虚との出会い〜松下村塾編
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発端
不死の少年は願った。誰か助けて、と。
世界は恐れていた。少年が未来で引き起こす世界終焉のシナリオを。
一つの願いともう一つの思惑が少女を異世界へと誘った。ただそれだけのことだった。
邂逅
肌を刺すような風に身を震わせ無防備な手のひらを擦り合わせた。受験勉強の気分転換のために家を飛び出したまではいいけれどその後のことを全く考えていなかった。ここ一週間は特に勉強漬けで窓から外を眺めるだけだったから、こんなにも寒くなっていたとは思っていなかったのだ。朝に観た天気予報を頭の片隅で思い出し、乱雑に巻いていたマフラーを整え口元まで引き上げる。一度出てきてしまった以上、戻るという選択肢は存在しなかった。何日も籠っていると自宅といえども息が詰まってしまう。
これといっていい案もなかった私は、カフェにでも行こうと決めて最寄り駅にやってきた。街までは定期もあるからお得だった。昼と夕方の間の微妙な時間。駅の人はまばらで通勤通学ラッシュの時間と比べるまでもなく落ちついている。電車が来るのをぼんやりと待っていた、ただ、それだけだったはずなのに。
背中に感じた衝撃と突然の浮遊感に目を瞠った。視界に広がるのはいつの間にか来ていた電車の姿。ただ茫然と流れに身を委ねる私は焦ることさえできなかった。そして耳を劈くのは誰かの悲鳴。最後は視界一杯に緑の光が満たされ何も見えなくなった。
「……え」
白昼夢を見ていたのだろうか、それとも今も夢の続きなのだろうか。都会の喧騒は眼前になく、絵に描いたような森が広がっているばかりだった。服は家から出た時のまま、恐る恐る鞄からスマホを取り出したら圏外と表示されていた。理解が追いつかない。
ぐるりとあたりを見回しても、360度森が広がっているばかりで街灯や店の一つも存在しない。私が今いるのは森の中にある少しだけ開けただけの場所らしい。地面に手を当ててもそれは幻想ではなくしっとりとした土の感触が確かにあった。立ち上がって木を触ってみても同じ。どこもおかしなところがないことが、おかしかった。
突き刺すような寒さはそのまま。次第に心細くなっていきスマホからますます手が離せない。スマホに入った音楽を流したくなって寸でのところで止めた。充電は大切にしないといけない。この状況で連絡手段まで失ってしまうのは避けたかった。
「どうしたら、いいんだろう」
声を出しても当然のことながら誰の返事もない。時間が経つにつれて不安が蓄積されていくようで心が重い。切り株の一つに身を小さくして座った。これはきっと夢だ、そう思って目を瞑ったその時。
ぱきり、と音がした。反射的に顔を上げ音の方に目をやると、小学校一二年生くらいに見える少年が立っていた。日本では珍しい薄い色素を持った少年と見合うまま、お互いに何も言わず数秒、或いは数十秒とも思える時間が過ぎた。人が来るとは思わず思考停止に甘んじる脳を叱咤して切り替える。ここで人を逃すことはあまり望ましくない。
「……あの、」
子ども相手に話しかけるだけなのに状況が状況のせいで変な緊張感がある。どう話を切り出そうかと曖昧なまま口を開閉させる。少年はそんな私をじっと見つめたまま佇んでいた。その落ち着いた様子は私に伝播して視野を広くさせた。自分のことばかりで一杯一杯になっていた私は少年が寒空の中、裸足で薄い着物を纏っただけであることに気が付いたのだった。
子どもは守られなくてはいけない。自分よりも弱い存在は庇護しなくてはならない。当たり前の道徳意識が私の身体を動かした。立ち上がり傍に寄ると少年は身体を震わせて一歩後退った。
「あのね、これを着て欲しいの。温かいから」
私が着ていたダウンジャケットを差し出したら少年は目を丸くした。瞬きをしてジャケットを受け取らないままの少年にしょうがなく私が着させることにした。触れた瞬間に身体を撥ねさせたけれど、それ以降少年はされるがままだった。そして顔を俯かせてこわごわとジャケットに触っている。その間に私は鞄の中からひざ掛けように用意していたストールを取り出して身体に巻き付けた。ジャケットに比べると防寒性は劣るもののないよりは随分とマシだった。
「……あとは、足かあ」
ジャケットのおかげで少年は(体格差もあり)身体の殆どがカバーできている。問題は晒されたままの素足。何かないかと鞄の中を漁っていると都合よく、もこもこの靴下が入っていた。一瞬固まったもののすぐに合点がいった。少し前まで友達の家で勉強会をすることが多かったから、冷え性対策として私は勉強会が終わるたびに新しい靴下を入れていたのだ。しばらくは勉強会もしていなかったために鞄に入れたまま忘れてしまっていた。
「しばらく放置はしてたけど……一応は洗ってあるから。ごめんね」
ジャケットから興味が薄れたのか少年は私の方を見ていた。ジャケットと同じように靴下を差し出しても少年は動かない。私は少し慣れた気持ちで少年に靴下を履かせることにした。
「足、少しあげて。そう」
しゃがみ込んで指示を出せば少年は素直に従った。そして両方の足を履かせ終わった時に頭上から声が降ってきた。声変わりしてない高めの、少し掠れた少年の声だった。
「こんなことをしても、無駄」
「……え?」
顔を上げたら少年は無表情を湛えてこちらを見ていた。覗き込むと深い絶望が横たわっているような印象を受けた。何も言わずに私は少年の言葉を待った。
「鬼の子に慈悲を与えても自分が害されるだけ」
鬼の子というのが少年自身を表していることは理解できた。そして、少年が言ったことは私への忠告めいたものであることも。ジャケットに包まれる前の少年の恰好は真っ当な生活に身を置いた子どもとは言い難かった。だからこそ私は少年の言葉を認めるわけにはいかなかった。夢か現実かも分からないのに厄介なことが起きているな、と思う。それでも誰かに優しくされて生きてきた人間が、自分の優しさを必要としている存在に与えないのは間違っているし、何よりも心苦しい。
「鬼の子とか、私にとってはあんまり関係ないんだよ。子どもが守られなくてはいけないのは当たり前のことなの」
「……?」
少年は首を傾げて私の言葉を咀嚼しているようだった。いずれ理解できる時が来ればそれ以上のことはない、そう思った。そして私達はずっとそのままの体勢でいるわけにもいかず、切り株に座って話をすることにした。少年は言えばとりあえず従うといった調子で、私が切り株を指したら何も言わずに腰かけた。
「いきなりだけど、ここがどこか分かる?近くに駅があったらそこに行きたいの」
「えき?」
「電車、列車……汽車とか言ったら分かりやすいかな?無理だったら最悪交番とかでもいいんだけど……あっでも森から出て町にさえ着けばスマホで解決するか」
少年が訪れるまでは現状について思考放棄していたからか、次から次へと疑問や要望が浮かんでいく。最後にはスマホに充電は十分に残っているから、一先ず圏外から脱するのが現実的に思えた。しかし現実はそう上手くはいかないらしい。
「でんしゃ、も、こうばん、も何か分からない」
「なら、森の出口は」
「人に見つかったら鬼の子は殺される」
「……どういうこと?」
「殺しても死なないから鬼の子。殺されて、また、殺されるだけ」
冗談や嘘を言っている声のトーンではない。少年は淡々と事実を口にするように、信じられないことを言ってのけた。嘘だと切り捨てるのは簡単だけれど少年の纏っている空気はあまりに暗く重苦しい。私が理解できるのは少年が本当に死なないのかは置いておいて、守られるべき存在が他者に傷つけられている事実を許容することはできないということだった。
「きみは森にいたら安全?」
「村よりは」
「なら、一緒に森にいようか。いつもは森のどこにいるの?」
「……木の洞」
「……私も入れるかな」
「うん」
「じゃあそこに行こう」
私は握りしめていたままになっていたスマホを鞄にしまって少年に手を差し伸べた。少年が疑問を持って私を見るから、笑って少年の手を取った。小さな手はかさついていて冷たかった。
「私の手、温いでしょ」
「……うん」
「でも知ってる?心が温かいのは手が冷たい人なんだって」
「変」
「変かあ。ただの迷信だしね」
少年が言っていた木の洞はすぐ近くにあった。私は少年が現れた理由を正しく理解した。少年は木の洞に身までの通り道に私がいた場所をいつも使っていたのだ。木の洞は立派で私と少年が入っても、年少ほどの子どもならもう一人入れそうな大きさだった。木自体も大きくまして都会では見ることさえできないだろう。
「寒くない?」
「うん」
「そっか」
木の洞の中は冷たい風が遮られるため外よりは幾分か居心地がいい。ただそれでも少し寒いことには変わりがない。ジャケットの下に着ていたのが厚手のニットでよかったと心から思った。ストールを身体に巻き付けた上でマフラーをしている、なんて不格好な見目はこの際しょうがない。少年が寒そうな素振りを見せたらどちらかを取ろうと考えていたけれど、今のところは大丈夫そうだった。そのままどちらかが話を切り出すこともなくしばらく無言の空間が続いた。手持ち無沙汰になった私は靴下を探し当てた時に見つけたあるものの存在を思い出した。
「チョコ、ガム……完全に受験生モードだけど」
「……?」
「ううん。チョコ食べようか。食べたことある?」
ガムとチョコレートは靴下と一緒で友達の家で勉強会を開く時の必需品だ。ポーチからチョコを取り出して少年に見せると少年は首を横に振った。私はお腹が減っていないけれど、少年はどうだろう。ひとまず気分転換くらいになればいい、そう思った。
「当たり前だけど、変なものじゃないよ……ほら」
チョコを一粒口の中に入れて、少年にも渡した。少年は少し戸惑ったような素振りを見せながらも私がやったように、包みを開いてチョコを口の中に放りこんだ。口の中の熱でじんわりとチョコが溶けていく。糖分重視で買ったこれは特に甘い。
「どう?」
「……なにこれ」
「美味しくなかったら残りは、うーん。どうしよっか、ごめんね」
何とも言い難い表情の少年に苦笑する。子どもなら全員が全員甘いものが好きというわけではなかった。そういえばチョコ嫌いの友人もいたのだった。申し訳なさに心を痛めながらポーチをしまおうとしたその時だった。少年が弱弱しく私のニットの袖を掴んだ。
「どうしたの?」
「……食べられなくない」
「嫌いな味じゃなかった?」
「うん」
少年によると最初は甘すぎて驚いただけらしい。私は笑って少年にポーチを差し出した。
「あげる。好きに食べて……あ、でも中に入ったガム、チョコ以外のやつは噛むだけで食べられないし、喉に詰まっても危ないから口に入れない方がいいかも」
「分かった」
「よし」
チョコは熱で溶けるとか、食べた後は歯磨きを、なんて忠告が頭を過ったけれど少年の目が少し輝いているように見えて一度口を噤む。何だか野暮な気がしたのだ……それでも虫歯はいけないか、すぐにそう思い直した。
「チョコを食べた後はちゃんと歯を綺麗にするんだよ」
「……?うん」
再び手持ち無沙汰になってしまった私はなんとなく鞄からスマホを取り出した。少年は大きな瞳を閉じて隠している。眠くなったらしい。私はスマホの相変わらずの圏外表示にため息をついた。山間部やトンネルの中ではしばしば圏外になることはあるものの、しばらく進めば何とかなることが常で頭を悩まされることは今までなかった。
「……あれ、」
「ん」
「ごめんね。寝てていいよ」
私が声をあげたせいで少年は起きることにしたらしい。目を擦りこちらをぼうっと眺めていた。寝ることを進めてもやんわり断られてしまって内心肩を落とした。
「なに」
「あ、ただの不具合だと思うんだけどスマホの時計がさっきから進んでなくて……ほら、もう夕方なのにお昼過ぎを指してるの」
スマホを見せながら私は言った。洞の中からも夕日が地面を赤く染めるのが確認できる。少年には言っていないものの、昼過ぎは丁度私が駅に着いて電車を待っていた時間と一致する。そのことは偶然として流すにはあまりにも出来すぎていて不気味に思えた。私の記憶が正しければあの時私は電車と接触したはずだったのだ。
「すまほ」
「まあ、このことは考えてもしょうがないことだし……」
考えれば考えるほど落ち込んでいきそうになる思考を止めるため、私はこの話題を止めることにした。何か言いたげにしている少年には申し訳ないけれど、第六感とか、本能とか、そういうものがきっと拒絶したのだと思う。
「そういえば、名前をずっと聞いてなかったよね。私は____」
少年は目を見開いた。話題がなかったとはいえ遅すぎる自己紹介を始める私を怪訝に思ったのか、そう思ったけれどどうやらそうではなかったらしい。少年は震える手で私の身体を指さした。指の先を辿ると私のお腹から刃先が付き出していた。理解するより先に刃は抜かれ私は口から血を吐き出した。男の声がした。
「鬼子と一緒にいるんだ。殺しても誰も文句は言わねえだろ」
身体を掴まれ引きずられ洞から出される。そこにいたのは逆光で顔が見えない男が一人。最後の気力なのか、火事場の馬鹿力が働いたのかは分からない。脳裏に過った少年が言った「殺される」という言葉の意味を噛み締めて叫んだ。
「逃げて…!」
痛くないから、早く、今のうちに、色々な言葉を重ねて少年を逃がし、男の足止めをすることだけを考えた。軽やかな小さな足音が去っていくことに心の底から安堵した。言葉通り不思議と何度刺されようと殴られようとも痛みは感じなかった。たとえ夢だったとしてもそれで良かった。子どもは守られなくてはいけない。自分よりも弱い存在は庇護しなくてはならない。私は小さな頃から母に言われたことが守れたのだ。そう思った矢先に視界が緑の光に満たされ何も見えなくなった。
不死の少年は願った。誰か助けて、と。
世界は恐れていた。少年が未来で引き起こす世界終焉のシナリオを。
一つの願いともう一つの思惑が少女を異世界へと誘った。ただそれだけのことだった。
邂逅
肌を刺すような風に身を震わせ無防備な手のひらを擦り合わせた。受験勉強の気分転換のために家を飛び出したまではいいけれどその後のことを全く考えていなかった。ここ一週間は特に勉強漬けで窓から外を眺めるだけだったから、こんなにも寒くなっていたとは思っていなかったのだ。朝に観た天気予報を頭の片隅で思い出し、乱雑に巻いていたマフラーを整え口元まで引き上げる。一度出てきてしまった以上、戻るという選択肢は存在しなかった。何日も籠っていると自宅といえども息が詰まってしまう。
これといっていい案もなかった私は、カフェにでも行こうと決めて最寄り駅にやってきた。街までは定期もあるからお得だった。昼と夕方の間の微妙な時間。駅の人はまばらで通勤通学ラッシュの時間と比べるまでもなく落ちついている。電車が来るのをぼんやりと待っていた、ただ、それだけだったはずなのに。
背中に感じた衝撃と突然の浮遊感に目を瞠った。視界に広がるのはいつの間にか来ていた電車の姿。ただ茫然と流れに身を委ねる私は焦ることさえできなかった。そして耳を劈くのは誰かの悲鳴。最後は視界一杯に緑の光が満たされ何も見えなくなった。
「……え」
白昼夢を見ていたのだろうか、それとも今も夢の続きなのだろうか。都会の喧騒は眼前になく、絵に描いたような森が広がっているばかりだった。服は家から出た時のまま、恐る恐る鞄からスマホを取り出したら圏外と表示されていた。理解が追いつかない。
ぐるりとあたりを見回しても、360度森が広がっているばかりで街灯や店の一つも存在しない。私が今いるのは森の中にある少しだけ開けただけの場所らしい。地面に手を当ててもそれは幻想ではなくしっとりとした土の感触が確かにあった。立ち上がって木を触ってみても同じ。どこもおかしなところがないことが、おかしかった。
突き刺すような寒さはそのまま。次第に心細くなっていきスマホからますます手が離せない。スマホに入った音楽を流したくなって寸でのところで止めた。充電は大切にしないといけない。この状況で連絡手段まで失ってしまうのは避けたかった。
「どうしたら、いいんだろう」
声を出しても当然のことながら誰の返事もない。時間が経つにつれて不安が蓄積されていくようで心が重い。切り株の一つに身を小さくして座った。これはきっと夢だ、そう思って目を瞑ったその時。
ぱきり、と音がした。反射的に顔を上げ音の方に目をやると、小学校一二年生くらいに見える少年が立っていた。日本では珍しい薄い色素を持った少年と見合うまま、お互いに何も言わず数秒、或いは数十秒とも思える時間が過ぎた。人が来るとは思わず思考停止に甘んじる脳を叱咤して切り替える。ここで人を逃すことはあまり望ましくない。
「……あの、」
子ども相手に話しかけるだけなのに状況が状況のせいで変な緊張感がある。どう話を切り出そうかと曖昧なまま口を開閉させる。少年はそんな私をじっと見つめたまま佇んでいた。その落ち着いた様子は私に伝播して視野を広くさせた。自分のことばかりで一杯一杯になっていた私は少年が寒空の中、裸足で薄い着物を纏っただけであることに気が付いたのだった。
子どもは守られなくてはいけない。自分よりも弱い存在は庇護しなくてはならない。当たり前の道徳意識が私の身体を動かした。立ち上がり傍に寄ると少年は身体を震わせて一歩後退った。
「あのね、これを着て欲しいの。温かいから」
私が着ていたダウンジャケットを差し出したら少年は目を丸くした。瞬きをしてジャケットを受け取らないままの少年にしょうがなく私が着させることにした。触れた瞬間に身体を撥ねさせたけれど、それ以降少年はされるがままだった。そして顔を俯かせてこわごわとジャケットに触っている。その間に私は鞄の中からひざ掛けように用意していたストールを取り出して身体に巻き付けた。ジャケットに比べると防寒性は劣るもののないよりは随分とマシだった。
「……あとは、足かあ」
ジャケットのおかげで少年は(体格差もあり)身体の殆どがカバーできている。問題は晒されたままの素足。何かないかと鞄の中を漁っていると都合よく、もこもこの靴下が入っていた。一瞬固まったもののすぐに合点がいった。少し前まで友達の家で勉強会をすることが多かったから、冷え性対策として私は勉強会が終わるたびに新しい靴下を入れていたのだ。しばらくは勉強会もしていなかったために鞄に入れたまま忘れてしまっていた。
「しばらく放置はしてたけど……一応は洗ってあるから。ごめんね」
ジャケットから興味が薄れたのか少年は私の方を見ていた。ジャケットと同じように靴下を差し出しても少年は動かない。私は少し慣れた気持ちで少年に靴下を履かせることにした。
「足、少しあげて。そう」
しゃがみ込んで指示を出せば少年は素直に従った。そして両方の足を履かせ終わった時に頭上から声が降ってきた。声変わりしてない高めの、少し掠れた少年の声だった。
「こんなことをしても、無駄」
「……え?」
顔を上げたら少年は無表情を湛えてこちらを見ていた。覗き込むと深い絶望が横たわっているような印象を受けた。何も言わずに私は少年の言葉を待った。
「鬼の子に慈悲を与えても自分が害されるだけ」
鬼の子というのが少年自身を表していることは理解できた。そして、少年が言ったことは私への忠告めいたものであることも。ジャケットに包まれる前の少年の恰好は真っ当な生活に身を置いた子どもとは言い難かった。だからこそ私は少年の言葉を認めるわけにはいかなかった。夢か現実かも分からないのに厄介なことが起きているな、と思う。それでも誰かに優しくされて生きてきた人間が、自分の優しさを必要としている存在に与えないのは間違っているし、何よりも心苦しい。
「鬼の子とか、私にとってはあんまり関係ないんだよ。子どもが守られなくてはいけないのは当たり前のことなの」
「……?」
少年は首を傾げて私の言葉を咀嚼しているようだった。いずれ理解できる時が来ればそれ以上のことはない、そう思った。そして私達はずっとそのままの体勢でいるわけにもいかず、切り株に座って話をすることにした。少年は言えばとりあえず従うといった調子で、私が切り株を指したら何も言わずに腰かけた。
「いきなりだけど、ここがどこか分かる?近くに駅があったらそこに行きたいの」
「えき?」
「電車、列車……汽車とか言ったら分かりやすいかな?無理だったら最悪交番とかでもいいんだけど……あっでも森から出て町にさえ着けばスマホで解決するか」
少年が訪れるまでは現状について思考放棄していたからか、次から次へと疑問や要望が浮かんでいく。最後にはスマホに充電は十分に残っているから、一先ず圏外から脱するのが現実的に思えた。しかし現実はそう上手くはいかないらしい。
「でんしゃ、も、こうばん、も何か分からない」
「なら、森の出口は」
「人に見つかったら鬼の子は殺される」
「……どういうこと?」
「殺しても死なないから鬼の子。殺されて、また、殺されるだけ」
冗談や嘘を言っている声のトーンではない。少年は淡々と事実を口にするように、信じられないことを言ってのけた。嘘だと切り捨てるのは簡単だけれど少年の纏っている空気はあまりに暗く重苦しい。私が理解できるのは少年が本当に死なないのかは置いておいて、守られるべき存在が他者に傷つけられている事実を許容することはできないということだった。
「きみは森にいたら安全?」
「村よりは」
「なら、一緒に森にいようか。いつもは森のどこにいるの?」
「……木の洞」
「……私も入れるかな」
「うん」
「じゃあそこに行こう」
私は握りしめていたままになっていたスマホを鞄にしまって少年に手を差し伸べた。少年が疑問を持って私を見るから、笑って少年の手を取った。小さな手はかさついていて冷たかった。
「私の手、温いでしょ」
「……うん」
「でも知ってる?心が温かいのは手が冷たい人なんだって」
「変」
「変かあ。ただの迷信だしね」
少年が言っていた木の洞はすぐ近くにあった。私は少年が現れた理由を正しく理解した。少年は木の洞に身までの通り道に私がいた場所をいつも使っていたのだ。木の洞は立派で私と少年が入っても、年少ほどの子どもならもう一人入れそうな大きさだった。木自体も大きくまして都会では見ることさえできないだろう。
「寒くない?」
「うん」
「そっか」
木の洞の中は冷たい風が遮られるため外よりは幾分か居心地がいい。ただそれでも少し寒いことには変わりがない。ジャケットの下に着ていたのが厚手のニットでよかったと心から思った。ストールを身体に巻き付けた上でマフラーをしている、なんて不格好な見目はこの際しょうがない。少年が寒そうな素振りを見せたらどちらかを取ろうと考えていたけれど、今のところは大丈夫そうだった。そのままどちらかが話を切り出すこともなくしばらく無言の空間が続いた。手持ち無沙汰になった私は靴下を探し当てた時に見つけたあるものの存在を思い出した。
「チョコ、ガム……完全に受験生モードだけど」
「……?」
「ううん。チョコ食べようか。食べたことある?」
ガムとチョコレートは靴下と一緒で友達の家で勉強会を開く時の必需品だ。ポーチからチョコを取り出して少年に見せると少年は首を横に振った。私はお腹が減っていないけれど、少年はどうだろう。ひとまず気分転換くらいになればいい、そう思った。
「当たり前だけど、変なものじゃないよ……ほら」
チョコを一粒口の中に入れて、少年にも渡した。少年は少し戸惑ったような素振りを見せながらも私がやったように、包みを開いてチョコを口の中に放りこんだ。口の中の熱でじんわりとチョコが溶けていく。糖分重視で買ったこれは特に甘い。
「どう?」
「……なにこれ」
「美味しくなかったら残りは、うーん。どうしよっか、ごめんね」
何とも言い難い表情の少年に苦笑する。子どもなら全員が全員甘いものが好きというわけではなかった。そういえばチョコ嫌いの友人もいたのだった。申し訳なさに心を痛めながらポーチをしまおうとしたその時だった。少年が弱弱しく私のニットの袖を掴んだ。
「どうしたの?」
「……食べられなくない」
「嫌いな味じゃなかった?」
「うん」
少年によると最初は甘すぎて驚いただけらしい。私は笑って少年にポーチを差し出した。
「あげる。好きに食べて……あ、でも中に入ったガム、チョコ以外のやつは噛むだけで食べられないし、喉に詰まっても危ないから口に入れない方がいいかも」
「分かった」
「よし」
チョコは熱で溶けるとか、食べた後は歯磨きを、なんて忠告が頭を過ったけれど少年の目が少し輝いているように見えて一度口を噤む。何だか野暮な気がしたのだ……それでも虫歯はいけないか、すぐにそう思い直した。
「チョコを食べた後はちゃんと歯を綺麗にするんだよ」
「……?うん」
再び手持ち無沙汰になってしまった私はなんとなく鞄からスマホを取り出した。少年は大きな瞳を閉じて隠している。眠くなったらしい。私はスマホの相変わらずの圏外表示にため息をついた。山間部やトンネルの中ではしばしば圏外になることはあるものの、しばらく進めば何とかなることが常で頭を悩まされることは今までなかった。
「……あれ、」
「ん」
「ごめんね。寝てていいよ」
私が声をあげたせいで少年は起きることにしたらしい。目を擦りこちらをぼうっと眺めていた。寝ることを進めてもやんわり断られてしまって内心肩を落とした。
「なに」
「あ、ただの不具合だと思うんだけどスマホの時計がさっきから進んでなくて……ほら、もう夕方なのにお昼過ぎを指してるの」
スマホを見せながら私は言った。洞の中からも夕日が地面を赤く染めるのが確認できる。少年には言っていないものの、昼過ぎは丁度私が駅に着いて電車を待っていた時間と一致する。そのことは偶然として流すにはあまりにも出来すぎていて不気味に思えた。私の記憶が正しければあの時私は電車と接触したはずだったのだ。
「すまほ」
「まあ、このことは考えてもしょうがないことだし……」
考えれば考えるほど落ち込んでいきそうになる思考を止めるため、私はこの話題を止めることにした。何か言いたげにしている少年には申し訳ないけれど、第六感とか、本能とか、そういうものがきっと拒絶したのだと思う。
「そういえば、名前をずっと聞いてなかったよね。私は____」
少年は目を見開いた。話題がなかったとはいえ遅すぎる自己紹介を始める私を怪訝に思ったのか、そう思ったけれどどうやらそうではなかったらしい。少年は震える手で私の身体を指さした。指の先を辿ると私のお腹から刃先が付き出していた。理解するより先に刃は抜かれ私は口から血を吐き出した。男の声がした。
「鬼子と一緒にいるんだ。殺しても誰も文句は言わねえだろ」
身体を掴まれ引きずられ洞から出される。そこにいたのは逆光で顔が見えない男が一人。最後の気力なのか、火事場の馬鹿力が働いたのかは分からない。脳裏に過った少年が言った「殺される」という言葉の意味を噛み締めて叫んだ。
「逃げて…!」
痛くないから、早く、今のうちに、色々な言葉を重ねて少年を逃がし、男の足止めをすることだけを考えた。軽やかな小さな足音が去っていくことに心の底から安堵した。言葉通り不思議と何度刺されようと殴られようとも痛みは感じなかった。たとえ夢だったとしてもそれで良かった。子どもは守られなくてはいけない。自分よりも弱い存在は庇護しなくてはならない。私は小さな頃から母に言われたことが守れたのだ。そう思った矢先に視界が緑の光に満たされ何も見えなくなった。