原作編
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光芒
江戸に来てからも日記を書いている。ノートの始めのページを捲るとボールペンの便利さにすっかり感動している私がいた。長州に居た頃に片鱗はあったものの、それ以上に江戸は便利で溢れている。令和に生きた人間の折り紙つきだ。
梅さんにお店を任されて早二月。昨日の電話で梅さんはもうしばらく息子さんのところに滞在すると言っていた。お孫さんのことを話す梅さんの様子は生き生きとしていて聞いている私まで嬉しくなってしまった。梅さんはこちらへ帰ってきたらもっと沢山のお土産話を聞かせてくれるのだろう。それまでは力不足かもしれないけれど、私がお店を精一杯守りたい。
梅さんが常連さんと私を引き合わせてくれてからお店を開けたおかげで、客足が途絶えることがないこのお店。今日は週に一度のお休みの日だから、昼前の店内は珍しくガランとしている。総悟さんが来るとしたら開店直後か今くらいの時間だな、そんなことを思いながらカウンターに座り雑誌を捲った。朝一の掃除を終えてしまえば休みの日の用事は買い出しくらいになる。雑誌に書かれているのは江戸の紹介といった観光客向けのこと。常連さんが多いお店では浮いている雑誌に違いないけれど、私にピッタリの雑誌と言えるだろう。何気なく手に取ったはずなのに気が付いた時には夢中で読み進めていてみるみるうちに私の意識は沈んでいったのだった。
***
私の意識を浅瀬に引き寄せたのは梅さんの昔からの知り合いだというお登勢さんからの電話だった。直接話したことはないものの、梅さんからその名前は何度か聞いていた。お登勢さんも似たようなものらしく、私がお店のことばかりになってはいないか梅さんに頼まれたらしい。そこで私はお店が休みの今日、お登勢さんのところに珈琲豆を届けに行くことになった。誕生日に梅さんからミルをプレゼントされてからハマってしまったのだとか。ついでに楽しんでいくといい、そう言ってくれた。渋さとかっこよさを伝える大人の女の人の声には確かな優しさが滲んでいる。梅さんとは対照的なイメージだけれどその心根の温かさには似たようなものを感じたのはきっと間違いではないだろう。
江戸の町に通る電車は私の時代のものと遜色がない。ICカードを作ってしまおうかとも思ったけれど、毎週どこかに出掛けることもないから結局切符を買うことにした。四谷から新宿三丁目で降りてしばらく歩けばかぶき町だ。こちらの歌舞伎町はひらがなでかぶき町なのだと切符を買う時に気が付いた。モノクロの景色が流れていくのをじっと見つめる。中心に近付くにつれて人が多くなるのはどこの場所も変わらない。江戸ではどこか長州と比べて時間の流れが早く感じた。私の帰るべき世界もそうだった。
電車から降りた私は人波に従い駅を出た。かぶき町、そう聞くだけでどこか非日常的に感じられるのはイメージの問題なのだろう。この時代でも通りによっては煌びやかなお店が見えるけれど昼間だからかそこまでの存在感は感じられない。今は準備に勤しんでいるのだろう。それでも人通りは多かった。
木造建築の日本家屋、洋風の建物、ビル。時代が交錯しごちゃごちゃしている景色の中で一際目を引くターミナルと呼ばれる建物。遠くにあるはずなのにはっきりと姿を確認できるそれだけは私の知る未来にも存在しない技術が使われているのだろうと一目でわかる。宇宙船はターミナルで発着される。そこらを歩いている天人もターミナルを経由してこの国に訪れるのだ。和服で忙しなく歩く人の傍ら、肩で風を切り歩く天人の姿を何人か見かけた。首から上が虎だったりタコのようになっていたり。それでも身体は人のものと遜色ないのだから不思議だ。知性というものにはそれに合った形の容れ物があるのだろうか。宇宙人と言われたらそれこそ身体全体がタコのような姿をしていてもいいのに。そう思ってしまうのはきっと小さな頃に観た映画の影響だ。
周囲に目をやりながら歩いているうちにお登勢さんの話に聞いた通りにやって来た。スナックお登勢は割合すぐ見つかった。その上に大きく万事屋銀ちゃんとかかった看板が印象的だ。一階と二階でお店が別れているのだろう。そんなことを考えながら扉を開けた。
「何か御用でしょうか」
そこでは礼儀正しさとどこか無機質さを孕んだ声が出迎えてくれた。メイド服風の着物を身に着け、その手にはモップが握られている。作り物のように均整の取れた顔立ちの従業員さんに私は会釈をした。
「こんにちは、お登勢さんにお届け物をしに来ました」
美しい彼女は「あなたが」そう言うと奥へ行ってしまった。お登勢さんを呼びに行ってくれたらしい。一二分も経たないうちにお登勢さんともう一人を連れて戻ってきてくれた。一人は電話で聞いたイメージとほど近い貫禄のある女の人、もう一人は頭から猫のような耳が生えている人だった。耳が動いていることから人工物でないことが確認できる。
「オ登勢サン、コウイウ純粋ソウナ見タ目の女がイチバン怖インデスヨ」
「初対面の子に何言ってんだい__梅から話は聞いてるよ。私がお登勢でこの失礼猫耳女がキャサリン、こっちは絡繰のたま。二人ともうちの従業員でよく働いてくれてるんだよ」
お登勢さんはキャサリンさんの頭を持っていた煙管で軽く叩きながら言った。キャサリンさんは少しの不満を滲ませるも何も言わない。力関係がはっきりとしている。絡繰なのだと言うたまさんは二人の後ろに控えるような形だった。
「なまえです。私も梅さんからお話は聞いています。お登勢さん、キャサリンさん、たまさん、よろしくお願いします」
キャサリンさんはお登勢さんが言うからだと釘を刺しながらも握手をしてくれるあたり何だかんだいい人なのだろう。お登勢さんとたまさんとも握手を交わす。たまさんの手の感触は人のものに酷似していてそれでもどこか違うような不思議なものだった。この世界では私の知る未来とはまた別の未来の可能性が開かれている。
「座りな。たまには喫茶店の娘が給仕される側になるのもいいんじゃないかい」
お登勢さんが持ってきたばかりの珈琲豆を使ってコーヒーをご馳走してくれると言ったので、言われるがままにカウンターについた。キャサリンさんが「イイ身分ダナ!」と片言な日本語で言いながらも準備してくれているところを見ると、なんだか彼女との接し方が分かってきたような気がする。
スナックだということもあってカウンター越しには沢山のお酒が並べられている。日本酒から洋酒までの多くのお酒が揃っており、沢山の人がここへ訪れていることが分かる。初めて来た場所だというのに、お登勢さんに話を聞いてもらう人の姿が思い浮かんだ。テレビではお登勢さんが夢中になっているという鬼平犯科帳が流されている。キャサリンさんとたまさんが何かを言い合う声、テレビのざわめき、煙草の匂い。それらは上手い具合に調和して私という存在をこの空間に溶け込ませてくれたような気がする。
お登勢さんがおもむろにテレビから目線をこちらに移した。吐き出した煙が天井に向かっていき空気に馴染んで消えていった。
「江戸には慣れたかい?」
「梅さんのお店で働くことには慣れたんですけど、まだあまり江戸に慣れたとは言えないかもしれません」
「長州に比べて江戸は騒がしいだろう」
「はい。人が多いのは勿論、発展していることにも少し驚きました」
「アンタはまだ若いんだから働くのも結構だけど遊ぶのも大事だよ。うちのたまも絡繰ってのもあるけど中々休みを取ろうとしなくてね……自分の住んでいるところを知ることも大事さね。次の休みにでもあの子と遊んでやってくれないかい」
「たまさんが良ければぜひ」
「いいに決まってるよ。あんな腐れ天パでなけりゃ誰でもね。ほら、コーヒーが出来たみたいだよ」
お登勢さんが言うようにキャサリンさんがコーヒーを、たまさんがケーキを渡してくれた。そのまま二人はカウンターに座り、キャサリンさんは同じようにコーヒーを、たまさんは何とオイルを手に取った。一口飲んでそれぞれがほっと身体を緩めた。味覚が失われてしまった私でもその場の雰囲気を味わうことが出来る。穏やかな午後の時間が流れる。
「ケーキまで頂いてしまって……ありがとうございます」
「イインダヨ。コノケーキハ家賃の肩代ワリニ回収シタヤツダカラナ」
「家賃?」
「二階に住んでいる方が家賃を滞納するのでたまにこうして品物を差し押さえるんです」
「なるほど……でもケーキって今日がその方の誕生日とか大切な記念日ではないんですか?」
「ないない。アイツは糖尿病予備軍の極度の甘党でケーキを回収したことも感謝して欲しいくらいだよ」
三人の慣れた様子から二階に住んでいる万事屋さんは困った人物なのだろう。それでも三人からは呆れと一緒にその人への親しみが表れているのだから、きっと人間的な魅力がある人だ。甘党と生活のあやふやささがどこか銀時くんを想像するから判定が甘くなっているのかもしれないけれど。
それからしばらくの間私はスナックお登勢でお喋りに興じた。お店の準備が始まる夕方になる前には帰ろうと決めていたから、お登勢さんが引き留めてくれたけれどお礼を言ってお店を出ることにした。喫茶店とはまた別の人間関係の広がりは新鮮で楽しかった。
「今日はかぶき町のスーパーに行こうかな」
せっかく出掛けたのだから、と思うけれど個人的な買い物に特に執着がないから喫茶店のための買い出しになる。お登勢さん達との出会いの余韻に浸りながらぼんやりと店先で思っていたら、突然右腕が引っ張られる感覚があった。珈琲豆の袋がなくなって随分と軽くなった鞄は簡単に地面に落ちた。私が起きたことを把握するよりも一連の原因が動く方が早かった。
「……なまえ」
震えていて、小さな声で、しかも掠れた弱弱しいものだった。それでも私の名前を確かに聞いた。その声が迷子の幼い子の響きを持っていたから思わず心配が口から零れる。
「あの、大丈夫ですか」
顔を上げてその人を誰なのか確認しようとしてもその人が私の肩口に頭を埋めてしまったからそれも叶わない。その人は恐る恐る私の名前をもう一度呼んだ。私が返事をすると腕に込められた力が強くなるのを感じる。痛覚があるのなら痛いと言っていたのだろう。
大人の男の人だった。でも態度は子どものようだった。その人から向けられる感情はぐちゃぐちゃしていてよく分からない。でも悪意や敵意といったような負の感情が一切感じられないせいか怖くはなかった。もしかしたらその人があまりにも必死に何かを呑み込んでいるようだったから、こちらは冷静になっているのかもしれない。
子ども達にしていたように背中を軽く叩くと一瞬びくりとしたけれど、すぐに身体の力が抜けていくのが分かった。それでも掴んだ右手は絶対離そうとしないのが子どものような強情さを感じさせる。
しばらくすると恐る恐る顔を上げたその人と目が合った。珍しい色素の薄いふわふわの髪の持ち主は揺れた瞳で私を一心に見つめている。お店のお客さんではないのにどこか初めて会った気がしないその人。安心させるように私は微笑みかけた。
「落ち着きましたか?」
「……あ、の、」
口を開閉させて言い淀むその人の顔を見つめていると朧気ながら出てきた一つの可能性が自分の中で繋がっていき、思わず口から出てしまった。
「あなたは銀時くん、坂田銀時くんのお父さんですか?」
私がそう言った時のその人の転びっぷりはまさに芸人と言う他ないほどにあっぱれだった。
江戸に来てからも日記を書いている。ノートの始めのページを捲るとボールペンの便利さにすっかり感動している私がいた。長州に居た頃に片鱗はあったものの、それ以上に江戸は便利で溢れている。令和に生きた人間の折り紙つきだ。
梅さんにお店を任されて早二月。昨日の電話で梅さんはもうしばらく息子さんのところに滞在すると言っていた。お孫さんのことを話す梅さんの様子は生き生きとしていて聞いている私まで嬉しくなってしまった。梅さんはこちらへ帰ってきたらもっと沢山のお土産話を聞かせてくれるのだろう。それまでは力不足かもしれないけれど、私がお店を精一杯守りたい。
梅さんが常連さんと私を引き合わせてくれてからお店を開けたおかげで、客足が途絶えることがないこのお店。今日は週に一度のお休みの日だから、昼前の店内は珍しくガランとしている。総悟さんが来るとしたら開店直後か今くらいの時間だな、そんなことを思いながらカウンターに座り雑誌を捲った。朝一の掃除を終えてしまえば休みの日の用事は買い出しくらいになる。雑誌に書かれているのは江戸の紹介といった観光客向けのこと。常連さんが多いお店では浮いている雑誌に違いないけれど、私にピッタリの雑誌と言えるだろう。何気なく手に取ったはずなのに気が付いた時には夢中で読み進めていてみるみるうちに私の意識は沈んでいったのだった。
***
私の意識を浅瀬に引き寄せたのは梅さんの昔からの知り合いだというお登勢さんからの電話だった。直接話したことはないものの、梅さんからその名前は何度か聞いていた。お登勢さんも似たようなものらしく、私がお店のことばかりになってはいないか梅さんに頼まれたらしい。そこで私はお店が休みの今日、お登勢さんのところに珈琲豆を届けに行くことになった。誕生日に梅さんからミルをプレゼントされてからハマってしまったのだとか。ついでに楽しんでいくといい、そう言ってくれた。渋さとかっこよさを伝える大人の女の人の声には確かな優しさが滲んでいる。梅さんとは対照的なイメージだけれどその心根の温かさには似たようなものを感じたのはきっと間違いではないだろう。
江戸の町に通る電車は私の時代のものと遜色がない。ICカードを作ってしまおうかとも思ったけれど、毎週どこかに出掛けることもないから結局切符を買うことにした。四谷から新宿三丁目で降りてしばらく歩けばかぶき町だ。こちらの歌舞伎町はひらがなでかぶき町なのだと切符を買う時に気が付いた。モノクロの景色が流れていくのをじっと見つめる。中心に近付くにつれて人が多くなるのはどこの場所も変わらない。江戸ではどこか長州と比べて時間の流れが早く感じた。私の帰るべき世界もそうだった。
電車から降りた私は人波に従い駅を出た。かぶき町、そう聞くだけでどこか非日常的に感じられるのはイメージの問題なのだろう。この時代でも通りによっては煌びやかなお店が見えるけれど昼間だからかそこまでの存在感は感じられない。今は準備に勤しんでいるのだろう。それでも人通りは多かった。
木造建築の日本家屋、洋風の建物、ビル。時代が交錯しごちゃごちゃしている景色の中で一際目を引くターミナルと呼ばれる建物。遠くにあるはずなのにはっきりと姿を確認できるそれだけは私の知る未来にも存在しない技術が使われているのだろうと一目でわかる。宇宙船はターミナルで発着される。そこらを歩いている天人もターミナルを経由してこの国に訪れるのだ。和服で忙しなく歩く人の傍ら、肩で風を切り歩く天人の姿を何人か見かけた。首から上が虎だったりタコのようになっていたり。それでも身体は人のものと遜色ないのだから不思議だ。知性というものにはそれに合った形の容れ物があるのだろうか。宇宙人と言われたらそれこそ身体全体がタコのような姿をしていてもいいのに。そう思ってしまうのはきっと小さな頃に観た映画の影響だ。
周囲に目をやりながら歩いているうちにお登勢さんの話に聞いた通りにやって来た。スナックお登勢は割合すぐ見つかった。その上に大きく万事屋銀ちゃんとかかった看板が印象的だ。一階と二階でお店が別れているのだろう。そんなことを考えながら扉を開けた。
「何か御用でしょうか」
そこでは礼儀正しさとどこか無機質さを孕んだ声が出迎えてくれた。メイド服風の着物を身に着け、その手にはモップが握られている。作り物のように均整の取れた顔立ちの従業員さんに私は会釈をした。
「こんにちは、お登勢さんにお届け物をしに来ました」
美しい彼女は「あなたが」そう言うと奥へ行ってしまった。お登勢さんを呼びに行ってくれたらしい。一二分も経たないうちにお登勢さんともう一人を連れて戻ってきてくれた。一人は電話で聞いたイメージとほど近い貫禄のある女の人、もう一人は頭から猫のような耳が生えている人だった。耳が動いていることから人工物でないことが確認できる。
「オ登勢サン、コウイウ純粋ソウナ見タ目の女がイチバン怖インデスヨ」
「初対面の子に何言ってんだい__梅から話は聞いてるよ。私がお登勢でこの失礼猫耳女がキャサリン、こっちは絡繰のたま。二人ともうちの従業員でよく働いてくれてるんだよ」
お登勢さんはキャサリンさんの頭を持っていた煙管で軽く叩きながら言った。キャサリンさんは少しの不満を滲ませるも何も言わない。力関係がはっきりとしている。絡繰なのだと言うたまさんは二人の後ろに控えるような形だった。
「なまえです。私も梅さんからお話は聞いています。お登勢さん、キャサリンさん、たまさん、よろしくお願いします」
キャサリンさんはお登勢さんが言うからだと釘を刺しながらも握手をしてくれるあたり何だかんだいい人なのだろう。お登勢さんとたまさんとも握手を交わす。たまさんの手の感触は人のものに酷似していてそれでもどこか違うような不思議なものだった。この世界では私の知る未来とはまた別の未来の可能性が開かれている。
「座りな。たまには喫茶店の娘が給仕される側になるのもいいんじゃないかい」
お登勢さんが持ってきたばかりの珈琲豆を使ってコーヒーをご馳走してくれると言ったので、言われるがままにカウンターについた。キャサリンさんが「イイ身分ダナ!」と片言な日本語で言いながらも準備してくれているところを見ると、なんだか彼女との接し方が分かってきたような気がする。
スナックだということもあってカウンター越しには沢山のお酒が並べられている。日本酒から洋酒までの多くのお酒が揃っており、沢山の人がここへ訪れていることが分かる。初めて来た場所だというのに、お登勢さんに話を聞いてもらう人の姿が思い浮かんだ。テレビではお登勢さんが夢中になっているという鬼平犯科帳が流されている。キャサリンさんとたまさんが何かを言い合う声、テレビのざわめき、煙草の匂い。それらは上手い具合に調和して私という存在をこの空間に溶け込ませてくれたような気がする。
お登勢さんがおもむろにテレビから目線をこちらに移した。吐き出した煙が天井に向かっていき空気に馴染んで消えていった。
「江戸には慣れたかい?」
「梅さんのお店で働くことには慣れたんですけど、まだあまり江戸に慣れたとは言えないかもしれません」
「長州に比べて江戸は騒がしいだろう」
「はい。人が多いのは勿論、発展していることにも少し驚きました」
「アンタはまだ若いんだから働くのも結構だけど遊ぶのも大事だよ。うちのたまも絡繰ってのもあるけど中々休みを取ろうとしなくてね……自分の住んでいるところを知ることも大事さね。次の休みにでもあの子と遊んでやってくれないかい」
「たまさんが良ければぜひ」
「いいに決まってるよ。あんな腐れ天パでなけりゃ誰でもね。ほら、コーヒーが出来たみたいだよ」
お登勢さんが言うようにキャサリンさんがコーヒーを、たまさんがケーキを渡してくれた。そのまま二人はカウンターに座り、キャサリンさんは同じようにコーヒーを、たまさんは何とオイルを手に取った。一口飲んでそれぞれがほっと身体を緩めた。味覚が失われてしまった私でもその場の雰囲気を味わうことが出来る。穏やかな午後の時間が流れる。
「ケーキまで頂いてしまって……ありがとうございます」
「イインダヨ。コノケーキハ家賃の肩代ワリニ回収シタヤツダカラナ」
「家賃?」
「二階に住んでいる方が家賃を滞納するのでたまにこうして品物を差し押さえるんです」
「なるほど……でもケーキって今日がその方の誕生日とか大切な記念日ではないんですか?」
「ないない。アイツは糖尿病予備軍の極度の甘党でケーキを回収したことも感謝して欲しいくらいだよ」
三人の慣れた様子から二階に住んでいる万事屋さんは困った人物なのだろう。それでも三人からは呆れと一緒にその人への親しみが表れているのだから、きっと人間的な魅力がある人だ。甘党と生活のあやふやささがどこか銀時くんを想像するから判定が甘くなっているのかもしれないけれど。
それからしばらくの間私はスナックお登勢でお喋りに興じた。お店の準備が始まる夕方になる前には帰ろうと決めていたから、お登勢さんが引き留めてくれたけれどお礼を言ってお店を出ることにした。喫茶店とはまた別の人間関係の広がりは新鮮で楽しかった。
「今日はかぶき町のスーパーに行こうかな」
せっかく出掛けたのだから、と思うけれど個人的な買い物に特に執着がないから喫茶店のための買い出しになる。お登勢さん達との出会いの余韻に浸りながらぼんやりと店先で思っていたら、突然右腕が引っ張られる感覚があった。珈琲豆の袋がなくなって随分と軽くなった鞄は簡単に地面に落ちた。私が起きたことを把握するよりも一連の原因が動く方が早かった。
「……なまえ」
震えていて、小さな声で、しかも掠れた弱弱しいものだった。それでも私の名前を確かに聞いた。その声が迷子の幼い子の響きを持っていたから思わず心配が口から零れる。
「あの、大丈夫ですか」
顔を上げてその人を誰なのか確認しようとしてもその人が私の肩口に頭を埋めてしまったからそれも叶わない。その人は恐る恐る私の名前をもう一度呼んだ。私が返事をすると腕に込められた力が強くなるのを感じる。痛覚があるのなら痛いと言っていたのだろう。
大人の男の人だった。でも態度は子どものようだった。その人から向けられる感情はぐちゃぐちゃしていてよく分からない。でも悪意や敵意といったような負の感情が一切感じられないせいか怖くはなかった。もしかしたらその人があまりにも必死に何かを呑み込んでいるようだったから、こちらは冷静になっているのかもしれない。
子ども達にしていたように背中を軽く叩くと一瞬びくりとしたけれど、すぐに身体の力が抜けていくのが分かった。それでも掴んだ右手は絶対離そうとしないのが子どものような強情さを感じさせる。
しばらくすると恐る恐る顔を上げたその人と目が合った。珍しい色素の薄いふわふわの髪の持ち主は揺れた瞳で私を一心に見つめている。お店のお客さんではないのにどこか初めて会った気がしないその人。安心させるように私は微笑みかけた。
「落ち着きましたか?」
「……あ、の、」
口を開閉させて言い淀むその人の顔を見つめていると朧気ながら出てきた一つの可能性が自分の中で繋がっていき、思わず口から出てしまった。
「あなたは銀時くん、坂田銀時くんのお父さんですか?」
私がそう言った時のその人の転びっぷりはまさに芸人と言う他ないほどにあっぱれだった。