ついた嘘はたった一つだけ
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文章越しに恋をした相手の正体が自分のよく知る人物だった場合、どんな反応と対応をするのが果たして正解なのだろうか。きっと今の私の身体は行き場に困った感情で一杯になっている。このままではいつか溢れてしまうのではないだろうか。その時の私は笑っているのか泣いているのか。自分のことながら全く想像がつかないのが厄介なところだ。
作家、夢野幻太郎に恋した私の元で、本人は田中太郎という似ても似つかない名を使い、私の友人として長い期間を過ごした。同時に私も本当の名を伝えることなく過ごしていたからこれに関しては責めることはできない。そんな嘘ばかりで成り立っていた私達の関係に終止符が打たれたのがついこの間。お互いの名が明かされたところで、それが私の新たな悩みの種となってしまったのだった。
そのような訳で最近の私は夢野幻太郎という人物について、夜な夜な頭を悩ませている。どれほどかと言われたらうっすらと隈ができ、お陰様で昼間の授業にも影響が出てしまうほどに。このままではコンシーラーが必須になるのではないかという危惧も少し。今の時期のことは後々の肌質に大いに関係するというのに……私の行動一つ一つが気になる子が出来た直後の中学生と大差ない。仮にも一度は社会に出た経験もあるのに随分と情けないものだ。
それでも悩むことを私は止められない。夢野幻太郎への思いが冷めたかと聞かれたら自信を持って否と言える。しかし、今まで愛だの恋だのといった目で幻太郎くん(実の今だに私はこの呼び名に慣れていない)を見ているかと聞かれたらそれも否。私はあまりに長い間何も知らずに過ごしたからだ。
逆に言えば幻太郎くんが本当のところを明かしていなくて良かったのかもしれないとさえ思っている。私達が出会ったのが高校生の時。その時には精神的に大人だった私が当時の幻太郎くんに熱烈なアタックを仕掛けている所を想像すると、なんともほろ苦いような気持ちになった。いや、多少は自重していたと思うけれど。(ただ、初対面の時の私の熱烈な思考だとそれももしかしたら危うい)
今となっては少年から青年へ幻太郎が変わったのを目の当たりにしても、私の印象に強いのは前者の方だと本人に言うときっと呆れられるのだろう。
毎日の習慣にさえなりつつある思考のせいで夜も遅くなってきて、ベッドに沈む私の目線の先はスマホに入った新しい連絡先。問答無用と言わんばかりの勢いで交換されたことは、別に不満ではなかった。逆に一月に一度という約束は昔の私達に強固すぎただけだ。幻太郎くんがスマホを出したところで、改めてそういえばと思ったくらいだった。このご時世連絡先も全く知らなかったなんて、私達は随分と古典的な出会いを重ねていたものだ。まあ、それがあったからこそあんな劇的な再会を果たすことになったのだけれど。自分の痴態に思い返せば顔が熱くなる。
私達の関係はあの一件から大きく変わったようで、実の所名称を変えるほどには大きな変化は訪れなかった。
ただ、私は何度メッセージアプリを用もないくせに開くようになってしまった。そして月に一度だった約束はいつの間にか二度、三度と増えていた。
なまえさん、✕時にいつもの場所で。
私はそのたった一つの連絡をいつだって待っている。
***
「もう、遅いわ。私、ずっとずっと待ってたんだからね…!」
図書館のいつもの席に座っていた幻太郎くん。私はその顔をじっと見ながら首を傾げた。幻太郎くんの口の動きに応じて聞こえたのは、少年期ならともかく青年期に突入した男の出せる声ではなかったからだ。白状してしまえば、私はどこかに仕込みを疑っていた。
「今、どこからか女の子の声が、」
「僕ですね」
「、スマホとかの録音?」
「だから正真正銘、僕の喉から」
「……幻太郎くんの声帯バグってませんか?」
「失礼な、作家として当然のスキルです」
なんて言われたけれど、どちらかと言えばモノマネ芸人とかそっちのスキルだと思った。ツッコミを入れなかったのは、それよりも気になることがあったからに他ならない。
「ん……?今、作家って」
「そこの反応速度は流石ですね、この度、私、夢野幻太郎は出版社のお声掛けに答えることになった次第で、」
「え!ほ、〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「仮にも図書館だぞこの馬鹿……!」
叫びかけた私を察知して、即座に口に手を当ててくるその判断は流石だった。しかし、今の状況は立っている私の口を塞ぐため勢いよく立ち上がったから幻太郎くんが座っていた椅子は大きな音を立てて後ろに移動したし、何よりむがむがと声に出せない音を発する私、状況を確認しに来た司書さんや、この時間私達以外の唯一の利用者であるお爺さんの笑い声。いつの間にか小さな混沌が出来上がっていた。新しく図書館に入ってきた人がいたら、目を点にしたことだろう。
それでも何だかおかしな事態になっている、そう感じたらしい幻太郎くんの収集能力によって全てが収まってしまうのだけれど。
「あ、お帰り頂いて結構です」
幻太郎くんは司書さんにそう言った後、私の頭を軽く叩いた。そこでやっと口に当てられた手からも解放してくれたのだった。鼻まで抑えられていなかったことに感謝した。もし抑えられていたら、肺活量皆無な生活を送っている私は秒でお陀仏だ。
「……なんか、どっと疲れた。あなたといると、良くも悪くも退屈とは程遠い」
どうぞ、と幻太郎くんの隣に引かれた椅子に座る。そして幻太郎くんも座った。私はすぐに口を開く。聞きたいことどころか、聞きたいことしかないような具合だったのだ。今の私だったら、目の前に宇宙人がいても幻太郎くんを優先するような気がする。(実際問題、宇宙人がいたら多少どころか大いに興味を唆られるのは自明の理だけれど)
「色々聞きたいことがあります」
「先程から様子を見ていたら分かりますが、落ち着いてください。あなた、もう大学生ですよね?」
「た、多分……」
口が裂けても元社会人です、なんて言えなさそうだ。幻太郎くんが成長したように、空白の期間で私も歳を重ねた。だから、一応二度目の大学生という肩書きのところまできている。元々の精神年齢が低いということを突きつけられたような気がしたけれど、そんなことはないと信じたい。興奮を前にしては、人間の理性なんて無力なのだ。
私の目を見て、幻太郎くんはため息をつく。そして辺りをきょろりと見回した。
「まあ、いつもの如くここには人が少ない。大声をあげないのであれば、多少騒いでも咎められることはないでしょう」
「じゃあ、全部教えてくれるんですよね……!」
「全部、といってももう殆ど言ったようなものですが」
そう言って幻太郎くんが手にしたのは渋い色をした皮のショルダーバッグ。使い込まれたような色にらしさを感じた。幻太郎くんはすぐに新しいものに飛びつくよりも、同じものを長く愛用するようなイメージがある。それに加えて古風な服装も似合ってしまうのだ。どちらかと言えば本人は西洋の御伽の王子様のような容姿をしているというのに。少し不思議な気がした。
「少し前から声自体は掛けて頂いていたのですが、僕が送った話を気に入ってくれた編集者の方がいたらしくて……割と話はトントン拍子に……あ、そうそう、これです」
幻太郎くんの手には、二百ページそこそこくらいの厚さの単行本があった。じっ、と見ていたからなのだろう。幻太郎くんは私に手渡してくれた。
「……本当に、」
表紙を撫でたその瞬間、感慨深く、何とも言えない感情の奔流が私を呑み込んでいくようだった。
「……泣くほどのことですか」
今私の脳内を巡るのは、一体何なのだろう。そう考えた時、この世界で生きてきた日々なのだろうと思った。
泣くつもりも、泣いているつもりも本当になかった。しかし、表紙にはいくつかの水滴があった。それらが私を笑っているような気がした。
慌てて拭おうとすると、何故か幻太郎くんに止められる。結局その水滴は幻太郎によって拭われたのだった。
「なまえの涙がこんなところで見れるなんて、予想もしてなかった」
「……ん、」
どういうことだ、と幻太郎くんを見やる。幻太郎くんは息を吐くように笑った。
「この間の再会では、恥ずかしいものを見せてしまった、と思いまして」
「恥ずかしい、もの……?」
「……分かるだろう。僕はあの時、確かに泣いてしまったのだから。男が泣いて、女のあなたが笑っていた」
「恥ずかしくなんて、」
あの時幻太郎くんが零した涙を私は美しいものだと思ったけれど、本人にとっては違ったらしい。それに幻太郎くんの涙が恥ずかしいものなら、今の私も恥ずかしいのだろうか。何故、分かってしまうのだろう。小さな不安を抱える私を安心させるかのように、幻太郎くんは首を横に振る。
「女の涙と男の涙は意味が大きく違う。要はプライド、意地、そういったものが男にはいちいち付き纏う……とても面倒ですが、そういう生き物なんです」
「、そういう生き物?」
「はい。理解できる、できないは別のことですが……どうやら、落ち着いたようですね」
「……お陰様で」
涙と一緒に出る震えはまだ少し残っていたものの、涙はすっかり止まっていた。幻太郎くんは穏やかな瞳で私を見ていた。少しだけ気恥しい思いだった。
表紙をもう一度撫でる。全てが夢のように思えるほど、素敵なことを目の当たりにしているのだという自覚。こんなにも嬉しいと思えることはそうないに違いなかった。
そして表紙を捲りそでの部分を見た私はあっ、と小さく声をあげたのだった。
「……著者の、この写真……本当に幻太郎くんなんですね」
思わず見比べてしまう。幻太郎くんの写真はどことなく、いつもよりも澄ました顔をしているような気がした。写真の下には夢野幻太郎の文字が当たり前だけれど存在した。夢野幻太郎、その名前が確かに。
「はい、本物ですので」
「それにしてもお澄まし顔……」
「何か言いました?」
幻太郎くんの言葉に少しの不穏さを見出してすぐに否定する。幻太郎くんはそういった部分への反応は驚くほどに鋭いのだ。
「いえ、でも、こういうのあまりしなさそうなのに……」
咄嗟に出てきたことは嘘ではない。自分の写真を本に載せるか載せないか、それは作家自身の自由だ。しかし幻太郎くんにはミステリアスなところがあった。魅力と言っても良いだろう。だから堂々と写真を載せていたのが意外だった。私の予想だと、そういうのは読者に想像させるのが面白いんですよ、なんて言いそうだったから。
返事を待つ私は、あれ、と思う。ふと隣を見ると幻太郎くんは何故か苦虫を噛み潰したような、そこまではいかなくても微妙な顔をしていたからだ。何か幻太郎くんの忌諱に触れるようなことを言ってしまったのだろうか。
ようやく口を開いた幻太郎くんに、無意識に唾を飲み込んで喉が震えた。
「……あなたへの腹いせですよ。図書館に来なくなった後、この話が来たもので。夢野幻太郎、その名前に反応したあなたは確実に本を手に取ります。そして写真を見たあなたは大いに混乱するでしょう……それ思い浮かべて……と。要するに、まあ、あなたへのささやかな復讐のつもりでした。それで図書館に来れば僥倖。来なくても…………いや、なんでもありません……まあ、これも勿論」
「、嘘ですけど?」
私が先回りした幻太郎くんの口癖。暗にそうなのかと聞いても、もう幻太郎くんの中でこの話は終わったものとして処理されているのだろう。
「……さあ、本当のところは夢野幻太郎にしか分かりません」
ふ、と笑った幻太郎くんに本当に全ては幻太郎くんの心の中なのだということを悟った。きっとこの先を聞いても煙に巻かれる気がした。
「それにしても私の本は今月の下旬に発売される予定なのですが、勿論、あなたは熱烈に夢野幻太郎を好きと言うくらいなのですから、ご自分でお買い求め頂けますね?」
何となくしんみりとした空気が漂う中、ひょいと横から急に伸びてきた手に反応出来るはずもなく。私の手から本は無くなってしまった。幻太郎くんの先程の様子もどこへ行ってしまったのやら。お得意の切替えで性格七変化で全てを霧散させてしまった。
「えっ、貰えないんですか?」
反射的に不満の声をあげる私を幻太郎くんはやれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「逆に聞くけど、君は好きな作家の売上に貢献しないのかい?」
「いや、それは勿論、観賞用、保存用、使用用と複数冊買う予定ではありますけど……」
「そこまで買ってくれるなんて、夢ちゃん、嬉しい…!」
「最近の中で、一番キャラクターチェンジが激しいですね」
「まあ、それが僕なので」
「あ、戻った」
幻太郎くんのおふざけに乗りながらも、本人の手から本を貰えないのは本当に残念に思っていた。だから、家に帰ってから鞄を整理していたら、あるはずのないものがそこにあって一人で叫んでしまったのだった。
その本は私の大好きな作家のもので、そでの部分には澄ました顔をしている幻太郎くんがいた。
作家、夢野幻太郎に恋した私の元で、本人は田中太郎という似ても似つかない名を使い、私の友人として長い期間を過ごした。同時に私も本当の名を伝えることなく過ごしていたからこれに関しては責めることはできない。そんな嘘ばかりで成り立っていた私達の関係に終止符が打たれたのがついこの間。お互いの名が明かされたところで、それが私の新たな悩みの種となってしまったのだった。
そのような訳で最近の私は夢野幻太郎という人物について、夜な夜な頭を悩ませている。どれほどかと言われたらうっすらと隈ができ、お陰様で昼間の授業にも影響が出てしまうほどに。このままではコンシーラーが必須になるのではないかという危惧も少し。今の時期のことは後々の肌質に大いに関係するというのに……私の行動一つ一つが気になる子が出来た直後の中学生と大差ない。仮にも一度は社会に出た経験もあるのに随分と情けないものだ。
それでも悩むことを私は止められない。夢野幻太郎への思いが冷めたかと聞かれたら自信を持って否と言える。しかし、今まで愛だの恋だのといった目で幻太郎くん(実の今だに私はこの呼び名に慣れていない)を見ているかと聞かれたらそれも否。私はあまりに長い間何も知らずに過ごしたからだ。
逆に言えば幻太郎くんが本当のところを明かしていなくて良かったのかもしれないとさえ思っている。私達が出会ったのが高校生の時。その時には精神的に大人だった私が当時の幻太郎くんに熱烈なアタックを仕掛けている所を想像すると、なんともほろ苦いような気持ちになった。いや、多少は自重していたと思うけれど。(ただ、初対面の時の私の熱烈な思考だとそれももしかしたら危うい)
今となっては少年から青年へ幻太郎が変わったのを目の当たりにしても、私の印象に強いのは前者の方だと本人に言うときっと呆れられるのだろう。
毎日の習慣にさえなりつつある思考のせいで夜も遅くなってきて、ベッドに沈む私の目線の先はスマホに入った新しい連絡先。問答無用と言わんばかりの勢いで交換されたことは、別に不満ではなかった。逆に一月に一度という約束は昔の私達に強固すぎただけだ。幻太郎くんがスマホを出したところで、改めてそういえばと思ったくらいだった。このご時世連絡先も全く知らなかったなんて、私達は随分と古典的な出会いを重ねていたものだ。まあ、それがあったからこそあんな劇的な再会を果たすことになったのだけれど。自分の痴態に思い返せば顔が熱くなる。
私達の関係はあの一件から大きく変わったようで、実の所名称を変えるほどには大きな変化は訪れなかった。
ただ、私は何度メッセージアプリを用もないくせに開くようになってしまった。そして月に一度だった約束はいつの間にか二度、三度と増えていた。
なまえさん、✕時にいつもの場所で。
私はそのたった一つの連絡をいつだって待っている。
***
「もう、遅いわ。私、ずっとずっと待ってたんだからね…!」
図書館のいつもの席に座っていた幻太郎くん。私はその顔をじっと見ながら首を傾げた。幻太郎くんの口の動きに応じて聞こえたのは、少年期ならともかく青年期に突入した男の出せる声ではなかったからだ。白状してしまえば、私はどこかに仕込みを疑っていた。
「今、どこからか女の子の声が、」
「僕ですね」
「、スマホとかの録音?」
「だから正真正銘、僕の喉から」
「……幻太郎くんの声帯バグってませんか?」
「失礼な、作家として当然のスキルです」
なんて言われたけれど、どちらかと言えばモノマネ芸人とかそっちのスキルだと思った。ツッコミを入れなかったのは、それよりも気になることがあったからに他ならない。
「ん……?今、作家って」
「そこの反応速度は流石ですね、この度、私、夢野幻太郎は出版社のお声掛けに答えることになった次第で、」
「え!ほ、〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「仮にも図書館だぞこの馬鹿……!」
叫びかけた私を察知して、即座に口に手を当ててくるその判断は流石だった。しかし、今の状況は立っている私の口を塞ぐため勢いよく立ち上がったから幻太郎くんが座っていた椅子は大きな音を立てて後ろに移動したし、何よりむがむがと声に出せない音を発する私、状況を確認しに来た司書さんや、この時間私達以外の唯一の利用者であるお爺さんの笑い声。いつの間にか小さな混沌が出来上がっていた。新しく図書館に入ってきた人がいたら、目を点にしたことだろう。
それでも何だかおかしな事態になっている、そう感じたらしい幻太郎くんの収集能力によって全てが収まってしまうのだけれど。
「あ、お帰り頂いて結構です」
幻太郎くんは司書さんにそう言った後、私の頭を軽く叩いた。そこでやっと口に当てられた手からも解放してくれたのだった。鼻まで抑えられていなかったことに感謝した。もし抑えられていたら、肺活量皆無な生活を送っている私は秒でお陀仏だ。
「……なんか、どっと疲れた。あなたといると、良くも悪くも退屈とは程遠い」
どうぞ、と幻太郎くんの隣に引かれた椅子に座る。そして幻太郎くんも座った。私はすぐに口を開く。聞きたいことどころか、聞きたいことしかないような具合だったのだ。今の私だったら、目の前に宇宙人がいても幻太郎くんを優先するような気がする。(実際問題、宇宙人がいたら多少どころか大いに興味を唆られるのは自明の理だけれど)
「色々聞きたいことがあります」
「先程から様子を見ていたら分かりますが、落ち着いてください。あなた、もう大学生ですよね?」
「た、多分……」
口が裂けても元社会人です、なんて言えなさそうだ。幻太郎くんが成長したように、空白の期間で私も歳を重ねた。だから、一応二度目の大学生という肩書きのところまできている。元々の精神年齢が低いということを突きつけられたような気がしたけれど、そんなことはないと信じたい。興奮を前にしては、人間の理性なんて無力なのだ。
私の目を見て、幻太郎くんはため息をつく。そして辺りをきょろりと見回した。
「まあ、いつもの如くここには人が少ない。大声をあげないのであれば、多少騒いでも咎められることはないでしょう」
「じゃあ、全部教えてくれるんですよね……!」
「全部、といってももう殆ど言ったようなものですが」
そう言って幻太郎くんが手にしたのは渋い色をした皮のショルダーバッグ。使い込まれたような色にらしさを感じた。幻太郎くんはすぐに新しいものに飛びつくよりも、同じものを長く愛用するようなイメージがある。それに加えて古風な服装も似合ってしまうのだ。どちらかと言えば本人は西洋の御伽の王子様のような容姿をしているというのに。少し不思議な気がした。
「少し前から声自体は掛けて頂いていたのですが、僕が送った話を気に入ってくれた編集者の方がいたらしくて……割と話はトントン拍子に……あ、そうそう、これです」
幻太郎くんの手には、二百ページそこそこくらいの厚さの単行本があった。じっ、と見ていたからなのだろう。幻太郎くんは私に手渡してくれた。
「……本当に、」
表紙を撫でたその瞬間、感慨深く、何とも言えない感情の奔流が私を呑み込んでいくようだった。
「……泣くほどのことですか」
今私の脳内を巡るのは、一体何なのだろう。そう考えた時、この世界で生きてきた日々なのだろうと思った。
泣くつもりも、泣いているつもりも本当になかった。しかし、表紙にはいくつかの水滴があった。それらが私を笑っているような気がした。
慌てて拭おうとすると、何故か幻太郎くんに止められる。結局その水滴は幻太郎によって拭われたのだった。
「なまえの涙がこんなところで見れるなんて、予想もしてなかった」
「……ん、」
どういうことだ、と幻太郎くんを見やる。幻太郎くんは息を吐くように笑った。
「この間の再会では、恥ずかしいものを見せてしまった、と思いまして」
「恥ずかしい、もの……?」
「……分かるだろう。僕はあの時、確かに泣いてしまったのだから。男が泣いて、女のあなたが笑っていた」
「恥ずかしくなんて、」
あの時幻太郎くんが零した涙を私は美しいものだと思ったけれど、本人にとっては違ったらしい。それに幻太郎くんの涙が恥ずかしいものなら、今の私も恥ずかしいのだろうか。何故、分かってしまうのだろう。小さな不安を抱える私を安心させるかのように、幻太郎くんは首を横に振る。
「女の涙と男の涙は意味が大きく違う。要はプライド、意地、そういったものが男にはいちいち付き纏う……とても面倒ですが、そういう生き物なんです」
「、そういう生き物?」
「はい。理解できる、できないは別のことですが……どうやら、落ち着いたようですね」
「……お陰様で」
涙と一緒に出る震えはまだ少し残っていたものの、涙はすっかり止まっていた。幻太郎くんは穏やかな瞳で私を見ていた。少しだけ気恥しい思いだった。
表紙をもう一度撫でる。全てが夢のように思えるほど、素敵なことを目の当たりにしているのだという自覚。こんなにも嬉しいと思えることはそうないに違いなかった。
そして表紙を捲りそでの部分を見た私はあっ、と小さく声をあげたのだった。
「……著者の、この写真……本当に幻太郎くんなんですね」
思わず見比べてしまう。幻太郎くんの写真はどことなく、いつもよりも澄ました顔をしているような気がした。写真の下には夢野幻太郎の文字が当たり前だけれど存在した。夢野幻太郎、その名前が確かに。
「はい、本物ですので」
「それにしてもお澄まし顔……」
「何か言いました?」
幻太郎くんの言葉に少しの不穏さを見出してすぐに否定する。幻太郎くんはそういった部分への反応は驚くほどに鋭いのだ。
「いえ、でも、こういうのあまりしなさそうなのに……」
咄嗟に出てきたことは嘘ではない。自分の写真を本に載せるか載せないか、それは作家自身の自由だ。しかし幻太郎くんにはミステリアスなところがあった。魅力と言っても良いだろう。だから堂々と写真を載せていたのが意外だった。私の予想だと、そういうのは読者に想像させるのが面白いんですよ、なんて言いそうだったから。
返事を待つ私は、あれ、と思う。ふと隣を見ると幻太郎くんは何故か苦虫を噛み潰したような、そこまではいかなくても微妙な顔をしていたからだ。何か幻太郎くんの忌諱に触れるようなことを言ってしまったのだろうか。
ようやく口を開いた幻太郎くんに、無意識に唾を飲み込んで喉が震えた。
「……あなたへの腹いせですよ。図書館に来なくなった後、この話が来たもので。夢野幻太郎、その名前に反応したあなたは確実に本を手に取ります。そして写真を見たあなたは大いに混乱するでしょう……それ思い浮かべて……と。要するに、まあ、あなたへのささやかな復讐のつもりでした。それで図書館に来れば僥倖。来なくても…………いや、なんでもありません……まあ、これも勿論」
「、嘘ですけど?」
私が先回りした幻太郎くんの口癖。暗にそうなのかと聞いても、もう幻太郎くんの中でこの話は終わったものとして処理されているのだろう。
「……さあ、本当のところは夢野幻太郎にしか分かりません」
ふ、と笑った幻太郎くんに本当に全ては幻太郎くんの心の中なのだということを悟った。きっとこの先を聞いても煙に巻かれる気がした。
「それにしても私の本は今月の下旬に発売される予定なのですが、勿論、あなたは熱烈に夢野幻太郎を好きと言うくらいなのですから、ご自分でお買い求め頂けますね?」
何となくしんみりとした空気が漂う中、ひょいと横から急に伸びてきた手に反応出来るはずもなく。私の手から本は無くなってしまった。幻太郎くんの先程の様子もどこへ行ってしまったのやら。お得意の切替えで性格七変化で全てを霧散させてしまった。
「えっ、貰えないんですか?」
反射的に不満の声をあげる私を幻太郎くんはやれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「逆に聞くけど、君は好きな作家の売上に貢献しないのかい?」
「いや、それは勿論、観賞用、保存用、使用用と複数冊買う予定ではありますけど……」
「そこまで買ってくれるなんて、夢ちゃん、嬉しい…!」
「最近の中で、一番キャラクターチェンジが激しいですね」
「まあ、それが僕なので」
「あ、戻った」
幻太郎くんのおふざけに乗りながらも、本人の手から本を貰えないのは本当に残念に思っていた。だから、家に帰ってから鞄を整理していたら、あるはずのないものがそこにあって一人で叫んでしまったのだった。
その本は私の大好きな作家のもので、そでの部分には澄ました顔をしている幻太郎くんがいた。