ついた嘘はたった一つだけ
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この間私の心を大いに騒がせた幻太郎くんの処女作は、世間におおよそ好意的に受け入れられた。本人から聞いたところによると、発売間もないにも関わらずファンレターも届いたらしい。本屋に行けば割合目立つところに本が置かれている。キャッチフレーズは新進気鋭の作家といったところだろうか。
本人より私が浮かれてしまっていて見かける度に購入するものだから、私の部屋の机の上にはその本の小さな山ができあがってしまった。それをぼうっと眺めていたけれど、これは少し問題かもしれない。思い立ったら吉日ということで、私は珍しく家にいる母に積み重なった本達を渡すことにしたのだった。母は仕事柄知り合いが多いから配ってもらおう、そう考えた。
屋敷と形容するのが正しい我が家は、移動するのにそこそこ歩かなくてはならない。途中出会ったお手伝いさんは何かあれば、と言ってくれたけれど完全な私用のため断った。
そして、そうこうしているうちに母の部屋に着いたのだった。
失礼します、とドアをノックする。凛とした声で入室を促された。母の声を聞くといつだって私の背はピンと伸びる。
「何の用事?と言いたいところだけど、手に持っているものかしら?」
「わかっちゃいますか?」
「娘のことだもの」
仮にも休みの日なのに、机に向かいっぱなしだった母はそこでようやく顔を上げた。そして取り掛かっていた資料を脇によけて、見せて、と言った。私は開けられたスペースに本を置いた。母がそれを手に取るのは早かった。ただその後言われる言葉は予想外だったけれど。
「なるほど。この出版社だったら使えるコネがあるわ。作家との対談は早くて一週間後くらいに叶えられると思うけれど」
「えっ」
「一週間後じゃちょっと遅かったかしら?会いたい気持ちはわからないでもないけど、三日は待って頂戴」
「ちが、違いますよ!その作家さんとどうこうしたいとかは一切なくて……!ただ、買いすぎちゃったのでお母さんの知り合いの方に配ってもらえたらと!」
慌てて否定すれば、あら、そうだったの、なんてケロッとした調子で母は言った。思考レベルの違いに内心脱力。世界を越えた私だけれどそれでも母は規格外だ。
「まあ、配るくらいだったらいいわよ。他ならぬ娘の頼みだもの」
「ありがとうございます」
予想外の事態はあったものの、当初の目的は果たされることになった。そしてそのまま出ていこうとした私を母は引き留めたのだった。
「、どうかされましたか?」
「これは少し前に来た話なのだけど、新進気鋭の画家を集めた展覧会がそう遠くないうちに開かれるらしくて。貴女の絵を是非って声が掛かっているの。断れない相手じゃないけれど、少し面倒で。でも、貴女がしたいようにすればいいわ」
「……私の絵は、」
幻太郎くんは私の絵を駄作ではないと、愛おしさを感じたとさえ言ってくれた。それでも戸惑いがあるのは自分の絵と自分自身を責め続けた期間が長すぎたからだ。
母は笑った。しょうがない、とでも言うように。それはいつかの幻太郎くんの表情に似ているような気がした。
「物事に価値なんてものあってないようなものよ。価値なんてもの場所や時代によっていつだって変動するのだから。誰かに価値を見出されるのは貴女が思っているよりも幸運なこと。それだけでも貴女は知るべきね。そして親としての欲を言うとすれるならば、貴女が自分自身に対して自信をもってくれたらこれ以上言うことはないのだけれど」
その言葉はこの人は本当に私の親なのだ、そんな当たり前のことを私に改めて実感させた。母の言うように私は幸運に違いなかった。私にはこんなにも近くに居場所があったのだ。私の知っている家族の形と随分と違うけれど、私の気がつくより前から正しく家族だったのだ。
「お母さん、ありがとう」
「お礼を言われるようなことなんて今のことで何かあったかしら?」
母はいつだってそうだった。絵画を続けたいと言った時も同じだった。行動一つ言動一つで人を救うのにそれを特別なことだとは思わない。だからこそ私は信じてみようと思えるのだ。
「あのね、私、展覧会に出てみたい。お母さんの言葉を聞いていたら大丈夫だ……って思えたんです。それに前に私の絵を受け入れて正面からぶつかってきてくれた人がいるから」
母は驚いたような顔をした。それでもその後に見せた表情は今まで見たこともないくらいに嬉しそうだった。その表情を見ていると問題に正解した子どものような気持ちになった。清々しい空気が部屋を包んでいるようにも思えた。
***
職業作家への道を着実に歩み始めた幻太郎くんだけれど、日々の連絡を始めとして月に一度、ないしは二三度の約束は続いている。私が展覧会に自分で参加することを決めた、と言うと幻太郎くんは意外なほどに喜んでくれた。(それでも彼の性格上表に大いに出ることはなかったけれど)展覧会というのに少し苦い思い出がある私たちだけれど、もうそれは大丈夫なのだと思う。その証拠に私は幻太郎くんを自分から誘うことが出来たのだから。
「あの日みたいにはなりませんよね?」
「にやつきが抑えられていませんけど」
「あの日の小生の絶望ときたら中々表現するのも戸惑うくらいにはすごいものでしたからねえ。そしてあなたが図書館に来なくなってからも何度足を運んだことか」
「その節は、その節は……!」
「よしよし。とりあえずこの辺にしておきましょうか」
「これ一生言われるやつ……!」
呻いている私の頭を軽く叩く幻太郎くん。入場者の確認は私達の番になったらしい。受付の人が微笑ましい目で私達を見ていた。慌ててチケットを提示する。
「仲がよろしいんですね。では、これがこの展覧会のパンフレットになります」
「いや、あの……ありがとうございます」
「見ての通り仲はとってもよろしいんですよ」
「幻太郎くん!」
「ふふ、ではお楽しみくださいませ」
小突いても幻太郎くんはどこ吹く風だ。それに細身のくせして体幹がしっかりしているのかびくともしない。やるだけ無駄。このままでは私が疲れるだけだと悟ってすぐにささやかな復讐はやめることにした。敗北感がすごい。
「じゃあ、どこから回りますか?」
「小生は別にどこでもいいですけど……なんて、言うと思いました?」
「と、言うと?」
「今回の目的はたった一つ、あなたの絵を見ることですよ」
「ひえ」
「ひえ、じゃないぞ。この螺子欠け」
「この歳になってまた直球な悪口を言われるなんて……別に関係のないところから回ってもいいじゃないですか」
「私はあなたが直前になって決意が鈍る、他些細なことでなすべきことから逃げ出さないか心配しているんですよ。一応情で聞いてあげますが、反論は?」
「全くありません……」
「素直でよろしい」
この先する機会があるのかはわからないけれど、TRPGで幻太郎くんは言いくるめに数値を大分振ることを確信した。対抗ロールすらさせてもらえないなんて……殺生な……。
幻太郎くんに背を押されるように来た会場は中々広かった。だから思ったより人は分散しているようだった。目的に歩を進める中、私以外の出展者の作品をちらりと見やると、なるほど、新進気鋭と母に言われた通り近頃よく耳にする名がちらほらあった。今回の展覧会は一人が複数の作品を提出している。だから見覚えのある作品もいくつか。そうなると私の中に小さな懸念が生まれるわけで。
「うーん……」
「どうかされましたか?」
「どうやらここにある作品のほとんどが著名な画家の下で指導を受けている……ざっくり言えば師弟関係なんですよね。私にも先生はいますが、その画風を受け継ぐものではないので、少しの場違い感を」
「いまになってそんなことで悩んでいると?」
「まあ、」
「あなたは些か思考が後ろ向きすぎる。別に大丈夫ですよ、ほら……」
幻太郎くんが指し示す先には私の絵があった。
そしてその前には私達よりも少し歳が上だろう男の人が立っていた。考えているうちに目的地まで着いたようだ。
男の人は立ち去る素振りを見せなかった。私達は少し離れたところでそれを見ていた。何故だかどちらもその場から離れようとしなかった。そうやってどれほどの時間が過ぎたのだろう。男の人からポツリと漏れ出た言葉を私は聞いた。その言葉は幻太郎くんにも届いていたらしい。そして何かの証明となったようだった。
「ね、だから前言った通りだ」
「……え?」
「あの絵を見て、感じた切ないまでの愛おしさを嘘だとは言わせない、と前に僕は言った。あなたの絵は人を惹きつけてやまない。あなたの絵はこれから世界に見つけられていきます」
そう話していると男の人に動きがあった。しかし男の人は踏み出しかけた足をもう一度戻す。そして絵をまたしばらく眺めた後に去っていった。その後ろ姿には形容し難いけれど、強い力のようなものを感じた。生命力、と言ったらいいのだろうか。
今度は私達が絵の前に立った。私が描いた一番新しい絵。出来は悪くはないと思うけれど、やはり周りは過大評価をしすぎている気がしてならない。かつてのように嫌な気持ちにはならないけれど、まだ慣れておらず少しだけ恥ずかしいのだ。
「世界だなんて……そんなこと、」
「わかるんですよ。こんなしがない物書きにさえ。あなたの絵にそんな魅力がなかったら、なんて思ってしまうのは……ただの独占欲です」
私の否定を遮るようにして幻太郎くんから吐き出された独占欲という言葉。その言葉に驚いて思わず幻太郎くんを見やる。幻太郎くんはいつもとなんら変わらない様子に見えた――――――赤くなっている耳を除いて。なんだか私達は似た者同士だ。時を経て両者共に少しだけ素直にはなったけれど。
「じゃあ、私と一緒ですね」
「一緒?」
「はい。自分の作品どうこうではなく、幻太郎くんの作品を何より私は愛しているので、世間に向けて幻太郎くんの作品が知れ渡ることは本当に嬉しい……でも、少しだけ、本当に少しだけ惜しいような気持ちになってしまうんです」
人であるということは本当に難しいことばかりだ。感情は私達を大いに振り回す。同時にいくつもの感情を人は持つことができてしまう。時にそれは誰かを救い、誰かを傷つける。簡単に上手くいくだけの流れなんてものはまやかしだ。ままならない手探りの人生を私達は生きている。
しんみりとした感情が私の胸を渦巻いていく。しかしそれは幻太郎くんにぶち壊されてしまうのだけれど。
「……いい加減にしろよ」
「、は」
思わず幻太郎くんを凝視するもその真意は掴めない。だから続きを聞くためにも言葉を繋げなかった。心なしか不穏な空気が漂っている気がした。
「お前の言葉一つで舞い上がってしまう俺のせい……いや、この際だから全てここで言ってしまおうそれがいい。だってあなたは鈍すぎて、このままの関係のまま一生を終えてしまう最悪な結末もさもありなん。そもそも中学生か私は……あなたの言動一つに踊らされて、それでいつもいつも……」
目の前で一体何が起こっているのか。
「えっと……?幻太郎くん、あの……」
「突然ですがあなたは僕がどんな人間だと思っていますか?」
「えっ、あの、昔から大人びていて余裕があって……」
「あなたのそういうとこですよ」
「はい」
「頭に疑問符をのせながらも、素直にホイホイ頷くのはあなたの悪い癖です。そこに至るまでにあなたなりに色々あったのだろうとは思いますが……まず僕には余裕なんて最初からありませんよ。あなた相手だと、特に……ね。あなたは警戒心が強いくせに純粋だから性質が悪い」
何故、と問われたらわからない。でも、何か大きなことが起こる予感がした。
「……例えばふと目が合った瞬間の照れくさそうな下手くそな笑顔とか、眠そうに目を擦るとか、或いは自分の思いを言葉にする時のあの一瞬の間。あなたのたったそれだけの、ささいな仕草を可愛いと思ってしまった時点で、僕に勝ち目なんてなかったんです」
「、それは」
「……後生だから、後生だから逃げるな。僕の想いを聞いてくれ」
逃げる、というのは幻太郎くんの想いを蔑ろにしてしまうことだ。幻太郎くんの左手は私が無意識のうちに胸に当てていた右手を掴んだ。そしてそのまま幻太郎くんの手は私の手を包んだ。不格好な握り方だった。私達は少し向き合う体勢になった。
「……僕はね、あなたがいなくても生きていけるんですよ。極論を言ってしまうと人間は皆孤独ですし……ただ、それでも……それでも、あなたの孤独を分け与えられる相手は僕であって欲しい」
「もう、もう、ひとこえ、はっきりと、」
神様なり恋のキューピットなりがこの場にいたらきっと笑っている。どれだけ臆病で欲深い人間なのだ、と。
「は、今のでわかっただろう……!…………まあ……そんな赤い顔で言われてもこちらとしては、後で弄るだけですから別にいいんですけどね」
少し荒くなった口調、じとりとした目と小さな咳払い。それでも幻太郎くんは応えてくれるらしい。全ては私の我儘だというのに。
「僕はあなたに恋し、あなたと過ごす日々をずっと前から愛しているんですよ……どうしようもないほどに好きなんです。たとえあなたが宇宙人でもタイムトラベラーでも異世界人でもそれは変わらない……ねえ、前に僕が言ったことを憶えていますか?」
私の表情を見て幻太郎くんは笑う。そんな重要な約束事ではありませんよ、と。
「あなたに訊きたいことができました、と。それは僕にいっこうに掴ませないあなたの実体についてでした。これでも僕は身近な人から道行く人々、色々な人を見てきたつもりです。すると経験からその人となりが次第に浮かび上がってくるんですよ……ただ、あなたは僕にその一切を掴ませなかった。考えようとしたって突飛な考えしか浮かんでこないんです。例に出せば先ほど言った宇宙人とか、ね」
幻太郎くんは私の実体を掴めていない、と言うけれど正しく掴めているのだ。ただそれは、普通に考えるとありえないことだから目を瞑ってしまうだけで。先を聞くのが少しだけ怖かったけれど、逃げるな、という幻太郎くんの言葉はしっかり私に効いていた。
私は一匙の覚悟とともに幻太郎くんを見つめた。
「そしてあなたについて考えて、考えて、考えぬいた結果……ね、逆にどうでもよくなってしまった」
「えっ」
「あなたともう一生会えないのではないか、そんなことがありました。だからでしょうか。今、僕の隣であなたが笑って何気ない日々をすごしてくれることが、どんなものにも変えがたい奇跡のだと思うんです。惚れた方が負けとはよく言ったもので、僕はあなたに滅法甘くて弱い……それで、これ以上をあなたは望みますか?」
幻太郎くんの目は宝石の輝きを放っている。そして今この瞬間、今までのどの瞬間よりも一際強い輝きで私を見つめている。幻太郎くんの目は彼自身の意志の強さを映している。
夢野幻太郎と少年と青年。この三つは全て同じだ。真実を知った私は何故その事実を置いてけぼりにしてしまったのか――――――本当にどこまでも私の心は脆弱なのだ!私は幻太郎くんとの関係の破滅を恐れていた。今まさにしようとしている決断の先にあるのが終着点なのだと、物語の完結なのだと思い込んでいた。
私達の手の触れ合っている部分が震えている。これではどちらの震えかわかったものではない――――――恐れているのは、もしかしたら幻太郎くんも同じなのかもしれない。しかし幻太郎くんは私が足踏みをしている間に、未来を歩む決意をした。それならば、私にできることはその誠意に応えることではないだろうか。
夢野幻太郎に抱いた恋心、少年と築いた親愛、青年に教えられた自分を受け入れるということ、そして人を愛おしむ心。全てが線で繋がっていくのは必然だったのかもしれない。この世界で生きていくことを受け入れることができたきっかけは幻太郎くんだった。私はきっと幻太郎くんに出会って初めてこの世界に存在した。存在することを許され、許したのだ。
幻太郎くんの手にもう片方の手を私は添える。
ついた嘘が全ての始まりだった私達。それが花開く時、また新しいなにかの始まりなのだとすでに私達はわかっていた。
周囲の音はどこか遠くにある。人の目もここにはない。
ようやく滑り出した言葉も、愛を伝えるという用向きは存外難しいことを私に実感させる――――――普段の感情一つで戸惑う私には当たり前のことだった。幻太郎くんはそれでも大丈夫だと全てで伝えてくれる。幻太郎くんの愛は気付かなかっただけで、こんなにもわかりやすく傍にあったのだ
――――――――――――展示された私の絵。微笑む少女の足元には薄紅色の木春菊が咲き誇っていた。
本人より私が浮かれてしまっていて見かける度に購入するものだから、私の部屋の机の上にはその本の小さな山ができあがってしまった。それをぼうっと眺めていたけれど、これは少し問題かもしれない。思い立ったら吉日ということで、私は珍しく家にいる母に積み重なった本達を渡すことにしたのだった。母は仕事柄知り合いが多いから配ってもらおう、そう考えた。
屋敷と形容するのが正しい我が家は、移動するのにそこそこ歩かなくてはならない。途中出会ったお手伝いさんは何かあれば、と言ってくれたけれど完全な私用のため断った。
そして、そうこうしているうちに母の部屋に着いたのだった。
失礼します、とドアをノックする。凛とした声で入室を促された。母の声を聞くといつだって私の背はピンと伸びる。
「何の用事?と言いたいところだけど、手に持っているものかしら?」
「わかっちゃいますか?」
「娘のことだもの」
仮にも休みの日なのに、机に向かいっぱなしだった母はそこでようやく顔を上げた。そして取り掛かっていた資料を脇によけて、見せて、と言った。私は開けられたスペースに本を置いた。母がそれを手に取るのは早かった。ただその後言われる言葉は予想外だったけれど。
「なるほど。この出版社だったら使えるコネがあるわ。作家との対談は早くて一週間後くらいに叶えられると思うけれど」
「えっ」
「一週間後じゃちょっと遅かったかしら?会いたい気持ちはわからないでもないけど、三日は待って頂戴」
「ちが、違いますよ!その作家さんとどうこうしたいとかは一切なくて……!ただ、買いすぎちゃったのでお母さんの知り合いの方に配ってもらえたらと!」
慌てて否定すれば、あら、そうだったの、なんてケロッとした調子で母は言った。思考レベルの違いに内心脱力。世界を越えた私だけれどそれでも母は規格外だ。
「まあ、配るくらいだったらいいわよ。他ならぬ娘の頼みだもの」
「ありがとうございます」
予想外の事態はあったものの、当初の目的は果たされることになった。そしてそのまま出ていこうとした私を母は引き留めたのだった。
「、どうかされましたか?」
「これは少し前に来た話なのだけど、新進気鋭の画家を集めた展覧会がそう遠くないうちに開かれるらしくて。貴女の絵を是非って声が掛かっているの。断れない相手じゃないけれど、少し面倒で。でも、貴女がしたいようにすればいいわ」
「……私の絵は、」
幻太郎くんは私の絵を駄作ではないと、愛おしさを感じたとさえ言ってくれた。それでも戸惑いがあるのは自分の絵と自分自身を責め続けた期間が長すぎたからだ。
母は笑った。しょうがない、とでも言うように。それはいつかの幻太郎くんの表情に似ているような気がした。
「物事に価値なんてものあってないようなものよ。価値なんてもの場所や時代によっていつだって変動するのだから。誰かに価値を見出されるのは貴女が思っているよりも幸運なこと。それだけでも貴女は知るべきね。そして親としての欲を言うとすれるならば、貴女が自分自身に対して自信をもってくれたらこれ以上言うことはないのだけれど」
その言葉はこの人は本当に私の親なのだ、そんな当たり前のことを私に改めて実感させた。母の言うように私は幸運に違いなかった。私にはこんなにも近くに居場所があったのだ。私の知っている家族の形と随分と違うけれど、私の気がつくより前から正しく家族だったのだ。
「お母さん、ありがとう」
「お礼を言われるようなことなんて今のことで何かあったかしら?」
母はいつだってそうだった。絵画を続けたいと言った時も同じだった。行動一つ言動一つで人を救うのにそれを特別なことだとは思わない。だからこそ私は信じてみようと思えるのだ。
「あのね、私、展覧会に出てみたい。お母さんの言葉を聞いていたら大丈夫だ……って思えたんです。それに前に私の絵を受け入れて正面からぶつかってきてくれた人がいるから」
母は驚いたような顔をした。それでもその後に見せた表情は今まで見たこともないくらいに嬉しそうだった。その表情を見ていると問題に正解した子どものような気持ちになった。清々しい空気が部屋を包んでいるようにも思えた。
***
職業作家への道を着実に歩み始めた幻太郎くんだけれど、日々の連絡を始めとして月に一度、ないしは二三度の約束は続いている。私が展覧会に自分で参加することを決めた、と言うと幻太郎くんは意外なほどに喜んでくれた。(それでも彼の性格上表に大いに出ることはなかったけれど)展覧会というのに少し苦い思い出がある私たちだけれど、もうそれは大丈夫なのだと思う。その証拠に私は幻太郎くんを自分から誘うことが出来たのだから。
「あの日みたいにはなりませんよね?」
「にやつきが抑えられていませんけど」
「あの日の小生の絶望ときたら中々表現するのも戸惑うくらいにはすごいものでしたからねえ。そしてあなたが図書館に来なくなってからも何度足を運んだことか」
「その節は、その節は……!」
「よしよし。とりあえずこの辺にしておきましょうか」
「これ一生言われるやつ……!」
呻いている私の頭を軽く叩く幻太郎くん。入場者の確認は私達の番になったらしい。受付の人が微笑ましい目で私達を見ていた。慌ててチケットを提示する。
「仲がよろしいんですね。では、これがこの展覧会のパンフレットになります」
「いや、あの……ありがとうございます」
「見ての通り仲はとってもよろしいんですよ」
「幻太郎くん!」
「ふふ、ではお楽しみくださいませ」
小突いても幻太郎くんはどこ吹く風だ。それに細身のくせして体幹がしっかりしているのかびくともしない。やるだけ無駄。このままでは私が疲れるだけだと悟ってすぐにささやかな復讐はやめることにした。敗北感がすごい。
「じゃあ、どこから回りますか?」
「小生は別にどこでもいいですけど……なんて、言うと思いました?」
「と、言うと?」
「今回の目的はたった一つ、あなたの絵を見ることですよ」
「ひえ」
「ひえ、じゃないぞ。この螺子欠け」
「この歳になってまた直球な悪口を言われるなんて……別に関係のないところから回ってもいいじゃないですか」
「私はあなたが直前になって決意が鈍る、他些細なことでなすべきことから逃げ出さないか心配しているんですよ。一応情で聞いてあげますが、反論は?」
「全くありません……」
「素直でよろしい」
この先する機会があるのかはわからないけれど、TRPGで幻太郎くんは言いくるめに数値を大分振ることを確信した。対抗ロールすらさせてもらえないなんて……殺生な……。
幻太郎くんに背を押されるように来た会場は中々広かった。だから思ったより人は分散しているようだった。目的に歩を進める中、私以外の出展者の作品をちらりと見やると、なるほど、新進気鋭と母に言われた通り近頃よく耳にする名がちらほらあった。今回の展覧会は一人が複数の作品を提出している。だから見覚えのある作品もいくつか。そうなると私の中に小さな懸念が生まれるわけで。
「うーん……」
「どうかされましたか?」
「どうやらここにある作品のほとんどが著名な画家の下で指導を受けている……ざっくり言えば師弟関係なんですよね。私にも先生はいますが、その画風を受け継ぐものではないので、少しの場違い感を」
「いまになってそんなことで悩んでいると?」
「まあ、」
「あなたは些か思考が後ろ向きすぎる。別に大丈夫ですよ、ほら……」
幻太郎くんが指し示す先には私の絵があった。
そしてその前には私達よりも少し歳が上だろう男の人が立っていた。考えているうちに目的地まで着いたようだ。
男の人は立ち去る素振りを見せなかった。私達は少し離れたところでそれを見ていた。何故だかどちらもその場から離れようとしなかった。そうやってどれほどの時間が過ぎたのだろう。男の人からポツリと漏れ出た言葉を私は聞いた。その言葉は幻太郎くんにも届いていたらしい。そして何かの証明となったようだった。
「ね、だから前言った通りだ」
「……え?」
「あの絵を見て、感じた切ないまでの愛おしさを嘘だとは言わせない、と前に僕は言った。あなたの絵は人を惹きつけてやまない。あなたの絵はこれから世界に見つけられていきます」
そう話していると男の人に動きがあった。しかし男の人は踏み出しかけた足をもう一度戻す。そして絵をまたしばらく眺めた後に去っていった。その後ろ姿には形容し難いけれど、強い力のようなものを感じた。生命力、と言ったらいいのだろうか。
今度は私達が絵の前に立った。私が描いた一番新しい絵。出来は悪くはないと思うけれど、やはり周りは過大評価をしすぎている気がしてならない。かつてのように嫌な気持ちにはならないけれど、まだ慣れておらず少しだけ恥ずかしいのだ。
「世界だなんて……そんなこと、」
「わかるんですよ。こんなしがない物書きにさえ。あなたの絵にそんな魅力がなかったら、なんて思ってしまうのは……ただの独占欲です」
私の否定を遮るようにして幻太郎くんから吐き出された独占欲という言葉。その言葉に驚いて思わず幻太郎くんを見やる。幻太郎くんはいつもとなんら変わらない様子に見えた――――――赤くなっている耳を除いて。なんだか私達は似た者同士だ。時を経て両者共に少しだけ素直にはなったけれど。
「じゃあ、私と一緒ですね」
「一緒?」
「はい。自分の作品どうこうではなく、幻太郎くんの作品を何より私は愛しているので、世間に向けて幻太郎くんの作品が知れ渡ることは本当に嬉しい……でも、少しだけ、本当に少しだけ惜しいような気持ちになってしまうんです」
人であるということは本当に難しいことばかりだ。感情は私達を大いに振り回す。同時にいくつもの感情を人は持つことができてしまう。時にそれは誰かを救い、誰かを傷つける。簡単に上手くいくだけの流れなんてものはまやかしだ。ままならない手探りの人生を私達は生きている。
しんみりとした感情が私の胸を渦巻いていく。しかしそれは幻太郎くんにぶち壊されてしまうのだけれど。
「……いい加減にしろよ」
「、は」
思わず幻太郎くんを凝視するもその真意は掴めない。だから続きを聞くためにも言葉を繋げなかった。心なしか不穏な空気が漂っている気がした。
「お前の言葉一つで舞い上がってしまう俺のせい……いや、この際だから全てここで言ってしまおうそれがいい。だってあなたは鈍すぎて、このままの関係のまま一生を終えてしまう最悪な結末もさもありなん。そもそも中学生か私は……あなたの言動一つに踊らされて、それでいつもいつも……」
目の前で一体何が起こっているのか。
「えっと……?幻太郎くん、あの……」
「突然ですがあなたは僕がどんな人間だと思っていますか?」
「えっ、あの、昔から大人びていて余裕があって……」
「あなたのそういうとこですよ」
「はい」
「頭に疑問符をのせながらも、素直にホイホイ頷くのはあなたの悪い癖です。そこに至るまでにあなたなりに色々あったのだろうとは思いますが……まず僕には余裕なんて最初からありませんよ。あなた相手だと、特に……ね。あなたは警戒心が強いくせに純粋だから性質が悪い」
何故、と問われたらわからない。でも、何か大きなことが起こる予感がした。
「……例えばふと目が合った瞬間の照れくさそうな下手くそな笑顔とか、眠そうに目を擦るとか、或いは自分の思いを言葉にする時のあの一瞬の間。あなたのたったそれだけの、ささいな仕草を可愛いと思ってしまった時点で、僕に勝ち目なんてなかったんです」
「、それは」
「……後生だから、後生だから逃げるな。僕の想いを聞いてくれ」
逃げる、というのは幻太郎くんの想いを蔑ろにしてしまうことだ。幻太郎くんの左手は私が無意識のうちに胸に当てていた右手を掴んだ。そしてそのまま幻太郎くんの手は私の手を包んだ。不格好な握り方だった。私達は少し向き合う体勢になった。
「……僕はね、あなたがいなくても生きていけるんですよ。極論を言ってしまうと人間は皆孤独ですし……ただ、それでも……それでも、あなたの孤独を分け与えられる相手は僕であって欲しい」
「もう、もう、ひとこえ、はっきりと、」
神様なり恋のキューピットなりがこの場にいたらきっと笑っている。どれだけ臆病で欲深い人間なのだ、と。
「は、今のでわかっただろう……!…………まあ……そんな赤い顔で言われてもこちらとしては、後で弄るだけですから別にいいんですけどね」
少し荒くなった口調、じとりとした目と小さな咳払い。それでも幻太郎くんは応えてくれるらしい。全ては私の我儘だというのに。
「僕はあなたに恋し、あなたと過ごす日々をずっと前から愛しているんですよ……どうしようもないほどに好きなんです。たとえあなたが宇宙人でもタイムトラベラーでも異世界人でもそれは変わらない……ねえ、前に僕が言ったことを憶えていますか?」
私の表情を見て幻太郎くんは笑う。そんな重要な約束事ではありませんよ、と。
「あなたに訊きたいことができました、と。それは僕にいっこうに掴ませないあなたの実体についてでした。これでも僕は身近な人から道行く人々、色々な人を見てきたつもりです。すると経験からその人となりが次第に浮かび上がってくるんですよ……ただ、あなたは僕にその一切を掴ませなかった。考えようとしたって突飛な考えしか浮かんでこないんです。例に出せば先ほど言った宇宙人とか、ね」
幻太郎くんは私の実体を掴めていない、と言うけれど正しく掴めているのだ。ただそれは、普通に考えるとありえないことだから目を瞑ってしまうだけで。先を聞くのが少しだけ怖かったけれど、逃げるな、という幻太郎くんの言葉はしっかり私に効いていた。
私は一匙の覚悟とともに幻太郎くんを見つめた。
「そしてあなたについて考えて、考えて、考えぬいた結果……ね、逆にどうでもよくなってしまった」
「えっ」
「あなたともう一生会えないのではないか、そんなことがありました。だからでしょうか。今、僕の隣であなたが笑って何気ない日々をすごしてくれることが、どんなものにも変えがたい奇跡のだと思うんです。惚れた方が負けとはよく言ったもので、僕はあなたに滅法甘くて弱い……それで、これ以上をあなたは望みますか?」
幻太郎くんの目は宝石の輝きを放っている。そして今この瞬間、今までのどの瞬間よりも一際強い輝きで私を見つめている。幻太郎くんの目は彼自身の意志の強さを映している。
夢野幻太郎と少年と青年。この三つは全て同じだ。真実を知った私は何故その事実を置いてけぼりにしてしまったのか――――――本当にどこまでも私の心は脆弱なのだ!私は幻太郎くんとの関係の破滅を恐れていた。今まさにしようとしている決断の先にあるのが終着点なのだと、物語の完結なのだと思い込んでいた。
私達の手の触れ合っている部分が震えている。これではどちらの震えかわかったものではない――――――恐れているのは、もしかしたら幻太郎くんも同じなのかもしれない。しかし幻太郎くんは私が足踏みをしている間に、未来を歩む決意をした。それならば、私にできることはその誠意に応えることではないだろうか。
夢野幻太郎に抱いた恋心、少年と築いた親愛、青年に教えられた自分を受け入れるということ、そして人を愛おしむ心。全てが線で繋がっていくのは必然だったのかもしれない。この世界で生きていくことを受け入れることができたきっかけは幻太郎くんだった。私はきっと幻太郎くんに出会って初めてこの世界に存在した。存在することを許され、許したのだ。
幻太郎くんの手にもう片方の手を私は添える。
ついた嘘が全ての始まりだった私達。それが花開く時、また新しいなにかの始まりなのだとすでに私達はわかっていた。
周囲の音はどこか遠くにある。人の目もここにはない。
ようやく滑り出した言葉も、愛を伝えるという用向きは存外難しいことを私に実感させる――――――普段の感情一つで戸惑う私には当たり前のことだった。幻太郎くんはそれでも大丈夫だと全てで伝えてくれる。幻太郎くんの愛は気付かなかっただけで、こんなにもわかりやすく傍にあったのだ
――――――――――――展示された私の絵。微笑む少女の足元には薄紅色の木春菊が咲き誇っていた。