虚との出会い〜松下村塾編
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落花
幼い頃から保証された豊かな暮らしの中にいた私は、そこにあるものを何も考えずに消費するだけでよかった。聳え立つビル群に囲まれ、電車に乗り、学校で相応の教育を受け、家に帰ってもスマホを開けば友達の言葉がそこにある。
私が抱える悩みは人生の本質に関わるようなもの、例えば生死だとか、哲学者の考えるような自分の存在のことではなくて、せいぜい学校の成績や友達関係についてだった。
ハリボテに見えることもあるけれど、日本は豊かな国だった。戦争や飢餓に代表されるような脅威は画面の向こうの世界の話で、私はずっと思考停止で生きることを許されていた。何となく生きられることが普通のことだったのだ。
しかし、私の人生は何の変哲もないある日を境に大きく変貌を遂げることになる。
亜麻色の少年との出会いから始まる一連の出来事は、ただの夢だと片付ける方が理にかなっているのかもしれない。
私は世界を跳んだ。私が存在するのはビル群に囲まれた日本の都市ではなく、天人という特殊な存在により文明が開かれた江戸時代だった。
その江戸時代で私は当然のことながら行く宛てがなかった。そんな私は松陽さんに拾われ、子どもたちによって孤独を癒された。私はこの世界で長い時間を過ごした。出会った時には私の腰の上ほどしかなかった子どもたちの背丈は、いつの間にか私を越していた。
すくすくと成長する子どもたちに反して、私はこちらの世界に来てからというもの身体的な変化は一欠片さえなかった。そのことは私がこの世界の住民でないことの何よりの証明に思われた。
それでも私はこの世界を愛していた。生活は不便だと思うこともあったけれどそれ以上に四季の濃淡の美しさ、子どもの成長の尊さ、その日を生きる命の輝きをこの目で見ることができた。毎日が新鮮で心が洗われるような思いだった。この世界はとても美しかった。
たとえ元の世界へ帰れなかったとしてもこの人達が一緒ならば大丈夫だろう、そんな思いはいつしか私の胸の中に確かに存在していた。松陽さんと子どもたちと出会ったこの世界が幻想のものであったとしても、忘れることがないようにと願った。
しかし、出会いがあれば別れが来ることは必然であること。それは元の世界でも変わらない。ただ、その幕切れは私が望むような形で訪れなかったことが残念だった。
霞む視界は私の命がもう残り僅かであることを示していた。立つこともままならない私の身体からは止めどなく紅血が溢れている。
買い忘れの為に街へ出たところ、その帰りに大荷物を持ったお婆さんに出会いお供を申し出た。お婆さんの家は予想よりも遠く、着いた頃には辺りは薄暗かった。お婆さんはしきりに礼を言い、危ないから泊まっていくことを勧めてくれた。けれど私は松陽さんや皆に何も伝えていないため、急いで帰ることにしたのだ。
何が悪いと言えば、私がこの時代の本質を見誤っていたことだろうか。試し斬り、そんな狂気の沙汰によって私の身体は崩れ落ちた。
髪を引っ張られ林に連れていかれたために、松陽さんから貰った簪は外れてしまった。充分に機能していない目は大切なものを手繰り寄せることも出来ない。月が曖昧な境界で空に浮かんでいる。風が頬を撫で、涼やかな虫の声が耳を通り過ぎた。完全に地面に身体を委ねると、土の感触が伝わってくる。全身が冷やされていくようだった。
私を斬り捨てた破落戸は去り残された私は死を待つばかりだ。溢れ出る血は命に等しい。痛みがないのに、現実として私の身体は徐々に力を失っていく。呼吸が短く浅くなる。それなのに痛覚のように私の心も鈍ってしまったのだろうか。死を前に私の心は不思議なほどに凪いでいた。
松陽さんに拾われる前にも似たようなことがあったけれど、次はどこへ行くのだろう。私は元の世界に帰れるのだろうか、それともまた別の世界へ跳ぶのだろうか……どこにも行けないのだろうか。
ぼんやりとしてきた頭で最後に思う。松陽さんや子どもたちの未来が素敵なものでありますように。そして、あなた達のことを愛した私のことを記憶の奥底にでも置いていてくれますように。
意識がひび割れて瓦解していく。全てが無に還る刹那。それでも過ぎ去った日々は永遠なのだと信じたかった。
視界が緑の光で満たされる。緑の光は私の全てを呑み込んでいくようだった。そういえば始まりもこの光だった。
幼い頃から保証された豊かな暮らしの中にいた私は、そこにあるものを何も考えずに消費するだけでよかった。聳え立つビル群に囲まれ、電車に乗り、学校で相応の教育を受け、家に帰ってもスマホを開けば友達の言葉がそこにある。
私が抱える悩みは人生の本質に関わるようなもの、例えば生死だとか、哲学者の考えるような自分の存在のことではなくて、せいぜい学校の成績や友達関係についてだった。
ハリボテに見えることもあるけれど、日本は豊かな国だった。戦争や飢餓に代表されるような脅威は画面の向こうの世界の話で、私はずっと思考停止で生きることを許されていた。何となく生きられることが普通のことだったのだ。
しかし、私の人生は何の変哲もないある日を境に大きく変貌を遂げることになる。
亜麻色の少年との出会いから始まる一連の出来事は、ただの夢だと片付ける方が理にかなっているのかもしれない。
私は世界を跳んだ。私が存在するのはビル群に囲まれた日本の都市ではなく、天人という特殊な存在により文明が開かれた江戸時代だった。
その江戸時代で私は当然のことながら行く宛てがなかった。そんな私は松陽さんに拾われ、子どもたちによって孤独を癒された。私はこの世界で長い時間を過ごした。出会った時には私の腰の上ほどしかなかった子どもたちの背丈は、いつの間にか私を越していた。
すくすくと成長する子どもたちに反して、私はこちらの世界に来てからというもの身体的な変化は一欠片さえなかった。そのことは私がこの世界の住民でないことの何よりの証明に思われた。
それでも私はこの世界を愛していた。生活は不便だと思うこともあったけれどそれ以上に四季の濃淡の美しさ、子どもの成長の尊さ、その日を生きる命の輝きをこの目で見ることができた。毎日が新鮮で心が洗われるような思いだった。この世界はとても美しかった。
たとえ元の世界へ帰れなかったとしてもこの人達が一緒ならば大丈夫だろう、そんな思いはいつしか私の胸の中に確かに存在していた。松陽さんと子どもたちと出会ったこの世界が幻想のものであったとしても、忘れることがないようにと願った。
しかし、出会いがあれば別れが来ることは必然であること。それは元の世界でも変わらない。ただ、その幕切れは私が望むような形で訪れなかったことが残念だった。
霞む視界は私の命がもう残り僅かであることを示していた。立つこともままならない私の身体からは止めどなく紅血が溢れている。
買い忘れの為に街へ出たところ、その帰りに大荷物を持ったお婆さんに出会いお供を申し出た。お婆さんの家は予想よりも遠く、着いた頃には辺りは薄暗かった。お婆さんはしきりに礼を言い、危ないから泊まっていくことを勧めてくれた。けれど私は松陽さんや皆に何も伝えていないため、急いで帰ることにしたのだ。
何が悪いと言えば、私がこの時代の本質を見誤っていたことだろうか。試し斬り、そんな狂気の沙汰によって私の身体は崩れ落ちた。
髪を引っ張られ林に連れていかれたために、松陽さんから貰った簪は外れてしまった。充分に機能していない目は大切なものを手繰り寄せることも出来ない。月が曖昧な境界で空に浮かんでいる。風が頬を撫で、涼やかな虫の声が耳を通り過ぎた。完全に地面に身体を委ねると、土の感触が伝わってくる。全身が冷やされていくようだった。
私を斬り捨てた破落戸は去り残された私は死を待つばかりだ。溢れ出る血は命に等しい。痛みがないのに、現実として私の身体は徐々に力を失っていく。呼吸が短く浅くなる。それなのに痛覚のように私の心も鈍ってしまったのだろうか。死を前に私の心は不思議なほどに凪いでいた。
松陽さんに拾われる前にも似たようなことがあったけれど、次はどこへ行くのだろう。私は元の世界に帰れるのだろうか、それともまた別の世界へ跳ぶのだろうか……どこにも行けないのだろうか。
ぼんやりとしてきた頭で最後に思う。松陽さんや子どもたちの未来が素敵なものでありますように。そして、あなた達のことを愛した私のことを記憶の奥底にでも置いていてくれますように。
意識がひび割れて瓦解していく。全てが無に還る刹那。それでも過ぎ去った日々は永遠なのだと信じたかった。
視界が緑の光で満たされる。緑の光は私の全てを呑み込んでいくようだった。そういえば始まりもこの光だった。