原作編
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希求
奥州の息子さんのところへ行っていた梅さんが帰ってきた。
梅さんは会っていないこの数ヶ月の間に何があったのか見透しているみたいだった。
よくがんばったわねぇ。帰ってきて早々玄関先で抱きしめられる。温かく確かな抱擁は久しく会っていないお婆ちゃんを思わせた。
皆に助けられているばかりだったのに、頑張りました、そう答えられたのが不思議だった。
梅さんが星のような眼差しで私を包みこむ。
心の中で呟く。 私、長い旅の最中なんです。でも、梅さんの人生に比べたらまだまだ短くて、そう思うとなんだか夢を見ているような気分になるんです。
この言葉をいつか彼女に伝えられるだろうか。
静寂の間。
ふと旅の始まりに出会った少年を思い出した。彼は今どうしているのだろう。あれから何年経ったのか分からないけれど、幸せでいてくれたらいい。幸せに生きていてくれているのならそれで。
***
開店の準備中のことだった。
喫茶店の朝は賑やかだ。開店早々も例に漏れず常連さんがたくさん来てくれる。
長いこと梅さんが一人で切り盛りしていたこともあって、お客さんの殆どは時間に余裕のある人達ばかりだ。彼らはよく人生の余暇という言葉を使う。
ゆっくり新聞を眺めるその人達は毎日この世界の情報を更新していく。スポーツ新聞が二誌と普通のも二誌。毎朝新聞から広告を抜いてホチキスをするのも開店前の準備のうちだったのだけれど。
いつものように広告が挟まっていると思った。慣れた手つきで抜いて。
「……あ」
大江戸警察。指名手配という物騒な言葉と共に掲載された写真には心当たりがあった。
ーー簪は。
ーーそれから高杉とヅラは今じゃ……国から追われるテロリストだ。高杉に至っては過激派で国を壊すためなら人を利用することも傷つけることも厭わねえ。
雨音の記憶と、銀時くんの言葉が混ざり合って、隻眼の青年と銀時くんの痛みの表情が混ざり合って。
何かが軋んで、歪む。
「ああ、随分険のある美形の子と……隣の子は別嬪さんだね」
「……梅さん」
朗らかな声。呼吸を止めていたことに気がついた。指名手配書の感想にしては不釣り合いで、無責任で、よかった。よかったと思えてしまった。
高杉晋助と桂小太郎。二人の名前を指でなぞる。
この時代にやってきた当初、時間を見つけては図書館に通っていた。彼らの元へ帰る為でもあったし、私には知らないことが多すぎたから。 それでも、寛政の大獄というものを目にした後はーーーー。
銀時くんと出会ってようやく全てを知った。私の知らないところで時間は流れたらしかった。
あどけなさは薄まったもののまだ幼さの残る顔立ちと、それらを束ねる亜麻色。
私が知っているのは彼らの過去の一部分になった。
それなのに、私の目は色を失ったのに、亜麻色は鮮明だ。柔らかい声もあの眼差しも。
昨日のことのように全てが今のことで。実際私にとっては流れた月日はあってないようなもので。小さな頃に読んだ昔話がある。玉手箱を開いた主人公もきっとこんな気持ちだった。
変わってしまった世界で忘れられない記憶を抱えている。
銀時くんと晋助くんもきっとあの陽だまりのような人を心に留めている。見違えるほどに大きくなって、自分の道を進み始めたけれど。だって、彼らの傷痕はそのままだ。
ーーーー小太郎くんに会える日は来るのだろうか。
手配書をエプロンのポケットに仕舞い込む。他の広告と同じように捨てられなかった。
新聞をラックに置いて、多少ぼんやりとしながらもその他の準備も終えた。すっかり慣れたもので手順は身体に染み付いている。
あとは表の看板をひっくり返すだけになった時、梅さんにお使いを頼まれた。
すっかり聞き馴染んだクラシックを後にする。梅さんの気遣いに敵わないと思った。
***
かぶき町のデパート(この世界は江戸時代なのに電車があるしデパートもある)でお使いを済ませた。梅さんとご近所さんとの恒例の集まりが数日後にある。そのお茶請けを買ってくるように頼まれていた。
町に出ていると、陽の当たらない場所の暗がりの色濃さを目にすることがある。
江戸の中心に聳え立つ白白としたタワーと木造の家屋、時代の隙間に佇む傷んだ着物を身に付けた子ども達。
国全体を揺るがす戦争が終わったのは十年ほど前らしい。この国に残った傷痕が塞ぎきっていないのは当たり前のことだった。
視界の端に見えた二人の子どもは手にお茶碗を持っている。道ゆく人はその子ども達を空気のように扱ったり、お金をお茶碗に入れたり。その光景を前に、足を縫い付けられたように立ち尽くしていた。
そんな時だ。
子ども達に近付く男の人がいた。男の人はふらついている。どこか様子がおかしいのは酔っているからか。
目が離せないでいると子ども達も男の人に気がついたらしい。お茶碗を差し出して何か話している。そのお茶碗は守るべき大人を持たないであろう彼らが生活をする為の道具だった。
彼らはきっといつものように近付いてきた大人に話し掛けた。ただ、男は乱暴にお茶碗を払い除けた。一瞬の怒号の後、幼く見える方の子を突き飛ばした。
「……!」
弾かれたように彼らの元へ駆け寄る。急に走ったから足がもつれた。不恰好に男に対峙する。暴力を振るってなおその場に留まっている男。
目的は憂さ晴らしか何かは分からない。
けれど、もう一度傷つけようと子ども達に手を伸ばそうとしていた。
だから。
「なんだ? お前」
「……逃げてね」
男の問い掛けに応じず、背後の子ども達に向けてそう言うと戸惑いながらも走り去る気配がした。ほっと息を吐く。あとは目の前の男の怒りを前に無策であることと、少しだけ身体が震えてしまっているのが問題だ。
「汚ねえ乞食に現実を教えてやろうと思ったのに、まあ、自分のお節介の代償は払う気でいんだろ」
子どもは守られなくてはいけない。当たり前だったはずの道徳意識は、私が生きていた世界とこちらの世界の違いを浮き彫りにした。
でも、自分が信じるものは守り続けたい。そうしないと真っ直ぐに生きていけなくなる気がする。
「容赦してやるほど気分はよくねえんだ」
自分の我儘だけが私をこの場に立たせている。
振り上げられているのは拳で刀ではない。
それなのに、あの日の光景がフラッシュバックする。
日常の消失と森の中、少年に逃げてと悲鳴のような叫びをあげたあの瞬間。
寒さが肌を突き刺すような冬の日だった。
日常になったとある日の一ページが、無惨にも破り捨てさられてしまったあの瞬間。
虫の音が涼やかな秋の日だった。
あの日、夕ご飯の材料の買い忘れに気が付いて街に出た。お母さんがこれがあるのと無いのとでは味が変わる、そう教えてくれた隠し味のための。
日常の些細な行為に愛情があるということを信じているし、自分がしてもらっていたことを好きな人達にもしたかっただけだった。
彼らを置いてきてしまった。
いってらっしゃい、そう玄関で見送ってくれたのは小太郎くんだった。
彼の律儀さが嬉しくて、よく献立やおやつの相談に乗ってもらっていた。いつも武士たるもの質素倹約と言いながら口元を綻ばせ、ああでもないこうでもないと真剣に考えてくれた。
あの日、もっとよく顔を見ておくんだった。声を聞いておくんだった。明日の約束をずっとずっと続けていたかった。
全ては叶わなかったけれど。
目を瞑る。与えられるであろう衝撃に歯を食いしばり、肩を尖らせる。
現実感のない宙ぶらりんな時間。
思考は停止し、身に降りかかることを待つことしかできない永遠にも思われたその時。
ふわり。
風を感じた。衝撃はこない。
誰かの呻き声が聞こえると共に目を薄ら開いた。身体中に不自然に入っていた力が緩んでいく。
「……俺達はあなたのそういうところが危なっかしくて、眩しかったんですよ」
モノクロの世界で、綺麗な長髪が靡く。
私と拳の間に割って入った青年。その低い声は温かく、寂しそうだった。
今度は間違えてなるものか。今度はその声の響きを聞き逃してなるものか。
目をいっぱいに開き、光景を受け入れる。
難なく脅威をいなし、こちらを振り向いた青年の顔はよく知るものよりも大人びていて、真っ直ぐに見つめてくるところは変わらなかった。
「お久しぶりです。 なまえさん」
口にされた私の名前が風の中で輪郭を持つ。 彼の持つ錫杖の揺れる音は過去と現在を繋げているような、そんな不思議な響きを持っていた。
笠を軽く上げてこちらを見遣る青年は、新聞によると危険人物らしい。
でも、私のよく知る少年でもあった。 少年はいつもひたむきで、真っ直ぐ一本筋を通っているような、そんな生き方をしていた。
「……こたろうくん」
確かめるように名前を呼んだ。 なんだか、私の声ではないみたいだった。
脅威だった男は小太郎くんによって取り除かれた。けれど、心の一番柔らかいところに鉛が沈んでいるような感覚がある。
「、あの」
あてもなく口を開いて言葉を詰まらせた。 思考は浮遊したまま、無理矢理歯車を噛み合わせたように回り始める。
手を伸ばして、それで。
何も考えていないわけではないけれど、こうした方が正解だという確信が私を動かす。
記憶のものよりも随分大きくなった手を包み込むようにして閉じ込める。彼の左手は一度分かりやすく震えたものの、拒まれることはなかった。
小太郎くんは目を伏せて、心の奥で何かを測っているようだった。
やがて、彼の長い睫毛の陰に隠されていた瞳が露わになる。 その奥には決意の光が宿っていた。表情は波一つ立たない水面のように揺らぎがなく、ただ一つの方向を定めていた。
少しの息苦しさを飲み込む。
大人になった銀時くんや晋助くんと出会った私は、無意識に気が付いていたのだと思う。
目の前で私を真っ直ぐに見つめる彼にも、私が刺した痛みの棘はそのまま残っている。
「…… なまえさんは、あの日も後先考えずに人助けをしたのでしょう」
返事を待たれている気はしなかった。小太郎くんがすぐにまた口を開いたからだった。
「あなたがいなくなった後、俺達は皆で探しました。たとえ、地面に鉄錆の匂いが残っていようとも、あなたが纏っていたはずの着物の切れ端や……見慣れた簪が転がっていようとも、探し続けたんです。聞き込みをして……あなたに助けられたというお婆さんがいて」
「……うん」
「待っている人がいるからと、だから、夜遅いのに一人で帰ったと聞いたんです」
彼の屈折した感情を優しさで包んだような大人びた表情は、初めて見るものだった。
「____」
それはどちらの声だったのだろう。空気を揺らすだけの小さなさざめきの後、鼻先を雫が掠めた。
ポツリ。
そんな音は聞こえないのに、ポツリという音の形は正解な気がする。
いつの間にか湿った匂いが空気を満たしていた。
軒先から滴り落ちた雨が地面に落ちる音。
私が彼らを置いて行った雨の音。
「雨、ですね」
散らばりかけていた意識は小太郎くんによって引き戻される。
「ひどくならないうちにここを離れましょう。さっきの奴が戻ってきたら危ないですから」
先導されるまま、早足でどこかへ向かう。
軒先を渡り歩き、滴る雨で少し肩を濡らした。
数分歩いて地面の湿り気が確かになった頃、小太郎くんが振り返った。
「疲れていませんか」
「大丈夫だよ」
小太郎くんは。その言葉は舌の上で縫い止められた。彼はもう小さな子どもじゃない。
「立ち話でもよいですか。このあたりは空き家が多いので、雨の音に紛れて声は他の奴らに届かないはずです」
「小太郎くんが話してくれるのなら、どこでも大丈夫だよ」
先ほどまでの自分勝手に走っていた思考は少し落ち着いていて。
ただ、向き合いたいと思った。 物語のページを捲る時のような。心臓の鼓動が少しだけ固まるような、そんな僅かな緊張感の他にはそれだけだった。
「…… なまえさんはお変わりありませんね」
「そう、なのかな」
彼が姿形のことを言っているわけではないのは分かっていた。
軒先に二人並び、雨が降る様子でぼんやりと視界を一杯にしながら言葉を交わした。
「相手の言葉を否定しないところ、俺に向ける眼差し。あの日と同じで、大して親しくもない人間のためにも自分を犠牲出来てしまうのは なまえさんの性分なのでしょう」
言葉だけだと皮肉めいているのに、彼の雰囲気がそう感じさせない。
強まる雨脚の中、彼が本当に言いたいことを掬い取る為に耳を澄ました。
「…………やっぱり俺は納得がいかない」
沈黙を破ったのは喉の奥から絞り出されたような声だった。
「あなたはすぐに他人のために自分を差し出してしまう。すぐに手折られてしまうのに、誰かを助けようとしてしまう」
「……小太郎くんにとってそれは、正しくないこと?」
「正しいとは言えない。言いたくないのかもしれません……死んだらそこで全てが終わります。少なくとも俺はあなた達に生きていてほしいと思います。アイツらが先生を取り戻す為に攘夷戦争に参加したように、その対象が先生からあなたになったとしてもきっと変わらなかった」
彼らが先生と呼んだ人は、私達が愛した日々そのものだった。
松陽さんの首を斬ったのだと言った銀時くんは、責められると思っていたのだろうか。私が「生きていてくれて、ありがとう」と言った時の、あのまんまるで今にも零れ落ちそうな目を忘れられない。
ーー生きていてくれるだけでよかった。 私が彼らに願っていることは、きっと彼らが私に願っていたことだったのではないだろうか。
不意に理解した。
黙っていなくなったことは罪だ。 でも、一番の罪は私が彼らと生きる未来を手放してしまったことだった。
「いってきます、小太郎くんにそう言って……あの日の私は出掛けたね」
「……はい」
「小太郎くんにずっと、ただいまを言えずにいて、ごめんね。遅くなってしまって、ごめんね」
「____」
小太郎くんと視線がぶつかる。思わずといった具合でこちらを見る目はまんまるで、今にも零れ落ちそうだ。
最近出会った表情とそっくりで、それがどうしても懐かしく切ない。
無防備な心をそのまま映し取った表情は、私と過ごした日々が彼らの中で重なり息づいている確かな証明でもあった。
小太郎くんは何かを言おうとして、そのまま唇を噛んでしまった。
彼はもう子どもではない。子どもではないけれど。
「そんなに強く噛んだら、傷になっちゃうよ」
袂からハンカチを取り出して、そっと彼の口元に当てる。されるがままに受け入れられた布と滲む血。
どうしても私達は相手の傷ばかりに目を向けてしまう。それはきっと、愛するということと同じだ。
「私ね、小さな頃はよく転んだり、ぶつけたり、気がついたら体のどこかに傷を作ってたんだって」
「……」
「お母さんとかがたまにその話をするんだけど、私はあまり憶えてなくてさ。でも、今になって、たくさん心配をかけたんだと思えたの」
小太郎くんは静かに聞いている。
「だからね……小太郎くんの、この小さな傷でも私は心配で、早く治りますようにって神様にお願いしてしまうくらい」
「大袈裟だ」
「……うん。でも、それくらい小太郎くんのことが心配だから、小太郎くんが大切にしてくれている私のことも大切にしないといけないと思えたの……小太郎くんのおかげ」
どうか生きていて欲しい。叶うのなら健やかに、私はこれからも願い続けるだろう。
そして、私自身も彼らと生きていけるように。どうか、奪われないように。
「 なまえさん」
小太郎くんが私の名前を口にする。憑き物が落ちたような澄んだ響き。絡まっていた糸がようやく解かれたようなそんな音。
彼は大人らしく、ずっと我慢していた。重ねた年月だけ鋭くなった針の感情をこちらに剥き出しにしようとはしなかった。
けれど今は、柔らかな光を湛えた瞳をこちらに向けている。
「俺は、ずっとあなたにおかえりと言いたかった。ただ、それだけだったんです」
いつの間にか雨は上がりそうだ。さっきまでの雨脚が嘘のように、雲の切れ間から陽の光が差し込み、轍に溜まった水がつやと反射した。
愛しい日々が罅割れたとしても、欠片になったとしても私達は大切に抱えていくのだろう。
「……小太郎くん。ただいまって、言ってもいい?」
小太郎くんの軽やかな笑い声は、ずっと聞きたかったものだった。
奥州の息子さんのところへ行っていた梅さんが帰ってきた。
梅さんは会っていないこの数ヶ月の間に何があったのか見透しているみたいだった。
よくがんばったわねぇ。帰ってきて早々玄関先で抱きしめられる。温かく確かな抱擁は久しく会っていないお婆ちゃんを思わせた。
皆に助けられているばかりだったのに、頑張りました、そう答えられたのが不思議だった。
梅さんが星のような眼差しで私を包みこむ。
心の中で呟く。 私、長い旅の最中なんです。でも、梅さんの人生に比べたらまだまだ短くて、そう思うとなんだか夢を見ているような気分になるんです。
この言葉をいつか彼女に伝えられるだろうか。
静寂の間。
ふと旅の始まりに出会った少年を思い出した。彼は今どうしているのだろう。あれから何年経ったのか分からないけれど、幸せでいてくれたらいい。幸せに生きていてくれているのならそれで。
***
開店の準備中のことだった。
喫茶店の朝は賑やかだ。開店早々も例に漏れず常連さんがたくさん来てくれる。
長いこと梅さんが一人で切り盛りしていたこともあって、お客さんの殆どは時間に余裕のある人達ばかりだ。彼らはよく人生の余暇という言葉を使う。
ゆっくり新聞を眺めるその人達は毎日この世界の情報を更新していく。スポーツ新聞が二誌と普通のも二誌。毎朝新聞から広告を抜いてホチキスをするのも開店前の準備のうちだったのだけれど。
いつものように広告が挟まっていると思った。慣れた手つきで抜いて。
「……あ」
大江戸警察。指名手配という物騒な言葉と共に掲載された写真には心当たりがあった。
ーー簪は。
ーーそれから高杉とヅラは今じゃ……国から追われるテロリストだ。高杉に至っては過激派で国を壊すためなら人を利用することも傷つけることも厭わねえ。
雨音の記憶と、銀時くんの言葉が混ざり合って、隻眼の青年と銀時くんの痛みの表情が混ざり合って。
何かが軋んで、歪む。
「ああ、随分険のある美形の子と……隣の子は別嬪さんだね」
「……梅さん」
朗らかな声。呼吸を止めていたことに気がついた。指名手配書の感想にしては不釣り合いで、無責任で、よかった。よかったと思えてしまった。
高杉晋助と桂小太郎。二人の名前を指でなぞる。
この時代にやってきた当初、時間を見つけては図書館に通っていた。彼らの元へ帰る為でもあったし、私には知らないことが多すぎたから。 それでも、寛政の大獄というものを目にした後はーーーー。
銀時くんと出会ってようやく全てを知った。私の知らないところで時間は流れたらしかった。
あどけなさは薄まったもののまだ幼さの残る顔立ちと、それらを束ねる亜麻色。
私が知っているのは彼らの過去の一部分になった。
それなのに、私の目は色を失ったのに、亜麻色は鮮明だ。柔らかい声もあの眼差しも。
昨日のことのように全てが今のことで。実際私にとっては流れた月日はあってないようなもので。小さな頃に読んだ昔話がある。玉手箱を開いた主人公もきっとこんな気持ちだった。
変わってしまった世界で忘れられない記憶を抱えている。
銀時くんと晋助くんもきっとあの陽だまりのような人を心に留めている。見違えるほどに大きくなって、自分の道を進み始めたけれど。だって、彼らの傷痕はそのままだ。
ーーーー小太郎くんに会える日は来るのだろうか。
手配書をエプロンのポケットに仕舞い込む。他の広告と同じように捨てられなかった。
新聞をラックに置いて、多少ぼんやりとしながらもその他の準備も終えた。すっかり慣れたもので手順は身体に染み付いている。
あとは表の看板をひっくり返すだけになった時、梅さんにお使いを頼まれた。
すっかり聞き馴染んだクラシックを後にする。梅さんの気遣いに敵わないと思った。
***
かぶき町のデパート(この世界は江戸時代なのに電車があるしデパートもある)でお使いを済ませた。梅さんとご近所さんとの恒例の集まりが数日後にある。そのお茶請けを買ってくるように頼まれていた。
町に出ていると、陽の当たらない場所の暗がりの色濃さを目にすることがある。
江戸の中心に聳え立つ白白としたタワーと木造の家屋、時代の隙間に佇む傷んだ着物を身に付けた子ども達。
国全体を揺るがす戦争が終わったのは十年ほど前らしい。この国に残った傷痕が塞ぎきっていないのは当たり前のことだった。
視界の端に見えた二人の子どもは手にお茶碗を持っている。道ゆく人はその子ども達を空気のように扱ったり、お金をお茶碗に入れたり。その光景を前に、足を縫い付けられたように立ち尽くしていた。
そんな時だ。
子ども達に近付く男の人がいた。男の人はふらついている。どこか様子がおかしいのは酔っているからか。
目が離せないでいると子ども達も男の人に気がついたらしい。お茶碗を差し出して何か話している。そのお茶碗は守るべき大人を持たないであろう彼らが生活をする為の道具だった。
彼らはきっといつものように近付いてきた大人に話し掛けた。ただ、男は乱暴にお茶碗を払い除けた。一瞬の怒号の後、幼く見える方の子を突き飛ばした。
「……!」
弾かれたように彼らの元へ駆け寄る。急に走ったから足がもつれた。不恰好に男に対峙する。暴力を振るってなおその場に留まっている男。
目的は憂さ晴らしか何かは分からない。
けれど、もう一度傷つけようと子ども達に手を伸ばそうとしていた。
だから。
「なんだ? お前」
「……逃げてね」
男の問い掛けに応じず、背後の子ども達に向けてそう言うと戸惑いながらも走り去る気配がした。ほっと息を吐く。あとは目の前の男の怒りを前に無策であることと、少しだけ身体が震えてしまっているのが問題だ。
「汚ねえ乞食に現実を教えてやろうと思ったのに、まあ、自分のお節介の代償は払う気でいんだろ」
子どもは守られなくてはいけない。当たり前だったはずの道徳意識は、私が生きていた世界とこちらの世界の違いを浮き彫りにした。
でも、自分が信じるものは守り続けたい。そうしないと真っ直ぐに生きていけなくなる気がする。
「容赦してやるほど気分はよくねえんだ」
自分の我儘だけが私をこの場に立たせている。
振り上げられているのは拳で刀ではない。
それなのに、あの日の光景がフラッシュバックする。
日常の消失と森の中、少年に逃げてと悲鳴のような叫びをあげたあの瞬間。
寒さが肌を突き刺すような冬の日だった。
日常になったとある日の一ページが、無惨にも破り捨てさられてしまったあの瞬間。
虫の音が涼やかな秋の日だった。
あの日、夕ご飯の材料の買い忘れに気が付いて街に出た。お母さんがこれがあるのと無いのとでは味が変わる、そう教えてくれた隠し味のための。
日常の些細な行為に愛情があるということを信じているし、自分がしてもらっていたことを好きな人達にもしたかっただけだった。
彼らを置いてきてしまった。
いってらっしゃい、そう玄関で見送ってくれたのは小太郎くんだった。
彼の律儀さが嬉しくて、よく献立やおやつの相談に乗ってもらっていた。いつも武士たるもの質素倹約と言いながら口元を綻ばせ、ああでもないこうでもないと真剣に考えてくれた。
あの日、もっとよく顔を見ておくんだった。声を聞いておくんだった。明日の約束をずっとずっと続けていたかった。
全ては叶わなかったけれど。
目を瞑る。与えられるであろう衝撃に歯を食いしばり、肩を尖らせる。
現実感のない宙ぶらりんな時間。
思考は停止し、身に降りかかることを待つことしかできない永遠にも思われたその時。
ふわり。
風を感じた。衝撃はこない。
誰かの呻き声が聞こえると共に目を薄ら開いた。身体中に不自然に入っていた力が緩んでいく。
「……俺達はあなたのそういうところが危なっかしくて、眩しかったんですよ」
モノクロの世界で、綺麗な長髪が靡く。
私と拳の間に割って入った青年。その低い声は温かく、寂しそうだった。
今度は間違えてなるものか。今度はその声の響きを聞き逃してなるものか。
目をいっぱいに開き、光景を受け入れる。
難なく脅威をいなし、こちらを振り向いた青年の顔はよく知るものよりも大人びていて、真っ直ぐに見つめてくるところは変わらなかった。
「お久しぶりです。 なまえさん」
口にされた私の名前が風の中で輪郭を持つ。 彼の持つ錫杖の揺れる音は過去と現在を繋げているような、そんな不思議な響きを持っていた。
笠を軽く上げてこちらを見遣る青年は、新聞によると危険人物らしい。
でも、私のよく知る少年でもあった。 少年はいつもひたむきで、真っ直ぐ一本筋を通っているような、そんな生き方をしていた。
「……こたろうくん」
確かめるように名前を呼んだ。 なんだか、私の声ではないみたいだった。
脅威だった男は小太郎くんによって取り除かれた。けれど、心の一番柔らかいところに鉛が沈んでいるような感覚がある。
「、あの」
あてもなく口を開いて言葉を詰まらせた。 思考は浮遊したまま、無理矢理歯車を噛み合わせたように回り始める。
手を伸ばして、それで。
何も考えていないわけではないけれど、こうした方が正解だという確信が私を動かす。
記憶のものよりも随分大きくなった手を包み込むようにして閉じ込める。彼の左手は一度分かりやすく震えたものの、拒まれることはなかった。
小太郎くんは目を伏せて、心の奥で何かを測っているようだった。
やがて、彼の長い睫毛の陰に隠されていた瞳が露わになる。 その奥には決意の光が宿っていた。表情は波一つ立たない水面のように揺らぎがなく、ただ一つの方向を定めていた。
少しの息苦しさを飲み込む。
大人になった銀時くんや晋助くんと出会った私は、無意識に気が付いていたのだと思う。
目の前で私を真っ直ぐに見つめる彼にも、私が刺した痛みの棘はそのまま残っている。
「…… なまえさんは、あの日も後先考えずに人助けをしたのでしょう」
返事を待たれている気はしなかった。小太郎くんがすぐにまた口を開いたからだった。
「あなたがいなくなった後、俺達は皆で探しました。たとえ、地面に鉄錆の匂いが残っていようとも、あなたが纏っていたはずの着物の切れ端や……見慣れた簪が転がっていようとも、探し続けたんです。聞き込みをして……あなたに助けられたというお婆さんがいて」
「……うん」
「待っている人がいるからと、だから、夜遅いのに一人で帰ったと聞いたんです」
彼の屈折した感情を優しさで包んだような大人びた表情は、初めて見るものだった。
「____」
それはどちらの声だったのだろう。空気を揺らすだけの小さなさざめきの後、鼻先を雫が掠めた。
ポツリ。
そんな音は聞こえないのに、ポツリという音の形は正解な気がする。
いつの間にか湿った匂いが空気を満たしていた。
軒先から滴り落ちた雨が地面に落ちる音。
私が彼らを置いて行った雨の音。
「雨、ですね」
散らばりかけていた意識は小太郎くんによって引き戻される。
「ひどくならないうちにここを離れましょう。さっきの奴が戻ってきたら危ないですから」
先導されるまま、早足でどこかへ向かう。
軒先を渡り歩き、滴る雨で少し肩を濡らした。
数分歩いて地面の湿り気が確かになった頃、小太郎くんが振り返った。
「疲れていませんか」
「大丈夫だよ」
小太郎くんは。その言葉は舌の上で縫い止められた。彼はもう小さな子どもじゃない。
「立ち話でもよいですか。このあたりは空き家が多いので、雨の音に紛れて声は他の奴らに届かないはずです」
「小太郎くんが話してくれるのなら、どこでも大丈夫だよ」
先ほどまでの自分勝手に走っていた思考は少し落ち着いていて。
ただ、向き合いたいと思った。 物語のページを捲る時のような。心臓の鼓動が少しだけ固まるような、そんな僅かな緊張感の他にはそれだけだった。
「…… なまえさんはお変わりありませんね」
「そう、なのかな」
彼が姿形のことを言っているわけではないのは分かっていた。
軒先に二人並び、雨が降る様子でぼんやりと視界を一杯にしながら言葉を交わした。
「相手の言葉を否定しないところ、俺に向ける眼差し。あの日と同じで、大して親しくもない人間のためにも自分を犠牲出来てしまうのは なまえさんの性分なのでしょう」
言葉だけだと皮肉めいているのに、彼の雰囲気がそう感じさせない。
強まる雨脚の中、彼が本当に言いたいことを掬い取る為に耳を澄ました。
「…………やっぱり俺は納得がいかない」
沈黙を破ったのは喉の奥から絞り出されたような声だった。
「あなたはすぐに他人のために自分を差し出してしまう。すぐに手折られてしまうのに、誰かを助けようとしてしまう」
「……小太郎くんにとってそれは、正しくないこと?」
「正しいとは言えない。言いたくないのかもしれません……死んだらそこで全てが終わります。少なくとも俺はあなた達に生きていてほしいと思います。アイツらが先生を取り戻す為に攘夷戦争に参加したように、その対象が先生からあなたになったとしてもきっと変わらなかった」
彼らが先生と呼んだ人は、私達が愛した日々そのものだった。
松陽さんの首を斬ったのだと言った銀時くんは、責められると思っていたのだろうか。私が「生きていてくれて、ありがとう」と言った時の、あのまんまるで今にも零れ落ちそうな目を忘れられない。
ーー生きていてくれるだけでよかった。 私が彼らに願っていることは、きっと彼らが私に願っていたことだったのではないだろうか。
不意に理解した。
黙っていなくなったことは罪だ。 でも、一番の罪は私が彼らと生きる未来を手放してしまったことだった。
「いってきます、小太郎くんにそう言って……あの日の私は出掛けたね」
「……はい」
「小太郎くんにずっと、ただいまを言えずにいて、ごめんね。遅くなってしまって、ごめんね」
「____」
小太郎くんと視線がぶつかる。思わずといった具合でこちらを見る目はまんまるで、今にも零れ落ちそうだ。
最近出会った表情とそっくりで、それがどうしても懐かしく切ない。
無防備な心をそのまま映し取った表情は、私と過ごした日々が彼らの中で重なり息づいている確かな証明でもあった。
小太郎くんは何かを言おうとして、そのまま唇を噛んでしまった。
彼はもう子どもではない。子どもではないけれど。
「そんなに強く噛んだら、傷になっちゃうよ」
袂からハンカチを取り出して、そっと彼の口元に当てる。されるがままに受け入れられた布と滲む血。
どうしても私達は相手の傷ばかりに目を向けてしまう。それはきっと、愛するということと同じだ。
「私ね、小さな頃はよく転んだり、ぶつけたり、気がついたら体のどこかに傷を作ってたんだって」
「……」
「お母さんとかがたまにその話をするんだけど、私はあまり憶えてなくてさ。でも、今になって、たくさん心配をかけたんだと思えたの」
小太郎くんは静かに聞いている。
「だからね……小太郎くんの、この小さな傷でも私は心配で、早く治りますようにって神様にお願いしてしまうくらい」
「大袈裟だ」
「……うん。でも、それくらい小太郎くんのことが心配だから、小太郎くんが大切にしてくれている私のことも大切にしないといけないと思えたの……小太郎くんのおかげ」
どうか生きていて欲しい。叶うのなら健やかに、私はこれからも願い続けるだろう。
そして、私自身も彼らと生きていけるように。どうか、奪われないように。
「 なまえさん」
小太郎くんが私の名前を口にする。憑き物が落ちたような澄んだ響き。絡まっていた糸がようやく解かれたようなそんな音。
彼は大人らしく、ずっと我慢していた。重ねた年月だけ鋭くなった針の感情をこちらに剥き出しにしようとはしなかった。
けれど今は、柔らかな光を湛えた瞳をこちらに向けている。
「俺は、ずっとあなたにおかえりと言いたかった。ただ、それだけだったんです」
いつの間にか雨は上がりそうだ。さっきまでの雨脚が嘘のように、雲の切れ間から陽の光が差し込み、轍に溜まった水がつやと反射した。
愛しい日々が罅割れたとしても、欠片になったとしても私達は大切に抱えていくのだろう。
「……小太郎くん。ただいまって、言ってもいい?」
小太郎くんの軽やかな笑い声は、ずっと聞きたかったものだった。