ついた嘘はたった一つだけ
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一度やめてしまえば再開するのが億劫で、どれだけ罪深いかを知りながら、流れる月日への言い訳を誰にも触れられないような深みへ沈めた。
無為な日々がよりいっそう無為に感じられるようになってもう随分と長い。生きた屍のようだと自嘲する。今になって、少年との日々は紛れもなく宝であったということがよく分かった。私は元々無かったはずのものを手に入れて、失ってしまったのだ。その残酷さは初めからあったものを失うことに比類しない。それでも未練で息をする私は、こんなことになるのなら初めから無ければ良かった、なんて思えなかった。
あの日以来私は少年と一度だって会っていない。早いもので、図書館に足を向けなくなって新品のカレンダー二部分。少年との月に一度会うというたった一つの、それゆえに絶対の約束は二十四回も果たされていないことになる……少年はきっと私に失望したことだろう。何も告げずに自分だけの都合で急に消えられたら誰だって堪らない。もう友人というカテゴリーにさえ入れられているのか怪しいところだ__________________シブヤ・ディビジョンには行けなかった。
人の記憶で真っ先に忘れるのは声だと皆は言うけれど、それは嘘だ。だって、少年との日々は一切の欠けを許すことなく私の中にある。だから、なおのこと私は少年の前に立つことを拒否した。その可能性すら拒否をした。
私は身勝手な逃避を続けている。
そして何にするにも脳裏に浮かぶ少年の顔を掻き消すことだけに夢中になった。
***
「…………っ!」
臀部へ伝わる誰かの感触は、初めの方こそ何かの間違いだと疑っていなかった。満員に近しい車両の中だからそんなこともあるだろうと。ただでさえ女性の権限が強い世の中なのだ。だからこっちが声を上げてしまうとそれが相手の本意ではなくても、罪として通ってしまうことを私は知っていた。そこには多少の哀れみのようなものもあったのかもしれない。或いは元の世界の普通が成り立たないことへの反抗の気持ちも、少しだけあったのかもしれないけれど。
男尊女卑ならぬ女尊男卑。それはこの世界へやって来た私に、嫌というまでに刷り込まれた認識だった。理解は出来なくても納得しなければならない。摂理とかそういった類のものだった。
今までに一度も、誰にだって許したことはないそこを触られるのは、当たり前のことながら気持ちが悪いだけだった。それでも相手に悪意がないと信じて顔を俯かせて耐えていた。しかし私の考えとは裏腹に誰かの手は離れることなく、よりいっそう動きを強めた。何かがおかしいと思った。
これは、と気が付いた時には遅かった。周りの人の時間が正常に流れていく中、私だけが恐怖に震えていた。気の強い母なら、私の危機管理能力の無さと何も出来ない惨めさに呆れ心配するだろう。
シンジュク・ディビジョンの電車の中。得体の知れない化け物に固まって声を上げることも出来ず、女性専用車両に乗らなかった自分を恨んだ。私の中にあった小さな同情が私の首を締めて、取り返しのつかないまでに追い込んだのだ。不幸は偶然的ではなく、私自身が呼び寄せている気さえした。
どうしてこうなってしまったのか。身体は金縛りにあったように動かないくせに思考だけはいつも通りだった。
少年と会わなくなり、趣味であった図書館巡りもやめることになった。シブヤ・ディビジョンが無理ならば別の所を、なんて数年越しに思ったのが今日の朝のことだった。家の人間の心配もいい加減煩わしかった。しかし身勝手な逃避の先に待っているものが救いだとは限らない。悪いことの先にまた悪いことが待っているのは珍しいことではないのだ。それがどんなに不測の事態であったとしても。
この状況を自分では打開出来そうになかった。だから誰かを願った。私はこれまで本当の意味で神のようなご都合主義的な存在を信じたことはない。しかし自分ではどうしようもない時、誰かが助けてくれることを願ってしまう気持ちも同時に持ち合わせていた。自分だけに都合が良いとても日本人的な感性を。
誰も助けてくれないということを、私は誰よりも知っているはずなのに。
目的地はまだ遠い。でも、次の駅で、次の駅で何とか降りようと思った。地獄のような時間を早く終わらせたかった。
それなのに、動け!と震える脚を叱咤するも、そのまま。私はまるで木偶の坊のように立っていた。
私は自らの弱さに愕然とした。少年の顔が浮かんだのを無理やり消した。私が少年に救いを求める権利なんてないのだと。ましてここはシンジュク・ディビジョン。叶うはずがなかったのだ。
「___________何してるんだよ…………!」
どうしようもなくて、辛くて、情けなくて。手を固く握りしめることしか出来なかった私を救ったのは、顔色が悪くて僅かに肩を震わせた男の人だった。
その人の手も固く握られていたのを見た時、私と同じで不安があるのに助けてくれたのだと知った。
その人は私の思い描いたご都合主義的な救いそのものだった。優しかったが故に私の不幸をその人が代替わりしてくれたのだ。
***
「…………あの…大丈夫、ですか」
結局、あの後私の不幸の元凶は状況が不味いことを察してどこかへ行ってしまった。残されたのは私と私を救ってくれた男の人。周囲の訝しげな視線から庇うように、その人は迷いながらも私を電車から降りて駅から近くにある公園まで連れて行ってくれた___________情けないことに、私は安心すると同時に泣いてしまったのだ。その人はベンチに座る私に自販機で買った缶ジュースをくれて、泣き止むのを待ってくれていた。
「あの、何からなにまで……本当にありがとうございました」
その人は腕時計を何度か確認していたのにも関わらず、私を待っていてくれた。感謝してもしきれない。さっきまで自分のことに必死でよく見れていなかったけれど、その人の顔には濃い隈がありその風体は休日出勤をさせられているサラリーマンそのものだった。時間は大丈夫なのだろうか、上司の人から怒られるのではないか……そんな不安が頭をもたげる。その人は私が諦めていた救いそのものをやってのけてくれだのだ。その人が私のせいで非を責められるのは本意ではない。
「…………いえ……女性が強い社会でもああいう行為をする輩はいます。俺なんかから忠告されるのはウザいと思いますが……電車に乗ったりどこかへ行く時は、友人と行くか……女性専用車両もあるのでそちらに行ったほうが……俺なんかが本当に何処目線で話してんだって感じですよね……本当すみません」
すごく、すごく腰は低いけれどその人から紡がれたのは紛れもなく私を心配するようなソレで。先程から比べて緩んだ緊張感からか、私は余計なことを言ってしまった。
「友人が、一人しかいなくて……その友人とも口を利いていないような状態で……なんて、すみません。いきなり言うようなことでもなかったですね……本当にごめんなさい」
突然語り出す初対面の女はどう見えるだろうか。少なくとも私は遠慮したい。その人はそれでも少しばかり驚いたようだったけれど、私の謝罪に頭を横に振った。いい人が過ぎて逆に心を痛めた。もしかしてこの人は神様だった……?
「……いや、謝られるようなことではないです……けど、そんなにそれ問題ですか?」
「えっ…?」
「いや、俺も友人って呼べる奴一人しかいないんですけど、口を利いていないのだったら、また利けばいい話で……」
目から鱗。それ以外なかった。
「数年間。それも会わなくなってしまった原因は私にあるのに……?」
「……友人なら、年数経ってても関係ない、と思います」
何かが崩壊する音がした。きっとそれは既存の感覚とかそういったものだったのだと思う。
***
この間シンジュク・ディビジョンでの新たな出会いを経て、緊張の思いで例の図書館までやってきた。やってきてしまった。あのサラリーマンのお兄さんの友人観は凝り固まった私の思考をハンマーで打ち砕いてしまったのだった。
それでもどうしても心がざわついてしまって、深呼吸を二三回。深呼吸には緊張を和らげる効果があると科学的に証明されているらしい。気休めにはなっただろうか。加速する心臓の音に苦笑を一つ。
結局、図書館に入ることはなかったのだけれど。
「え」
「あ」
入ろうとする私と出てきたその人。目が合った瞬間、反射的にクラウチングスタートを決めていた。
数瞬の間を置いて「待て!」なんて恐ろしい声が後ろから聞こえたけれど無視も無視。本気になればヒールでも人は走れることに感動しながら、全力疾走あるのみ。
火事場の馬鹿力というのか、今の私なら体育で行われる忌むべき100m走のタイムを大きく塗り替えることが出来るだろう。万年ビリの汚名返上だって夢ではない。気分はチーター……に追われる獲物だ。チーターは少年……いや、随分と見ないうちに少年は青年になっていた。目が合った一瞬で分かってしまった。私達の間には本当に長い月日が横たわっていることが。
段々と息が苦しくなっていって、どこを走っているのか、何で走っているのか、分からなくなっていく。
そもそも私の身体は本を読むためにあって、運動をするためではないのだ。
どうしようもない文句が浮かび、そして消えた。
青年になった少年の手が私の腕を掴んで________________。
呆気ない追いかけっこの終わり。私は観念して青年に向き直る。我武者羅に走って辿り着いたここは、少年と一度だけ来たことがある古い神社の前だった。
肩で息をする私とは反対に、あれだけ走ったのにも関わらず、青年は平気そうに見えた。その違いが寂しい、と思ってしまったのはきっと気のせいだ。
かつて少年の前であんなにも動いた私の口は嘘のように縫い止められていた。青年が最初に口を開いたのは道理だったのかもしれない。
記憶にあるよりも幾分か大人びた表情。宝石のような瞳の輝きはそのままだった。
「……僕は、あなたではありません。だからあの日、何があなたの琴線に触れたのか分からない……それでも、あなたは、あなたにとって僕は簡単になかったことに出来るような取るに足りない存在だったのか……!」
掴まれた肩が痛くて、熱い。それは触れられた箇所から青年の激情が流れ込んでくると思わんばかりだった。青年の荒波のような心がそのまま私にぶつかってくる。木々の僅かなざわめきさえも聞こえない。ここだけが世界に切り離されたようだった。
青年は瞳を揺らし、それでも逃してなるものかとひたむきに見つめてくる。ここまで青年を追い詰めてしまったのは、私以外に誰がいるのだろう。自責の念に駆られる一方で、青年の鬼気迫る様子があまりに人離れした美しさを纏っているものだから、私は少々ぼんやりとしてしまった。
「そんなこと、ない」
ようやくのことで振り絞った声は、情けないほどに弱々しかった。これではまるで私こそが被害者だと言わんばかりではないか。そんなつもりなんて毛頭なかった。私は私自身を呪った。いつだってそうだ。私は不誠実なのだ。
罪の意識があるくせに、目を伏せることも出来なかった。私は自分がより青年に不誠実になることを恐れていたのだ。
「ならばどうしてずっと図書館に来なかった……!僕は……僕は……数年経った今でさえ通っていた…………二人のものだったはずのあの席が誰かに塗り替えられる絶望があなたには分かるのか……?!」
痛々しいほどの悲痛な叫び。青年の目から堪らずポロリと零れるものがある。その煌めきは私の心臓を穿つには十分だった。元の世界とこの世界。二つを知ってしまっている私は諦念の元で生きてきた。だから青年の純粋でひたすらに真っ直ぐな感情が眩しかった。触れることを戸惑うような憧憬と愛おしさが胸に広がっていく。
頑固に自分の殻に篭もり続ける私の中に入ってきたたった一人の友人。私は青年を前に白旗を上げることが、ずっとずっと前から分かっていたのかもしれない。
「……泣かないで。勝手に離れてしまってごめんなさい。もう何も言わずにいなくなったりしないから」
「…………本当に?」
「本当に」
その瞬間息をつく間もなく抱き締められる。本当に少年は青年になったのだと実感した。私よりも随分背の高い、しっかりとした男の人の身体だった。それなのに私の肩口に顔を埋めて離さないのは、強情な子どもみたいで可愛いと思った……そんなことを口に出せばきっと青年は拗ねてしまうのだろうけれど。
「あの日確かにあなたの様子がおかしかった…………あの絵を見てからだ……あの絵は…………あの絵は………あなたの言動は…………」
「うん」
「あなたに会えなくなるのなら……あの絵に抱いた感情をなかったことにしようとした。それでも……それでも、出来なかった……!だって……だってあれは苦しんでいるあなた自身だ…………!」
震えているのは青年なのか私なのか分からない。二人の体温が溶け合ってそのまま一つになるような気がした。
「私の絵を、私を見つけてくれてありがとう」
偽物だと自分の絵を糾弾する気は不思議なことに起きなかった。あれだけ忌み嫌っていたはずなのに、青年の涙に全てが洗い流されてしまったようだった。
残ったのは二つの世界の狭間で生きることに苦悩するただの一人の人間だった。
私はどちらの世界にも属することが出来ない絶望を憎悪に化し、かつて愛した絵に牙を剥いた。ただそれだけに過ぎないことにようやく気が付いた。
「……あなたの絵は駄作なんかじゃない。あなたが駄作だって言っても、僕がそれを否定する。僕があの絵を見て、感じた切ないまでの愛おしさを嘘だとは言わせない」
どうしてこんなにも世界は、青年は私に優しいのだろう。胸がいっぱいで、苦しい。滲む涙を誤魔化すには、茶化すような態度を取るしかなかった。
「……愛の告白、みたい」
「……愛すれば離れないと言うのなら骨の髄まで愛しますけど? 」
「ひぇっ……またまた。それもお得意の嘘ですよね?」
「さあ、どうでしょうね。みょうじ なまえさん」
肩口から顔を上げた青年の目は少しだけ赤かったけれど、清々しい表情をしていた。
私はと言えば、突然呼ばれた自分の本当の名前に間抜けな顔をして息を呑む。直ぐに展覧会で絵と一緒に作者の名前もわかるようになっていることに思い至った。
しかし、青年はそれだけに留まらなかった。
「あなたの名前を知ることができましたかろ、ようやく僕も出会った最初から嘘を取り払うことができると言うものです」
「は」
「どうも、僕があなたが愛してやまない夢野幻太郎です」
この数分で目まぐるしく物事が起こりすぎではないだろうか。私はあまりに感情に素直に腰を抜かしてしまった。崩れ落ちたのに地面にぶつからなかったのは、奇しくも特大カミングアウトを仕出かしてくれた青年のおかげだ。
青年の珍しい弾けるような笑顔の後、私をお姫様抱っこするなんてこの時の私は思いもしていない。
ニヤリと笑う青年のそれはそれは悪どいこと。
あまりの衝撃に崩れ落ちる私を支えてくれたのは青年しかいない。お礼を言うことも忘れて、私の脳は必死に回路を繋げようとする。
目眩がしそうな混沌とした思考の中、何とか状況を把握するために私が動き出すのは自然なことだった。青年が少年であった時からのことだけれど、私は彼と話していると何が真で何が偽なのかいつも翻弄されていた。懐かしいと思えたら良かったのだけれど、その余裕が今の私にはない。
夢野幻太郎というのは一言で片付けてしまうには余りにも大きい。だから聞かなければいけなかった。それが先程本人に告げられたことであったとしても。
震える足を何とか踏ん張って、青年の手から脱した。たたらを踏みかけたのを根性で止める。そうなれば青年はまた私を支えようとしてくれることが分かっていたからだ。鏡があったら蒼白になっていることを確認できるに違いない私と反対に、青年はどこまでも余裕そうだった。いつの間にか主導権は確実に青年に渡っていた。数年ぶりの再会の熱量とどうしようもないほどの心の動きは、今では青年の暴虐とも言える暴露によって霧散していた。それほどに二人の纏う空気の変質は早かった。
一つが解決した途端、もう一つ。油断していると息をするのも忘れてしまいそうだった。頭の奥の方がズキズキと鈍い痛みを発する。
その時、どくり、と私の命は一等大きく鼓動した。
心臓の音が徐々に大きくなっていることを誤魔化すように口を開いた。一度閉じてしまえばそこで終わりだということを私は半ば理解していた。少し、喉が乾いた。私の舌は縺れて空を滑るかとも思われた。しかしそれは杞憂だった。
「あなたが夢野幻太郎さんだとします」
「はい。だとします、ではなくそれは事実なのですが」
「田中太郎は誰ですか」
「文芸部所属の同級生です」
「私とずっと図書館で会っていたのは、田中太郎ではなく」
「先程も言いましたが……僕、夢野幻太郎ですね」
私は唇を引き結んだ。すらすらと答えてみせる記憶よりも少しだけ低くなった落ち着いた声が恨めしい。
私の中で夢野幻太郎という個体はたった一人しかいない。それは光であり希望であり、たった一つの私の愛の行先であった。
今までの私が夢野幻太郎について何を知っていたかというと、一つ目が青年と同じ文芸部所属の生徒だったこと、二つ目が小説一つで私の全てを覆すような恐ろしい文才を持っていること。私を激しく揺さぶった文字一つ一つを、かつて貰った文集のその短編を殆ど私は覚えてしまっている。青年が本当に夢野幻太郎だとするならば、たった今その数少ない一つ目が他ならぬ本人の手で潰されたことになる。
私は首を横に振った。やはり何度考えてみても、それこそ小説のように話が出来すぎている。それでも、もし本当にそうだったら、の思いが私の思考を鈍らせていく。そうなると投了の未来が見えてくる。私が青年に勝てたことなんて今まで一度もなかったのだから。
先程の勢いを私は失ってしまっていた。
「え……っと……あの」
「言っておきますけど、今回のことについては僕は嘘を言っていませんよ」
「、でも」
最後の抵抗も青年には関係なかったらしい。青年は目許を綻ばせた。まるで、聞き分けのない子どもを相手にする親のように。青年は余りにも甘くて、余りにも無慈悲だ。
分が悪い、なんてものじゃない。耳を塞ぐ前に手は青年に取られてしまった。青年は屈んで私に視線を合わせる。
青年は今この瞬間私だけを見つめている。それが痛いほどに分かった。宝石の瞳は本当に私から抵抗の意志の欠片さえも無くしてしまった。
「あなたがどうしても信じられないと言うのであれば、誰にも聞かせたことの無い夢野幻太郎の物語をこの場で披露してみせようか……いや、それともあなたは僕が夢野幻太郎でない証拠を持っているとでも?でもそんなことは万が一にでも起り得るはずがない。僕が夢野幻太郎なのだから」
柔らかく、硬質な、親のようで、私の知っている少年のような青年の声だった。
不思議な色彩を持った声は私の耳にするりと入り込んだ。その途端納得より先に理解してしまった。私は完全に負けたのだ。こんなにも完全敗北をしてしまうと、逆に清々しいような気がしなくもない。青年は私よりもよっぽど食えない大人だったのだ。ずっとずっと私は掌で踊らされ続けている。
「夢野、幻太郎さん?」
「はい。やっと呼んでくれましたね」
嬉しそうな、本当に嬉しそうな顔だった。しばらく見ないうちに随分と表情豊かになったものだ。胸に広がる陽だまりのような気持ちの名前を私は知らない。薄く広がる戸惑いと、何故だか安心感。何とか一人で立っていた私の足から、今度こそ力が抜けた。まるで全てが終わった合図かのように。
「あ」
「……ほんとに、あなたは……!」
青年、いや、夢野幻太郎は苦笑して私を支える。ごめんね、そう言った直後だった。小さな声でしょうがない、と聞こえた。たった一言に持たせられた含み。ここで一つの予感が私の脳を掠める。本能的に私はこれから彼が何をしようとするのか分かってしまったのだった。なんとも不吉な予感だった。
「いや、あの、もしかしてですけど」
「はい?」
方や恐る恐る、方や昔だって見せたことのないような輝かしい満面の笑みで。育てかたを間違えたか、なんて見当違いな現実逃避を内心決め込んだ。
「あのたろ……えっとあなたは」
「幻太郎ですよ」
「げげげげげげんたろうくんさんは……」
「そう言えばあなたは夢野幻太郎に恋をしているんでしたっけ?どうぞお気軽に幻太郎と呼んでください」
そう言った途端に大幅な体重移動。より一層意地悪になった作家様からの追撃があった。私は皆が言うところのお姫様抱っこの体制になっていた。
夢野幻太郎、夢野さん、夢野くん、幻太郎さん、幻太郎くん……脳内で呼び名のでジャグリングが止まらない。夢野殿、幻太郎様、という血迷ったようなものは速攻で打ち消した。
「……げ、幻太郎……くん」
「あ、この体勢に言うことは意外と無いんですね」
「もう、いっぱいいっぱいです…………」
私が機械だったら間違いなく故障の烙印を押されていただろう。太郎くん、もとい幻太郎くんはそれを見てとても楽しそうに笑っていた。せめて降ろして欲しいの意を込めて、意外としっかりしている腕を軽く叩いたものの、より一層力を入れられた。どうして。
無為な日々がよりいっそう無為に感じられるようになってもう随分と長い。生きた屍のようだと自嘲する。今になって、少年との日々は紛れもなく宝であったということがよく分かった。私は元々無かったはずのものを手に入れて、失ってしまったのだ。その残酷さは初めからあったものを失うことに比類しない。それでも未練で息をする私は、こんなことになるのなら初めから無ければ良かった、なんて思えなかった。
あの日以来私は少年と一度だって会っていない。早いもので、図書館に足を向けなくなって新品のカレンダー二部分。少年との月に一度会うというたった一つの、それゆえに絶対の約束は二十四回も果たされていないことになる……少年はきっと私に失望したことだろう。何も告げずに自分だけの都合で急に消えられたら誰だって堪らない。もう友人というカテゴリーにさえ入れられているのか怪しいところだ__________________シブヤ・ディビジョンには行けなかった。
人の記憶で真っ先に忘れるのは声だと皆は言うけれど、それは嘘だ。だって、少年との日々は一切の欠けを許すことなく私の中にある。だから、なおのこと私は少年の前に立つことを拒否した。その可能性すら拒否をした。
私は身勝手な逃避を続けている。
そして何にするにも脳裏に浮かぶ少年の顔を掻き消すことだけに夢中になった。
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「…………っ!」
臀部へ伝わる誰かの感触は、初めの方こそ何かの間違いだと疑っていなかった。満員に近しい車両の中だからそんなこともあるだろうと。ただでさえ女性の権限が強い世の中なのだ。だからこっちが声を上げてしまうとそれが相手の本意ではなくても、罪として通ってしまうことを私は知っていた。そこには多少の哀れみのようなものもあったのかもしれない。或いは元の世界の普通が成り立たないことへの反抗の気持ちも、少しだけあったのかもしれないけれど。
男尊女卑ならぬ女尊男卑。それはこの世界へやって来た私に、嫌というまでに刷り込まれた認識だった。理解は出来なくても納得しなければならない。摂理とかそういった類のものだった。
今までに一度も、誰にだって許したことはないそこを触られるのは、当たり前のことながら気持ちが悪いだけだった。それでも相手に悪意がないと信じて顔を俯かせて耐えていた。しかし私の考えとは裏腹に誰かの手は離れることなく、よりいっそう動きを強めた。何かがおかしいと思った。
これは、と気が付いた時には遅かった。周りの人の時間が正常に流れていく中、私だけが恐怖に震えていた。気の強い母なら、私の危機管理能力の無さと何も出来ない惨めさに呆れ心配するだろう。
シンジュク・ディビジョンの電車の中。得体の知れない化け物に固まって声を上げることも出来ず、女性専用車両に乗らなかった自分を恨んだ。私の中にあった小さな同情が私の首を締めて、取り返しのつかないまでに追い込んだのだ。不幸は偶然的ではなく、私自身が呼び寄せている気さえした。
どうしてこうなってしまったのか。身体は金縛りにあったように動かないくせに思考だけはいつも通りだった。
少年と会わなくなり、趣味であった図書館巡りもやめることになった。シブヤ・ディビジョンが無理ならば別の所を、なんて数年越しに思ったのが今日の朝のことだった。家の人間の心配もいい加減煩わしかった。しかし身勝手な逃避の先に待っているものが救いだとは限らない。悪いことの先にまた悪いことが待っているのは珍しいことではないのだ。それがどんなに不測の事態であったとしても。
この状況を自分では打開出来そうになかった。だから誰かを願った。私はこれまで本当の意味で神のようなご都合主義的な存在を信じたことはない。しかし自分ではどうしようもない時、誰かが助けてくれることを願ってしまう気持ちも同時に持ち合わせていた。自分だけに都合が良いとても日本人的な感性を。
誰も助けてくれないということを、私は誰よりも知っているはずなのに。
目的地はまだ遠い。でも、次の駅で、次の駅で何とか降りようと思った。地獄のような時間を早く終わらせたかった。
それなのに、動け!と震える脚を叱咤するも、そのまま。私はまるで木偶の坊のように立っていた。
私は自らの弱さに愕然とした。少年の顔が浮かんだのを無理やり消した。私が少年に救いを求める権利なんてないのだと。ましてここはシンジュク・ディビジョン。叶うはずがなかったのだ。
「___________何してるんだよ…………!」
どうしようもなくて、辛くて、情けなくて。手を固く握りしめることしか出来なかった私を救ったのは、顔色が悪くて僅かに肩を震わせた男の人だった。
その人の手も固く握られていたのを見た時、私と同じで不安があるのに助けてくれたのだと知った。
その人は私の思い描いたご都合主義的な救いそのものだった。優しかったが故に私の不幸をその人が代替わりしてくれたのだ。
***
「…………あの…大丈夫、ですか」
結局、あの後私の不幸の元凶は状況が不味いことを察してどこかへ行ってしまった。残されたのは私と私を救ってくれた男の人。周囲の訝しげな視線から庇うように、その人は迷いながらも私を電車から降りて駅から近くにある公園まで連れて行ってくれた___________情けないことに、私は安心すると同時に泣いてしまったのだ。その人はベンチに座る私に自販機で買った缶ジュースをくれて、泣き止むのを待ってくれていた。
「あの、何からなにまで……本当にありがとうございました」
その人は腕時計を何度か確認していたのにも関わらず、私を待っていてくれた。感謝してもしきれない。さっきまで自分のことに必死でよく見れていなかったけれど、その人の顔には濃い隈がありその風体は休日出勤をさせられているサラリーマンそのものだった。時間は大丈夫なのだろうか、上司の人から怒られるのではないか……そんな不安が頭をもたげる。その人は私が諦めていた救いそのものをやってのけてくれだのだ。その人が私のせいで非を責められるのは本意ではない。
「…………いえ……女性が強い社会でもああいう行為をする輩はいます。俺なんかから忠告されるのはウザいと思いますが……電車に乗ったりどこかへ行く時は、友人と行くか……女性専用車両もあるのでそちらに行ったほうが……俺なんかが本当に何処目線で話してんだって感じですよね……本当すみません」
すごく、すごく腰は低いけれどその人から紡がれたのは紛れもなく私を心配するようなソレで。先程から比べて緩んだ緊張感からか、私は余計なことを言ってしまった。
「友人が、一人しかいなくて……その友人とも口を利いていないような状態で……なんて、すみません。いきなり言うようなことでもなかったですね……本当にごめんなさい」
突然語り出す初対面の女はどう見えるだろうか。少なくとも私は遠慮したい。その人はそれでも少しばかり驚いたようだったけれど、私の謝罪に頭を横に振った。いい人が過ぎて逆に心を痛めた。もしかしてこの人は神様だった……?
「……いや、謝られるようなことではないです……けど、そんなにそれ問題ですか?」
「えっ…?」
「いや、俺も友人って呼べる奴一人しかいないんですけど、口を利いていないのだったら、また利けばいい話で……」
目から鱗。それ以外なかった。
「数年間。それも会わなくなってしまった原因は私にあるのに……?」
「……友人なら、年数経ってても関係ない、と思います」
何かが崩壊する音がした。きっとそれは既存の感覚とかそういったものだったのだと思う。
***
この間シンジュク・ディビジョンでの新たな出会いを経て、緊張の思いで例の図書館までやってきた。やってきてしまった。あのサラリーマンのお兄さんの友人観は凝り固まった私の思考をハンマーで打ち砕いてしまったのだった。
それでもどうしても心がざわついてしまって、深呼吸を二三回。深呼吸には緊張を和らげる効果があると科学的に証明されているらしい。気休めにはなっただろうか。加速する心臓の音に苦笑を一つ。
結局、図書館に入ることはなかったのだけれど。
「え」
「あ」
入ろうとする私と出てきたその人。目が合った瞬間、反射的にクラウチングスタートを決めていた。
数瞬の間を置いて「待て!」なんて恐ろしい声が後ろから聞こえたけれど無視も無視。本気になればヒールでも人は走れることに感動しながら、全力疾走あるのみ。
火事場の馬鹿力というのか、今の私なら体育で行われる忌むべき100m走のタイムを大きく塗り替えることが出来るだろう。万年ビリの汚名返上だって夢ではない。気分はチーター……に追われる獲物だ。チーターは少年……いや、随分と見ないうちに少年は青年になっていた。目が合った一瞬で分かってしまった。私達の間には本当に長い月日が横たわっていることが。
段々と息が苦しくなっていって、どこを走っているのか、何で走っているのか、分からなくなっていく。
そもそも私の身体は本を読むためにあって、運動をするためではないのだ。
どうしようもない文句が浮かび、そして消えた。
青年になった少年の手が私の腕を掴んで________________。
呆気ない追いかけっこの終わり。私は観念して青年に向き直る。我武者羅に走って辿り着いたここは、少年と一度だけ来たことがある古い神社の前だった。
肩で息をする私とは反対に、あれだけ走ったのにも関わらず、青年は平気そうに見えた。その違いが寂しい、と思ってしまったのはきっと気のせいだ。
かつて少年の前であんなにも動いた私の口は嘘のように縫い止められていた。青年が最初に口を開いたのは道理だったのかもしれない。
記憶にあるよりも幾分か大人びた表情。宝石のような瞳の輝きはそのままだった。
「……僕は、あなたではありません。だからあの日、何があなたの琴線に触れたのか分からない……それでも、あなたは、あなたにとって僕は簡単になかったことに出来るような取るに足りない存在だったのか……!」
掴まれた肩が痛くて、熱い。それは触れられた箇所から青年の激情が流れ込んでくると思わんばかりだった。青年の荒波のような心がそのまま私にぶつかってくる。木々の僅かなざわめきさえも聞こえない。ここだけが世界に切り離されたようだった。
青年は瞳を揺らし、それでも逃してなるものかとひたむきに見つめてくる。ここまで青年を追い詰めてしまったのは、私以外に誰がいるのだろう。自責の念に駆られる一方で、青年の鬼気迫る様子があまりに人離れした美しさを纏っているものだから、私は少々ぼんやりとしてしまった。
「そんなこと、ない」
ようやくのことで振り絞った声は、情けないほどに弱々しかった。これではまるで私こそが被害者だと言わんばかりではないか。そんなつもりなんて毛頭なかった。私は私自身を呪った。いつだってそうだ。私は不誠実なのだ。
罪の意識があるくせに、目を伏せることも出来なかった。私は自分がより青年に不誠実になることを恐れていたのだ。
「ならばどうしてずっと図書館に来なかった……!僕は……僕は……数年経った今でさえ通っていた…………二人のものだったはずのあの席が誰かに塗り替えられる絶望があなたには分かるのか……?!」
痛々しいほどの悲痛な叫び。青年の目から堪らずポロリと零れるものがある。その煌めきは私の心臓を穿つには十分だった。元の世界とこの世界。二つを知ってしまっている私は諦念の元で生きてきた。だから青年の純粋でひたすらに真っ直ぐな感情が眩しかった。触れることを戸惑うような憧憬と愛おしさが胸に広がっていく。
頑固に自分の殻に篭もり続ける私の中に入ってきたたった一人の友人。私は青年を前に白旗を上げることが、ずっとずっと前から分かっていたのかもしれない。
「……泣かないで。勝手に離れてしまってごめんなさい。もう何も言わずにいなくなったりしないから」
「…………本当に?」
「本当に」
その瞬間息をつく間もなく抱き締められる。本当に少年は青年になったのだと実感した。私よりも随分背の高い、しっかりとした男の人の身体だった。それなのに私の肩口に顔を埋めて離さないのは、強情な子どもみたいで可愛いと思った……そんなことを口に出せばきっと青年は拗ねてしまうのだろうけれど。
「あの日確かにあなたの様子がおかしかった…………あの絵を見てからだ……あの絵は…………あの絵は………あなたの言動は…………」
「うん」
「あなたに会えなくなるのなら……あの絵に抱いた感情をなかったことにしようとした。それでも……それでも、出来なかった……!だって……だってあれは苦しんでいるあなた自身だ…………!」
震えているのは青年なのか私なのか分からない。二人の体温が溶け合ってそのまま一つになるような気がした。
「私の絵を、私を見つけてくれてありがとう」
偽物だと自分の絵を糾弾する気は不思議なことに起きなかった。あれだけ忌み嫌っていたはずなのに、青年の涙に全てが洗い流されてしまったようだった。
残ったのは二つの世界の狭間で生きることに苦悩するただの一人の人間だった。
私はどちらの世界にも属することが出来ない絶望を憎悪に化し、かつて愛した絵に牙を剥いた。ただそれだけに過ぎないことにようやく気が付いた。
「……あなたの絵は駄作なんかじゃない。あなたが駄作だって言っても、僕がそれを否定する。僕があの絵を見て、感じた切ないまでの愛おしさを嘘だとは言わせない」
どうしてこんなにも世界は、青年は私に優しいのだろう。胸がいっぱいで、苦しい。滲む涙を誤魔化すには、茶化すような態度を取るしかなかった。
「……愛の告白、みたい」
「……愛すれば離れないと言うのなら骨の髄まで愛しますけど? 」
「ひぇっ……またまた。それもお得意の嘘ですよね?」
「さあ、どうでしょうね。みょうじ なまえさん」
肩口から顔を上げた青年の目は少しだけ赤かったけれど、清々しい表情をしていた。
私はと言えば、突然呼ばれた自分の本当の名前に間抜けな顔をして息を呑む。直ぐに展覧会で絵と一緒に作者の名前もわかるようになっていることに思い至った。
しかし、青年はそれだけに留まらなかった。
「あなたの名前を知ることができましたかろ、ようやく僕も出会った最初から嘘を取り払うことができると言うものです」
「は」
「どうも、僕があなたが愛してやまない夢野幻太郎です」
この数分で目まぐるしく物事が起こりすぎではないだろうか。私はあまりに感情に素直に腰を抜かしてしまった。崩れ落ちたのに地面にぶつからなかったのは、奇しくも特大カミングアウトを仕出かしてくれた青年のおかげだ。
青年の珍しい弾けるような笑顔の後、私をお姫様抱っこするなんてこの時の私は思いもしていない。
ニヤリと笑う青年のそれはそれは悪どいこと。
あまりの衝撃に崩れ落ちる私を支えてくれたのは青年しかいない。お礼を言うことも忘れて、私の脳は必死に回路を繋げようとする。
目眩がしそうな混沌とした思考の中、何とか状況を把握するために私が動き出すのは自然なことだった。青年が少年であった時からのことだけれど、私は彼と話していると何が真で何が偽なのかいつも翻弄されていた。懐かしいと思えたら良かったのだけれど、その余裕が今の私にはない。
夢野幻太郎というのは一言で片付けてしまうには余りにも大きい。だから聞かなければいけなかった。それが先程本人に告げられたことであったとしても。
震える足を何とか踏ん張って、青年の手から脱した。たたらを踏みかけたのを根性で止める。そうなれば青年はまた私を支えようとしてくれることが分かっていたからだ。鏡があったら蒼白になっていることを確認できるに違いない私と反対に、青年はどこまでも余裕そうだった。いつの間にか主導権は確実に青年に渡っていた。数年ぶりの再会の熱量とどうしようもないほどの心の動きは、今では青年の暴虐とも言える暴露によって霧散していた。それほどに二人の纏う空気の変質は早かった。
一つが解決した途端、もう一つ。油断していると息をするのも忘れてしまいそうだった。頭の奥の方がズキズキと鈍い痛みを発する。
その時、どくり、と私の命は一等大きく鼓動した。
心臓の音が徐々に大きくなっていることを誤魔化すように口を開いた。一度閉じてしまえばそこで終わりだということを私は半ば理解していた。少し、喉が乾いた。私の舌は縺れて空を滑るかとも思われた。しかしそれは杞憂だった。
「あなたが夢野幻太郎さんだとします」
「はい。だとします、ではなくそれは事実なのですが」
「田中太郎は誰ですか」
「文芸部所属の同級生です」
「私とずっと図書館で会っていたのは、田中太郎ではなく」
「先程も言いましたが……僕、夢野幻太郎ですね」
私は唇を引き結んだ。すらすらと答えてみせる記憶よりも少しだけ低くなった落ち着いた声が恨めしい。
私の中で夢野幻太郎という個体はたった一人しかいない。それは光であり希望であり、たった一つの私の愛の行先であった。
今までの私が夢野幻太郎について何を知っていたかというと、一つ目が青年と同じ文芸部所属の生徒だったこと、二つ目が小説一つで私の全てを覆すような恐ろしい文才を持っていること。私を激しく揺さぶった文字一つ一つを、かつて貰った文集のその短編を殆ど私は覚えてしまっている。青年が本当に夢野幻太郎だとするならば、たった今その数少ない一つ目が他ならぬ本人の手で潰されたことになる。
私は首を横に振った。やはり何度考えてみても、それこそ小説のように話が出来すぎている。それでも、もし本当にそうだったら、の思いが私の思考を鈍らせていく。そうなると投了の未来が見えてくる。私が青年に勝てたことなんて今まで一度もなかったのだから。
先程の勢いを私は失ってしまっていた。
「え……っと……あの」
「言っておきますけど、今回のことについては僕は嘘を言っていませんよ」
「、でも」
最後の抵抗も青年には関係なかったらしい。青年は目許を綻ばせた。まるで、聞き分けのない子どもを相手にする親のように。青年は余りにも甘くて、余りにも無慈悲だ。
分が悪い、なんてものじゃない。耳を塞ぐ前に手は青年に取られてしまった。青年は屈んで私に視線を合わせる。
青年は今この瞬間私だけを見つめている。それが痛いほどに分かった。宝石の瞳は本当に私から抵抗の意志の欠片さえも無くしてしまった。
「あなたがどうしても信じられないと言うのであれば、誰にも聞かせたことの無い夢野幻太郎の物語をこの場で披露してみせようか……いや、それともあなたは僕が夢野幻太郎でない証拠を持っているとでも?でもそんなことは万が一にでも起り得るはずがない。僕が夢野幻太郎なのだから」
柔らかく、硬質な、親のようで、私の知っている少年のような青年の声だった。
不思議な色彩を持った声は私の耳にするりと入り込んだ。その途端納得より先に理解してしまった。私は完全に負けたのだ。こんなにも完全敗北をしてしまうと、逆に清々しいような気がしなくもない。青年は私よりもよっぽど食えない大人だったのだ。ずっとずっと私は掌で踊らされ続けている。
「夢野、幻太郎さん?」
「はい。やっと呼んでくれましたね」
嬉しそうな、本当に嬉しそうな顔だった。しばらく見ないうちに随分と表情豊かになったものだ。胸に広がる陽だまりのような気持ちの名前を私は知らない。薄く広がる戸惑いと、何故だか安心感。何とか一人で立っていた私の足から、今度こそ力が抜けた。まるで全てが終わった合図かのように。
「あ」
「……ほんとに、あなたは……!」
青年、いや、夢野幻太郎は苦笑して私を支える。ごめんね、そう言った直後だった。小さな声でしょうがない、と聞こえた。たった一言に持たせられた含み。ここで一つの予感が私の脳を掠める。本能的に私はこれから彼が何をしようとするのか分かってしまったのだった。なんとも不吉な予感だった。
「いや、あの、もしかしてですけど」
「はい?」
方や恐る恐る、方や昔だって見せたことのないような輝かしい満面の笑みで。育てかたを間違えたか、なんて見当違いな現実逃避を内心決め込んだ。
「あのたろ……えっとあなたは」
「幻太郎ですよ」
「げげげげげげんたろうくんさんは……」
「そう言えばあなたは夢野幻太郎に恋をしているんでしたっけ?どうぞお気軽に幻太郎と呼んでください」
そう言った途端に大幅な体重移動。より一層意地悪になった作家様からの追撃があった。私は皆が言うところのお姫様抱っこの体制になっていた。
夢野幻太郎、夢野さん、夢野くん、幻太郎さん、幻太郎くん……脳内で呼び名のでジャグリングが止まらない。夢野殿、幻太郎様、という血迷ったようなものは速攻で打ち消した。
「……げ、幻太郎……くん」
「あ、この体勢に言うことは意外と無いんですね」
「もう、いっぱいいっぱいです…………」
私が機械だったら間違いなく故障の烙印を押されていただろう。太郎くん、もとい幻太郎くんはそれを見てとても楽しそうに笑っていた。せめて降ろして欲しいの意を込めて、意外としっかりしている腕を軽く叩いたものの、より一層力を入れられた。どうして。