原作編
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楚々
十五分くらいだろうか。喫茶店に入ろうとしては何度も躊躇しているような、ちらちらと視線を送ってくる少女が窓から覗いている。傘を差した少女は誰かを待っているのかと思ったけれど、どうやらそういう訳でもなさそうで。
接客がひと段落する頃合いを見て少女に声をかけることにした。ドアを開けると初夏特有の爽やかな風が出迎えてくれる。向こうではこのくらいの時期はもう少し暑かったような気がする。太陽が眩しい。瞳孔がぐっと細まるのを感じた。モノクロの世界でも光は平等に降り注ぐ。ベルの音に反応した少女と目が合った。彼女は一体どんな色彩を纏っているのだろう。
「こんにちは」
「……あ、」
声を掛けられるとは思っていなかったらしい。子猫が警戒するようにびくりと肩を撥ねさせた少女に柔く笑い掛ける。頭の上の方に左右の丸い髪飾り、チャイナ服を着たこの少女の年齢は中学生くらいだろうか。この辺りでは珍しい服装は少女によく馴染んで見えた。
「もしよろしければお店に入って休憩しませんか?」
「……お金、ないアル」
俯きチャイナ服をくしゃりと握る少女の不安をどうか払えますように。そう思いながら口を開いた。
「実は最近新しい紅茶の茶葉の仕入れを勧められていて、いくつかのサンプルを貰っているんです。オーナーにもお客さんから感想を集めるように頼まれていて……紅茶代はその協力費の代わりということでいかがでしょうか。手伝って頂けたらすごく助かります。」
「そういうことなら、やる」
パッと顔を上げた少女の目に宿った煌めきは目が合った途端に萎んでしまって不思議に思った。無理矢理になっていなかったらいいのだけれど。
あと数日で店主の梅さんが帰ってくる。梅さんが帰ってくるまでにお客さんから紅茶の感想をできるだけ集めておきたかったのは本当。そして可愛らしいお客さんを引き留めたかったのも……少女の表情の変化が少し気がかりだったからだ。
「ありがとうございます。では、早速用意しますね。カウンターでもテーブルでもお好きな席にお座りください」
扉を開けると常連さんが帰る準備をしている。ちょうど入れ替わりの時間らしい。少女は店内をきょとりと見渡している。お会計を済ませる頃には少女はカウンターに落ち着いていた。カウンターが人気なのは食事を手早く済ませたい朝方。昼過ぎの今は少女が真ん中に一人だけだ。
「紅茶はどんな風に飲みますか? ホット、アイス、レモンを浮かべたり、ミルクティーもできますよ」
「えっと……」
「私はよくミルクティーを飲みます。飲みやすいし美味しくて」
今は感じることができないけれど、喫茶店のミルクティーは市販のミルクティーとはまた別の自然な甘さがある。友達との待ち合わせ前に時間のある時は近くのお店に入ってミルクティーを注文することも多かった。ミルクのまろやかさが好きだった。そんなことを考えながら続けて数個の茶葉の説明をすると、少女はミルクティーに向いた茶葉を選んでくれた。お節介だったかもしれないけれど少し嬉しい。
「……ミルクティーにするネ」
「わかりました。今から作りますね」
手持ち無沙汰になった少女はレモン水の入ったグラスをカラカラと鳴らす。中身が半分よりも入っているからおかわりが欲しいわけではないみたいだ。
「この辺りにはよく来るんですか?」
「……普段はかぶき町にいるから初めて来た」
少女は目が合ったと思ったらすぐに逸らし、口を小さく動かす。
「かぶき町、賑やかでいい町ですよね」
「……」
「私はこの間初めて行ったんですけど……もしまた遊びに行った時に出会ったらお話してくれると嬉しいです」
「忙しくない時なら別にいいアル」
「ありがとうございます。私は江戸に来て日が浅いので、地理に疎いし知り合いも少なくて。勿論、このお店に来て頂くのも大歓迎です」
話しているうちにお湯が沸いた。ティーポットとカップを温め、ポットに茶葉を入れる。そのまま熱湯を注いで、蒸らすと同時に砂時計をひっくり返した。実用と梅さんの趣味が相まってこのお店にはちょっとした砂時計のコレクションがある。今使っているのは木枠にガラスが嵌まったよく見るシンプルなタイプのものだ。
少女の目が砂時計を追っていることに気が付いた私はカウンターに置いた。少女はじっと眺める。流れるものを眺めるのは単純なのにどこか楽しいのは分かる気がする。
砂時計の上のガラスが空になった。カップに紅茶を注ぎ、常温に戻しておいたミルクを注ぐとミルクティーの完成。ハチミツを付けたら少女が小さく喜びの声を上げた。
おまけで小皿に数枚のクッキーを乗せる。ケーキに添えると好評で、時間がある時には作ることにしている余り。ケーキにクッキーが添えられている日は近所の子ども達曰くラッキーデーなのだとか。
「お待たせしました」
「わ……クッキーもいいアルか?」
「はい、お口に合えば嬉しいです」
「合いまくるネ」
小皿が空になるまでに数秒もかからなかった。勢いよく食べた少女の口元にはクッキーの食べ滓が付いていた。魔法のようにクッキーが消えてなくなったわけではないらしい。
「顔を上げて下さい」
「なにアル、む」
「綺麗な顔にクッキーを付けておくのは勿体なくて」
少女の幼い動作は私を松下村塾にいた頃に帰らせる。少女の口元をティッシュで拭うと彼女は口を尖らせながら言った。
「……私の顔はマミー似だから」
「とても綺麗なお母さんなんですね」
「当たり前ヨ」
硬い表情が解れ、蕾が綻ぶような笑みがある。幼く可愛らしい笑みだった。少女は咳払いをして、ハチミツをたっぷり入れたミルクティーに口をつける。満足げに飲み進める様子に密やかに息を吐いた。
穏やかな時間が流れる。前のお客さんが流していたジャスが終わり、何となくいつもの癖でクラシックを掛けるためにレコードを操作した。
昼からのお客さんが立ち去る絶妙な時間。少女と二人。穏やかな時間が流れる。
「ミルクティーはお口に合いましたか?」
そう尋ねた時、ドアベルが鳴った。目を向けると少女よりも二三歳ほど歳上に見える少年がいた。少年は私と目が合い何か言おうとしたけれど、少女に目を向けるやいなや大きく息を吸い込んだ。
「神楽ちゃん! 明日の依頼が今日の夕方からに変更になったって話聞いてなかったの⁉︎ 」
「あ、忘れてた」
かぐら。少年が勢いよく発した名前の響きが脳裏に引っかかる。
「忘れてたじゃないよ全く……今回の依頼は珍しく報酬が高いんだから万全の状態で臨もうって普通思うでしょ? ただでさえ僕らは何ヶ月も給料出されてないんだから。僕なんて今度こそ払ってもらわないと姉上に何を言われるか分かったもんじゃないよ! 先月は内蔵全部売ってこいとまで言われてるのに……!」
「そんなに急がなくていいアル。依頼の時間まではまだ余裕あるネ」
「もうギリギリなんですけど!」
「どうせ私を探すのに定春頼ったんだろ。定春でトバせばどんな手合いにもコーナーで差をつけられるネ」
「ここヤンキー漫画じゃないから! ……そんでもって僕への配慮ゼロだし。トップスピードの定春に問題なく乗れるのは神楽ちゃんだけで僕は引き摺られるよ」
「まあまあ」
「……はあ」
流れるような会話を前に、一つの気付きが確信に変わる。賑やかな彼女達は、銀時くんの。
「えっと……神楽ちゃん?」
「……」
「新八くん?」
「……あ、はい。そうですけど……」
神楽ちゃんがフイと顔を逸らし、新八くんが首を傾げる。何から言えばいいのだろう。高鳴る胸のままに口を開こうとして、自己紹介からだと慌てて言葉を呑み込んだ。
「えっと、なまえと言います。数か月前に長州から江戸に来ました。銀時くんから二人のことを聞いていて……ずっと会ってみたかったんです。二人は銀時くんの大切な人達だから」
銀時くんは眩しいものを見るように二人の話をした。私の知らないその表情は松陽さんのものにどこか似ていた気がする。それを見られてほっとしたような、どこか寂しいような……でもそれ以上に嬉しかった。小さな頃の銀時くんはその特殊な出自からか浮雲のような態度を貫いていた。松陽さんと晋助くんと小太郎くん……その三人以外にも銀時くんが心を預ける人達がいる。この二人は銀時くんが見つけた新しい居場所だ。
「あの、失礼かもしれないんですけど…… なまえさんと銀さんとのご関係は?」
「……ああ、えっと……昔馴染みと言えばいいんでしょうか。最近再会したばかりで、銀時くんが大人になる随分前に一度関係が断たれているので」
「新八」
その時、黙っていた神楽ちゃんが口を開いた。硬い声は少し震えているような気がする。そのまま神楽ちゃんが席を立つと、新八くんがその顔を覗き込んだ。
「お前も少しは気が付いてんダロ。最近銀ちゃんの様子が変わったこと」
「何言って……」
「……上の空で、割のいい依頼にも適当で、飲んだくれるわけでも遊び回るわけでもなくて、それで……それなのにふとした瞬間に幸せそうに笑ってるアル。それはなまえと、なまえと、再会したから。それ以外の理由はないネ。なまえは銀ちゃんの大切な人で……きっと、私達よりも」
神楽ちゃんの口から零れた言葉はどれだけ彼女を傷つけたのだろう。拳を握りしめる姿は心の痛みを伝えている。絞り出すように紡がれた言葉は重い。簡単に否定できるようなものではなかった。私にできたのは、彼女の表情に影を落としていたのは自分であることを理解することだけだった。
「……銀ちゃんを取らないでヨ」
消え入りそうで、聞いているだけで胸が締め付けられるようなそんな声。私が手を伸ばす前に、新八くんが神楽ちゃんに寄り添い背中を撫ぜる。兄が妹に接するような姿だった。
「神楽ちゃん……あの、神楽ちゃんはなまえさんが嫌いな訳じゃないんです。ただ、最近の銀さんが少しいつもと違うような気がして……それが寂しかっただけなんです。神楽ちゃんは僕よりも人の様子や心の機微なんかによく気が付くから、それで……」
「…… なまえがいいやつってのは分かるヨ。でも、でも、銀ちゃんは、銀ちゃんは万事屋坂田銀時で、私は、私は……そんな銀ちゃんと一緒にいたい」
優しさで満ちた新八くんの声は神楽ちゃんと私への気遣いを滲ませている。神楽ちゃんは祈るような純粋な思いと、私へ向けられているのは申し訳なさ、後ろめたさだろうか。突き放してしまえばいいはずの他人の私にも温かな心を向けてくれる二人は本当に優しい。
あの夏の日のことを銀時くんは憶えているだろうか。二人でアイスキャンデーを頬張りながら手を繋いで帰った日の記憶。ガラス玉の瞳で往来の家族を見ていた少年は青年になってこの子達と共に日々を歩んでいる。二つのてのひらで融け合った体温は、きっと、もう、思い出になってしまった。でも、それでいいのだと思える。銀時くんの手を引くのは銀時くんと共に生きる彼女達だろう。
「二人は……銀時くんの家族?」
二人にとっては変な質問に違いない。きょとんとした顔の二人はそれでもすぐに力強く頷いた。救われたような思いだった。
「家族アル」
「家族です」
真っ直ぐにこちらを見て断言する二人。天から落ちてくるように現れた理解を呑み込む。この子達が銀時くんといるところを私はまだ見たことがない。けれどその光景はかつて私が松下村塾で感じたように素晴らしいもののはずだ。
「銀時くんは江戸で家族に出会えたんだね」
「…… なまえは銀ちゃんの家族じゃないアルか?」
「うん……私は――――」
ずっと銀時くん達のことを家族のような人達と言えても、家族だと言うことはできなかった。そこに元の世界の家族や友人と彼らに対する思いの差があったわけではない。ただ、自分がこの世界で異物だという自覚がずっとあった。彼らは優しさや幸せを与えてくれるのに、何も返せないことが心苦しくて、彼らの幸せをただ願うばかりだった。与えられてばかりいる私は胸を張って彼らの家族だと言える自信がなかったのだとようやく気が付いた。呆れるくらいにどうしようもなく鈍い、意気地なしだ。
「……二人みたいに銀時くんが大好きで大切で……でも、意気地なしの私は家族なんだって言うことが出来なかった」
「なまえさん……」
弱音にしてはその思いは澄んでいた。彼らの幸せを願っていることだけは胸を張って本当だと言えるからなのだと思う。
「本当のことを言うとね、久しぶりに再会した銀時くんは二人のことを話してくれて、それが私の知らない人の顔みたいに見えて寂しかった気持ちもあるの。堂々と銀時くんの隣に立つ二人のことが羨ましくて眩しい。けど……銀時くんを大切に思う二人が銀時くんと一緒にいることが何よりも嬉しいの」
零した本心に何故か二人は顔を見合わせて笑った。どうしてだろう。そう思っていると、神楽ちゃんが先に口を開いた。
「呆れるくらいのお人好し。だから銀ちゃんはなまえに再会できて喜んだって分かったヨ」
「それで自信のなさは折り紙付きですね。何の躊躇もなく大好きだとか大切なんてそれこそ家族にだって中々言えませんよ……銀さんもなまえさんのことを心配してそうです」
「なまえは私の言葉を真っ直ぐに受け止めて身を引こうとするけど遠慮なく手を伸ばしたらいいアル。だってどっちも知らない銀ちゃんの顔に戸惑って、寂しくて、でも、銀ちゃんのことが大好きなんだから……私達は一緒ネ」
晴れやかな笑顔は泣き出しそうに見えた少女の姿を消し去った。それは何にも代替えできない赦しだった。
「さっきまで銀ちゃんを取らないでなんて言ってたくせに」
「それは、アレアレ。主人公と過去に浅からぬ関わりがあった女が本編に急に現れて正ヒロインの座を脅かすことは許されないという思いによって生まれたイベントヨ」
「やめてよ正ヒロインがそんな生々しい発言……」
「どうでもいいネ。新八、仕事行くアル…… なまえ、定春紹介するから外出てヨ」
流れるような会話の中で神楽ちゃんから不意に話を振られた私は目を丸くする。定春。確かそれは銀時くんのもう一人……一匹の家族の名前だ。
「えっと……いいんですか?」
「さっきみたいな話し方でいいし、遠慮はいらないアル……それで、今日は嫌な態度取ってごめん」
「嫌な態度だなんて、思ってないよ」
「そういうところがズルくて、きっと銀ちゃんのなまえの好きなところアル」
悪戯げに笑う神楽ちゃんに手を引かれ、外に出る。カランと鳴るドアベルと背後から聞こえるのは新八くんの呆れ混じりの笑い声。
「ミルクティーもクッキーも美味しかった。また来るし……かぶき町にも遊びに来てヨ」
雲一つない空の下。真っ白で大きな犬が元気よくワンと吠えた。
十五分くらいだろうか。喫茶店に入ろうとしては何度も躊躇しているような、ちらちらと視線を送ってくる少女が窓から覗いている。傘を差した少女は誰かを待っているのかと思ったけれど、どうやらそういう訳でもなさそうで。
接客がひと段落する頃合いを見て少女に声をかけることにした。ドアを開けると初夏特有の爽やかな風が出迎えてくれる。向こうではこのくらいの時期はもう少し暑かったような気がする。太陽が眩しい。瞳孔がぐっと細まるのを感じた。モノクロの世界でも光は平等に降り注ぐ。ベルの音に反応した少女と目が合った。彼女は一体どんな色彩を纏っているのだろう。
「こんにちは」
「……あ、」
声を掛けられるとは思っていなかったらしい。子猫が警戒するようにびくりと肩を撥ねさせた少女に柔く笑い掛ける。頭の上の方に左右の丸い髪飾り、チャイナ服を着たこの少女の年齢は中学生くらいだろうか。この辺りでは珍しい服装は少女によく馴染んで見えた。
「もしよろしければお店に入って休憩しませんか?」
「……お金、ないアル」
俯きチャイナ服をくしゃりと握る少女の不安をどうか払えますように。そう思いながら口を開いた。
「実は最近新しい紅茶の茶葉の仕入れを勧められていて、いくつかのサンプルを貰っているんです。オーナーにもお客さんから感想を集めるように頼まれていて……紅茶代はその協力費の代わりということでいかがでしょうか。手伝って頂けたらすごく助かります。」
「そういうことなら、やる」
パッと顔を上げた少女の目に宿った煌めきは目が合った途端に萎んでしまって不思議に思った。無理矢理になっていなかったらいいのだけれど。
あと数日で店主の梅さんが帰ってくる。梅さんが帰ってくるまでにお客さんから紅茶の感想をできるだけ集めておきたかったのは本当。そして可愛らしいお客さんを引き留めたかったのも……少女の表情の変化が少し気がかりだったからだ。
「ありがとうございます。では、早速用意しますね。カウンターでもテーブルでもお好きな席にお座りください」
扉を開けると常連さんが帰る準備をしている。ちょうど入れ替わりの時間らしい。少女は店内をきょとりと見渡している。お会計を済ませる頃には少女はカウンターに落ち着いていた。カウンターが人気なのは食事を手早く済ませたい朝方。昼過ぎの今は少女が真ん中に一人だけだ。
「紅茶はどんな風に飲みますか? ホット、アイス、レモンを浮かべたり、ミルクティーもできますよ」
「えっと……」
「私はよくミルクティーを飲みます。飲みやすいし美味しくて」
今は感じることができないけれど、喫茶店のミルクティーは市販のミルクティーとはまた別の自然な甘さがある。友達との待ち合わせ前に時間のある時は近くのお店に入ってミルクティーを注文することも多かった。ミルクのまろやかさが好きだった。そんなことを考えながら続けて数個の茶葉の説明をすると、少女はミルクティーに向いた茶葉を選んでくれた。お節介だったかもしれないけれど少し嬉しい。
「……ミルクティーにするネ」
「わかりました。今から作りますね」
手持ち無沙汰になった少女はレモン水の入ったグラスをカラカラと鳴らす。中身が半分よりも入っているからおかわりが欲しいわけではないみたいだ。
「この辺りにはよく来るんですか?」
「……普段はかぶき町にいるから初めて来た」
少女は目が合ったと思ったらすぐに逸らし、口を小さく動かす。
「かぶき町、賑やかでいい町ですよね」
「……」
「私はこの間初めて行ったんですけど……もしまた遊びに行った時に出会ったらお話してくれると嬉しいです」
「忙しくない時なら別にいいアル」
「ありがとうございます。私は江戸に来て日が浅いので、地理に疎いし知り合いも少なくて。勿論、このお店に来て頂くのも大歓迎です」
話しているうちにお湯が沸いた。ティーポットとカップを温め、ポットに茶葉を入れる。そのまま熱湯を注いで、蒸らすと同時に砂時計をひっくり返した。実用と梅さんの趣味が相まってこのお店にはちょっとした砂時計のコレクションがある。今使っているのは木枠にガラスが嵌まったよく見るシンプルなタイプのものだ。
少女の目が砂時計を追っていることに気が付いた私はカウンターに置いた。少女はじっと眺める。流れるものを眺めるのは単純なのにどこか楽しいのは分かる気がする。
砂時計の上のガラスが空になった。カップに紅茶を注ぎ、常温に戻しておいたミルクを注ぐとミルクティーの完成。ハチミツを付けたら少女が小さく喜びの声を上げた。
おまけで小皿に数枚のクッキーを乗せる。ケーキに添えると好評で、時間がある時には作ることにしている余り。ケーキにクッキーが添えられている日は近所の子ども達曰くラッキーデーなのだとか。
「お待たせしました」
「わ……クッキーもいいアルか?」
「はい、お口に合えば嬉しいです」
「合いまくるネ」
小皿が空になるまでに数秒もかからなかった。勢いよく食べた少女の口元にはクッキーの食べ滓が付いていた。魔法のようにクッキーが消えてなくなったわけではないらしい。
「顔を上げて下さい」
「なにアル、む」
「綺麗な顔にクッキーを付けておくのは勿体なくて」
少女の幼い動作は私を松下村塾にいた頃に帰らせる。少女の口元をティッシュで拭うと彼女は口を尖らせながら言った。
「……私の顔はマミー似だから」
「とても綺麗なお母さんなんですね」
「当たり前ヨ」
硬い表情が解れ、蕾が綻ぶような笑みがある。幼く可愛らしい笑みだった。少女は咳払いをして、ハチミツをたっぷり入れたミルクティーに口をつける。満足げに飲み進める様子に密やかに息を吐いた。
穏やかな時間が流れる。前のお客さんが流していたジャスが終わり、何となくいつもの癖でクラシックを掛けるためにレコードを操作した。
昼からのお客さんが立ち去る絶妙な時間。少女と二人。穏やかな時間が流れる。
「ミルクティーはお口に合いましたか?」
そう尋ねた時、ドアベルが鳴った。目を向けると少女よりも二三歳ほど歳上に見える少年がいた。少年は私と目が合い何か言おうとしたけれど、少女に目を向けるやいなや大きく息を吸い込んだ。
「神楽ちゃん! 明日の依頼が今日の夕方からに変更になったって話聞いてなかったの⁉︎ 」
「あ、忘れてた」
かぐら。少年が勢いよく発した名前の響きが脳裏に引っかかる。
「忘れてたじゃないよ全く……今回の依頼は珍しく報酬が高いんだから万全の状態で臨もうって普通思うでしょ? ただでさえ僕らは何ヶ月も給料出されてないんだから。僕なんて今度こそ払ってもらわないと姉上に何を言われるか分かったもんじゃないよ! 先月は内蔵全部売ってこいとまで言われてるのに……!」
「そんなに急がなくていいアル。依頼の時間まではまだ余裕あるネ」
「もうギリギリなんですけど!」
「どうせ私を探すのに定春頼ったんだろ。定春でトバせばどんな手合いにもコーナーで差をつけられるネ」
「ここヤンキー漫画じゃないから! ……そんでもって僕への配慮ゼロだし。トップスピードの定春に問題なく乗れるのは神楽ちゃんだけで僕は引き摺られるよ」
「まあまあ」
「……はあ」
流れるような会話を前に、一つの気付きが確信に変わる。賑やかな彼女達は、銀時くんの。
「えっと……神楽ちゃん?」
「……」
「新八くん?」
「……あ、はい。そうですけど……」
神楽ちゃんがフイと顔を逸らし、新八くんが首を傾げる。何から言えばいいのだろう。高鳴る胸のままに口を開こうとして、自己紹介からだと慌てて言葉を呑み込んだ。
「えっと、なまえと言います。数か月前に長州から江戸に来ました。銀時くんから二人のことを聞いていて……ずっと会ってみたかったんです。二人は銀時くんの大切な人達だから」
銀時くんは眩しいものを見るように二人の話をした。私の知らないその表情は松陽さんのものにどこか似ていた気がする。それを見られてほっとしたような、どこか寂しいような……でもそれ以上に嬉しかった。小さな頃の銀時くんはその特殊な出自からか浮雲のような態度を貫いていた。松陽さんと晋助くんと小太郎くん……その三人以外にも銀時くんが心を預ける人達がいる。この二人は銀時くんが見つけた新しい居場所だ。
「あの、失礼かもしれないんですけど…… なまえさんと銀さんとのご関係は?」
「……ああ、えっと……昔馴染みと言えばいいんでしょうか。最近再会したばかりで、銀時くんが大人になる随分前に一度関係が断たれているので」
「新八」
その時、黙っていた神楽ちゃんが口を開いた。硬い声は少し震えているような気がする。そのまま神楽ちゃんが席を立つと、新八くんがその顔を覗き込んだ。
「お前も少しは気が付いてんダロ。最近銀ちゃんの様子が変わったこと」
「何言って……」
「……上の空で、割のいい依頼にも適当で、飲んだくれるわけでも遊び回るわけでもなくて、それで……それなのにふとした瞬間に幸せそうに笑ってるアル。それはなまえと、なまえと、再会したから。それ以外の理由はないネ。なまえは銀ちゃんの大切な人で……きっと、私達よりも」
神楽ちゃんの口から零れた言葉はどれだけ彼女を傷つけたのだろう。拳を握りしめる姿は心の痛みを伝えている。絞り出すように紡がれた言葉は重い。簡単に否定できるようなものではなかった。私にできたのは、彼女の表情に影を落としていたのは自分であることを理解することだけだった。
「……銀ちゃんを取らないでヨ」
消え入りそうで、聞いているだけで胸が締め付けられるようなそんな声。私が手を伸ばす前に、新八くんが神楽ちゃんに寄り添い背中を撫ぜる。兄が妹に接するような姿だった。
「神楽ちゃん……あの、神楽ちゃんはなまえさんが嫌いな訳じゃないんです。ただ、最近の銀さんが少しいつもと違うような気がして……それが寂しかっただけなんです。神楽ちゃんは僕よりも人の様子や心の機微なんかによく気が付くから、それで……」
「…… なまえがいいやつってのは分かるヨ。でも、でも、銀ちゃんは、銀ちゃんは万事屋坂田銀時で、私は、私は……そんな銀ちゃんと一緒にいたい」
優しさで満ちた新八くんの声は神楽ちゃんと私への気遣いを滲ませている。神楽ちゃんは祈るような純粋な思いと、私へ向けられているのは申し訳なさ、後ろめたさだろうか。突き放してしまえばいいはずの他人の私にも温かな心を向けてくれる二人は本当に優しい。
あの夏の日のことを銀時くんは憶えているだろうか。二人でアイスキャンデーを頬張りながら手を繋いで帰った日の記憶。ガラス玉の瞳で往来の家族を見ていた少年は青年になってこの子達と共に日々を歩んでいる。二つのてのひらで融け合った体温は、きっと、もう、思い出になってしまった。でも、それでいいのだと思える。銀時くんの手を引くのは銀時くんと共に生きる彼女達だろう。
「二人は……銀時くんの家族?」
二人にとっては変な質問に違いない。きょとんとした顔の二人はそれでもすぐに力強く頷いた。救われたような思いだった。
「家族アル」
「家族です」
真っ直ぐにこちらを見て断言する二人。天から落ちてくるように現れた理解を呑み込む。この子達が銀時くんといるところを私はまだ見たことがない。けれどその光景はかつて私が松下村塾で感じたように素晴らしいもののはずだ。
「銀時くんは江戸で家族に出会えたんだね」
「…… なまえは銀ちゃんの家族じゃないアルか?」
「うん……私は――――」
ずっと銀時くん達のことを家族のような人達と言えても、家族だと言うことはできなかった。そこに元の世界の家族や友人と彼らに対する思いの差があったわけではない。ただ、自分がこの世界で異物だという自覚がずっとあった。彼らは優しさや幸せを与えてくれるのに、何も返せないことが心苦しくて、彼らの幸せをただ願うばかりだった。与えられてばかりいる私は胸を張って彼らの家族だと言える自信がなかったのだとようやく気が付いた。呆れるくらいにどうしようもなく鈍い、意気地なしだ。
「……二人みたいに銀時くんが大好きで大切で……でも、意気地なしの私は家族なんだって言うことが出来なかった」
「なまえさん……」
弱音にしてはその思いは澄んでいた。彼らの幸せを願っていることだけは胸を張って本当だと言えるからなのだと思う。
「本当のことを言うとね、久しぶりに再会した銀時くんは二人のことを話してくれて、それが私の知らない人の顔みたいに見えて寂しかった気持ちもあるの。堂々と銀時くんの隣に立つ二人のことが羨ましくて眩しい。けど……銀時くんを大切に思う二人が銀時くんと一緒にいることが何よりも嬉しいの」
零した本心に何故か二人は顔を見合わせて笑った。どうしてだろう。そう思っていると、神楽ちゃんが先に口を開いた。
「呆れるくらいのお人好し。だから銀ちゃんはなまえに再会できて喜んだって分かったヨ」
「それで自信のなさは折り紙付きですね。何の躊躇もなく大好きだとか大切なんてそれこそ家族にだって中々言えませんよ……銀さんもなまえさんのことを心配してそうです」
「なまえは私の言葉を真っ直ぐに受け止めて身を引こうとするけど遠慮なく手を伸ばしたらいいアル。だってどっちも知らない銀ちゃんの顔に戸惑って、寂しくて、でも、銀ちゃんのことが大好きなんだから……私達は一緒ネ」
晴れやかな笑顔は泣き出しそうに見えた少女の姿を消し去った。それは何にも代替えできない赦しだった。
「さっきまで銀ちゃんを取らないでなんて言ってたくせに」
「それは、アレアレ。主人公と過去に浅からぬ関わりがあった女が本編に急に現れて正ヒロインの座を脅かすことは許されないという思いによって生まれたイベントヨ」
「やめてよ正ヒロインがそんな生々しい発言……」
「どうでもいいネ。新八、仕事行くアル…… なまえ、定春紹介するから外出てヨ」
流れるような会話の中で神楽ちゃんから不意に話を振られた私は目を丸くする。定春。確かそれは銀時くんのもう一人……一匹の家族の名前だ。
「えっと……いいんですか?」
「さっきみたいな話し方でいいし、遠慮はいらないアル……それで、今日は嫌な態度取ってごめん」
「嫌な態度だなんて、思ってないよ」
「そういうところがズルくて、きっと銀ちゃんのなまえの好きなところアル」
悪戯げに笑う神楽ちゃんに手を引かれ、外に出る。カランと鳴るドアベルと背後から聞こえるのは新八くんの呆れ混じりの笑い声。
「ミルクティーもクッキーも美味しかった。また来るし……かぶき町にも遊びに来てヨ」
雲一つない空の下。真っ白で大きな犬が元気よくワンと吠えた。