原作編
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滔滔
青年が倒れ込む時に私の手を離したのは巻き込まないようするためだったのかもしれない。青年は腰を強かに打ちつけたように見えた。私は軽く屈んで青年に手を差し出した。俯いていて青年の表情は窺えない。青年は私の手を握りしばらくそのまま黙っていた。
意識が目の前の青年にだけ注がれる。雑踏の声が遠い。その時、青年の声だけがはっきりと聞こえた。その声は心とか、魂とか、言葉では形容しがたい青年の強い思いをそのまま乗せたような響きを持っていた。
「銀時」
「え、」
「銀時くん。アンタは俺を銀時くんって呼んで、そんで……」
青年は息が詰まったようにそれ以上の言葉を発さない。私よりも背も大きければ体格のある男の人。感情に揺れる不安定なその姿は私が何をすべきかを教えてくれた。
理解よりも先に身体が先に動いていた。
しゃがんで、その頬に手を伸ばした。受け入れるがままの青年に少し心配になってしまうのがなんだかおかしかった。
「甘いものは今でも好き?」
弾かれたように顔を上げた青年に、私は初めて横たわった年月の大きさを理解した。
「大きくなったね。銀時くん」
あの子は、銀時くんは、我慢強い子だった。何か辛いことがあってもその瞳を感情で揺らし、じっと耐えるような子だった。だから私や松陽さんが気付いてあげないと、と。そして私達が銀時くんを守るのだ、そう思っていた。私を呼んだあの声。不安で満たされた声は私が作りあげたものだ。黙って私の腕を離さなかった銀時くんは子どものようではなく、子どもの、ただの幼い男の子だった。私がさよならも言えずに別れてしまった銀時くん。あの日の私は銀時くんの心に針を刺して、その針は今日までずっと残り続けていたのだろう。全ては私の罪だった。
「……一目で気付くだろ、普通」
「ごめんね。背が伸びてかっこよくなってたから、気が付けなかったの」
「……そうかよ」
ぶっきらぼうな口調なのに安心したと言わんばかりに表情を緩めている。それは私がよく知る銀時くんのものだった。銀時くんの素直なのか素直じゃないのかよく分からない性質は大きくなっても健在らしい。
「許してくれる?」
「パフェを奢ってくれるならな」
「今喫茶店でお世話になっているから来てくれたらサービスできるよ」
「マジ? 通い詰めるわ」
「サービスは頻繁には出来ないけど」
「ケチ」
「代わりに新メニューの試作の味見してもらおうと思ったけど、銀時くんには頼まないでおこうかな」
「なまえ 様は誠に素晴らしいお方にございます。だから何卒、私めにもご慈悲を……!」
「よろしい」
打てば響くように返ってくる言葉が心地よい。私達はよくこうして話をした。胸にじわりと広がるのは喜びであり、安堵であり、罪悪であり、そして一抹の寂しさだった。
光を浴びたふわふわの髪が風に揺れている。銀時くんの髪はついこの間のように美しい銀色をしているのだろうか。今の私にはそれが分からない。銀時くんは私の存在を目に焼き付けるように見つめる。私は大人になった銀時くんに目を細めた。
往来のざわめきが耳に届きはじめる。いつまでもこんな体勢でいるわけにはいかない。私達は笑い合って身体を起こした。銀時くんに手を差し伸べられそのまま引き上げられる。不安に思うこともないほどに成長した力。硬い男の人の手のひらだった。
「……あ、」
「どうした?」
「もしかして、万屋銀ちゃんって銀時くんのお店?」
銀時くんが差し出してくれた鞄を受け取った私はスナックお登勢の二階を指さした。私の問いかけに銀時くんは軽く頷く。
「……そうだよ。その辺のことも、他にも話さないといけねーことが沢山ある……聞きたいこともある……でも、まずは」
「まずは?」
「おかえり」
「……ただいま」
銀時くんが顔に手を伸ばしてくるのを何も言わずに受け入れる。確かめるように私の頬に触れる銀時くんの手のひらは熱かった。壊れるはずもないのに慎重な手付きだった。笑う私に銀時くんは眉を寄せる。目敏いところは変わらない。それでもしばらく銀時くんは頬から手を離さなかった。
「満足した?」
「まーな」
「そういえば、私も銀時くんに言いたいことが二つあってね」
「なんだ?」
銀時くんとの再会ですっかり頭の奥に引っ込んでしまっていた情報を引っ張り出す。お登勢さん達と話していたのはついさっきのことだった。
「家賃はしっかり払わないとダメだよ。あと、甘いものを食べすぎてもダメ。喫茶店に来てもまずは食生活の改善からしてもらわないと」
「何で知ってんの? あと急に雰囲気をぶち壊してくるの何なの? どう考えても今は感動の再会で間違っても現実を突きつけるターンじゃないの!」
「再会も大切だけど銀時くんの生活も大切だし……だって若くしてホームレスになったり病気になったりしたら目も当てられないから」
その時丁度私達を横切ったのはリヤカーを引いている人。ジャージに下着というかなり攻めた格好をしたその人がホームレスという言葉に反応して手を上げたように見えたのは気のせいだったのだろうか。銀時くんの生活が途端に不安になる私に対して、銀時くんには余裕が戻ってきたようだった。
「母ちゃん。俺、江戸で上手くやってから」
「本当?」
「本当です」
「お登勢さん達に迷惑を沢山かけないようにね」
「情報源はババアか……俺の知らないところで繋がってっし……」
約束、そう言って小指を出したら銀時くんは口を尖らせながらも応じてくれた。その上で確約は出来ない、なんて小賢しく取引先のようなことを言うものだから思わず笑ってしまった。
***
銀時くんとの再会から数日後、彼は喫茶店に訪れた。私は銀時くんに頼まれた通りいつもより少し早めにお店を閉めて待っていた。軽く右手を上げてお店に入ってきた銀時くんはカウンターの真ん中の席に腰掛けた。俺の家とでも言わんばかりの態度に笑みが零れる。銀時くんはどこにいても自分の空気を出すのが上手だ。
「パフェ」
「今日はダメです」
しかしそれとこれとは話が別。メニューも見ずに頼む銀時くんに首を横に振った。銀時くんは片眉を上げて不満をありありと表しているけれど、負けるわけにはいかない。
「さっきまで笑ってたからいけると思ったのによー」
「今日は夕ご飯前だからドリンクだけ、それかサンドウィッチくらいならいいかな。夕ご飯をここで食べるならまた別だけど……その場合のデザートはキャロットケーキになります」
私は再会したその日に銀時くんを健康にすると誓ったのだ。そのおかげでここ数日野菜を使ったスイーツの試作が捗っている。昨日来てくれた総悟さんには「女ってある程度の年齢になったら途端に健康志向に目覚めやすよね」なんて皮肉のような的を射たようなことを言われてしまったけれど。
「ケチ。どっちにせよ夕飯はここで食うけど」
「ケチでも銀時くんの健康に変えられないし……何が食べたい?」
「オムライスできる?」
「できるよ」
「卵はふわとろ一択」
「はいはい。ついでに私の分も作るから一緒に食べよっか」
銀時くんが緩く頷くのを確認して奥のキッチンへ向かいオムライスを作っていく。今回は銀時くん仕様で使うバターを控えめに。同時に野菜スープを温めるのも忘れない。
このお店のケチャップライスにはウインナーを入れるのがポイントだ。野菜は玉ねぎと人参。具材がたてる音に目を細める。野菜は細かく刻むことで子ども達も野菜を無理なく食べられるようになっていて、近所のママさん達も目を輝かせる。子どもは大人よりも味覚が敏感だから寺子屋の子達にも野菜を食べさせるのに苦労した……もうその子達も銀時くんのように大人になっているのだ。銀時くんのように会っていないからか中々実感が湧かないのが正直なところだけれど。
流れるようにケチャップライスを作り終わり、オムライスの工程は最後の卵を残すだけになった。卵をふわとろにするのは家庭のガスよりも火力のあるお店のガスの方が簡単だ。手慣れた調子でオムライスの卵を形成してケチャップライスに乗せた。卵を割ると銀時くんの要望通りのふわとろオムライスが綺麗に出来上がる。ケチャップを掛け過ぎないように注意して、スープと一緒に銀時くんのところへ持っていった。
「銀時くん。ご要望通りのオムライスです。スープは熱いから火傷しないように食べてね」
「美味そう」
片笑みを浮かべて銀時くんは返事をした。心なしか目が三割増しくらいで輝いている。私が自分の分を持ってくる間、銀時くんは律儀に食べるのを待っていた。その手にはスプーンが握られている。
いただきます、と二人の声が重なり合う。銀時くんはよほどお腹が空いていたのか勢いよく食べる。いい食べっぷりを通り越して飢餓状態ような様子に思わず「誰も取らないよ」なんて茶化したら、銀時くんは大きな一口を飲み下して「うるせー」なんせ反論してみせた。銀時くんのお皿は瞬く間に空になった。私は横からオムライスを狙う泥棒の手を阻んだ。そんな銀時くんはケーキを多く取り分けることを約束したら現金なものですぐに大人しくなった。
「……じゃあ、まあ、話すか」
二人ともオムライスを食べ終わり、ケーキをつつきながらどこか静かな時間が流れ始めた頃だった。誰よりも甘いものに目がないはずの銀時くんが中途半端に食べるのを止めて指でフォークを遊ばせていたことに小さな引っ掛かりを覚えた。それは予兆だったのだろう。銀時くんは私の知らないここ数年の話を始めた。些細な違和感は銀時くんの穏やかな語りに消えてしまったのだった。
行く宛てのなかった銀時くんに居場所を与えたお登勢さん、そして今の銀時くんと生活を共にしている万事屋銀ちゃんの従業員の志村新八くん、神楽ちゃん、犬の定春くん。銀時くんと彼らの出会いは軽く聞いただけでも中々に衝撃的で、それに銀時くんが彼らと過ごした日々とても良いものであることは確認しなくても分かった。柔く細められた目元は彼らのことが何よりも大切なのだと言っている。守る人の目だった。その他にも今の銀時くんを取り巻く人達は個性的で(なんとゴリラや忍者、真選組の大串くんや総一郎くんという人もいるらしい)賑やかな毎日を送っているらしい。話に出てくる人の多さが、銀時くんが沢山の人に愛されている証のようで誇らしかった。
「なまえ は江戸に最近来たんだろ? ババアがそう言ってた」
「……お登勢さんね。私が江戸に来たのは本当に最近のことだよ」
銀時くんの話がひと段落したところで自分の話になるのは予想していたけれど、自分のことなのに分かっていないことが多すぎて苦く思う。私は終わりと始まりを繰り返す世界に翻弄され続けている。
「……話せるか?」
銀時くんの気遣いの声が優しい。一人の少年が大人になるまでの時間が流れているのに、私の姿は何も変わらない。そのことは怖くはないだろうか、ふとそんな考えが頭を擡げる。そういえば松陽さんも一緒に暮らしていた間、少しも老いることがなかった。あれだけ長い間一緒に居たのにそれが童顔だけで済まされることなのか分からないままだった。大人になった銀時くんは、子ども達は私達をどんな目で見るのだろうか。
こちらをのぞき込む銀時くんに、嘘は言いたくないと思ってしまった。私は真実の一欠片を落とすことを決めた。
「話せる、話せない……というか、私にも自分のことがよく分からなくて」
「分からない?」
「うん……私が皆のところからいなくなったあの日から今はもう十年以上も……長い時間が経っているけど、私にとっては皆と過ごした時間がついこの間のことなの」
「……なんつーか、それは」
言葉が出ない様子の銀時くんに頷いた。自分のことながら物語のような話だ。それに元々私は生きる世界を異にしている。銀時くんたちと過ごした日々と同じように、受験生として勉強に滅入っていた日々も昨日のことのように思い出せるのだから記憶力にも何か特別なことが起きているのだろうと思う。
「気が付いたら江戸に居て、数年どころじゃない年月が経っていて……驚きもしたけど皆に再会したいって思いながら過ごしてた。江戸から長州なんてすぐに行ける距離じゃないし、旅立つ元手もないから喫茶店の店主の梅さんのお世話になってたの……それに日付を見たら時間の流れはたしかにあったけど、どこか曖昧に認識していただけなのかもしれない」
適応力、順応力と言えば聞こえがいいかもしれないけれど、自分にとって都合のよいことにしか目を向けたくない我儘もそこにはあったのだと思う。
「……正直俺はなまえ とこうして話していることが都合のいい夢なんじゃないかって、少し思ってる」
「私も夢じゃないかって今までに何度も思ったよ。この世界は本当に存在するのか、私は本当に存在するのか。でも、銀時くんや松陽さんと過ごした時間が大切で、だからそれをまた探すことに迷いはなかった。たとえ夢だと分かったとしても足掻いていたと思う」
「俺達がなまえ のことを忘れるとか、思わなかったのかよ」
「会いたいが先に来ちゃってそこまで考えてなかったかも……でも、私のことを憶えてなくても皆が幸せだったら嬉しかったと思う。寂しい気持ちはどうしようもないけどね」
緑色の光は私を新天地へ連れて行く。私にとっては嘘のような本当の話だ。大切なものを全て抱えていく代わりに私は全ての記憶を持っていく。たとえ夢でも幻でも私にとっては幸福な思い出であることには変わらない。
「……いつもそうだった」
「え、」
掠れた声で銀時くんは何かを言ったけれど、私には聞き取れなかった。その時を境に空気が張り詰めるのを感じた。銀時くんはこちらに身体を向けているけれど目を伏せて感情を読み取らせない。それでもいつの間にかスプーンを離していた手が震えている。時計の秒針の音がはっきりと聞こえる静寂の中で銀時くんは口を開いた。
「俺が松陽を殺した、そう言ってもなまえ は俺の幸せを喜べるか?」
嘘だ、そう反射的に言葉が口から出そうになったけれど、銀時くんの様子が私を踏みとどまらせた。代わりに漏れた不格好な狭窄音に銀時くんは笑ったような気がした。衝動ではなく正しく言葉を呑み込もうとするけれど、上手くいかない。その先を拒否しているようだった。
「なまえ がいなくなってそう時間が経っていない頃、松陽が幕吏に捕らえられた。俺達は、松下村塾の面々は松陽を取り戻そうと攘夷戦争に参加して天人と幕府を相手取るも敗走。俺が松陽の首を斬ることになった。それから高杉とヅラは今じゃ……国から追われるテロリストだ。高杉に至っては過激派で国を壊すためなら人を利用することも傷つけることも厭わねえ。なまえ が帰りたかった松下村塾は俺のせいでなくなった」
淡々と。銀時くんの様子はニュースキャスターがその日の出来事を話しているように、実感とは乖離した情報を伝えているようだった。無神論者のくせに神様を思うも、頭に浮かぶのは良く知った穏やかで美しい微笑だった。
松陽さんと、その柔らかな笑みを囲む子ども達を見て、幸せを絵に描いた光景だと思った。そして永遠を願うまでもなく叶えられることなのだろうとも思っていた。壊されるにはあまりに美しく惜しい姿だった。人の生きる姿に焦がれたのは初めてのことだった。
私は松陽さんが何を一番大切にしていたのかを知っている。
私は松陽さんに撫でられて頬を緩める銀時くんを知っている。
全てを受け止めるには至らない。けれど、私は。
「銀時くん達は生きているんだよね」
「……ああ」
「生きていてくれてありがとう……私は皆の苦しい時に何も出来なかったけど、心からそう思っていることだけは知っていて欲しい」
どうか健やかに。松陽さんはそればかりだった。人のことばかりの松陽さんのことが皆好きだったし、私も同じだった。思わず顔を上げた、そんな具合でこちらを見る銀時くんの目はまんまるで今にも零れ落ちそうだ。私は銀時くんの髪に手を伸ばす。軽々しく言葉には出来ない思いの一欠片でも伝わっているといいと思いながら。
青年が倒れ込む時に私の手を離したのは巻き込まないようするためだったのかもしれない。青年は腰を強かに打ちつけたように見えた。私は軽く屈んで青年に手を差し出した。俯いていて青年の表情は窺えない。青年は私の手を握りしばらくそのまま黙っていた。
意識が目の前の青年にだけ注がれる。雑踏の声が遠い。その時、青年の声だけがはっきりと聞こえた。その声は心とか、魂とか、言葉では形容しがたい青年の強い思いをそのまま乗せたような響きを持っていた。
「銀時」
「え、」
「銀時くん。アンタは俺を銀時くんって呼んで、そんで……」
青年は息が詰まったようにそれ以上の言葉を発さない。私よりも背も大きければ体格のある男の人。感情に揺れる不安定なその姿は私が何をすべきかを教えてくれた。
理解よりも先に身体が先に動いていた。
しゃがんで、その頬に手を伸ばした。受け入れるがままの青年に少し心配になってしまうのがなんだかおかしかった。
「甘いものは今でも好き?」
弾かれたように顔を上げた青年に、私は初めて横たわった年月の大きさを理解した。
「大きくなったね。銀時くん」
あの子は、銀時くんは、我慢強い子だった。何か辛いことがあってもその瞳を感情で揺らし、じっと耐えるような子だった。だから私や松陽さんが気付いてあげないと、と。そして私達が銀時くんを守るのだ、そう思っていた。私を呼んだあの声。不安で満たされた声は私が作りあげたものだ。黙って私の腕を離さなかった銀時くんは子どものようではなく、子どもの、ただの幼い男の子だった。私がさよならも言えずに別れてしまった銀時くん。あの日の私は銀時くんの心に針を刺して、その針は今日までずっと残り続けていたのだろう。全ては私の罪だった。
「……一目で気付くだろ、普通」
「ごめんね。背が伸びてかっこよくなってたから、気が付けなかったの」
「……そうかよ」
ぶっきらぼうな口調なのに安心したと言わんばかりに表情を緩めている。それは私がよく知る銀時くんのものだった。銀時くんの素直なのか素直じゃないのかよく分からない性質は大きくなっても健在らしい。
「許してくれる?」
「パフェを奢ってくれるならな」
「今喫茶店でお世話になっているから来てくれたらサービスできるよ」
「マジ? 通い詰めるわ」
「サービスは頻繁には出来ないけど」
「ケチ」
「代わりに新メニューの試作の味見してもらおうと思ったけど、銀時くんには頼まないでおこうかな」
「なまえ 様は誠に素晴らしいお方にございます。だから何卒、私めにもご慈悲を……!」
「よろしい」
打てば響くように返ってくる言葉が心地よい。私達はよくこうして話をした。胸にじわりと広がるのは喜びであり、安堵であり、罪悪であり、そして一抹の寂しさだった。
光を浴びたふわふわの髪が風に揺れている。銀時くんの髪はついこの間のように美しい銀色をしているのだろうか。今の私にはそれが分からない。銀時くんは私の存在を目に焼き付けるように見つめる。私は大人になった銀時くんに目を細めた。
往来のざわめきが耳に届きはじめる。いつまでもこんな体勢でいるわけにはいかない。私達は笑い合って身体を起こした。銀時くんに手を差し伸べられそのまま引き上げられる。不安に思うこともないほどに成長した力。硬い男の人の手のひらだった。
「……あ、」
「どうした?」
「もしかして、万屋銀ちゃんって銀時くんのお店?」
銀時くんが差し出してくれた鞄を受け取った私はスナックお登勢の二階を指さした。私の問いかけに銀時くんは軽く頷く。
「……そうだよ。その辺のことも、他にも話さないといけねーことが沢山ある……聞きたいこともある……でも、まずは」
「まずは?」
「おかえり」
「……ただいま」
銀時くんが顔に手を伸ばしてくるのを何も言わずに受け入れる。確かめるように私の頬に触れる銀時くんの手のひらは熱かった。壊れるはずもないのに慎重な手付きだった。笑う私に銀時くんは眉を寄せる。目敏いところは変わらない。それでもしばらく銀時くんは頬から手を離さなかった。
「満足した?」
「まーな」
「そういえば、私も銀時くんに言いたいことが二つあってね」
「なんだ?」
銀時くんとの再会ですっかり頭の奥に引っ込んでしまっていた情報を引っ張り出す。お登勢さん達と話していたのはついさっきのことだった。
「家賃はしっかり払わないとダメだよ。あと、甘いものを食べすぎてもダメ。喫茶店に来てもまずは食生活の改善からしてもらわないと」
「何で知ってんの? あと急に雰囲気をぶち壊してくるの何なの? どう考えても今は感動の再会で間違っても現実を突きつけるターンじゃないの!」
「再会も大切だけど銀時くんの生活も大切だし……だって若くしてホームレスになったり病気になったりしたら目も当てられないから」
その時丁度私達を横切ったのはリヤカーを引いている人。ジャージに下着というかなり攻めた格好をしたその人がホームレスという言葉に反応して手を上げたように見えたのは気のせいだったのだろうか。銀時くんの生活が途端に不安になる私に対して、銀時くんには余裕が戻ってきたようだった。
「母ちゃん。俺、江戸で上手くやってから」
「本当?」
「本当です」
「お登勢さん達に迷惑を沢山かけないようにね」
「情報源はババアか……俺の知らないところで繋がってっし……」
約束、そう言って小指を出したら銀時くんは口を尖らせながらも応じてくれた。その上で確約は出来ない、なんて小賢しく取引先のようなことを言うものだから思わず笑ってしまった。
***
銀時くんとの再会から数日後、彼は喫茶店に訪れた。私は銀時くんに頼まれた通りいつもより少し早めにお店を閉めて待っていた。軽く右手を上げてお店に入ってきた銀時くんはカウンターの真ん中の席に腰掛けた。俺の家とでも言わんばかりの態度に笑みが零れる。銀時くんはどこにいても自分の空気を出すのが上手だ。
「パフェ」
「今日はダメです」
しかしそれとこれとは話が別。メニューも見ずに頼む銀時くんに首を横に振った。銀時くんは片眉を上げて不満をありありと表しているけれど、負けるわけにはいかない。
「さっきまで笑ってたからいけると思ったのによー」
「今日は夕ご飯前だからドリンクだけ、それかサンドウィッチくらいならいいかな。夕ご飯をここで食べるならまた別だけど……その場合のデザートはキャロットケーキになります」
私は再会したその日に銀時くんを健康にすると誓ったのだ。そのおかげでここ数日野菜を使ったスイーツの試作が捗っている。昨日来てくれた総悟さんには「女ってある程度の年齢になったら途端に健康志向に目覚めやすよね」なんて皮肉のような的を射たようなことを言われてしまったけれど。
「ケチ。どっちにせよ夕飯はここで食うけど」
「ケチでも銀時くんの健康に変えられないし……何が食べたい?」
「オムライスできる?」
「できるよ」
「卵はふわとろ一択」
「はいはい。ついでに私の分も作るから一緒に食べよっか」
銀時くんが緩く頷くのを確認して奥のキッチンへ向かいオムライスを作っていく。今回は銀時くん仕様で使うバターを控えめに。同時に野菜スープを温めるのも忘れない。
このお店のケチャップライスにはウインナーを入れるのがポイントだ。野菜は玉ねぎと人参。具材がたてる音に目を細める。野菜は細かく刻むことで子ども達も野菜を無理なく食べられるようになっていて、近所のママさん達も目を輝かせる。子どもは大人よりも味覚が敏感だから寺子屋の子達にも野菜を食べさせるのに苦労した……もうその子達も銀時くんのように大人になっているのだ。銀時くんのように会っていないからか中々実感が湧かないのが正直なところだけれど。
流れるようにケチャップライスを作り終わり、オムライスの工程は最後の卵を残すだけになった。卵をふわとろにするのは家庭のガスよりも火力のあるお店のガスの方が簡単だ。手慣れた調子でオムライスの卵を形成してケチャップライスに乗せた。卵を割ると銀時くんの要望通りのふわとろオムライスが綺麗に出来上がる。ケチャップを掛け過ぎないように注意して、スープと一緒に銀時くんのところへ持っていった。
「銀時くん。ご要望通りのオムライスです。スープは熱いから火傷しないように食べてね」
「美味そう」
片笑みを浮かべて銀時くんは返事をした。心なしか目が三割増しくらいで輝いている。私が自分の分を持ってくる間、銀時くんは律儀に食べるのを待っていた。その手にはスプーンが握られている。
いただきます、と二人の声が重なり合う。銀時くんはよほどお腹が空いていたのか勢いよく食べる。いい食べっぷりを通り越して飢餓状態ような様子に思わず「誰も取らないよ」なんて茶化したら、銀時くんは大きな一口を飲み下して「うるせー」なんせ反論してみせた。銀時くんのお皿は瞬く間に空になった。私は横からオムライスを狙う泥棒の手を阻んだ。そんな銀時くんはケーキを多く取り分けることを約束したら現金なものですぐに大人しくなった。
「……じゃあ、まあ、話すか」
二人ともオムライスを食べ終わり、ケーキをつつきながらどこか静かな時間が流れ始めた頃だった。誰よりも甘いものに目がないはずの銀時くんが中途半端に食べるのを止めて指でフォークを遊ばせていたことに小さな引っ掛かりを覚えた。それは予兆だったのだろう。銀時くんは私の知らないここ数年の話を始めた。些細な違和感は銀時くんの穏やかな語りに消えてしまったのだった。
行く宛てのなかった銀時くんに居場所を与えたお登勢さん、そして今の銀時くんと生活を共にしている万事屋銀ちゃんの従業員の志村新八くん、神楽ちゃん、犬の定春くん。銀時くんと彼らの出会いは軽く聞いただけでも中々に衝撃的で、それに銀時くんが彼らと過ごした日々とても良いものであることは確認しなくても分かった。柔く細められた目元は彼らのことが何よりも大切なのだと言っている。守る人の目だった。その他にも今の銀時くんを取り巻く人達は個性的で(なんとゴリラや忍者、真選組の大串くんや総一郎くんという人もいるらしい)賑やかな毎日を送っているらしい。話に出てくる人の多さが、銀時くんが沢山の人に愛されている証のようで誇らしかった。
「なまえ は江戸に最近来たんだろ? ババアがそう言ってた」
「……お登勢さんね。私が江戸に来たのは本当に最近のことだよ」
銀時くんの話がひと段落したところで自分の話になるのは予想していたけれど、自分のことなのに分かっていないことが多すぎて苦く思う。私は終わりと始まりを繰り返す世界に翻弄され続けている。
「……話せるか?」
銀時くんの気遣いの声が優しい。一人の少年が大人になるまでの時間が流れているのに、私の姿は何も変わらない。そのことは怖くはないだろうか、ふとそんな考えが頭を擡げる。そういえば松陽さんも一緒に暮らしていた間、少しも老いることがなかった。あれだけ長い間一緒に居たのにそれが童顔だけで済まされることなのか分からないままだった。大人になった銀時くんは、子ども達は私達をどんな目で見るのだろうか。
こちらをのぞき込む銀時くんに、嘘は言いたくないと思ってしまった。私は真実の一欠片を落とすことを決めた。
「話せる、話せない……というか、私にも自分のことがよく分からなくて」
「分からない?」
「うん……私が皆のところからいなくなったあの日から今はもう十年以上も……長い時間が経っているけど、私にとっては皆と過ごした時間がついこの間のことなの」
「……なんつーか、それは」
言葉が出ない様子の銀時くんに頷いた。自分のことながら物語のような話だ。それに元々私は生きる世界を異にしている。銀時くんたちと過ごした日々と同じように、受験生として勉強に滅入っていた日々も昨日のことのように思い出せるのだから記憶力にも何か特別なことが起きているのだろうと思う。
「気が付いたら江戸に居て、数年どころじゃない年月が経っていて……驚きもしたけど皆に再会したいって思いながら過ごしてた。江戸から長州なんてすぐに行ける距離じゃないし、旅立つ元手もないから喫茶店の店主の梅さんのお世話になってたの……それに日付を見たら時間の流れはたしかにあったけど、どこか曖昧に認識していただけなのかもしれない」
適応力、順応力と言えば聞こえがいいかもしれないけれど、自分にとって都合のよいことにしか目を向けたくない我儘もそこにはあったのだと思う。
「……正直俺はなまえ とこうして話していることが都合のいい夢なんじゃないかって、少し思ってる」
「私も夢じゃないかって今までに何度も思ったよ。この世界は本当に存在するのか、私は本当に存在するのか。でも、銀時くんや松陽さんと過ごした時間が大切で、だからそれをまた探すことに迷いはなかった。たとえ夢だと分かったとしても足掻いていたと思う」
「俺達がなまえ のことを忘れるとか、思わなかったのかよ」
「会いたいが先に来ちゃってそこまで考えてなかったかも……でも、私のことを憶えてなくても皆が幸せだったら嬉しかったと思う。寂しい気持ちはどうしようもないけどね」
緑色の光は私を新天地へ連れて行く。私にとっては嘘のような本当の話だ。大切なものを全て抱えていく代わりに私は全ての記憶を持っていく。たとえ夢でも幻でも私にとっては幸福な思い出であることには変わらない。
「……いつもそうだった」
「え、」
掠れた声で銀時くんは何かを言ったけれど、私には聞き取れなかった。その時を境に空気が張り詰めるのを感じた。銀時くんはこちらに身体を向けているけれど目を伏せて感情を読み取らせない。それでもいつの間にかスプーンを離していた手が震えている。時計の秒針の音がはっきりと聞こえる静寂の中で銀時くんは口を開いた。
「俺が松陽を殺した、そう言ってもなまえ は俺の幸せを喜べるか?」
嘘だ、そう反射的に言葉が口から出そうになったけれど、銀時くんの様子が私を踏みとどまらせた。代わりに漏れた不格好な狭窄音に銀時くんは笑ったような気がした。衝動ではなく正しく言葉を呑み込もうとするけれど、上手くいかない。その先を拒否しているようだった。
「なまえ がいなくなってそう時間が経っていない頃、松陽が幕吏に捕らえられた。俺達は、松下村塾の面々は松陽を取り戻そうと攘夷戦争に参加して天人と幕府を相手取るも敗走。俺が松陽の首を斬ることになった。それから高杉とヅラは今じゃ……国から追われるテロリストだ。高杉に至っては過激派で国を壊すためなら人を利用することも傷つけることも厭わねえ。なまえ が帰りたかった松下村塾は俺のせいでなくなった」
淡々と。銀時くんの様子はニュースキャスターがその日の出来事を話しているように、実感とは乖離した情報を伝えているようだった。無神論者のくせに神様を思うも、頭に浮かぶのは良く知った穏やかで美しい微笑だった。
松陽さんと、その柔らかな笑みを囲む子ども達を見て、幸せを絵に描いた光景だと思った。そして永遠を願うまでもなく叶えられることなのだろうとも思っていた。壊されるにはあまりに美しく惜しい姿だった。人の生きる姿に焦がれたのは初めてのことだった。
私は松陽さんが何を一番大切にしていたのかを知っている。
私は松陽さんに撫でられて頬を緩める銀時くんを知っている。
全てを受け止めるには至らない。けれど、私は。
「銀時くん達は生きているんだよね」
「……ああ」
「生きていてくれてありがとう……私は皆の苦しい時に何も出来なかったけど、心からそう思っていることだけは知っていて欲しい」
どうか健やかに。松陽さんはそればかりだった。人のことばかりの松陽さんのことが皆好きだったし、私も同じだった。思わず顔を上げた、そんな具合でこちらを見る銀時くんの目はまんまるで今にも零れ落ちそうだ。私は銀時くんの髪に手を伸ばす。軽々しく言葉には出来ない思いの一欠片でも伝わっているといいと思いながら。