零れ話。或いはもしもの世界
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原作軸で降り立った場所が高杉の元だったら。本編には全く関係のないif√です。
何が起きた、それを認識する前に身体を押さえつけられ、私は床に膝をついた状態になった。周囲には両手では足りないくらいの人々が存在している。床は木で出来ている。どこかの広間なのだろうか。
男達に取り囲まれ、どこから入った、答えなければ拷問、殺す、随分と物騒なことを言われている。しばらく黙っていると不愉快に思われたのか、一人に頬を張られた。しかし痛みの感じない私にはただの衝撃だった。片頬に熱を感じるから、かなりの強さだったのだろう。
男達を映画を観るように眺めた。そこで私はようやく違和感に気が付いた。視界に色がない。モノクロで構成された世界は私を夢の中にいるような気分にさせた。
きっと私は一つの命を落としてしまったのだと思う。破落戸の凶刃に倒れた私を包んだのは覚えのある緑色の光だった。緑色の光は死に瀕した私を新天地へと攫う。私は以前のように場面転換さながら土地を跳んだことを理解した。
私が現状を整理しているとまた一つ頬を張られた。やはり痛みは感じない。死を契機として訪れた今までの数々の変化が一本に繋がる。痛覚、味覚、そして色彩。死を経験する度に代償のように私は何かを失うのだ……そしてまた生き永られるのだ。
ここでまた殺されたら私は跳ぶのだろうか。そしてまた何かを失うのだろうか。両親の、友達の、名前も知らない少年、松陽さん、皆。色々な人の顔が思い浮かんだ。私を守ってくれた人達、私の大切な人達、異世界で出会った愛おしい人達。亜麻色が酷く懐かしくなった。
「何があったッスか!?」
よく通る高い声。女の人の声が聞こえ、私は顔を上げる。私を取り囲んでいた男は、押さ付けている人を除き離れ、視界には長い髪の女の人と、その後ろから何人かがやってくるのが映った。けれど。
「触れるな!」
女の人の後ろにいた一人が凄い勢いでこっちに来て、私を押さえ付けていた人から解放した。何が起こっているのか分からず、目を瞬かせる私を前にその人は膝をついた。片目が包帯で隠れている端正な顔立ちをした男の人。その人は信じられないものを見るように私を見ている。手を伸ばされ、反射的に目を瞑る。しかし頬を張られることはなかった。
「…………痛むか」
こわごわと頬に触れられ、目を開いた私は首を横に振る。普通だったらきっと痛かったのだろう。
「大丈夫です」
目の前の人物が私を傷つけるようにはどうしても見えない。どこかも知れない地では松陽さんのような人ばかりではないけれど、悪い人ばかりでもないらしい。
「晋助様、この女は……」
女の人が言った「しんすけ」その名前に無意識に私は反応してしまった。
「しんすけ、」
「どうした?」
女の人には反応せずに、この男の人は私を慈しむように気に掛ける。それが不思議だった。私は微かな違和感を胸に拙い言葉を紡ぐ。
「…………えっと、同じ名前の子をよく知っているので。家族みたいに一緒に暮らしているんです。しんすけ、いい名前ですね」
晋助くんは今、何をしているだろう。銀時くんと喧嘩をして小太郎くんに止められているのだろうか。そして松陽さんはそれを見て笑っているのだろうか。そこに早く戻りたい、願いが積もっていく。私が戻りたい場所は両親のもと、友人のもと、そして、同じように松下村塾の皆のもとだった。
「あなたの名前はどう書くんですか?」
男の人が私を害す様子を一切感じないため、私は少々呑気になっていたらしい。気がついた時には言葉を喉の奥に仕舞うことは出来なくなっていた。しょうがなく黙って質問の答えを待つ私に、男の人は目を伏せて何かに堪えるような顔をした。この人は一体何を考えているのだろう。私に誰を見ているのだろう。
「…………古い中華の国の晋に助ける」
長い沈黙の後、男の人、晋助さんは口を開いた。晋助くんと同じ名前と同じ漢字。それだけで一方的に親しみが湧いてしまう私は単純だ。
「素敵な名前ですね」
「そうか」
晋助さんは相槌を打った直後、私の背中と膝裏に手を回し立ち上がる。所謂お姫様抱っこの体勢になった。
「えっ、と、あの?」
「落ち着いて話せる場所に連れて行く。ここは人が多い」
戸惑いやら混乱で言葉もままならない私に、晋助さんは薄く笑う。大変な色気に色彩がなくて逆に良かった、と縁起でもないことを一瞬思ってしまった。
「あの、私の名前はなまえ です」
今更ながら自己紹介をした私に晋助さんは軽く頷く。そして丁寧に私の名前を呼んだ。決して珍しくはないありふれた響きのはずなのに、まるで壊れてしまわないかと恐れているように。
***
ここは松陽さん達と出会った世界(天人により鎖国が解かれた日本)の京であること、私が彼らのもとを離れてから十数年もの時が経っていること、現在松下村塾は長州に存在しないこと。晋助さんは見ず知らずの私にわざわざ松下村塾のことまで調べて教えてくれた。
松下村塾は以前にも一度大きな移動があったから、同じようなことがあったのだろう。どうしても確認したがった私は、晋助さんに連れられ一度長州に行ったけれど確かにそこに松下村塾はなかった。
そのまま行き場を失った私は晋助さんの所でお世話になることになった。晋助さんには人脈があるらしく、松陽さんを初めとした松下村塾の子達の居場所も探ってくれるらしい。晋助さん曰く、攘夷志士と目される人物を表立って探すのは危険であるとか。実態は違っても松陽さんの外聞はよくない可能性があるらしく、何もできない私は晋助さんに任せっぱなしになっている。
晋助さんは不思議なほど何の見返りもなく私を受け入れた。何か出来ないか、そう尋ねた私に求めたのはご飯の支度だけ。そこで私は味覚を失っていることを晋助さんに告げたらこちらが心配になるほどに驚いていた。
結局のところ、その役割は撤回されることもなく私は晋助さんにご飯を作っている。初日に出された豪勢な料理からして食には困って無さそうだったけれど、晋助さんは案外庶民舌なのかもしれない。何の仕事をしているのかは詳しく分からないけれど、私のいるこのお屋敷だってとても大きい。私は晋助さんが地主か何かだと思っている。
私の新しい日々は松下村塾の時とは反対だ。関わりのある人は晋助さんと他数人くらいで、静かに日々を過ごしている。
晋助さんは煙管を置き、お猪口に徳利を傾ける。晋助さんと私は、私の部屋で夜桜を眺めていた。晋助さんは仕事を終えるとふらりと部屋にやって来て、私の用意したご飯を食べた後は気侭に過ごしている。畳の上に楽に座り、喋り、気分で私は晋助さんに三味線を強請り、私はその対価として大して上手くないのに歌わされることもあった。
今日はお酒を飲む気分だったらしい。盆にはお猪口と徳利の他に桜餅があり、私がお酒を飲まないことを知っている晋助さんは桜餅を差し出した。私はお礼を言って桜餅に手を付ける。粘力のある食感を飲み込む。春になるとよくコンビニやスーパーでは期間限定で桜味の商品が並んでいた。桜味のあの独特な風味は香料によるものらしい、と友達の一人がそう言っていて残念に思ったことがあったっけ。
「何かしたいこと、望みの一つでもねぇのか」
晋助さんと過ごす時間は穏やかで落ち着いている。私が何か話すことが多いけれど、今のように晋助さんから何かを尋ねられることがあった。
「望み……ですか?」
「ああ。俺が叶えてやれる範囲でのことだが。日頃の飯の礼だ」
ご飯のお礼と言われても、私には宿どころか暮らしの全て、情報収集さえもお世話になっている。その立場で望みをと言われても首を横に振るばかりだ。
「お礼なんていりませんよ。こっちは仕事を増やして欲しいくらいですし」
「仕事ねぇ」
「そうです。晋助さんは私を甘やかしすぎです」
掃除、洗濯、お皿洗い、繕い物……出来ることを上げる私を晋助さんは喉で笑った。
「……アンタの望みは分かった。だが、俺はアンタに何かしてやりたくてしょうがないらしい。そこにいて笑っているだけで充分だからな」
晋助さんに言われたらその意図がなくとも口説き文句だと思う人がいるのではないだろうか、とついつい思ってしまった私は悪くないだろう。晋助さんは言葉選びが狡い大人なのだ。晋助さんにすっかり慣れてしまった私は特に浮かれることもないけれど。
「……私に貢いでも何の得もありませんよ。晋助さんのような方だったらもっと上を目指さないと。可愛い人も綺麗な人も思いのままですよ」
「振るのか」
「既に労働対価を超えてお世話になっているので」
「振ったな」
「何少し不貞腐れてるんですか……じゃあ、どうしてもと言うなら晋助さんにお願いをしましょうか」
先程とは打って変わって子どもっぽい顔を見せる晋助さんに笑う。晋助さんを見ていると子どもたちのことを思い出すことがある。するとついつい私は折れてしまうのだ。
晋助さんは何だ?と言うように私を見る。その瞳に小さな興味が宿ることを感じて私は口を開いた。
「晋助さんの予定が空いている日に一緒にお散歩に行きたいです。そして、川で水切りをしましょう。また子さんの記録は八回らしいので、塗り替えることを目標に」
お金や物が満たされているのなら、あとは時間だろうか。晋助さんやその周りは忙しそうにしていることが多いから、時間を作って欲しいとは中々言えない。晋助さんの有難い申し出があったことだから今回は特別に甘えさせてもらおう、そう思ったのだ。
「勿論、予定があるならそちらを優先で……晋助さん?」
何も言わない晋助さんを不思議に思うも、その表情からは負の感情は読み取れない。驚き、呆れ、どちらかと言えばそういったものだろうか。
「…………来島と随分話すんだな」
「また子さんとは晋助さんを除いたら一番喋りますよ。殆どの話題は晋助さん関連ですけど」
「それで水切りねえ……アンタくらいの年頃の女は児戯なんかじゃなく、やれ新しい着物だの、やれ腕輪だの、そういった物じゃねぇのか」
着物、腕輪、お洒落に興味がないとは言わないけれど、現代っ子の私はこの時代の流行に疎く、何より色彩を映さなくなった瞳ではどうにも難しい。
松下村塾の皆ではない晋助さんだから、味覚のことのように打ち明けてみてもいいのかもしれない。一瞬そう思ったけれど、柔らかな眼差しでこちらを見やる晋助さんに止めた。私はこの優しい人に心配をかけたくないし、それに晋助さんは過保護なきらいがある。
理由は分からないけれど晋助さんは私と話す時に遠くにある眩しいものを見るような、どこか寂しげな目をしている。松陽さんとはまた違った優しい人なのだ。
「物よりも晋助さんと一緒にいる時間の方が欲しいっていう人なんて私を含めて沢山いますよ。それこそまた子さんだって」
「どこでそんな口説き文句を覚えたんだ」
「えっ。晋助さんに言われたくないです」
心外だ、思わせぶりなのはそっちだろう、そんな思いを込めて晋助さんを強く見詰めると晋助さんは喉の奥で笑う。
「こっちの年齢だけでこうも違うか」
何が起きた、それを認識する前に身体を押さえつけられ、私は床に膝をついた状態になった。周囲には両手では足りないくらいの人々が存在している。床は木で出来ている。どこかの広間なのだろうか。
男達に取り囲まれ、どこから入った、答えなければ拷問、殺す、随分と物騒なことを言われている。しばらく黙っていると不愉快に思われたのか、一人に頬を張られた。しかし痛みの感じない私にはただの衝撃だった。片頬に熱を感じるから、かなりの強さだったのだろう。
男達を映画を観るように眺めた。そこで私はようやく違和感に気が付いた。視界に色がない。モノクロで構成された世界は私を夢の中にいるような気分にさせた。
きっと私は一つの命を落としてしまったのだと思う。破落戸の凶刃に倒れた私を包んだのは覚えのある緑色の光だった。緑色の光は死に瀕した私を新天地へと攫う。私は以前のように場面転換さながら土地を跳んだことを理解した。
私が現状を整理しているとまた一つ頬を張られた。やはり痛みは感じない。死を契機として訪れた今までの数々の変化が一本に繋がる。痛覚、味覚、そして色彩。死を経験する度に代償のように私は何かを失うのだ……そしてまた生き永られるのだ。
ここでまた殺されたら私は跳ぶのだろうか。そしてまた何かを失うのだろうか。両親の、友達の、名前も知らない少年、松陽さん、皆。色々な人の顔が思い浮かんだ。私を守ってくれた人達、私の大切な人達、異世界で出会った愛おしい人達。亜麻色が酷く懐かしくなった。
「何があったッスか!?」
よく通る高い声。女の人の声が聞こえ、私は顔を上げる。私を取り囲んでいた男は、押さ付けている人を除き離れ、視界には長い髪の女の人と、その後ろから何人かがやってくるのが映った。けれど。
「触れるな!」
女の人の後ろにいた一人が凄い勢いでこっちに来て、私を押さえ付けていた人から解放した。何が起こっているのか分からず、目を瞬かせる私を前にその人は膝をついた。片目が包帯で隠れている端正な顔立ちをした男の人。その人は信じられないものを見るように私を見ている。手を伸ばされ、反射的に目を瞑る。しかし頬を張られることはなかった。
「…………痛むか」
こわごわと頬に触れられ、目を開いた私は首を横に振る。普通だったらきっと痛かったのだろう。
「大丈夫です」
目の前の人物が私を傷つけるようにはどうしても見えない。どこかも知れない地では松陽さんのような人ばかりではないけれど、悪い人ばかりでもないらしい。
「晋助様、この女は……」
女の人が言った「しんすけ」その名前に無意識に私は反応してしまった。
「しんすけ、」
「どうした?」
女の人には反応せずに、この男の人は私を慈しむように気に掛ける。それが不思議だった。私は微かな違和感を胸に拙い言葉を紡ぐ。
「…………えっと、同じ名前の子をよく知っているので。家族みたいに一緒に暮らしているんです。しんすけ、いい名前ですね」
晋助くんは今、何をしているだろう。銀時くんと喧嘩をして小太郎くんに止められているのだろうか。そして松陽さんはそれを見て笑っているのだろうか。そこに早く戻りたい、願いが積もっていく。私が戻りたい場所は両親のもと、友人のもと、そして、同じように松下村塾の皆のもとだった。
「あなたの名前はどう書くんですか?」
男の人が私を害す様子を一切感じないため、私は少々呑気になっていたらしい。気がついた時には言葉を喉の奥に仕舞うことは出来なくなっていた。しょうがなく黙って質問の答えを待つ私に、男の人は目を伏せて何かに堪えるような顔をした。この人は一体何を考えているのだろう。私に誰を見ているのだろう。
「…………古い中華の国の晋に助ける」
長い沈黙の後、男の人、晋助さんは口を開いた。晋助くんと同じ名前と同じ漢字。それだけで一方的に親しみが湧いてしまう私は単純だ。
「素敵な名前ですね」
「そうか」
晋助さんは相槌を打った直後、私の背中と膝裏に手を回し立ち上がる。所謂お姫様抱っこの体勢になった。
「えっ、と、あの?」
「落ち着いて話せる場所に連れて行く。ここは人が多い」
戸惑いやら混乱で言葉もままならない私に、晋助さんは薄く笑う。大変な色気に色彩がなくて逆に良かった、と縁起でもないことを一瞬思ってしまった。
「あの、私の名前はなまえ です」
今更ながら自己紹介をした私に晋助さんは軽く頷く。そして丁寧に私の名前を呼んだ。決して珍しくはないありふれた響きのはずなのに、まるで壊れてしまわないかと恐れているように。
***
ここは松陽さん達と出会った世界(天人により鎖国が解かれた日本)の京であること、私が彼らのもとを離れてから十数年もの時が経っていること、現在松下村塾は長州に存在しないこと。晋助さんは見ず知らずの私にわざわざ松下村塾のことまで調べて教えてくれた。
松下村塾は以前にも一度大きな移動があったから、同じようなことがあったのだろう。どうしても確認したがった私は、晋助さんに連れられ一度長州に行ったけれど確かにそこに松下村塾はなかった。
そのまま行き場を失った私は晋助さんの所でお世話になることになった。晋助さんには人脈があるらしく、松陽さんを初めとした松下村塾の子達の居場所も探ってくれるらしい。晋助さん曰く、攘夷志士と目される人物を表立って探すのは危険であるとか。実態は違っても松陽さんの外聞はよくない可能性があるらしく、何もできない私は晋助さんに任せっぱなしになっている。
晋助さんは不思議なほど何の見返りもなく私を受け入れた。何か出来ないか、そう尋ねた私に求めたのはご飯の支度だけ。そこで私は味覚を失っていることを晋助さんに告げたらこちらが心配になるほどに驚いていた。
結局のところ、その役割は撤回されることもなく私は晋助さんにご飯を作っている。初日に出された豪勢な料理からして食には困って無さそうだったけれど、晋助さんは案外庶民舌なのかもしれない。何の仕事をしているのかは詳しく分からないけれど、私のいるこのお屋敷だってとても大きい。私は晋助さんが地主か何かだと思っている。
私の新しい日々は松下村塾の時とは反対だ。関わりのある人は晋助さんと他数人くらいで、静かに日々を過ごしている。
晋助さんは煙管を置き、お猪口に徳利を傾ける。晋助さんと私は、私の部屋で夜桜を眺めていた。晋助さんは仕事を終えるとふらりと部屋にやって来て、私の用意したご飯を食べた後は気侭に過ごしている。畳の上に楽に座り、喋り、気分で私は晋助さんに三味線を強請り、私はその対価として大して上手くないのに歌わされることもあった。
今日はお酒を飲む気分だったらしい。盆にはお猪口と徳利の他に桜餅があり、私がお酒を飲まないことを知っている晋助さんは桜餅を差し出した。私はお礼を言って桜餅に手を付ける。粘力のある食感を飲み込む。春になるとよくコンビニやスーパーでは期間限定で桜味の商品が並んでいた。桜味のあの独特な風味は香料によるものらしい、と友達の一人がそう言っていて残念に思ったことがあったっけ。
「何かしたいこと、望みの一つでもねぇのか」
晋助さんと過ごす時間は穏やかで落ち着いている。私が何か話すことが多いけれど、今のように晋助さんから何かを尋ねられることがあった。
「望み……ですか?」
「ああ。俺が叶えてやれる範囲でのことだが。日頃の飯の礼だ」
ご飯のお礼と言われても、私には宿どころか暮らしの全て、情報収集さえもお世話になっている。その立場で望みをと言われても首を横に振るばかりだ。
「お礼なんていりませんよ。こっちは仕事を増やして欲しいくらいですし」
「仕事ねぇ」
「そうです。晋助さんは私を甘やかしすぎです」
掃除、洗濯、お皿洗い、繕い物……出来ることを上げる私を晋助さんは喉で笑った。
「……アンタの望みは分かった。だが、俺はアンタに何かしてやりたくてしょうがないらしい。そこにいて笑っているだけで充分だからな」
晋助さんに言われたらその意図がなくとも口説き文句だと思う人がいるのではないだろうか、とついつい思ってしまった私は悪くないだろう。晋助さんは言葉選びが狡い大人なのだ。晋助さんにすっかり慣れてしまった私は特に浮かれることもないけれど。
「……私に貢いでも何の得もありませんよ。晋助さんのような方だったらもっと上を目指さないと。可愛い人も綺麗な人も思いのままですよ」
「振るのか」
「既に労働対価を超えてお世話になっているので」
「振ったな」
「何少し不貞腐れてるんですか……じゃあ、どうしてもと言うなら晋助さんにお願いをしましょうか」
先程とは打って変わって子どもっぽい顔を見せる晋助さんに笑う。晋助さんを見ていると子どもたちのことを思い出すことがある。するとついつい私は折れてしまうのだ。
晋助さんは何だ?と言うように私を見る。その瞳に小さな興味が宿ることを感じて私は口を開いた。
「晋助さんの予定が空いている日に一緒にお散歩に行きたいです。そして、川で水切りをしましょう。また子さんの記録は八回らしいので、塗り替えることを目標に」
お金や物が満たされているのなら、あとは時間だろうか。晋助さんやその周りは忙しそうにしていることが多いから、時間を作って欲しいとは中々言えない。晋助さんの有難い申し出があったことだから今回は特別に甘えさせてもらおう、そう思ったのだ。
「勿論、予定があるならそちらを優先で……晋助さん?」
何も言わない晋助さんを不思議に思うも、その表情からは負の感情は読み取れない。驚き、呆れ、どちらかと言えばそういったものだろうか。
「…………来島と随分話すんだな」
「また子さんとは晋助さんを除いたら一番喋りますよ。殆どの話題は晋助さん関連ですけど」
「それで水切りねえ……アンタくらいの年頃の女は児戯なんかじゃなく、やれ新しい着物だの、やれ腕輪だの、そういった物じゃねぇのか」
着物、腕輪、お洒落に興味がないとは言わないけれど、現代っ子の私はこの時代の流行に疎く、何より色彩を映さなくなった瞳ではどうにも難しい。
松下村塾の皆ではない晋助さんだから、味覚のことのように打ち明けてみてもいいのかもしれない。一瞬そう思ったけれど、柔らかな眼差しでこちらを見やる晋助さんに止めた。私はこの優しい人に心配をかけたくないし、それに晋助さんは過保護なきらいがある。
理由は分からないけれど晋助さんは私と話す時に遠くにある眩しいものを見るような、どこか寂しげな目をしている。松陽さんとはまた違った優しい人なのだ。
「物よりも晋助さんと一緒にいる時間の方が欲しいっていう人なんて私を含めて沢山いますよ。それこそまた子さんだって」
「どこでそんな口説き文句を覚えたんだ」
「えっ。晋助さんに言われたくないです」
心外だ、思わせぶりなのはそっちだろう、そんな思いを込めて晋助さんを強く見詰めると晋助さんは喉の奥で笑う。
「こっちの年齢だけでこうも違うか」
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