ついた嘘はたった一つだけ
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「展覧会……ですか」
「え、ああ……ちょうどそこにチラシがあって」
図書館には地域のイベントやなんかのチラシが置いてあることがままある。チェックをするしないはその時の気分だけれど、見覚えがあるものに反応するのが人というものだ。家にも何枚とあるにも関わらず、何となしに手に取ってしまった。
珍しく隣に座った少年が覗き込む。その瞳には僅かな興味が宿っていた。
「絵画、彫刻、工芸、書道まであるんですね」
「これは日本で一番大きな展覧会って言っても過言じゃないですからね。様々な分野が集うこともあって、作品数もそれだけ多いです」
母が特別審査員として呼ばれたこともある。母は結局のところ派閥が面倒だとボヤいでいたけれど。人の上に立つと仕事以外でも気苦労が絶えないらしい。ストレス耐性/Zeroの私には一生縁のない職業だろう。
「へえ、あ、でも入場料もしっかり取るんですね」
「規模が大きい分、それなりにコストもかかるんでしょうね。気になるんでしたら、招待券いりますか?良ければ来週持ってきますよ」
少年が目を瞬かせる。招待券、というのが引っかかったようだ。招待券はその名の通り呼ばれる側ということで、入場料を払わなくても良い。展示内容に興味があればそこそこ有り難いものだ。使わないとただの紙切れになってしまうということはあるけれど。
「……親の伝手ですよ」
_____________________この展覧会に私の作品もあるんですよ。とは言えなかった。
このことを話すには少し前に遡る。私がこの世界に何も説明もなしに来てしまった不幸は前にも言及した通りだ。ある日突然私は日本を掌でコロコロするような母の元で誕生の産声を上げた。
新しい母は私に甘かったけれど、生まれた環境が原因で最低限の義務は発生する。私は幼少期になんだかんだそこそこな量の稽古をこなした。ただ、両の手に届きそうな数の稽古は極めるというよりも、その世界に触れるという意味合いが大きくあまり苦にならなかった。読書の時間が大幅に減らされることがなかった上、お陰でサブ教科の授業にあまり困ることがなかったという恩恵もある。音楽なんて前はからっきしだった。ピアニカ、リコーダーにしか触れてこなかった人間が通ります。
成長して中学校に入ると同時に稽古をこなす日々は唐突に終わりを迎えた。ある程度出来るようになったからとのことだった。社会に出た時に作法や目利きができず恥をかく、なんてことがなければそれで良いらしい。残されたのは何か気に入ったものがあれば続けたら良い、という無責任な愛情だった。
その言葉に甘んじて私は解放されることになった。絵画だけは続けたい、それだけを伝えて。
絵を描くのは前の子ども時代から好きだった。勉強や運動にはあまり気乗りしなかったから、興味がそっちに流れていったのだろう。ある程度の年齢になって油絵が自分に合っていることに気がついてからは、そればかりだった。ペタペタと色を重ねることが好きだった。私の部屋はいつも絵の具の匂いがしたらしい。私にとっては日常であったから気を払うようなことでもなかった。
確かに私は絵を愛していた。好きな絵が美術館に飾られていると知ったら安くはない入場料も躊躇なく払えたし、バイトをしていない時分はお小遣いを前借りしてまで画集を買ったこともある。今思えば青春は絵に捧げたと言ってもよいほどだった。それなのにいつしか筆を取らなくなってしまった。それは大学生になり実家を離れた時か、あるいは社会人になって日々に忙殺されていた時か。絵は私から遠ざかっていった。だからこそ、今回は手放さないように、と思ったのかもしれない。
私は沢山の本を読むから書庫を貰った。私が絵を描き続ける選択をしたから、そのための道具と部屋を貰った。全ては親に与えられた。今の私はそういう意味で恵まれていた。だから遠ざかっていた絵は今私の見えるところにある。かつてのように呼吸と共にあるわけではない。私は日常の一部であったはずの絵の具の匂いが分かるようになってしまった。しかし、それでも手の届く距離にある。
そして前は凡庸でしかなかった私の絵は、この世界に来て異質だというただ一点のみで評価されるようになった。君の絵は何処かは分からないが独創的で我々にはない世界を持っている、とは私に絵を教えている先生の言葉だ。納得したのは私が異邦人であることを自覚しているからだ。
私の絵はある程度この世界に認められている。しかしそれは私が異邦人であるという事実によるところだった。人には無い、ということに価値が見出されやすいのは芸術において真実だ。その面は私は未来人、宇宙人にだって並んでみせるだろう。同時に私と同じ境遇の人がいたら全く同じ評価をされるだろう。
つまり私の絵は真の意味での評価を得ることはない。
今回の展覧会で展示されることになったのだって、努力だとか実力とかではないのだ。もしかすると母の肩書きが関わっているのかもしれない。
なんて情けなくて惨めなことだろう。
趣味ですらない、前のような熱量を絵に捧げられない私が悲劇を叫ぼうと、もうどうしようもないのが少しだけ辛かった。
だからあまり来たくはなかった。それなのに、何故私は展覧会にわざわざ足を運んでいるのだろうか……答えは既に分かっているから所詮これは現実逃避的なものだ。
「警備の人までいるんですね」
「飾られているのは応募作品で主に素人の方のものですが、著名な方の作品……主催者の方の作品も少なくないです。それこそ見る人が見れば凄い価値をつけるような」
図書館を待ち合わせにしないのは初めてのことだった。いつからか見慣れた少年の書生スタイルは、芸術が集う展覧会の雰囲気に合っている気がして何だか面白い。対して私はハイブランドまではいかないまでも、そこそこなブランドで揃えてある。それでもいやらしいまでにそのブランドを押し出すようなものは身に付けていないはずだ。まだ私の中に残る庶民感覚を信じたい。庶民派万歳。
「大体見て回るのに何時間くらいかかるでしょうか」
「人によるでしょうけど、私は一時間半もあれば充分ですよ。そもそも私はまだ招待券を何枚か持っていていつでも来れるので、そちらに合わせます」
「うーん……小生はあまりこういった場に足を運ぶことが今までなかったので、とりあえず一時間半後にエントランスで待ち合わせしましょう」
少年が招待券を受け取る、というのは大体半々の確率くらいだと思っていたけれど、私を誘うのは正直なところ予想外だった。やんわりと行かない姿勢を示したはずなのに、いつの間にか予定が決まっていた。気持ちは見事なドナドナ。少年はどこでそういったスキルを身に付けたのか。
「エントランスですね。分かりました。時間は過ぎても大丈夫ですから、せっかくですので楽しんでください」
「はい。見終わったら前に行った甘味屋に行きましょう。展覧会のお礼にご馳走します」
「招待券は無料で手に入ったものですし、自分の分は自分で払いますよ」
「こういった場合、素直に奢られる方が可愛いってものですよ。まあ、なんて言おうとあなたに払わせませんけど」
反論しようにもさっと人に紛れるようにして行ってしまった少年に口を噤む。
謎の敗北感に肩を落としながら、私は自分の作品が展示されていないところを見て回ることにした。多分見終わるのも早いだろうからそこら辺にある椅子で座っていよう、なんて予想を立てながら。
***
全ては予想通り。結局のところ私は一時間足らずで見終わってしまった。それも見回っている途中で知り合いの先生に出会い、つらつらと何かと言われた時間も含めてのことだ。去り際に言われたお母様によろしく、はこの世界に来てから言われすぎてもはや馴染みの言葉だ。
心が擦り切れたような感覚を持て余しながら、糸が切れた人形のように椅子に座った。気が付かないわけがない。どうやら私はそこそこ疲れてしまったらしい。何かに耐えるように目を瞑った。
そうしていたら、ぐるぐるぐるぐると思考の渦に呑み込まれ、完全に私は埋められてしまった。それは読書中の没入感によく似ている。外部からのそこそこな衝撃か、波が去らなければ意識が戻ってこないのだ。悪癖に舌打ちをしてももう遅い。気がつけば約束の一時間半をとっくに過ぎていた。
私がいた場所はエントランスから少し離れた非常口やなんかの近くで、一般客からしたら陰になって目に入らないようなところだ。少年がもし私を探していたとしたら、気がつかないだろう。
早足でエントランスに戻る。しかし、予想に反して少年はいなかった。時間を過ぎても良いと言った手前、怒りなんてもの湧いてこないけれど時間が時間なため少しだけ心配になる。いつだって少年は律儀だったからだ。
それから少しだけ待った。それでも少年は現れない。私は少年を探すことにした。時間が経ってそこそこ人もはけ、探した方が早いと算段をつけたからだった。少年がまだ見ていたい様子をすれば、先程の場所で座って待っていようと思った。
彫刻、工芸、書道。その展示場所には少年の姿は見当たらなかった。あとは唯一私が避けた絵画の場所だ。入れ違ったり帰ったりしていない限り少年はそこにいることになる。
ここまできたら行った方が何だか収まりが良い気がした。自分で決めたことなのにため息が出る。
絵画のスペースに私は重い足を進めた。
絵画はざっくり洋画と日本画のスペースに別れている。日本画にいてくれたらいいな、なんて希望は早々に打ち砕かれ、洋画のスペースに足を運ぶことになった。
そこに行けば少年は拍子抜けするほどにすぐ見つかった。人がまばらだということもあるけれど、少年には独特のオーラがあると私は思う。人混みだったとしても私は少年を見つけることが出来る自信があった。
少年に近付くにつれて、少年はある一枚の絵の前にずっといることがわかった。少年の居場所を確認できたからここで戻っても良かったけれど、その絵を見る少年の様子があまりにひたむきだったからどんな絵を見ていたのかが気になった。
近付くにつれて絵の全貌が明らかになる。それと同時に私の顔は青ざめていった。
少年が食い入るようにして見つめていたのは、正真正銘、私の絵だった。
五百を超える作品が展示されている中で、ただ一点。その絵の前から動こうとしない少年を前に、胸に浮かんだのは後悔だった。
こんな作品を見て欲しいわけではなかった、なんて。何のために、誰にしているかもわからない言い訳ばかりが心臓を蝕んでいく。
これ以上は耐えきれない、そう思った。
少年に伸ばす手は情けないほどに震えていた。それでも、力を使い果たすような心地で少年の肩を叩いた。
「……は、」
ビクリと大袈裟に震えた肩に少年が戻ってきたことを確信する。私に向き直った少年は呆然として見えた。
「……そろそろ、帰り、ますか?」
少年が見たいなら待っていよう、なんて気持ちはもはや一欠片さえ残っていなかった。私にあるのはどうにかして少年をこの忌まわしい絵から遠ざけたい。その一点のみだった。
少年は中々口を開かない。いくらか夢見心地のその様子に嫌な予感が全身を駆け巡る。背中に汗が伝うのと、少年が心を言葉にするのは同時だった。
「……僕は、初めて見た」
「もう、いいですから」
「どうして、こんなにすごくて……誰にだって描けないはずの絵だ。上手く言葉に出来ないことが本当に悔しい。この絵を見た瞬間全てを捨てて絵の中に入り込んだ。この絵は」
「ねえ、」
「素晴らしく孤独で、素晴らしく愛おしい」
「……そんな絵じゃない……!」
堪らずに叫んでしまった。私の心は耐えきれなかったのだ。これはただの中途半端で、どこまでも不誠実な絵だ。そんな絵に与えて良い言葉なんて誰も持っているはずがない。今すぐにでも絵を燃やしてしまいたいくらいだった。
人に偽の感情を植え付けるくらいなら、この絵は無かった方がよかった。
私の様子がおかしいことに気が付いたのだろうか。少年は驚き、そして私のことを心配している様子を見せた。それはいつもの少年だった。ようやく偽物に惑わされた不幸な少年は本当にいなくなったのだ。
「……顔色が悪い、それに手をこんなに強く握って。痕になるから、ほら」
私の手を取って指を開いていく少年に、安心感と何処からともなく恐怖が這い上がってくる。いつもならじんわりと分け与えられるはずの体温も、遮断されているようだった。
そこで、止めてしまえばよかったのに。
「……この絵は、駄作です。こんな絵に心を砕くのは止めた方があなたのためです。これはここにあるべきではない」
不思議なことに、するすると言葉が出ていった。やめてと願っても、もう遅い。ただそれは私の紛れもない本心だった。
私の手に視線をやっていた少年は、目を見開き私を見つめる。何かが壊れる音がしたような気がした。
「まさか、この絵を描いたのは___________」
最後を聞くまでに少年の手を振り払ってその場から駆け出した。どうやって帰ったのか思い出せない。
その日から私は図書館に行くのをやめた。
「え、ああ……ちょうどそこにチラシがあって」
図書館には地域のイベントやなんかのチラシが置いてあることがままある。チェックをするしないはその時の気分だけれど、見覚えがあるものに反応するのが人というものだ。家にも何枚とあるにも関わらず、何となしに手に取ってしまった。
珍しく隣に座った少年が覗き込む。その瞳には僅かな興味が宿っていた。
「絵画、彫刻、工芸、書道まであるんですね」
「これは日本で一番大きな展覧会って言っても過言じゃないですからね。様々な分野が集うこともあって、作品数もそれだけ多いです」
母が特別審査員として呼ばれたこともある。母は結局のところ派閥が面倒だとボヤいでいたけれど。人の上に立つと仕事以外でも気苦労が絶えないらしい。ストレス耐性/Zeroの私には一生縁のない職業だろう。
「へえ、あ、でも入場料もしっかり取るんですね」
「規模が大きい分、それなりにコストもかかるんでしょうね。気になるんでしたら、招待券いりますか?良ければ来週持ってきますよ」
少年が目を瞬かせる。招待券、というのが引っかかったようだ。招待券はその名の通り呼ばれる側ということで、入場料を払わなくても良い。展示内容に興味があればそこそこ有り難いものだ。使わないとただの紙切れになってしまうということはあるけれど。
「……親の伝手ですよ」
_____________________この展覧会に私の作品もあるんですよ。とは言えなかった。
このことを話すには少し前に遡る。私がこの世界に何も説明もなしに来てしまった不幸は前にも言及した通りだ。ある日突然私は日本を掌でコロコロするような母の元で誕生の産声を上げた。
新しい母は私に甘かったけれど、生まれた環境が原因で最低限の義務は発生する。私は幼少期になんだかんだそこそこな量の稽古をこなした。ただ、両の手に届きそうな数の稽古は極めるというよりも、その世界に触れるという意味合いが大きくあまり苦にならなかった。読書の時間が大幅に減らされることがなかった上、お陰でサブ教科の授業にあまり困ることがなかったという恩恵もある。音楽なんて前はからっきしだった。ピアニカ、リコーダーにしか触れてこなかった人間が通ります。
成長して中学校に入ると同時に稽古をこなす日々は唐突に終わりを迎えた。ある程度出来るようになったからとのことだった。社会に出た時に作法や目利きができず恥をかく、なんてことがなければそれで良いらしい。残されたのは何か気に入ったものがあれば続けたら良い、という無責任な愛情だった。
その言葉に甘んじて私は解放されることになった。絵画だけは続けたい、それだけを伝えて。
絵を描くのは前の子ども時代から好きだった。勉強や運動にはあまり気乗りしなかったから、興味がそっちに流れていったのだろう。ある程度の年齢になって油絵が自分に合っていることに気がついてからは、そればかりだった。ペタペタと色を重ねることが好きだった。私の部屋はいつも絵の具の匂いがしたらしい。私にとっては日常であったから気を払うようなことでもなかった。
確かに私は絵を愛していた。好きな絵が美術館に飾られていると知ったら安くはない入場料も躊躇なく払えたし、バイトをしていない時分はお小遣いを前借りしてまで画集を買ったこともある。今思えば青春は絵に捧げたと言ってもよいほどだった。それなのにいつしか筆を取らなくなってしまった。それは大学生になり実家を離れた時か、あるいは社会人になって日々に忙殺されていた時か。絵は私から遠ざかっていった。だからこそ、今回は手放さないように、と思ったのかもしれない。
私は沢山の本を読むから書庫を貰った。私が絵を描き続ける選択をしたから、そのための道具と部屋を貰った。全ては親に与えられた。今の私はそういう意味で恵まれていた。だから遠ざかっていた絵は今私の見えるところにある。かつてのように呼吸と共にあるわけではない。私は日常の一部であったはずの絵の具の匂いが分かるようになってしまった。しかし、それでも手の届く距離にある。
そして前は凡庸でしかなかった私の絵は、この世界に来て異質だというただ一点のみで評価されるようになった。君の絵は何処かは分からないが独創的で我々にはない世界を持っている、とは私に絵を教えている先生の言葉だ。納得したのは私が異邦人であることを自覚しているからだ。
私の絵はある程度この世界に認められている。しかしそれは私が異邦人であるという事実によるところだった。人には無い、ということに価値が見出されやすいのは芸術において真実だ。その面は私は未来人、宇宙人にだって並んでみせるだろう。同時に私と同じ境遇の人がいたら全く同じ評価をされるだろう。
つまり私の絵は真の意味での評価を得ることはない。
今回の展覧会で展示されることになったのだって、努力だとか実力とかではないのだ。もしかすると母の肩書きが関わっているのかもしれない。
なんて情けなくて惨めなことだろう。
趣味ですらない、前のような熱量を絵に捧げられない私が悲劇を叫ぼうと、もうどうしようもないのが少しだけ辛かった。
だからあまり来たくはなかった。それなのに、何故私は展覧会にわざわざ足を運んでいるのだろうか……答えは既に分かっているから所詮これは現実逃避的なものだ。
「警備の人までいるんですね」
「飾られているのは応募作品で主に素人の方のものですが、著名な方の作品……主催者の方の作品も少なくないです。それこそ見る人が見れば凄い価値をつけるような」
図書館を待ち合わせにしないのは初めてのことだった。いつからか見慣れた少年の書生スタイルは、芸術が集う展覧会の雰囲気に合っている気がして何だか面白い。対して私はハイブランドまではいかないまでも、そこそこなブランドで揃えてある。それでもいやらしいまでにそのブランドを押し出すようなものは身に付けていないはずだ。まだ私の中に残る庶民感覚を信じたい。庶民派万歳。
「大体見て回るのに何時間くらいかかるでしょうか」
「人によるでしょうけど、私は一時間半もあれば充分ですよ。そもそも私はまだ招待券を何枚か持っていていつでも来れるので、そちらに合わせます」
「うーん……小生はあまりこういった場に足を運ぶことが今までなかったので、とりあえず一時間半後にエントランスで待ち合わせしましょう」
少年が招待券を受け取る、というのは大体半々の確率くらいだと思っていたけれど、私を誘うのは正直なところ予想外だった。やんわりと行かない姿勢を示したはずなのに、いつの間にか予定が決まっていた。気持ちは見事なドナドナ。少年はどこでそういったスキルを身に付けたのか。
「エントランスですね。分かりました。時間は過ぎても大丈夫ですから、せっかくですので楽しんでください」
「はい。見終わったら前に行った甘味屋に行きましょう。展覧会のお礼にご馳走します」
「招待券は無料で手に入ったものですし、自分の分は自分で払いますよ」
「こういった場合、素直に奢られる方が可愛いってものですよ。まあ、なんて言おうとあなたに払わせませんけど」
反論しようにもさっと人に紛れるようにして行ってしまった少年に口を噤む。
謎の敗北感に肩を落としながら、私は自分の作品が展示されていないところを見て回ることにした。多分見終わるのも早いだろうからそこら辺にある椅子で座っていよう、なんて予想を立てながら。
***
全ては予想通り。結局のところ私は一時間足らずで見終わってしまった。それも見回っている途中で知り合いの先生に出会い、つらつらと何かと言われた時間も含めてのことだ。去り際に言われたお母様によろしく、はこの世界に来てから言われすぎてもはや馴染みの言葉だ。
心が擦り切れたような感覚を持て余しながら、糸が切れた人形のように椅子に座った。気が付かないわけがない。どうやら私はそこそこ疲れてしまったらしい。何かに耐えるように目を瞑った。
そうしていたら、ぐるぐるぐるぐると思考の渦に呑み込まれ、完全に私は埋められてしまった。それは読書中の没入感によく似ている。外部からのそこそこな衝撃か、波が去らなければ意識が戻ってこないのだ。悪癖に舌打ちをしてももう遅い。気がつけば約束の一時間半をとっくに過ぎていた。
私がいた場所はエントランスから少し離れた非常口やなんかの近くで、一般客からしたら陰になって目に入らないようなところだ。少年がもし私を探していたとしたら、気がつかないだろう。
早足でエントランスに戻る。しかし、予想に反して少年はいなかった。時間を過ぎても良いと言った手前、怒りなんてもの湧いてこないけれど時間が時間なため少しだけ心配になる。いつだって少年は律儀だったからだ。
それから少しだけ待った。それでも少年は現れない。私は少年を探すことにした。時間が経ってそこそこ人もはけ、探した方が早いと算段をつけたからだった。少年がまだ見ていたい様子をすれば、先程の場所で座って待っていようと思った。
彫刻、工芸、書道。その展示場所には少年の姿は見当たらなかった。あとは唯一私が避けた絵画の場所だ。入れ違ったり帰ったりしていない限り少年はそこにいることになる。
ここまできたら行った方が何だか収まりが良い気がした。自分で決めたことなのにため息が出る。
絵画のスペースに私は重い足を進めた。
絵画はざっくり洋画と日本画のスペースに別れている。日本画にいてくれたらいいな、なんて希望は早々に打ち砕かれ、洋画のスペースに足を運ぶことになった。
そこに行けば少年は拍子抜けするほどにすぐ見つかった。人がまばらだということもあるけれど、少年には独特のオーラがあると私は思う。人混みだったとしても私は少年を見つけることが出来る自信があった。
少年に近付くにつれて、少年はある一枚の絵の前にずっといることがわかった。少年の居場所を確認できたからここで戻っても良かったけれど、その絵を見る少年の様子があまりにひたむきだったからどんな絵を見ていたのかが気になった。
近付くにつれて絵の全貌が明らかになる。それと同時に私の顔は青ざめていった。
少年が食い入るようにして見つめていたのは、正真正銘、私の絵だった。
五百を超える作品が展示されている中で、ただ一点。その絵の前から動こうとしない少年を前に、胸に浮かんだのは後悔だった。
こんな作品を見て欲しいわけではなかった、なんて。何のために、誰にしているかもわからない言い訳ばかりが心臓を蝕んでいく。
これ以上は耐えきれない、そう思った。
少年に伸ばす手は情けないほどに震えていた。それでも、力を使い果たすような心地で少年の肩を叩いた。
「……は、」
ビクリと大袈裟に震えた肩に少年が戻ってきたことを確信する。私に向き直った少年は呆然として見えた。
「……そろそろ、帰り、ますか?」
少年が見たいなら待っていよう、なんて気持ちはもはや一欠片さえ残っていなかった。私にあるのはどうにかして少年をこの忌まわしい絵から遠ざけたい。その一点のみだった。
少年は中々口を開かない。いくらか夢見心地のその様子に嫌な予感が全身を駆け巡る。背中に汗が伝うのと、少年が心を言葉にするのは同時だった。
「……僕は、初めて見た」
「もう、いいですから」
「どうして、こんなにすごくて……誰にだって描けないはずの絵だ。上手く言葉に出来ないことが本当に悔しい。この絵を見た瞬間全てを捨てて絵の中に入り込んだ。この絵は」
「ねえ、」
「素晴らしく孤独で、素晴らしく愛おしい」
「……そんな絵じゃない……!」
堪らずに叫んでしまった。私の心は耐えきれなかったのだ。これはただの中途半端で、どこまでも不誠実な絵だ。そんな絵に与えて良い言葉なんて誰も持っているはずがない。今すぐにでも絵を燃やしてしまいたいくらいだった。
人に偽の感情を植え付けるくらいなら、この絵は無かった方がよかった。
私の様子がおかしいことに気が付いたのだろうか。少年は驚き、そして私のことを心配している様子を見せた。それはいつもの少年だった。ようやく偽物に惑わされた不幸な少年は本当にいなくなったのだ。
「……顔色が悪い、それに手をこんなに強く握って。痕になるから、ほら」
私の手を取って指を開いていく少年に、安心感と何処からともなく恐怖が這い上がってくる。いつもならじんわりと分け与えられるはずの体温も、遮断されているようだった。
そこで、止めてしまえばよかったのに。
「……この絵は、駄作です。こんな絵に心を砕くのは止めた方があなたのためです。これはここにあるべきではない」
不思議なことに、するすると言葉が出ていった。やめてと願っても、もう遅い。ただそれは私の紛れもない本心だった。
私の手に視線をやっていた少年は、目を見開き私を見つめる。何かが壊れる音がしたような気がした。
「まさか、この絵を描いたのは___________」
最後を聞くまでに少年の手を振り払ってその場から駆け出した。どうやって帰ったのか思い出せない。
その日から私は図書館に行くのをやめた。