原作編
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涙石
この喫茶店の主なお客さんはご近所さんで、彼らの多くが歩いてお店に訪れることもあり雨の日の客足は落ち着いている。今日は朝から土砂降りとまではいかないものの中々強い雨が降っているから、皆が家に籠っているのだろう。珍しくお店が閑散としていて何だかぼんやりしてしまう。一人の時間も好きだけれどこのお店に来る人はいい人達ばかりだから仕事が楽しいのだ。胸に燻る小さな寂しさに苦笑する。私は世界を超えてから人と心を通わすことを本当の意味で理解したような気がした。それは無条件で自分を受け入れてくれる家族や友達の元では気が付けなかったものだった。
家族、友達……そして世界を超えて出会った沢山の人達を思い浮かべて笑みを零す。人に恵まれた、と心からそう思う。私は運がいい。
そんなことを考えながらゆっくりと作業をしていると、レコードの再生が終わったことに気が付いた。お店で流れる音楽はレコードで再生されている。梅さんの趣味でクラシックが多いけれど、常連さんは各々自分の聴きたいレコードをお店に置いていくためプレイヤーの置かれた棚にはジャズからロックまで揃っている。今のところロックが流れたのを聴いたことはないけれど、いずれ誰かが流すのかもしれない。
音楽が止まり、雨音はより鮮明に耳を打つ。私はお客さんがいないこともありレコードを片付けることにした。針が上がっていることを確認しアームを動かした。そしてレコードを慎重にプレイヤーから外し、カバーとジャケットに入れていく。ジャケットにしまい終えた時には安心から息を吐いた。自分の不注意で壊してしまうわけにはいかないからだ。もしかしたらこの喫茶店で一番精神力を使うのがレコードの扱いかもしれない、なんて。
ちなみに片付けが難しいのなら準備も難しいのは道理で、何度首を傾げたのか分からない。常連さんは棚から思い思いのジャケットを引っ張ってきて、手慣れた調子で操作する。その人達は私が梅さんに扱いを教わっている時に、歪な音楽を流れたのを聞いて「始めは皆そんなものだ」と笑っていた。
私が早々にレコードを片付けたのは、雨音が聞きたいからだった。休憩も兼ねてカウンター席に座り雨音に耳を傾ける。目を瞑った。雨の日のどこか現世から離されたような感覚は私だけのものなのだろうか。もしそうならその感覚はどこから来たものなのだろう、と不思議に思った。雨が降り続いている。
***
夕方になっても雨は降り続いている。まだ閉店まで少し時間があるけれどお客さんはいないし来ることもないだろう、と。店を閉めようかと考えた矢先のことだった。濡れ鼠。そう形容するに相応しい人がお店のドアベルを鳴らした。
「……いいか」
固まっていたら低い声が私に尋ねた。その手に傘はなかった。
「少し待っていてください。タオルを持ってきますから」
初めてのお客さんが頷いたことを確認した私は、居住スペースに駆けたのだった。
片目に巻かれた包帯、煙管、気怠そうなその態度。どこか仄暗い雰囲気を纏ったその人の眼差しは分厚い氷河のように冷たくて、それでいて底の方には微かに光が差しているような不思議なものだった。秀眉、切長の目、ツンとした鼻、薄く形の良い唇が在るべき位置に収まっている。神様が手ずから作ったように整った顔立ちとミステリアスな雰囲気も相まって、独特な魅力がある。浮世離れしているその姿は小説や創作の登場人物のようだと思った。
青年が粗方身体を拭いたことを確認して濡れたタオルを受け取り、肩に掛けてください、そう言って新しいタオルを差し出した。青年は素直に言われた通りにタオルを肩に掛けた。
「あ、」
ようやく青年が席に腰を落ち着けた時、その前髪から一粒の雫が落ちるのを見付けた私は咄嗟にハンカチで拭った。カウンター越しに伸びた手に青年は虚を衝かれたような表情をしている。考えるより先に身体が動いていたとは言え、初対面で髪を撫で付けるように触れてしまったのは不躾だった。子ども達と接する時間が長かったせいか、無意識のうちに人との距離感を近く取ってしまうようだった。前にも同じようなことがあった気がする、その微かな引っ掛かりは申し訳なさに塗り替えられた。
「すみません。急に触れてしまって」
「別にいい……そういう奴を知ってる」
喉で笑うその人に許されたことを感じる。煙のように掴めない雰囲気こそあるものの懐の広い人なのだろう、と私は青年の印象を改めた。僅かに青年の眼差しが和らいだことが印象的だった。
「その知り合いの方のおかげで怒られなくてよかったです」
「怒られるのを気にするなんざ餓鬼じゃねェか」
「私は永遠の十八歳なので。あなたが言う通りまだ子どもなんですよ」
松陽さん達のもとで過ごした長い期間のうち、ついに私は一欠片も時を進めることがない姿のままだった。その中で永遠の十八歳というどこかのアイドルのような口上を冗談めいて言ってみせた他愛のない日々の記憶……今でもその口上は何となしに口から出てくるくらいには定番化していた。青年は頬杖をついて聞いていた。青年は手のひらを頬に付けるタイプらしい。
「永遠のって付いてる時点で実年齢を誤魔化してるだろ」
「本当に不老かもしれませんよ?」
「不老ねェ……それでも十八は餓鬼の年齢ではねェな」
「これは心情的にというか、世界観的な問題なんです」
「世界観、か」
ここでは青年の反応が正しいと理解しているからこそ私は曖昧に笑んだ。イレギュラーな技術面の進歩は果たしたものの、おおむねこの世界の風俗は江戸時代そのままだ。二百年後に生きた人間とは埋められない価値観の違いが存在する。私にとっていつまでも十八歳は未成年だった(ここでは自分が不思議体質であることには目を瞑っているけれど)
こんな風に真実を少しだけ混ぜて話すことは私にとっては慣れたもので、普通であれば軽口として流されるはずのものだった。ましてや暴こうとする人なんて今まではいなかったのだ。
「世界観なんておかしな言葉だな」
「そうですか?」
「……この世界の人間ではない、そう言っているように聞こえた」
だから何気ない話の流れで青年が零した言葉、それが私の心に動揺を生むには十分だった。青年の言葉は心の中を見透かされているのだろうか、そう思うほどに私の秘密の核心を突いていた。息を呑む私を青年の真っ直ぐな眼差しが貫いた。全てを知っているような瞳は松陽さんのものと重なったように見えた。心臓が跳ねた。
「世界観の違い、その理由は文字通り本当に違う世界で生れ落ちたことか?」
「、」
青年の問に対する私の反応は答えのようなものだった。私が真実を言ったところで誰も答えに辿り着くはずがなかった。冗談だと笑われるか狂人だと遠ざけられるのが関の山だったはずだった。ましてや初対面の人に捲られる秘密ではなかった。言葉に詰まってしまった私を放っておいて青年は滑らかに言葉を紡ぐ。
「こんな人間を店に置くことを許す抜けた思考と容易く他人に触れる警戒心のなさ。随分な箱入り娘もいたもんだな。どこぞの家出令嬢か平和ボケした国からやってきた天人か。アンタのいた世界は全部花畑で出来ているって言われようと信じられる」
「……あ。なるほど……花畑……そこまでファンシーな世界ではないですけど」
「どうだかな」
呆然とする私に青年は片頬を上げる。私はようやく私の指す世界と青年の指す世界というものが全く違うことに気が付いた。そこにあるのは安心だったのだと思う。青年にとって今の会話は単なる言葉遊びだったと分かり、肩から力が抜けていくのを感じた。頬を一度軽く叩いて深く息を吐いた。ゆるりと笑みを形作る。先程のことが嘘だったかのように青年の真っ直ぐな眼差しは降ろされた。
「……それで何にしましょうか。身体が冷えていると思いますから、温かい飲み物がいいと思いますよ」
「アンタに任せる」
「じゃあ私の好きなものにしちゃいますよ? 牛乳が大丈夫ならカフェオレが推しです。沢山練習したメニューの一つなので」
「それでいい」
目を伏せて返事をする青年に不思議な人だな、そう思う。冷淡そうでいてこちらに向ける声色はどこか柔らかく、こだわりが強そうで無頓着。聡明な眼差しはあの優しい陽の光を彷彿させるのに、暗く凍り付いている。矛盾を孕みながら成り立つ様子は在り方として酷く危うく思われた。初めて会ったお客さん。ただそれだけのはずなのに、気にかかるのは何故なのだろう。知りたい、というよりは知らなくてはならないという感情はこちらの世界で随分と板についてきたお節介、ただそれだけなのか私には分からなかった。
「完成するまでお喋りしていいですか?」
「……ああ。雨音もアンタの声で紛れる」
「普段はレコードでクラシックやジャズを流しているんです。今日はもうお店を閉めようとしていたので早々に片付けちゃいました……雨音は苦手ですか?」
「嫌いだ」
「……そうですか。じゃあ、今度からはあなたが雨の日にお店に来ても大丈夫なようにレコードを流しておきますね。始めは扱いが下手だったんですけど、最近は慣れてきたんですよ」
手元を動かしながら返事を待つ。雨音とサイフォンの炎の音に紛れて微かに息を吐く音が聞こえたような気がした。
「危機管理能力の低さをさっき言ってやったつもりだが、箱入りもここまで来たら真正か? 寺子屋に通う歳の奴でもアンタより利口だ」
「私よりも子ども達の方が賢いのは本当にそうかもしれません……子どもって凄いんですよ。私達が思っているよりも強くて、逞しくて、賢いんです……なんて、あなたが言いたいのはそういうことではないと分かってはいるんですけど」
夢と切り捨てるにはあまりにも長い時間を過ごしたこの世界は私からしたら物騒で恐ろしいところだ。しかしそんなこの世界の在り方に反して、危険とは程遠い環境で育った私には根本に呑気とも言える性質が植わっているのだろう。警戒心のなさから招いた別れには苦い思いもある。それでも私の平和で塗れた思考にわざわざ忠告めいたようなことをするこの人がただの悪い人にはどうしても思えないのだ。
「お店の売上を増やす為にもあなたに来ていただけたら嬉しいです。それに、常連さんの中にコーヒーの味をチェックしてくれる方がいるので、カフェオレ担当もいてくれると助かります」
冗談交じりにそう言って出来たカフェオレをカウンターに置いた。私の言葉に少しばかり目を細めて口角を上げた青年の一瞬のその表情は、呆れと共に何か別の感情を物語っているように見えた。その表情は今日見た青年の表情の中で一番人間らしく、それでいて大人らしいもののように思えた。
「気が向いたらな」
その日から青年は時折ふらりとお店に訪れることとなる。来る日には決まって雨が降っている。私は閉店間際に訪れる青年にカフェオレを淹れるのだ。雨と青年によって感じられるどこか日常とは切り離されたようなその一時を私は随分と気に入っている。
この喫茶店の主なお客さんはご近所さんで、彼らの多くが歩いてお店に訪れることもあり雨の日の客足は落ち着いている。今日は朝から土砂降りとまではいかないものの中々強い雨が降っているから、皆が家に籠っているのだろう。珍しくお店が閑散としていて何だかぼんやりしてしまう。一人の時間も好きだけれどこのお店に来る人はいい人達ばかりだから仕事が楽しいのだ。胸に燻る小さな寂しさに苦笑する。私は世界を超えてから人と心を通わすことを本当の意味で理解したような気がした。それは無条件で自分を受け入れてくれる家族や友達の元では気が付けなかったものだった。
家族、友達……そして世界を超えて出会った沢山の人達を思い浮かべて笑みを零す。人に恵まれた、と心からそう思う。私は運がいい。
そんなことを考えながらゆっくりと作業をしていると、レコードの再生が終わったことに気が付いた。お店で流れる音楽はレコードで再生されている。梅さんの趣味でクラシックが多いけれど、常連さんは各々自分の聴きたいレコードをお店に置いていくためプレイヤーの置かれた棚にはジャズからロックまで揃っている。今のところロックが流れたのを聴いたことはないけれど、いずれ誰かが流すのかもしれない。
音楽が止まり、雨音はより鮮明に耳を打つ。私はお客さんがいないこともありレコードを片付けることにした。針が上がっていることを確認しアームを動かした。そしてレコードを慎重にプレイヤーから外し、カバーとジャケットに入れていく。ジャケットにしまい終えた時には安心から息を吐いた。自分の不注意で壊してしまうわけにはいかないからだ。もしかしたらこの喫茶店で一番精神力を使うのがレコードの扱いかもしれない、なんて。
ちなみに片付けが難しいのなら準備も難しいのは道理で、何度首を傾げたのか分からない。常連さんは棚から思い思いのジャケットを引っ張ってきて、手慣れた調子で操作する。その人達は私が梅さんに扱いを教わっている時に、歪な音楽を流れたのを聞いて「始めは皆そんなものだ」と笑っていた。
私が早々にレコードを片付けたのは、雨音が聞きたいからだった。休憩も兼ねてカウンター席に座り雨音に耳を傾ける。目を瞑った。雨の日のどこか現世から離されたような感覚は私だけのものなのだろうか。もしそうならその感覚はどこから来たものなのだろう、と不思議に思った。雨が降り続いている。
***
夕方になっても雨は降り続いている。まだ閉店まで少し時間があるけれどお客さんはいないし来ることもないだろう、と。店を閉めようかと考えた矢先のことだった。濡れ鼠。そう形容するに相応しい人がお店のドアベルを鳴らした。
「……いいか」
固まっていたら低い声が私に尋ねた。その手に傘はなかった。
「少し待っていてください。タオルを持ってきますから」
初めてのお客さんが頷いたことを確認した私は、居住スペースに駆けたのだった。
片目に巻かれた包帯、煙管、気怠そうなその態度。どこか仄暗い雰囲気を纏ったその人の眼差しは分厚い氷河のように冷たくて、それでいて底の方には微かに光が差しているような不思議なものだった。秀眉、切長の目、ツンとした鼻、薄く形の良い唇が在るべき位置に収まっている。神様が手ずから作ったように整った顔立ちとミステリアスな雰囲気も相まって、独特な魅力がある。浮世離れしているその姿は小説や創作の登場人物のようだと思った。
青年が粗方身体を拭いたことを確認して濡れたタオルを受け取り、肩に掛けてください、そう言って新しいタオルを差し出した。青年は素直に言われた通りにタオルを肩に掛けた。
「あ、」
ようやく青年が席に腰を落ち着けた時、その前髪から一粒の雫が落ちるのを見付けた私は咄嗟にハンカチで拭った。カウンター越しに伸びた手に青年は虚を衝かれたような表情をしている。考えるより先に身体が動いていたとは言え、初対面で髪を撫で付けるように触れてしまったのは不躾だった。子ども達と接する時間が長かったせいか、無意識のうちに人との距離感を近く取ってしまうようだった。前にも同じようなことがあった気がする、その微かな引っ掛かりは申し訳なさに塗り替えられた。
「すみません。急に触れてしまって」
「別にいい……そういう奴を知ってる」
喉で笑うその人に許されたことを感じる。煙のように掴めない雰囲気こそあるものの懐の広い人なのだろう、と私は青年の印象を改めた。僅かに青年の眼差しが和らいだことが印象的だった。
「その知り合いの方のおかげで怒られなくてよかったです」
「怒られるのを気にするなんざ餓鬼じゃねェか」
「私は永遠の十八歳なので。あなたが言う通りまだ子どもなんですよ」
松陽さん達のもとで過ごした長い期間のうち、ついに私は一欠片も時を進めることがない姿のままだった。その中で永遠の十八歳というどこかのアイドルのような口上を冗談めいて言ってみせた他愛のない日々の記憶……今でもその口上は何となしに口から出てくるくらいには定番化していた。青年は頬杖をついて聞いていた。青年は手のひらを頬に付けるタイプらしい。
「永遠のって付いてる時点で実年齢を誤魔化してるだろ」
「本当に不老かもしれませんよ?」
「不老ねェ……それでも十八は餓鬼の年齢ではねェな」
「これは心情的にというか、世界観的な問題なんです」
「世界観、か」
ここでは青年の反応が正しいと理解しているからこそ私は曖昧に笑んだ。イレギュラーな技術面の進歩は果たしたものの、おおむねこの世界の風俗は江戸時代そのままだ。二百年後に生きた人間とは埋められない価値観の違いが存在する。私にとっていつまでも十八歳は未成年だった(ここでは自分が不思議体質であることには目を瞑っているけれど)
こんな風に真実を少しだけ混ぜて話すことは私にとっては慣れたもので、普通であれば軽口として流されるはずのものだった。ましてや暴こうとする人なんて今まではいなかったのだ。
「世界観なんておかしな言葉だな」
「そうですか?」
「……この世界の人間ではない、そう言っているように聞こえた」
だから何気ない話の流れで青年が零した言葉、それが私の心に動揺を生むには十分だった。青年の言葉は心の中を見透かされているのだろうか、そう思うほどに私の秘密の核心を突いていた。息を呑む私を青年の真っ直ぐな眼差しが貫いた。全てを知っているような瞳は松陽さんのものと重なったように見えた。心臓が跳ねた。
「世界観の違い、その理由は文字通り本当に違う世界で生れ落ちたことか?」
「、」
青年の問に対する私の反応は答えのようなものだった。私が真実を言ったところで誰も答えに辿り着くはずがなかった。冗談だと笑われるか狂人だと遠ざけられるのが関の山だったはずだった。ましてや初対面の人に捲られる秘密ではなかった。言葉に詰まってしまった私を放っておいて青年は滑らかに言葉を紡ぐ。
「こんな人間を店に置くことを許す抜けた思考と容易く他人に触れる警戒心のなさ。随分な箱入り娘もいたもんだな。どこぞの家出令嬢か平和ボケした国からやってきた天人か。アンタのいた世界は全部花畑で出来ているって言われようと信じられる」
「……あ。なるほど……花畑……そこまでファンシーな世界ではないですけど」
「どうだかな」
呆然とする私に青年は片頬を上げる。私はようやく私の指す世界と青年の指す世界というものが全く違うことに気が付いた。そこにあるのは安心だったのだと思う。青年にとって今の会話は単なる言葉遊びだったと分かり、肩から力が抜けていくのを感じた。頬を一度軽く叩いて深く息を吐いた。ゆるりと笑みを形作る。先程のことが嘘だったかのように青年の真っ直ぐな眼差しは降ろされた。
「……それで何にしましょうか。身体が冷えていると思いますから、温かい飲み物がいいと思いますよ」
「アンタに任せる」
「じゃあ私の好きなものにしちゃいますよ? 牛乳が大丈夫ならカフェオレが推しです。沢山練習したメニューの一つなので」
「それでいい」
目を伏せて返事をする青年に不思議な人だな、そう思う。冷淡そうでいてこちらに向ける声色はどこか柔らかく、こだわりが強そうで無頓着。聡明な眼差しはあの優しい陽の光を彷彿させるのに、暗く凍り付いている。矛盾を孕みながら成り立つ様子は在り方として酷く危うく思われた。初めて会ったお客さん。ただそれだけのはずなのに、気にかかるのは何故なのだろう。知りたい、というよりは知らなくてはならないという感情はこちらの世界で随分と板についてきたお節介、ただそれだけなのか私には分からなかった。
「完成するまでお喋りしていいですか?」
「……ああ。雨音もアンタの声で紛れる」
「普段はレコードでクラシックやジャズを流しているんです。今日はもうお店を閉めようとしていたので早々に片付けちゃいました……雨音は苦手ですか?」
「嫌いだ」
「……そうですか。じゃあ、今度からはあなたが雨の日にお店に来ても大丈夫なようにレコードを流しておきますね。始めは扱いが下手だったんですけど、最近は慣れてきたんですよ」
手元を動かしながら返事を待つ。雨音とサイフォンの炎の音に紛れて微かに息を吐く音が聞こえたような気がした。
「危機管理能力の低さをさっき言ってやったつもりだが、箱入りもここまで来たら真正か? 寺子屋に通う歳の奴でもアンタより利口だ」
「私よりも子ども達の方が賢いのは本当にそうかもしれません……子どもって凄いんですよ。私達が思っているよりも強くて、逞しくて、賢いんです……なんて、あなたが言いたいのはそういうことではないと分かってはいるんですけど」
夢と切り捨てるにはあまりにも長い時間を過ごしたこの世界は私からしたら物騒で恐ろしいところだ。しかしそんなこの世界の在り方に反して、危険とは程遠い環境で育った私には根本に呑気とも言える性質が植わっているのだろう。警戒心のなさから招いた別れには苦い思いもある。それでも私の平和で塗れた思考にわざわざ忠告めいたようなことをするこの人がただの悪い人にはどうしても思えないのだ。
「お店の売上を増やす為にもあなたに来ていただけたら嬉しいです。それに、常連さんの中にコーヒーの味をチェックしてくれる方がいるので、カフェオレ担当もいてくれると助かります」
冗談交じりにそう言って出来たカフェオレをカウンターに置いた。私の言葉に少しばかり目を細めて口角を上げた青年の一瞬のその表情は、呆れと共に何か別の感情を物語っているように見えた。その表情は今日見た青年の表情の中で一番人間らしく、それでいて大人らしいもののように思えた。
「気が向いたらな」
その日から青年は時折ふらりとお店に訪れることとなる。来る日には決まって雨が降っている。私は閉店間際に訪れる青年にカフェオレを淹れるのだ。雨と青年によって感じられるどこか日常とは切り離されたようなその一時を私は随分と気に入っている。