原作編
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暁闇
緑色の光に視界を覆われ、気が付いたら見知らぬ往来に一人立ち尽くしていた。緑色の光は死に瀕した私を新天地へと攫う。私は以前のように場面転換さながら土地を跳んだことを理解した……元の世界には帰れなかったようだ。
底知れぬ違和感に胸をざわめかせ、辺りをぐるりと見渡す。そして私はいくつかの気づきを得るのだった。
視界を手のひらで遮って、目を瞑り深呼吸を一つ。瞼を開く。指の間から見える世界は全てがモノクロで構成されている。私の世界は色彩を失ってしまったらしい。顔の前から手を退けて、頬をつねり、項垂れた。痛みを感じなくなったのは随分と前のことだった。
死を契機として訪れた今までの数々の変化が一本に繋がる。痛覚、味覚、そして色彩。死を経験する度に代償のように私は何かを失う……そしてまた生き永られるのだ。私の身体に傷はないけれど、失くしてしまった簪と乾いた血の目立つ着物が、自分の身に起こった出来事の証拠になった。
死に、世界を越える。これが夢でないのなら現実とは何なのだろう。何故私でなければいけなかったのだろう。
もう一度辺りをぐるりと見渡す。松陽さん達と暮らした世界で随分と馴染んだ和風建築、江戸時代の街の景色。しかしそこには時代錯誤な飛行船が飛び交い、遠くの方にはビルや私の元いた世界でも見たことのないような近代文明の塔が建っている。
「ここは、」
私の知る歴史ではなく、松陽さん達と過ごした世界の、少し先の未来の姿なのだろうか。長州にいた頃には片鱗こそあったもののこんな大それた文明の変化は起こっていなかったはずだった。白黒の単調な世界は古い映画を観ているようで、私の思考を少しぼうっとさせた。現実感がまるでなかった。
空の色は淡いことだけは分かる。薄い雲の間から覗く太陽の位置から、きっと早朝なのだろうと結論付ける。そう思うと、朝特有の眩くて澄んだ空気を感じる。小鳥の声を聞いた。胸に手を当てると確かにそこには生命の響きがあった。
不十分ながらも世界の形を自分の中で確かにしていく。両の足で地面を踏みしめていることを感じる。ここが松陽さん達と暮らしていた世界と地続きになっているのなら、また一緒にいられるのかもしれない。皆に近づいて行く足も、伸ばす手も私は持っている。
唇を引き結ぶ。涙は出なかった。
***
私が降り立ったのは憶測通り松陽さん達と過ごしたより少し先、十数年後の江戸であろうこと。天人が闊歩するここは文明開化が恐ろしく進んでおり、江戸にはもう既に自動車も電車もテレビも私の知るものは何だってあること。しかし江戸の街の殆どの建物は木造建築で、町人の服装の主体は和服でありこの文明開化は急ごしらえのものであること。
それらが宛てもなくさ迷う私の保護を申し入れてくれた、梅という名前のお婆さんの元で知ったこの世界の全てだ。
梅さんは神社仏閣の多い四谷で喫茶店を経営している。私を保護する少し前に奥州に住む息子さんのところで赤ちゃんが生まれたらしく、その世話を頼まれたものの店をどうするのか悩んでいたらしい。そして私を何なりと世話をしてくれた数週間の後に、店を私に任せ息子さんのところへ行くことを決めたのだった。
梅さんは穏やかで、年を重ねた人に見られるようなどこか悟ったような雰囲気を纏った人だ。即断で得体の知れない私の保護を決め、短い期間でお店を任せることも決めた。その信頼を裏切るようなことはしたくない。そう思う。
「じゃあ、お店をよろしくね」
「はい。梅さんも息子さんのところに行って元気な顔を見せてあげてください」
「とりあえず一二ヶ月で帰るとは思うけど、ありがとう。私のいない間もしっかり寝て、しっかり食べるんだよ」
「分かりました」
喫茶店の玄関で暫しの別れに言葉を交わす。
梅さんが出ていくとドアベルがカランと音をたてた。このお店のそういうところが昔ながらの喫茶店というイメージで私は気に入っている。(江戸時代にはそぐわないけれど)時計をちらりと見たら八時過ぎ。開店は十時だからそろそろ準備に取り掛からないといけない。
殆どの準備が終わり、仕上げにテーブルを拭きながら今後のことに思いを馳せる。
今回私が降り立った江戸から松下村塾のある長州の萩までは日本列島の半分ほどの距離がある。その距離を無一文で駆けるには少し無理があった。だから梅さんが帰ってくるまでの間恩を返すことも含めお店でしっかり働いて、梅さんが給料として提示してくれているお金から必要な分だけ受け取り萩に向かう。それまでの期間で出来ることならこの時代のことをより詳細に調べておくとより良いだろう。
迷子になった時の対処法はその場から動かないこと、そう言われるけれど手紙すら出せないこの状況なら直接行くしか手はない。私の世界に帰る手立てが不明瞭な今、希望は一つしかなかった。
全ての準備を終えた私が店先に出た時、太陽の眩しさに思わず目を細めた。色彩を失ってしまったけれど、光は感じ取れるのが不思議だった。人としての何かが抜け落ちていくような感覚に悲しいような、どこか寂しいような気持ちになっても太陽が全て溶かしてくれるような気がした。そんな時私は決まって松陽さんの陽だまりのような笑みを思い出す。
ドアに掛かったプレートをcloseからopenにひっくり返した時のことだった。ここ数週間で聞きなれた声が鼓膜を揺らした。
「なまえ さん」
「総悟さん。おはようございます。見廻り中ですか?」
「まあ、そんなとこで。今開いてやすか?」
「はい。今開いたところですよ」
軽く言葉を交わしてこの時代には珍しい西洋風の隊服に身を包んだ青年をお店に招き入れる。総悟さんはずっと前からの常連さんらしくお決まりの席がある。カウンター席の一番端っこ。ドリンク類を作る作業場と接しているその場所に座るのは殆どが常連さんで、お客さんの少ない時間は他愛のないお喋りをしながら時間を過ごす。総悟さんもその一人だった。
「上手いことコーヒーが淹れられるのか確認しやす」
「この間合格点だって言ってませんでした?」
「この間はこの間。今日は今日でィ」
片側の口角を器用に上げて笑う青年、沖田総悟。見目麗しいこの青年はこの若さにして、現代で言うところの警察である真選組の一番隊隊長を務めている。総悟さんの中には松陽さんに感じた歴史上の人物との間に存在する違和感と同じものがあった。
まず私の知っているのは新撰組であって真選組ではないし、それも江戸ではなく京都の治安維持を務める組織のはずだった。単なる考えすぎかと思いながらも図書館のパソコン(この時代はネット環境が私の世界と遜色ない程に整っている)で調べてみても、新撰組は存在せず見つかるのは真選組の記事ばかり。この世界が私の世界のパラレルワールドだという考えが生まれてもそこに証拠はない。私の中にある記憶だけでは誰に伝えることもできない。
しかし気がかりはそれだけではなかった。その時一緒に調べた安政の大獄……いや、寛政の大獄という事件。史実では吉田松陰の処刑が行われた事件によく似た名前のそれ。検索をかけても事件に対しては多くの人間が処刑されてしまったこと以上の情報は出てこなかった。
「えっと、コーヒー以外に何か注文はありますか?」
気を抜いていると思考が沈んでいくのは私の悪癖だ。慌てて総悟さんに向き直ると、総悟さんは頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「んー……たまごサンドで」
「注文はコーヒーとたまごサンドですね。コーヒーは食前か食後どっちに出しましょう」
「食後」
「分かりました」
注文の準備をする前にレモン水をコップに入れて総悟さんに差し出す。ガラス製のコースターを見て総悟さんは「赤色」と小さく零した。総悟さんは生まれもっての性質かどこか鋭いところがあり、出会って数日のうちに私の色彩異常を暴いてしまった。そしてそれが後天的であることを知ってからは私にさり気なく色を教えてくれるようになった。その度に私は嬉しくて笑ってしまうのだけど、総悟さんはどこかばつの悪いような顔をする。それでも私に色を教えることを止めない総悟さんは優しいと思う。
火を使わない簡単な料理なら奥のキッチンまで行かなくても作れるようになっている。この世界では天人の影響で早くに訪れた文明開化により、長州の頃の生活とは似ても似つかないくらいに生活が便利になった。慣れた手つきで注文の料理を作っていく。不便ではあったけれど、驚きのあった日々が懐かしい。どちらにもいいところがあった。
「どうぞ」
完成したたまごサンドを総悟さんに差し出した。たまごサンドはこの喫茶店の看板メニューの一つだ。梅さんのお手製のレシピ通りに作ったメニュー。常連さんには梅さんが私にお店を任せるまでに私が味覚を失って久しいことを伝えて、お店で出せるように料理の練習に付き合ってもらった期間がある。梅さん曰くその時の名残か普段は飲み物だけで済ませるような人が料理を頼んでくれるようになったらしい。誰がとは訊いていないから総悟さんがどちらかは分からないけれど。
「味はどうですか?」
「ん、合格でさァ」
「それなら良かったです」
お店ではクラシックのレコードが流れている。穏やかな曲調が心地いい。あまり触れたことのないように思われて、いざ聴いてみるとどこかで聞いたことがあると思うのがクラシック音楽の凄いところだ。意識しないうちにお店やCMで使われていたのだろう。
総悟さんは目を伏せて静かな様子でたまごサンドを食べている。改めてよく見ると睫毛が女の子と見紛うくらいに長く、パーツ一つ一つを取っても中性的で美しい造形をしていると思う。
「見惚れやした?」
いつから気が付いていたのか、顔を上げた総悟さんと目が合った。悪戯めいた柔らかな笑みに笑って頷いた。総悟さんは容姿こそどこか松陽さんを思わせるようなところがあるけれど、纏う雰囲気は子ども達の方に似ている。それが微笑ましく思えた。
「綺麗な顔だな、そう思って見てました」
「俺は顔立ちに関しては姉上に似てるって色んな奴から言われてたんでさァ」
「それは本当に綺麗な方なんでしょうね」
「当然」
そう言った総悟さんの表情がどこか遠くを見るような切なさを孕んだものだということに私は気が付いた。気が付いていながら何も分からない振りをしたけれど、それが正解だったかは分からない。
そんなことを考えているうちに新しいお客さんがやって来始めた。開店直後に来るお客さんは総悟さんくらいだけれど、お昼にかけて徐々に客足は伸びるのがいつもだ。
総悟さんと同じようにカウンターに座るお客さんもいれば、ゆったりとテーブル席に座るお客さんもいる。その人達にお水を配り注文を聞いて回った。私一人であることを皆が分かってくれていて、特別急かすような人がいないのが有難い。一通り全員から注文を訊き終わった私がカウンター内の作業場に戻った時、総悟さんのお皿は空になっていた。
「今、コーヒー淹れますね」
「……婆さんだけの時より客が増えてら」
「そんなことないと思いますよ」
「地獄耳」
「今の返事しちゃいけなかったですか?」
総悟さんに手で追い払われる。それを「早くコーヒーを作れ」という言葉に受け取った私はサイフォンの用意に取り掛かる。この喫茶店は昔ながらの雰囲気に違わず中々に本格派だ。インスタントとはまた違い、サイフォンを使うのは味わい深い。いくつかの工数を経て淹れるコーヒーに職人のような研ぎ澄まされた気持ちになる。立ち上ってくるコーヒーの香りにほっと息を吐いた。
「上手くいったみたいで何よりでさァ」
コーヒーをカップに注ぎ終わった時に総悟さんは言った。もしかしたらずっと見ていたのかもしれない。
「飲んでないのに分かるんですか?」
「俺は昔、プロコーヒー屋というあだ名で呼ばれてたらいいのになぁ」
「ただの希望じゃないですか」
「違いねェや」
総悟さんにコーヒーを出し、他のお客さんの分も運んでいく。喫茶店というだけあってここではコーヒーの注文が一番多い。それに合わせてかサイフォンも五杯まで淹れられるものを取り扱っている。ここで働くまではサイフォンに種類があることも知らなかった。何事も奥が深いと思わされる。
コーヒーを運び終えてからも軽食の注文がまだ残っている。カウンターに座るお客さんと時折言葉を交わしながら料理を作っていく。朝はモーニングセットを頼むお客さんも多く、奥のキッチンと行ったり来たりするため中々忙しい。充実した時間だ。
「あ、」
注文を粗方捌き終わった時、心を騒めかせるあのパトカーの音が近づいてくるのが分かった。ここ最近で聞きなれた音だ。総悟さんはお巡りさんはお巡りさんでも、どちらかと言えば不良お巡りさんなのだ。実のところ喫茶店に来るのもサボりの一環だ。
「呼ばれてますよ。お巡りさん」
「今日は日曜日だぜィ?」
「残念ながら月曜日ですよ。市民の生活を守ってください隊長さん……怪我だけにはどうか気を付けて」
文明が発達しても平和とまではいかないようで、この世界では凶悪な事件が日を経たずして起きている。廃刀令の後でも刀を持つことを許された武装警察真選組。それはこの世界を、時代を色濃く映した存在だ。身を賭して戦う彼らに私は敬意を抱くと共に恐れてもいる。それに総悟さんがそこに所属している以上他人事とは思えなかった。
「毎度そんな面することねェよ。雑魚蹴散らかすだけの楽な仕事に比べたらコーヒーを上手く淹れる方が俺にはよっぽど難しいや」
「……美味しかったですか?」
「いつも通りな」
「それなら良かったです」
返事を待たずして、総悟さんは出ていってしまった。カウンターには代金ピッタリのお金と、何故か激辛煎餅の袋。中には五枚ほどの煎餅が入っている。総悟さんの好物なのだろうか。
緑色の光に視界を覆われ、気が付いたら見知らぬ往来に一人立ち尽くしていた。緑色の光は死に瀕した私を新天地へと攫う。私は以前のように場面転換さながら土地を跳んだことを理解した……元の世界には帰れなかったようだ。
底知れぬ違和感に胸をざわめかせ、辺りをぐるりと見渡す。そして私はいくつかの気づきを得るのだった。
視界を手のひらで遮って、目を瞑り深呼吸を一つ。瞼を開く。指の間から見える世界は全てがモノクロで構成されている。私の世界は色彩を失ってしまったらしい。顔の前から手を退けて、頬をつねり、項垂れた。痛みを感じなくなったのは随分と前のことだった。
死を契機として訪れた今までの数々の変化が一本に繋がる。痛覚、味覚、そして色彩。死を経験する度に代償のように私は何かを失う……そしてまた生き永られるのだ。私の身体に傷はないけれど、失くしてしまった簪と乾いた血の目立つ着物が、自分の身に起こった出来事の証拠になった。
死に、世界を越える。これが夢でないのなら現実とは何なのだろう。何故私でなければいけなかったのだろう。
もう一度辺りをぐるりと見渡す。松陽さん達と暮らした世界で随分と馴染んだ和風建築、江戸時代の街の景色。しかしそこには時代錯誤な飛行船が飛び交い、遠くの方にはビルや私の元いた世界でも見たことのないような近代文明の塔が建っている。
「ここは、」
私の知る歴史ではなく、松陽さん達と過ごした世界の、少し先の未来の姿なのだろうか。長州にいた頃には片鱗こそあったもののこんな大それた文明の変化は起こっていなかったはずだった。白黒の単調な世界は古い映画を観ているようで、私の思考を少しぼうっとさせた。現実感がまるでなかった。
空の色は淡いことだけは分かる。薄い雲の間から覗く太陽の位置から、きっと早朝なのだろうと結論付ける。そう思うと、朝特有の眩くて澄んだ空気を感じる。小鳥の声を聞いた。胸に手を当てると確かにそこには生命の響きがあった。
不十分ながらも世界の形を自分の中で確かにしていく。両の足で地面を踏みしめていることを感じる。ここが松陽さん達と暮らしていた世界と地続きになっているのなら、また一緒にいられるのかもしれない。皆に近づいて行く足も、伸ばす手も私は持っている。
唇を引き結ぶ。涙は出なかった。
***
私が降り立ったのは憶測通り松陽さん達と過ごしたより少し先、十数年後の江戸であろうこと。天人が闊歩するここは文明開化が恐ろしく進んでおり、江戸にはもう既に自動車も電車もテレビも私の知るものは何だってあること。しかし江戸の街の殆どの建物は木造建築で、町人の服装の主体は和服でありこの文明開化は急ごしらえのものであること。
それらが宛てもなくさ迷う私の保護を申し入れてくれた、梅という名前のお婆さんの元で知ったこの世界の全てだ。
梅さんは神社仏閣の多い四谷で喫茶店を経営している。私を保護する少し前に奥州に住む息子さんのところで赤ちゃんが生まれたらしく、その世話を頼まれたものの店をどうするのか悩んでいたらしい。そして私を何なりと世話をしてくれた数週間の後に、店を私に任せ息子さんのところへ行くことを決めたのだった。
梅さんは穏やかで、年を重ねた人に見られるようなどこか悟ったような雰囲気を纏った人だ。即断で得体の知れない私の保護を決め、短い期間でお店を任せることも決めた。その信頼を裏切るようなことはしたくない。そう思う。
「じゃあ、お店をよろしくね」
「はい。梅さんも息子さんのところに行って元気な顔を見せてあげてください」
「とりあえず一二ヶ月で帰るとは思うけど、ありがとう。私のいない間もしっかり寝て、しっかり食べるんだよ」
「分かりました」
喫茶店の玄関で暫しの別れに言葉を交わす。
梅さんが出ていくとドアベルがカランと音をたてた。このお店のそういうところが昔ながらの喫茶店というイメージで私は気に入っている。(江戸時代にはそぐわないけれど)時計をちらりと見たら八時過ぎ。開店は十時だからそろそろ準備に取り掛からないといけない。
殆どの準備が終わり、仕上げにテーブルを拭きながら今後のことに思いを馳せる。
今回私が降り立った江戸から松下村塾のある長州の萩までは日本列島の半分ほどの距離がある。その距離を無一文で駆けるには少し無理があった。だから梅さんが帰ってくるまでの間恩を返すことも含めお店でしっかり働いて、梅さんが給料として提示してくれているお金から必要な分だけ受け取り萩に向かう。それまでの期間で出来ることならこの時代のことをより詳細に調べておくとより良いだろう。
迷子になった時の対処法はその場から動かないこと、そう言われるけれど手紙すら出せないこの状況なら直接行くしか手はない。私の世界に帰る手立てが不明瞭な今、希望は一つしかなかった。
全ての準備を終えた私が店先に出た時、太陽の眩しさに思わず目を細めた。色彩を失ってしまったけれど、光は感じ取れるのが不思議だった。人としての何かが抜け落ちていくような感覚に悲しいような、どこか寂しいような気持ちになっても太陽が全て溶かしてくれるような気がした。そんな時私は決まって松陽さんの陽だまりのような笑みを思い出す。
ドアに掛かったプレートをcloseからopenにひっくり返した時のことだった。ここ数週間で聞きなれた声が鼓膜を揺らした。
「なまえ さん」
「総悟さん。おはようございます。見廻り中ですか?」
「まあ、そんなとこで。今開いてやすか?」
「はい。今開いたところですよ」
軽く言葉を交わしてこの時代には珍しい西洋風の隊服に身を包んだ青年をお店に招き入れる。総悟さんはずっと前からの常連さんらしくお決まりの席がある。カウンター席の一番端っこ。ドリンク類を作る作業場と接しているその場所に座るのは殆どが常連さんで、お客さんの少ない時間は他愛のないお喋りをしながら時間を過ごす。総悟さんもその一人だった。
「上手いことコーヒーが淹れられるのか確認しやす」
「この間合格点だって言ってませんでした?」
「この間はこの間。今日は今日でィ」
片側の口角を器用に上げて笑う青年、沖田総悟。見目麗しいこの青年はこの若さにして、現代で言うところの警察である真選組の一番隊隊長を務めている。総悟さんの中には松陽さんに感じた歴史上の人物との間に存在する違和感と同じものがあった。
まず私の知っているのは新撰組であって真選組ではないし、それも江戸ではなく京都の治安維持を務める組織のはずだった。単なる考えすぎかと思いながらも図書館のパソコン(この時代はネット環境が私の世界と遜色ない程に整っている)で調べてみても、新撰組は存在せず見つかるのは真選組の記事ばかり。この世界が私の世界のパラレルワールドだという考えが生まれてもそこに証拠はない。私の中にある記憶だけでは誰に伝えることもできない。
しかし気がかりはそれだけではなかった。その時一緒に調べた安政の大獄……いや、寛政の大獄という事件。史実では吉田松陰の処刑が行われた事件によく似た名前のそれ。検索をかけても事件に対しては多くの人間が処刑されてしまったこと以上の情報は出てこなかった。
「えっと、コーヒー以外に何か注文はありますか?」
気を抜いていると思考が沈んでいくのは私の悪癖だ。慌てて総悟さんに向き直ると、総悟さんは頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「んー……たまごサンドで」
「注文はコーヒーとたまごサンドですね。コーヒーは食前か食後どっちに出しましょう」
「食後」
「分かりました」
注文の準備をする前にレモン水をコップに入れて総悟さんに差し出す。ガラス製のコースターを見て総悟さんは「赤色」と小さく零した。総悟さんは生まれもっての性質かどこか鋭いところがあり、出会って数日のうちに私の色彩異常を暴いてしまった。そしてそれが後天的であることを知ってからは私にさり気なく色を教えてくれるようになった。その度に私は嬉しくて笑ってしまうのだけど、総悟さんはどこかばつの悪いような顔をする。それでも私に色を教えることを止めない総悟さんは優しいと思う。
火を使わない簡単な料理なら奥のキッチンまで行かなくても作れるようになっている。この世界では天人の影響で早くに訪れた文明開化により、長州の頃の生活とは似ても似つかないくらいに生活が便利になった。慣れた手つきで注文の料理を作っていく。不便ではあったけれど、驚きのあった日々が懐かしい。どちらにもいいところがあった。
「どうぞ」
完成したたまごサンドを総悟さんに差し出した。たまごサンドはこの喫茶店の看板メニューの一つだ。梅さんのお手製のレシピ通りに作ったメニュー。常連さんには梅さんが私にお店を任せるまでに私が味覚を失って久しいことを伝えて、お店で出せるように料理の練習に付き合ってもらった期間がある。梅さん曰くその時の名残か普段は飲み物だけで済ませるような人が料理を頼んでくれるようになったらしい。誰がとは訊いていないから総悟さんがどちらかは分からないけれど。
「味はどうですか?」
「ん、合格でさァ」
「それなら良かったです」
お店ではクラシックのレコードが流れている。穏やかな曲調が心地いい。あまり触れたことのないように思われて、いざ聴いてみるとどこかで聞いたことがあると思うのがクラシック音楽の凄いところだ。意識しないうちにお店やCMで使われていたのだろう。
総悟さんは目を伏せて静かな様子でたまごサンドを食べている。改めてよく見ると睫毛が女の子と見紛うくらいに長く、パーツ一つ一つを取っても中性的で美しい造形をしていると思う。
「見惚れやした?」
いつから気が付いていたのか、顔を上げた総悟さんと目が合った。悪戯めいた柔らかな笑みに笑って頷いた。総悟さんは容姿こそどこか松陽さんを思わせるようなところがあるけれど、纏う雰囲気は子ども達の方に似ている。それが微笑ましく思えた。
「綺麗な顔だな、そう思って見てました」
「俺は顔立ちに関しては姉上に似てるって色んな奴から言われてたんでさァ」
「それは本当に綺麗な方なんでしょうね」
「当然」
そう言った総悟さんの表情がどこか遠くを見るような切なさを孕んだものだということに私は気が付いた。気が付いていながら何も分からない振りをしたけれど、それが正解だったかは分からない。
そんなことを考えているうちに新しいお客さんがやって来始めた。開店直後に来るお客さんは総悟さんくらいだけれど、お昼にかけて徐々に客足は伸びるのがいつもだ。
総悟さんと同じようにカウンターに座るお客さんもいれば、ゆったりとテーブル席に座るお客さんもいる。その人達にお水を配り注文を聞いて回った。私一人であることを皆が分かってくれていて、特別急かすような人がいないのが有難い。一通り全員から注文を訊き終わった私がカウンター内の作業場に戻った時、総悟さんのお皿は空になっていた。
「今、コーヒー淹れますね」
「……婆さんだけの時より客が増えてら」
「そんなことないと思いますよ」
「地獄耳」
「今の返事しちゃいけなかったですか?」
総悟さんに手で追い払われる。それを「早くコーヒーを作れ」という言葉に受け取った私はサイフォンの用意に取り掛かる。この喫茶店は昔ながらの雰囲気に違わず中々に本格派だ。インスタントとはまた違い、サイフォンを使うのは味わい深い。いくつかの工数を経て淹れるコーヒーに職人のような研ぎ澄まされた気持ちになる。立ち上ってくるコーヒーの香りにほっと息を吐いた。
「上手くいったみたいで何よりでさァ」
コーヒーをカップに注ぎ終わった時に総悟さんは言った。もしかしたらずっと見ていたのかもしれない。
「飲んでないのに分かるんですか?」
「俺は昔、プロコーヒー屋というあだ名で呼ばれてたらいいのになぁ」
「ただの希望じゃないですか」
「違いねェや」
総悟さんにコーヒーを出し、他のお客さんの分も運んでいく。喫茶店というだけあってここではコーヒーの注文が一番多い。それに合わせてかサイフォンも五杯まで淹れられるものを取り扱っている。ここで働くまではサイフォンに種類があることも知らなかった。何事も奥が深いと思わされる。
コーヒーを運び終えてからも軽食の注文がまだ残っている。カウンターに座るお客さんと時折言葉を交わしながら料理を作っていく。朝はモーニングセットを頼むお客さんも多く、奥のキッチンと行ったり来たりするため中々忙しい。充実した時間だ。
「あ、」
注文を粗方捌き終わった時、心を騒めかせるあのパトカーの音が近づいてくるのが分かった。ここ最近で聞きなれた音だ。総悟さんはお巡りさんはお巡りさんでも、どちらかと言えば不良お巡りさんなのだ。実のところ喫茶店に来るのもサボりの一環だ。
「呼ばれてますよ。お巡りさん」
「今日は日曜日だぜィ?」
「残念ながら月曜日ですよ。市民の生活を守ってください隊長さん……怪我だけにはどうか気を付けて」
文明が発達しても平和とまではいかないようで、この世界では凶悪な事件が日を経たずして起きている。廃刀令の後でも刀を持つことを許された武装警察真選組。それはこの世界を、時代を色濃く映した存在だ。身を賭して戦う彼らに私は敬意を抱くと共に恐れてもいる。それに総悟さんがそこに所属している以上他人事とは思えなかった。
「毎度そんな面することねェよ。雑魚蹴散らかすだけの楽な仕事に比べたらコーヒーを上手く淹れる方が俺にはよっぽど難しいや」
「……美味しかったですか?」
「いつも通りな」
「それなら良かったです」
返事を待たずして、総悟さんは出ていってしまった。カウンターには代金ピッタリのお金と、何故か激辛煎餅の袋。中には五枚ほどの煎餅が入っている。総悟さんの好物なのだろうか。