知らない相手についていかない、とは言っていられない。自分の恰好を改めて確認すればこのニットを着たままいるというのは純粋に嫌だった。それに私の予想が正しければきっとこの不思議な世界は続いている。周囲の建物、空気の香り、鳥の鳴き声。全てを映画のセットと考えることは難しい。
「私は吉田松陽といいます。最近こちらにやって来たんです」
「しょうようってどんな字を書くんですか?」
「植物の松に太陽の陽です」
そう言って私に手を差し伸べた相手、松陽さんを見澄ます。亜麻色の長い髪が太陽の光を受けて煌めいている。じっくり見ると意外と肩幅があり、華奢ではなかった。こちらを見る瞳は柔らかく細められていてどこまでも穏やかだった。悪い人ではないのだと思う。これでもし大悪党ならお手上げだ。世界中の誰もが騙されてしまうだろう。
「えっと、なまえです。まだよく現状把握が出来ていないんです」
「では何かお手伝いできることもあるでしょう」
そういえば少年と自己紹介をし合うことは出来なかった。少年はあの後無事に逃げ切ることが出来ただろうか、松陽さんの手を取りながらそう思った。松陽さんの手のひらは思った以上に硬くて驚いた。隠すつもりはなかったけれど松陽さんは私が驚いたことに直ぐに気が付いて笑った。そんなに顔に出てしまっていただろうか。
「剣を握っているんですよ」
「なるほど。強いんですか?」
「さて、どうでしょう」
「その返しが出来るってことはきっと強いんですね」
「ふふ。腕っ節の強い人なら探せばこのご時世どこにでもいるでしょうから、大したことはありませんよ」
松陽さんに手を引かれ見知らぬ道を進んでいく。繋いだ手は目眩対策らしい。背の低い家々が連なった道を抜け徐々に自然豊かで長閑な場所に向かっていく。畦道なんかがイメージに近いだろうか。空気が澄んでいて素朴な美しさのある景色だ。歩く道中にコンビニや駅は一つも確認できなかった。こういうのをタイムスリップと言うのだっけ、そう思うもどこまでも現実味がない。こっそり繋いでない方の手で足を抓ったけれど痛みは感じられなかった。
「……そういえば、今って何時代ですか?」
「徳川公の治世下なので江戸時代ですね」
「なる、ほど。ここでは着物で生活するのもきっと普通なんですよね」
「そうですね。洋装は珍しいです」
薄々気が付いていたけれどやはりここは過去の世界らしい。松陽さんが私をからかっている可能性もあるけれど、どうにもそういうことをしているようには見えない。驚きが一周回ると人は逆に混乱しないらしい……諦めて思考停止していると言う方が正しいのかもしれないけれど。
「……松陽さんは急にこんなことを尋ねる私を不審に思わないんですか。そもそも恰好からして訳ありという雰囲気がこれでもか!と言うくらいに漂っているんですけど」
松陽さんの立場になって考えてみると私は立派な不審人物でしかない。現代だったら道に血濡れの女が立っていたら警察に通報されてもおかしくはない状況だ。場合によるけれど、被害者なのか加害者なのかもはっきりしないと余計と慎重にならざるをえないだろう。
「逆に尋ねますが、あなたは道に倒れている人がいたら見て見ぬふりをしますか?」
「いや、それは」
できない、そう答える前に松陽さんは口を開いた。穏やかでありながら凛とした雰囲気を纏っている。
「同じですよ。助けを必要とする人がいるから私は助けたいと思う。違うのは些細な状況だけです」
「……私、そんなに困っているように見えました?」
「どちらかと言えば迷子が途方に暮れているように見えました」
迷子。松陽さんは何気なく発したのだろうけれど、その言葉は私の胸にストンと落ちてきた。私は迷子だ。それは帰り道の有無すら分からないほどに大規模で答えすら出ないもの。私は何に巻き込まれてしまったのか。それ以上は考えることが怖くなって蓋をした。考えてはいけないことを考えてしまいそうだった。ここは不思議な世界、今はそれだけでいい。
「……あなたが憂うことがあるのなら、それを教えて頂ければ私が何とでもしますから。着物、ご飯、住むところだって。この前一人の子を引き取ったばかりなので、一人も二人も変わりませんよ。」
何も言わずに押し黙っていると松陽さんの口からするすると予想外の言葉が紡がれた。思わず顔を上げると目が合った。松陽さんの表情は冗談を口にしたものではなかった。それに松陽さんが言ったことは私が困っていることばかりだったから、無意識のうちに口に出してしまっていたのかとさえ思わされた。
「私、居場所がないって口に出してました……?」
「まさか。でもその様子だと当たっていたということですね」
「……私、そこまでして頂いたとしても返せるものがないんです」
「実は私、寺子屋を開いて子どもたちに手習いを教える準備を今しているんです」
突然変わった話の流れに疑問を感じていると松陽さんは目を細めた。綺麗な笑顔だった。人はこんなに綺麗に笑むことができることを私は今まで知らなかった。罪人でもないはずなのに何故か許されたような気持ちになった。
「だから掃除や家のことが疎かになってしまうと思うので、あなたさえ良ければ手伝って頂けたら嬉しいのですが」
「えっと……」
「あ、着きましたよ。詳しいことはとりあえず身なりを整えてから決めましょうか」
返事もままならないまま立派な家に着いた。寺子屋を開くという言葉から多少は想像していたけれど、落ち着きがありどっしりと構えたような日本家屋だ。この時代にも場所によって土地代が変わるのだろうか、私がそんな下らない疑問を喉の奥に押し込んでいる間にも松陽さんは話を進めていく。あれよあれよの間に私は家の中で着物を持たせられていた。
「着付けは大丈夫そうですか?」
「はい。家庭科……いえ、教えてもらったことがあるので」
「それは結構」
襖を閉められ、襖越しに「着替え終わったら右隣りの部屋に来てください」と声が掛かる。与えられるだけ与えられた状況に手元にある着物をまじまじと眺める。桜色の着物は使い込まれているようだけれどそこに嫌な古さはない。大切にされてきたのだろう。家庭科の実習で着付けをやっていて良かった、そう思いながら丁寧に袖を通した。丁度実習が夏前だったこともあり、友達の間で和服ブームが起こり沢山のお祭りに浴衣で参加したのだ。大体の形を整えて部屋にあった姿見でおかしなところがないか確認する。恰好が変わると気も引き締まるようだ。脱いだ服を持ち、私は言われた通りに右隣りの部屋へ向かった。失礼します、そう言うとすぐに承諾が返ってきたため襖を開けた。
「ありがとうございました……あれ、」
お辞儀から顔を上げるとそこには松陽さん以外にも少年がいた。十歳にもなっていなそうな少年は、人工のものとは思えない白銀の髪を無造作に跳ねさせていた。赤い瞳がじっとこちらを観察するように見つめている。その様子は警戒心の高い野良猫を思わせた。
「コイツ、松陽の女?」
「えっ」
「こら銀時。邪推から入るのは止めさない。なまえさん。こちらは銀時、銀の時間で銀時です。先程話した子です」
「いっ」
可愛らしい少年、銀時くんから放たれた言葉に面食らった。けれどそれ以上に直後に起こった光景、松陽さんの手から放たれたデコピンが銀時くんを弾き飛ばしたことに理解が追いつかなかった。何てことない顔をしている松陽さんに尋ねることも憚られて口を噤んだ。そして勢いよく起き上がった銀時くんに安堵した。松陽さんの力も銀時くんの耐久力もどうなっているのだろう。
「絶対頭かち割れた……」
「銀時。こちらがなまえさんです。今日から私やあなたと同じくここで暮らすことになりました」
「結局松陽のおん、ナンデモナイデス」
「よろしい」
「まあ俺と一緒ってことだろ。松陽は物好きだからな」
「、ちょっと待ってください……!その話は、」
口を挟めずにいるうちに聞き捨てならない会話が二人の間でなされていることに私は慌てて割入った。あまりに得体のしれない女に対して二人の受け入れ態勢が凄すぎる。松陽さんから提案はされたものの、こんな軽い調子で決まることではないのに。
「松陽振られた?これだから気が早い男ってのは……」
目を丸くして松陽さんをからかう銀時くん。この幼さのどこで色恋の立ち回りを覚えてきたのか。気になるけれど今はそこに疑問をぶつけている場合ではない。
「銀時は誰視点ですか…… なまえさん」
松陽さんに名前を呼ばれて背筋を伸ばす。松陽さんは少し困ったような色を瞳に滲ませていた。頑固な生徒に手を焼いている先生のように。
「っはい」
「あなたは居場所がなくて困っている。それは間違いではありませんね?」
「……はい」
「それなら深く考えずに差し出された手を取ればいいんです。先程も言いましたが、ここはこれから寺子屋として使います。ただ置いて世話されるのが心苦しくなるなんてことは起きませんよ。手伝いはどうしても必要です」
耳触りのよい言葉ばかりが並んでいる。松陽さんは私を騙しているわけではないと分かるからこそ、戸惑った。私はこの時代で生きるための全てが欠落していると自覚していた。遠慮と申し訳なさと、あとは松陽さんの善意に縋ってしまいそうな甘い自分自身。全てが私の中でぐちゃぐちゃになった、その時だった。
「松陽の言う通りごちゃごちゃ考えずに助けてって言えばいい。松陽もお前にいて欲しいって思ってるんだから」
「銀時にはっきり私の気持ちを言われてしまいましたね…… なまえさん、そういうことです」
自分自身に何が起こったのか考えることさえ恐ろしくて、ままならないまま不安だけを抱えている。強張っていた心が少し解れていくような感覚に目を閉じた。鼻の奥がツンとした。声が震えないか、それだけに気を配る。
「……これから、よろしくお願いします」
滲む視界に優しい色彩が揺れる。この世界がたとえ夢であったとしてもこの二人の優しさだけはどうか憶えていますように、そう願った。
「お前か。私に要らぬ希望を浴びせたのは」
再会
事実は小説より奇なりとは昔の詩人はよく言ったものだ。見知った駅からどこかの森を経て、次に私はビル一つない古い町並みの中に閉じ込められてしまったらしい。現代では珍しい平屋が続いている。歴史の教科書を脳内で捲るも古い時代の景色と遜色ないということしか分からなかった。受験勉強で詰め込んだ知識はここではあまり役に立たないみたいだ。太陽の角度から朝早いこと、風の温かさから大体春くらいだろうと検討をつける。
「……にしても、荷物はないし……あ」
手を開閉させて首を傾げていると、ニットについた血が目に入った。フラッシュバックするのは少年との別れ。自分に何が起きたか理解すると同時に起こった恐慌に飲み込まれそうになるのをどうにか耐える。しかしそれは激しい目眩を引き起こした。平衡感覚が保てず地面に強かに身体を打ち付けるその直前。強い力により身体を引き上げられ支えられた。
「大丈夫ですか?」
「えっと、多分……ありがとうございます」
こちらを覗き込んだ相手の顔は整っていて女性的だった。人一人を支える強い力と低い声がなかったらそのまま勘違いしていただろう。それほどまでに中性的で美しかったのだ。しばらくの間、目の前にある美形のご尊顔に呆然としていた私だけれどようやく我に返り離れようと手を動かした。いつの間にか嘘のように目眩は治まっている。
「怪我をしているように見えるのですが」
眉を下げてこちらを見る相手の反応に苦笑する。確かにこの姿でふらついていたら心配してしまうのもしょうがない。実際のところ私の肌は何事もなかったような様子なのだけれど。その証拠にニットの血は乾いている。
「今倒れそうになったのは怪我が原因ではないので大丈夫です。服は散々ですけど傷一つないので。目眩も一瞬のことでしたし」
「なら、家に来て休憩していきませんか?また目眩がしないとは限らないですし、その恰好では往来を歩くことも難しいでしょう」
相手の提案に戸惑いながら、再びニットに目を落とす。ニットには裂けた跡がいくつもありそこには乾いた血が生々しい事件性を訴えている。憎悪と愉悦を滾らせて私の身体を壊した男の姿を思い出す。あの時は必死でわが身を顧みる余裕がなかったのは確かだけれど、ここまでの惨状が引き起こされているとは気が付かなかった。傷一つない今となっては性質の悪い悪夢から目覚めたような気持ちだった。心臓はまだ少しざわついているけれどいずれ落ち着くだろう。
「お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
知らない相手についていかない、とは言っていられない。自分の恰好を改めて確認すればこのニットを着たままいるというのは純粋に嫌だった。それに私の予想が正しければきっとこの不思議な世界は続いている。周囲の建物、空気の香り、鳥の鳴き声。全てを映画のセットと考えることは難しい。
「私は吉田松陽といいます。最近こちらにやって来たんです」
「しょうようってどんな字を書くんですか?」
「植物の松に太陽の陽です」
そう言って私に手を差し伸べた相手、松陽さんを見澄ます。亜麻色の長い髪が太陽の光を受けて煌めいている。じっくり見ると意外と肩幅があり、華奢ではなかった。こちらを見る瞳は柔らかく細められていてどこまでも穏やかだった。悪い人ではないのだと思う。これでもし大悪党ならお手上げだ。世界中の誰もが騙されてしまうだろう。
「えっと、なまえです。まだよく現状把握が出来ていないんです」
「では何かお手伝いできることもあるでしょう」
そういえば少年と自己紹介をし合うことは出来なかった。少年はあの後無事に逃げ切ることが出来ただろうか、松陽さんの手を取りながらそう思った。松陽さんの手のひらは思った以上に硬くて驚いた。隠すつもりはなかったけれど松陽さんは私が驚いたことに直ぐに気が付いて笑った。そんなに顔に出てしまっていただろうか。
「剣を握っているんですよ」
「なるほど。強いんですか?」
「さて、どうでしょう」
「その返しが出来るってことはきっと強いんですね」
「ふふ。腕っ節の強い人なら探せばこのご時世どこにでもいるでしょうから、大したことはありませんよ」
松陽さんに手を引かれ見知らぬ道を進んでいく。繋いだ手は目眩対策らしい。背の低い家々が連なった道を抜け徐々に自然豊かで長閑な場所に向かっていく。畦道なんかがイメージに近いだろうか。空気が澄んでいて素朴な美しさのある景色だ。歩く道中にコンビニや駅は一つも確認できなかった。こういうのをタイムスリップと言うのだっけ、そう思うもどこまでも現実味がない。こっそり繋いでない方の手で足を抓ったけれど痛みは感じられなかった。
「……そういえば、今って何時代ですか?」
「徳川公の治世下なので江戸時代ですね」
「なる、ほど。ここでは着物で生活するのもきっと普通なんですよね」
「そうですね。洋装は珍しいです」
薄々気が付いていたけれどやはりここは過去の世界らしい。松陽さんが私をからかっている可能性もあるけれど、どうにもそういうことをしているようには見えない。驚きが一周回ると人は逆に混乱しないらしい……諦めて思考停止していると言う方が正しいのかもしれないけれど。
「……松陽さんは急にこんなことを尋ねる私を不審に思わないんですか。そもそも恰好からして訳ありという雰囲気がこれでもか!と言うくらいに漂っているんですけど」
松陽さんの立場になって考えてみると私は立派な不審人物でしかない。現代だったら道に血濡れの女が立っていたら警察に通報されてもおかしくはない状況だ。場合によるけれど、被害者なのか加害者なのかもはっきりしないと余計と慎重にならざるをえないだろう。
「逆に尋ねますが、あなたは道に倒れている人がいたら見て見ぬふりをしますか?」
「いや、それは」
できない、そう答える前に松陽さんは口を開いた。穏やかでありながら凛とした雰囲気を纏っている。
「同じですよ。助けを必要とする人がいるから私は助けたいと思う。違うのは些細な状況だけです」
「……私、そんなに困っているように見えました?」
「どちらかと言えば迷子が途方に暮れているように見えました」
迷子。松陽さんは何気なく発したのだろうけれど、その言葉は私の胸にストンと落ちてきた。私は迷子だ。それは帰り道の有無すら分からないほどに大規模で答えすら出ないもの。私は何に巻き込まれてしまったのか。それ以上は考えることが怖くなって蓋をした。考えてはいけないことを考えてしまいそうだった。ここは不思議な世界、今はそれだけでいい。
「……あなたが憂うことがあるのなら、それを教えて頂ければ私が何とでもしますから。着物、ご飯、住むところだって。この前一人の子を引き取ったばかりなので、一人も二人も変わりませんよ。」
何も言わずに押し黙っていると松陽さんの口からするすると予想外の言葉が紡がれた。思わず顔を上げると目が合った。松陽さんの表情は冗談を口にしたものではなかった。それに松陽さんが言ったことは私が困っていることばかりだったから、無意識のうちに口に出してしまっていたのかとさえ思わされた。
「私、居場所がないって口に出してました……?」
「まさか。でもその様子だと当たっていたということですね」
「……私、そこまでして頂いたとしても返せるものがないんです」
「実は私、寺子屋を開いて子どもたちに手習いを教える準備を今しているんです」
突然変わった話の流れに疑問を感じていると松陽さんは目を細めた。綺麗な笑顔だった。人はこんなに綺麗に笑むことができることを私は今まで知らなかった。罪人でもないはずなのに何故か許されたような気持ちになった。
「だから掃除や家のことが疎かになってしまうと思うので、あなたさえ良ければ手伝って頂けたら嬉しいのですが」
「えっと……」
「あ、着きましたよ。詳しいことはとりあえず身なりを整えてから決めましょうか」
返事もままならないまま立派な家に着いた。寺子屋を開くという言葉から多少は想像していたけれど、落ち着きがありどっしりと構えたような日本家屋だ。この時代にも場所によって土地代が変わるのだろうか、私がそんな下らない疑問を喉の奥に押し込んでいる間にも松陽さんは話を進めていく。あれよあれよの間に私は家の中で着物を持たせられていた。
「着付けは大丈夫そうですか?」
「はい。家庭科……いえ、教えてもらったことがあるので」
「それは結構」
襖を閉められ、襖越しに「着替え終わったら右隣りの部屋に来てください」と声が掛かる。与えられるだけ与えられた状況に手元にある着物をまじまじと眺める。桜色の着物は使い込まれているようだけれどそこに嫌な古さはない。大切にされてきたのだろう。家庭科の実習で着付けをやっていて良かった、そう思いながら丁寧に袖を通した。丁度実習が夏前だったこともあり、友達の間で和服ブームが起こり沢山のお祭りに浴衣で参加したのだ。大体の形を整えて部屋にあった姿見でおかしなところがないか確認する。恰好が変わると気も引き締まるようだ。脱いだ服を持ち、私は言われた通りに右隣りの部屋へ向かった。失礼します、そう言うとすぐに承諾が返ってきたため襖を開けた。
「ありがとうございました……あれ、」
お辞儀から顔を上げるとそこには松陽さん以外にも少年がいた。十歳にもなっていなそうな少年は、人工のものとは思えない白銀の髪を無造作に跳ねさせていた。赤い瞳がじっとこちらを観察するように見つめている。その様子は警戒心の高い野良猫を思わせた。
「コイツ、松陽の女?」
「えっ」
「こら銀時。邪推から入るのは止めさない。なまえさん。こちらは銀時、銀の時間で銀時です。先程話した子です」
「いっ」
可愛らしい少年、銀時くんから放たれた言葉に面食らった。けれどそれ以上に直後に起こった光景、松陽さんの手から放たれたデコピンが銀時くんを弾き飛ばしたことに理解が追いつかなかった。何てことない顔をしている松陽さんに尋ねることも憚られて口を噤んだ。そして勢いよく起き上がった銀時くんに安堵した。松陽さんの力も銀時くんの耐久力もどうなっているのだろう。
「絶対頭かち割れた……」
「銀時。こちらがなまえさんです。今日から私やあなたと同じくここで暮らすことになりました」
「結局松陽のおん、ナンデモナイデス」
「よろしい」
「まあ俺と一緒ってことだろ。松陽は物好きだからな」
「、ちょっと待ってください……!その話は、」
口を挟めずにいるうちに聞き捨てならない会話が二人の間でなされていることに私は慌てて割入った。あまりに得体のしれない女に対して二人の受け入れ態勢が凄すぎる。松陽さんから提案はされたものの、こんな軽い調子で決まることではないのに。
「松陽振られた?これだから気が早い男ってのは……」
目を丸くして松陽さんをからかう銀時くん。この幼さのどこで色恋の立ち回りを覚えてきたのか。気になるけれど今はそこに疑問をぶつけている場合ではない。
「銀時は誰視点ですか…… なまえさん」
松陽さんに名前を呼ばれて背筋を伸ばす。松陽さんは少し困ったような色を瞳に滲ませていた。頑固な生徒に手を焼いている先生のように。
「っはい」
「あなたは居場所がなくて困っている。それは間違いではありませんね?」
「……はい」
「それなら深く考えずに差し出された手を取ればいいんです。先程も言いましたが、ここはこれから寺子屋として使います。ただ置いて世話されるのが心苦しくなるなんてことは起きませんよ。手伝いはどうしても必要です」
耳触りのよい言葉ばかりが並んでいる。松陽さんは私を騙しているわけではないと分かるからこそ、戸惑った。私はこの時代で生きるための全てが欠落していると自覚していた。遠慮と申し訳なさと、あとは松陽さんの善意に縋ってしまいそうな甘い自分自身。全てが私の中でぐちゃぐちゃになった、その時だった。
「松陽の言う通りごちゃごちゃ考えずに助けてって言えばいい。松陽もお前にいて欲しいって思ってるんだから」
「銀時にはっきり私の気持ちを言われてしまいましたね…… なまえさん、そういうことです」
自分自身に何が起こったのか考えることさえ恐ろしくて、ままならないまま不安だけを抱えている。強張っていた心が少し解れていくような感覚に目を閉じた。鼻の奥がツンとした。声が震えないか、それだけに気を配る。
「……これから、よろしくお願いします」
滲む視界に優しい色彩が揺れる。この世界がたとえ夢であったとしてもこの二人の優しさだけはどうか憶えていますように、そう願った。