ついた嘘はたった一つだけ
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恋とは、愛とは何かとは実に陳腐な問題である。しかし、ありふれているからこそ誰もその答えを知らない。
夢野幻太郎。その名前を密やかに(密やかにというところに大きな意味がある)呟いてみる。あの日読んだ小説の内容とそれに付随する諸々の感情を思い出すには、それだけで十分だ。自分で言うのも何だけれど、芽生えたばかりの初々しく可愛らしい感情を大切にしたいと思った。そして夢野幻太郎の小説と共に出会ったあの美しい少年以外にはもう誰にも明かさないで大切にしまっておこう、そう思った。
田中太郎と山田花子という本名かすら分からない名前で呼び合う奇妙な繋がり。すぐに終わると思われたであろうそれは律儀に、丁寧にといった具合で続いている。家の用事や学校の行事があれば、前もって伝えるのは最早当然であり義務でもあった。この世界で初めてできた友人の存在は、想像以上に私の精神に良い作用をもたらした。
少年は掴みどころがなくて本当に不思議な子だ。話しているところころと一人称が変わり、口調もそれに合ったものに変わる。それはさながら物語の登場人物のようだった。ただ少年は私の夢野幻太郎とその小説への思いを馬鹿にすることは無かった。まして、あんなにもすんなりと確かな優しさを持って受け入れられるなんて驚いてしまったぐらいだ。
少年は不思議な子だ。でも、それ以上にとても優しい子だ。
私は毎月第三土曜日に例の図書館に訪れる。少し変わった、この世界の唯一無二の友人に会いに。
***
「さて、花子さん。あなたは高架の上にいて、隣には体格の良い男がいます。そこであなたは高架下の線路上を暴走するトロッコを確認しました。トロッコの先には五人の作業員がいます。このままだとトロッコは作業員全員を轢き殺してしまうでしょう。トロッコを止める方法はたった一つ。あなたの隣にいる男を落とすことです。あなたは、このような状況でどうしますか?」
それはいつかのことだった。暑い日だったような気がするし、寒い日だったような気もする。いつも私達はひっそりとした声で会話をした。この図書館は人が少ないせいか、そういったことが暗黙のうちに許されていたのだ。
少年の声は寂れた図書館によく馴染んだ。まるでそのために用意された声のようだと私はいつも思った。
「……トロッコ問題ですね」
読んでいた小説を置いて、私は答えた。簡単に手放せてしまえるほどにハズレのものだったのだ。題名に惹かれたものの、中身はそれほどということがよくある。不毛な読書を続ける私の微妙な心情に、少年は気がついていたのかもしれない。
「おや、ご存知でしたか」
「有名な倫理学の思考実験________昔に調べたことがあります」
思考実験は面白い。こちらに来る以前の学生時代、哲学者の仲間入りをした気分になって友人と考えたものだった。昔の私ははなんて答えたのか。
思考実験には明確な正解はない。だからこそ難しいのだ。
「私だったら、そうですね。五人を見殺しにしますね」
少年は意外だ、とでも言いたげな顔をしていた。一人より五人を取る功利主義者とでも思われていたのだろうか。ただ、その反応すら演技の可能性もあった。
「それは何故?」
「あ、でも続きがあるんですよ。五人を見殺しにしてから、隣の男を落とした後私自身も死にます」
残念ながら私は道徳を謳うつもりも、功利主義を謳うつもりもありはしないのだ。全員死ぬ、簡潔な結論。それこそがこの問題のハッピーエンドだと私は信じている。
「まるで最初から用意された回答だ」
少年はすっと目を細めた。その少年の顔は幼くもあり大人びてもいた。少年は誰よりも真実から遠そうで、同時に近いような錯覚を私に与えた。
真実の欠片くらい落とすことは許されるだろうか。
「かつてこんな本を読んだことがありました。ただの一般人が普通に、それこそ何にも変わりがないただの日常を過ごしているだけで異世界に送られてしまう話。その人は何故私が、と耐え難い苦しみを背負うことになりました」
「……どっちみち誰かを切り捨てるなら、死という平等を与えてもよい、と?」
「平等の与え方が死しかないのであれば、そうあるべきだと私は考えます。だって、誰かだけなんて苦しくて寂しくて仕方がないでしょう?」
上手く、笑えていた気がした。それは今でも行き場の無い感情を抱えている、他の誰でもない私の話だ。
「では、こんな意地悪な問題を引っ張ってきたあなたはどうなんですか?」
切り替えるように、少年に問う。その後少年が告げた答えは本心から言ったことなのか、それともお巫山戯だったのか。私は少年ではないから分からない。
なんて少し前のことを思い出しながら、私は図書館に訪れた。趣味の図書館巡りはいつの間にか鳴りを潜め、月一度の友人との語らいに取って代わった。私達は先に着いた方が、いつもの席で待っている。いつもの席というのは、私達が出会った時の席だ。
「……私が先、みたい」
少年の姿は見えなかった。来る時間というのは、明確には決められていない。大体は昼ご飯の時間から数時間後になるけれど、私はほとんど正午といっていい時間に着いた。昨日夜更かしをしていたせいで、少し遅めに起きてしまった。だから、朝ご飯とも昼ご飯ともつかない食事を終えて、することもないから早くに来てしまったのだ。
暇人だと内心苦笑して、私は席に着いた。そして最近買ってもらったばかりの革鞄から一昨日購入した本を取り出した。鞄の中からまたブックカバーを取り出して、本につける。革のブックカバーはとても良い。本を捲る度に香るあの香りが堪らないのだ。
女性本位の世界であるからか、私が愛した文学者達の作品の少ないはない数が淘汰されてしまったらしい。(いや、そもそも存在としてないのかもしれないけれど)
毒虫の話を書いた作家は、友人に頼んで自らの作品を全て処分するように言ったらしい。私の元いた世界とこの世界の僅かなボタンの掛け違いで、この世界では願い通り処分されている可能性もある。
私はかつて愛した作品の影を求めて本を読み続けるのかもしれない。それは哀れであり、さながら呪いであった。
しばらく読んで、ふと手を止める。また違った、と思ってしまった。それはこの小説の作者からしたら失礼この上ないだろう。しかし以前はそうでもなかったけれど、今の私は本を途中で諦めることが多くなってしまった。
気晴らしに本をしまい、鞄からノートとペンを取り出す。以前では態々買うことも無かった高級ブランドの文房具だ。最初は百均ので充分、と思っていたけれど高いものは高いだけの価値があることに使っていて気がついた。今では愛用するブランドまで見つけて、現金なものである。
ノートにはそこそこな使用感がある。パラパラと捲り、途中のページに辿り着く。そこにあるのは文字の羅列。私は、かつて自分が読んだ作品達をないのならば、と自分で復刻しようとしているのだ。誰かに見せよう、とか、出版しよう、とか、そんな恐れ多いことは思わない。ただの自己満足。しかし、そう簡単に文豪がやすやすと凡人である私に、作品を写させるかと言われたら否だ。絶対記憶能力なんてあるはずもなく、正直に言ってしまうと作業は難航していた。もっと正直に言うと、文章に起こすどころか、記憶を頼りに大体の内容を書くだけにとどまっている。
くそう。あの小説なんて十回は読んだのに。なんて、ぽんこつな脳細胞に腹が立とうと読みたい小説は手元に戻ってこない。そんなことをするのなら、思い出し思い出しながら設定を書いた方がマシであるものだ。
今書いているのは蝶の標本を巡る僕と模範少年の物語だ。内容を書いていくほど、そうかきみはそういう奴だったんだな、という台詞がこの世界で通じないことがなんとも悔しい。元いた世界では国語の授業で印象に残った台詞三選には絶対入ると思う。(だって、私自身が友人と言いまくった記憶がある)
筆が乗り、さらさらと書き連ねていく。時間を忘れた。夢中になると周りが見えなくなるという悪癖は、きっと私が私である限り治ることはないのだろう。
ペシリ。
しかし思いもよらないところでそれは中断されることになる。予想外のところからの軽い衝撃に一体何が起こったのか、初めの方は理解することができなかった。
「何度声を掛けても気が付かない。その耳は飾りか」
いつもよりも明らかに低い声。それも彼の七変化の中でもかなり低めの位置。隣にはいつの間にか待ち人である少年がいた。
「?!!!?!???、太郎、くん?」
「はい、どうも」
「気が付かなかったのはごめんなさい。でも、いきなり軽くでも頭を叩くのは暴挙といいますか」
「僕は何度あなたに声を掛けたでしょうか。凡そ十回は下りませんね。ここはあなたの誠意の見せ所ではないかと」
「誠に申し訳ございませんでした」
十回、十回……!と、自分の特定のことに対する集中力の高さにやや呆然としながらも、平謝りするしか道は残されていない。脳細胞がいくら死滅させられようと、私に少年を責めることなんて最初からできなかったのだ。
机に顔を伏せる私に降ってきたのは、楽しさを滲ませた笑い声。恐る恐る顔を上げると、少年には怒気なんて一切ない様子だった。惚ける私に右手をひらひらと振ってみせた。
「嘘ですよ。十回も声は掛けてません。もっともあなたが私に気が付くまでには多大な時間が掛かりましたが、それも怒りの範疇外です」
「えっと、それなら良かった……です?」
それにしてもあの低い声は心臓に悪すぎやしないか。口には出さないけれど。口には出さないけれど……!
「そんなことより」
先程から何やら私はどうにも着いていけていない気がするのだけれど、少年にとっては全てがそんなことで流せるものらしい。するりと隣に座った少年に、追求することも出来ず、どうしたのかと目で問う。
「あなたが小説家志望だなんて、僕は知りませんでした。知り合ってもうそこそこの月日が流れたというのに、秘密にされていたなんて小生はとても悲しい。麻呂は今、川に身を投げる乙女の心持ちでおじゃる」
「……小説家?」
静かに怒涛の勢いで、という矛盾でしかないけれどそれがしっくりくる様子で告げられたことに頭を捻る。一人称が凄い勢いで変わっていることが、少年の心の荒れようを見事に表しているようだった。
それにしても小説家志望とは一体全体どういうことなのか。前の世界で割と一般的シビアな環境に居た私の強いて言う今の夢は、縁側でお茶していたらお金が入ってくるシステムを構築することである。
頭に疑問符を浮かべるだけの私に、どこか焦れた様子で少年が指したのは_____________机の上に出しっぱなしになっている、ノート。
そこでようやく私は合点がいった。少年は勘違いをしているのだ。
「ああ、これは確かに小説の内容が書いていますね」
「周りを見えてないまで追い込んでいて、他人事。あなたはやはりどこか抜けていませんか。例えば重要な螺が一二本ほど」
声を掛けられて気が付かなかったのは私。小説の内容を書いていて、少年の言葉にすぐに思い至らなかったのも私。それを踏まえても、あんまりな物言いに目を剥く。対する少年はどこまでも涼しい顔をしていた。
「最近、あまり取り繕わなくなりましたね。今のはシンプルな悪口では?」
「はてさて。私にはわかりかねます」
こっちを振り回す様子はさながら猫のようだった。顔がいいって本当に狡い。それだけで少し変わり者であっても、小生意気でも許してしまえるのだ。
「まあ、話が進まなくなるので追求はしないでおくとして。私は小説家志望でもなんでもありませんよ。確かに、私は小説の内容をこのノートに書いていましたが、私が考えたものではないんです。別の方が書いた小説を、思い出しながら書いていただけで」
「ちょっと、失礼」
「えっ」
「騒ぐな。少しの間拝借するだけです」
しなやかな動作で奪われたノートと、有無を言わさぬ様子で読み始める少年に私はどうしようかと思う。この様子だと話し掛けても返事をしてくれないのは明白だ。
しばらくの間惚けていたけれど、所在なげに座るしかなくなった。図書館に来ているというのに、再び本を開く気も起きなかった。
何となしに少年を見やる。
長い睫毛に縁取られた美しい宝石の色彩の瞳、すっと通った鼻梁、乾燥とは無縁そうな薄い桃色の唇。同じ人間の筈なのに、少年と私では神様の気合いの入り方が全く違うのだ。
少年は大人になる手前の子どもが持つ、あの中性的な神秘さをこれでもかと言うほどに纏っている。
きっと少年は神様に愛されたのだろう。
かつての女子中高生の時の私だったとしたら、少年のような整った顔が目の前にあったら一発で恋に落ちる。顔やなんやらの格差なんて気にもとめないのが若さの特権だ。しかし、悲しいというのか当然だというのか。美しいものの隣には美しいもの、素晴らしい芸術作品は鑑賞するに限るという結論に私は辿り着いてしまっている。
少年はこのまま成長して、誰も彼もが振り返るような青年になるのだろう。その時に青年が私の友人である保証はない。目の保養万歳と思えるくらいの位置にいれたらいいのに、と思ってしまうのは欲張りだろうか。
真剣な様子の少年をこれ以上見るのもなんだか悪いことをしているような気分になって、席を立とうとした。
「……?!っ」
立とうとしたところ、手が引っ張られてどこかに行くことすらままならない。しょうがなくストンと再び席に座り直した。流石に微妙にだけ腰を浮かせた、いわゆる空気椅子のような体勢でずっと居続けるのは辛いものがある。こっちは今も昔も筋力Eなんだ。
少年の目は依然としてノートに向けられたままだ。握られたままの手をどうしたものか、と、とりあえず外そうとする。振っても空いた片方の手を使っても、それは叶わなかった。何故か余計に少年が私の手を握る力が強くなっている気がした。細いその腕のどこに筋力が隠れているのか。人は見かけによらない。
「あの」
「……僕の顔をじっと見るのを許すから、ふらふら何処かに行くな」
「は」
「もう一度言わないと理解することが出来ないほどあなたの脳は出来が悪い、と?」
少年の目が今度はしっかり私を向いている。というか、顔見てたのモロバレやないかい、とか、悪口のレベル上がってない?、とか言いたいことは沢山ある。それを踏まえても、私は笑みを堪えることができなかった。
「、何をそんなにおかしそうに」
「猫が懐くってこんな感じかなって」
「は」
「頭を叩いたのは、私が気が付かなかったからしょうがないとして。こんな風に触れるっていうのは初対面以来?あなたは、自分からあまり人に触れたりしませんから。最近見られるあまり飾らない物言いも、躊躇なくって感じがthe友人同士というようで嬉しくて」
少年はくるくると七変化する面白おかしい態度に隠れて、案外心の壁が厚い人種だということは割と最初の方に理解していた。少年がいくら演技が上手かろうと、私が昔伊達に社会人をしていなかったということだ。世の中には沢山の人がいる。
少年は気まぐれで、それでも警戒心が強い。少年の特別に私が入っている、とまで烏滸がましいことは思わない。けれど、最初に比べて少しでも少年が私に気を許しているのは確かだろう。
私の言葉に固まる少年は、理解したのだろう。罰が悪そうに、それでも手を離すことは無かった。
「……俺が、一体どんな風に思って」
少年が次に言ったことは、本当に小さな絞り出すようなもので聞き取れなかった。
「、すみません。聞こえなくて」
「……別に、問題ありませんよ」
「問題ないって言いながら、チョップをかましてくるのは如何なものかと」
「小生にはわかりかねます」
先程まで年相応な顔をしていたように思うのだけれど、少年はいつもの澄ました様子にすっかり戻っていた。いつも振り回される側としては、少しだけ残念だ。
そのままチョップを終えた手で少年はノートを私に差し出した。私は目を丸くする。
「これ、あなたに返します」
「まだ途中のようでしたけど」
「いいんです、今は。それに僕にはいつかあなたに聞きたいことができました」
そう言った少年の顔はどこか晴れやかだ。今聞いてくれていいのに、と思わなくもないけれど少年はいつかと言ったから。私が急くのは無粋だろう。
それよりも私には気になることがある。
「あのですね、この手は一体いつになったら離して頂けるのでしょうか」
「ん?」
「……今、力込めましたよね」
「小生にはわかりかねます」
先程にも聞いた返答に私は諦めて、少年は手汗とか諸々の問題を気にしない性質なのだと、半ば無理矢理結論づけた。手汗やべえと思いながら握るなんて特殊性癖、少年には無いのだと信じたい。
「ところで花子さん」
「はい、なんでしょうか太郎くん」
「今日はとてもいい天気ですね」
「そうですね」
「図書館に籠りっぱなしもどうかと思います」
「ん?なるほど」
「幸いなことに、ここから歩いて丁度良い距離に甘味屋があります」
「はい」
「僕は今、無性にそこの白玉餡蜜が食べたくてしょうがありません。遇には一緒に行くというのも良いと思うのですが」
図書館から出て、少年と何処かに行くのは初めてではないだろうか。それにしても回りくどくて、少年らしい誘い文句だ。少年の微かに赤い耳に、私は笑みを漏らす。
返事なんて、とっくに決まっていた。
夢野幻太郎。その名前を密やかに(密やかにというところに大きな意味がある)呟いてみる。あの日読んだ小説の内容とそれに付随する諸々の感情を思い出すには、それだけで十分だ。自分で言うのも何だけれど、芽生えたばかりの初々しく可愛らしい感情を大切にしたいと思った。そして夢野幻太郎の小説と共に出会ったあの美しい少年以外にはもう誰にも明かさないで大切にしまっておこう、そう思った。
田中太郎と山田花子という本名かすら分からない名前で呼び合う奇妙な繋がり。すぐに終わると思われたであろうそれは律儀に、丁寧にといった具合で続いている。家の用事や学校の行事があれば、前もって伝えるのは最早当然であり義務でもあった。この世界で初めてできた友人の存在は、想像以上に私の精神に良い作用をもたらした。
少年は掴みどころがなくて本当に不思議な子だ。話しているところころと一人称が変わり、口調もそれに合ったものに変わる。それはさながら物語の登場人物のようだった。ただ少年は私の夢野幻太郎とその小説への思いを馬鹿にすることは無かった。まして、あんなにもすんなりと確かな優しさを持って受け入れられるなんて驚いてしまったぐらいだ。
少年は不思議な子だ。でも、それ以上にとても優しい子だ。
私は毎月第三土曜日に例の図書館に訪れる。少し変わった、この世界の唯一無二の友人に会いに。
***
「さて、花子さん。あなたは高架の上にいて、隣には体格の良い男がいます。そこであなたは高架下の線路上を暴走するトロッコを確認しました。トロッコの先には五人の作業員がいます。このままだとトロッコは作業員全員を轢き殺してしまうでしょう。トロッコを止める方法はたった一つ。あなたの隣にいる男を落とすことです。あなたは、このような状況でどうしますか?」
それはいつかのことだった。暑い日だったような気がするし、寒い日だったような気もする。いつも私達はひっそりとした声で会話をした。この図書館は人が少ないせいか、そういったことが暗黙のうちに許されていたのだ。
少年の声は寂れた図書館によく馴染んだ。まるでそのために用意された声のようだと私はいつも思った。
「……トロッコ問題ですね」
読んでいた小説を置いて、私は答えた。簡単に手放せてしまえるほどにハズレのものだったのだ。題名に惹かれたものの、中身はそれほどということがよくある。不毛な読書を続ける私の微妙な心情に、少年は気がついていたのかもしれない。
「おや、ご存知でしたか」
「有名な倫理学の思考実験________昔に調べたことがあります」
思考実験は面白い。こちらに来る以前の学生時代、哲学者の仲間入りをした気分になって友人と考えたものだった。昔の私ははなんて答えたのか。
思考実験には明確な正解はない。だからこそ難しいのだ。
「私だったら、そうですね。五人を見殺しにしますね」
少年は意外だ、とでも言いたげな顔をしていた。一人より五人を取る功利主義者とでも思われていたのだろうか。ただ、その反応すら演技の可能性もあった。
「それは何故?」
「あ、でも続きがあるんですよ。五人を見殺しにしてから、隣の男を落とした後私自身も死にます」
残念ながら私は道徳を謳うつもりも、功利主義を謳うつもりもありはしないのだ。全員死ぬ、簡潔な結論。それこそがこの問題のハッピーエンドだと私は信じている。
「まるで最初から用意された回答だ」
少年はすっと目を細めた。その少年の顔は幼くもあり大人びてもいた。少年は誰よりも真実から遠そうで、同時に近いような錯覚を私に与えた。
真実の欠片くらい落とすことは許されるだろうか。
「かつてこんな本を読んだことがありました。ただの一般人が普通に、それこそ何にも変わりがないただの日常を過ごしているだけで異世界に送られてしまう話。その人は何故私が、と耐え難い苦しみを背負うことになりました」
「……どっちみち誰かを切り捨てるなら、死という平等を与えてもよい、と?」
「平等の与え方が死しかないのであれば、そうあるべきだと私は考えます。だって、誰かだけなんて苦しくて寂しくて仕方がないでしょう?」
上手く、笑えていた気がした。それは今でも行き場の無い感情を抱えている、他の誰でもない私の話だ。
「では、こんな意地悪な問題を引っ張ってきたあなたはどうなんですか?」
切り替えるように、少年に問う。その後少年が告げた答えは本心から言ったことなのか、それともお巫山戯だったのか。私は少年ではないから分からない。
なんて少し前のことを思い出しながら、私は図書館に訪れた。趣味の図書館巡りはいつの間にか鳴りを潜め、月一度の友人との語らいに取って代わった。私達は先に着いた方が、いつもの席で待っている。いつもの席というのは、私達が出会った時の席だ。
「……私が先、みたい」
少年の姿は見えなかった。来る時間というのは、明確には決められていない。大体は昼ご飯の時間から数時間後になるけれど、私はほとんど正午といっていい時間に着いた。昨日夜更かしをしていたせいで、少し遅めに起きてしまった。だから、朝ご飯とも昼ご飯ともつかない食事を終えて、することもないから早くに来てしまったのだ。
暇人だと内心苦笑して、私は席に着いた。そして最近買ってもらったばかりの革鞄から一昨日購入した本を取り出した。鞄の中からまたブックカバーを取り出して、本につける。革のブックカバーはとても良い。本を捲る度に香るあの香りが堪らないのだ。
女性本位の世界であるからか、私が愛した文学者達の作品の少ないはない数が淘汰されてしまったらしい。(いや、そもそも存在としてないのかもしれないけれど)
毒虫の話を書いた作家は、友人に頼んで自らの作品を全て処分するように言ったらしい。私の元いた世界とこの世界の僅かなボタンの掛け違いで、この世界では願い通り処分されている可能性もある。
私はかつて愛した作品の影を求めて本を読み続けるのかもしれない。それは哀れであり、さながら呪いであった。
しばらく読んで、ふと手を止める。また違った、と思ってしまった。それはこの小説の作者からしたら失礼この上ないだろう。しかし以前はそうでもなかったけれど、今の私は本を途中で諦めることが多くなってしまった。
気晴らしに本をしまい、鞄からノートとペンを取り出す。以前では態々買うことも無かった高級ブランドの文房具だ。最初は百均ので充分、と思っていたけれど高いものは高いだけの価値があることに使っていて気がついた。今では愛用するブランドまで見つけて、現金なものである。
ノートにはそこそこな使用感がある。パラパラと捲り、途中のページに辿り着く。そこにあるのは文字の羅列。私は、かつて自分が読んだ作品達をないのならば、と自分で復刻しようとしているのだ。誰かに見せよう、とか、出版しよう、とか、そんな恐れ多いことは思わない。ただの自己満足。しかし、そう簡単に文豪がやすやすと凡人である私に、作品を写させるかと言われたら否だ。絶対記憶能力なんてあるはずもなく、正直に言ってしまうと作業は難航していた。もっと正直に言うと、文章に起こすどころか、記憶を頼りに大体の内容を書くだけにとどまっている。
くそう。あの小説なんて十回は読んだのに。なんて、ぽんこつな脳細胞に腹が立とうと読みたい小説は手元に戻ってこない。そんなことをするのなら、思い出し思い出しながら設定を書いた方がマシであるものだ。
今書いているのは蝶の標本を巡る僕と模範少年の物語だ。内容を書いていくほど、そうかきみはそういう奴だったんだな、という台詞がこの世界で通じないことがなんとも悔しい。元いた世界では国語の授業で印象に残った台詞三選には絶対入ると思う。(だって、私自身が友人と言いまくった記憶がある)
筆が乗り、さらさらと書き連ねていく。時間を忘れた。夢中になると周りが見えなくなるという悪癖は、きっと私が私である限り治ることはないのだろう。
ペシリ。
しかし思いもよらないところでそれは中断されることになる。予想外のところからの軽い衝撃に一体何が起こったのか、初めの方は理解することができなかった。
「何度声を掛けても気が付かない。その耳は飾りか」
いつもよりも明らかに低い声。それも彼の七変化の中でもかなり低めの位置。隣にはいつの間にか待ち人である少年がいた。
「?!!!?!???、太郎、くん?」
「はい、どうも」
「気が付かなかったのはごめんなさい。でも、いきなり軽くでも頭を叩くのは暴挙といいますか」
「僕は何度あなたに声を掛けたでしょうか。凡そ十回は下りませんね。ここはあなたの誠意の見せ所ではないかと」
「誠に申し訳ございませんでした」
十回、十回……!と、自分の特定のことに対する集中力の高さにやや呆然としながらも、平謝りするしか道は残されていない。脳細胞がいくら死滅させられようと、私に少年を責めることなんて最初からできなかったのだ。
机に顔を伏せる私に降ってきたのは、楽しさを滲ませた笑い声。恐る恐る顔を上げると、少年には怒気なんて一切ない様子だった。惚ける私に右手をひらひらと振ってみせた。
「嘘ですよ。十回も声は掛けてません。もっともあなたが私に気が付くまでには多大な時間が掛かりましたが、それも怒りの範疇外です」
「えっと、それなら良かった……です?」
それにしてもあの低い声は心臓に悪すぎやしないか。口には出さないけれど。口には出さないけれど……!
「そんなことより」
先程から何やら私はどうにも着いていけていない気がするのだけれど、少年にとっては全てがそんなことで流せるものらしい。するりと隣に座った少年に、追求することも出来ず、どうしたのかと目で問う。
「あなたが小説家志望だなんて、僕は知りませんでした。知り合ってもうそこそこの月日が流れたというのに、秘密にされていたなんて小生はとても悲しい。麻呂は今、川に身を投げる乙女の心持ちでおじゃる」
「……小説家?」
静かに怒涛の勢いで、という矛盾でしかないけれどそれがしっくりくる様子で告げられたことに頭を捻る。一人称が凄い勢いで変わっていることが、少年の心の荒れようを見事に表しているようだった。
それにしても小説家志望とは一体全体どういうことなのか。前の世界で割と一般的シビアな環境に居た私の強いて言う今の夢は、縁側でお茶していたらお金が入ってくるシステムを構築することである。
頭に疑問符を浮かべるだけの私に、どこか焦れた様子で少年が指したのは_____________机の上に出しっぱなしになっている、ノート。
そこでようやく私は合点がいった。少年は勘違いをしているのだ。
「ああ、これは確かに小説の内容が書いていますね」
「周りを見えてないまで追い込んでいて、他人事。あなたはやはりどこか抜けていませんか。例えば重要な螺が一二本ほど」
声を掛けられて気が付かなかったのは私。小説の内容を書いていて、少年の言葉にすぐに思い至らなかったのも私。それを踏まえても、あんまりな物言いに目を剥く。対する少年はどこまでも涼しい顔をしていた。
「最近、あまり取り繕わなくなりましたね。今のはシンプルな悪口では?」
「はてさて。私にはわかりかねます」
こっちを振り回す様子はさながら猫のようだった。顔がいいって本当に狡い。それだけで少し変わり者であっても、小生意気でも許してしまえるのだ。
「まあ、話が進まなくなるので追求はしないでおくとして。私は小説家志望でもなんでもありませんよ。確かに、私は小説の内容をこのノートに書いていましたが、私が考えたものではないんです。別の方が書いた小説を、思い出しながら書いていただけで」
「ちょっと、失礼」
「えっ」
「騒ぐな。少しの間拝借するだけです」
しなやかな動作で奪われたノートと、有無を言わさぬ様子で読み始める少年に私はどうしようかと思う。この様子だと話し掛けても返事をしてくれないのは明白だ。
しばらくの間惚けていたけれど、所在なげに座るしかなくなった。図書館に来ているというのに、再び本を開く気も起きなかった。
何となしに少年を見やる。
長い睫毛に縁取られた美しい宝石の色彩の瞳、すっと通った鼻梁、乾燥とは無縁そうな薄い桃色の唇。同じ人間の筈なのに、少年と私では神様の気合いの入り方が全く違うのだ。
少年は大人になる手前の子どもが持つ、あの中性的な神秘さをこれでもかと言うほどに纏っている。
きっと少年は神様に愛されたのだろう。
かつての女子中高生の時の私だったとしたら、少年のような整った顔が目の前にあったら一発で恋に落ちる。顔やなんやらの格差なんて気にもとめないのが若さの特権だ。しかし、悲しいというのか当然だというのか。美しいものの隣には美しいもの、素晴らしい芸術作品は鑑賞するに限るという結論に私は辿り着いてしまっている。
少年はこのまま成長して、誰も彼もが振り返るような青年になるのだろう。その時に青年が私の友人である保証はない。目の保養万歳と思えるくらいの位置にいれたらいいのに、と思ってしまうのは欲張りだろうか。
真剣な様子の少年をこれ以上見るのもなんだか悪いことをしているような気分になって、席を立とうとした。
「……?!っ」
立とうとしたところ、手が引っ張られてどこかに行くことすらままならない。しょうがなくストンと再び席に座り直した。流石に微妙にだけ腰を浮かせた、いわゆる空気椅子のような体勢でずっと居続けるのは辛いものがある。こっちは今も昔も筋力Eなんだ。
少年の目は依然としてノートに向けられたままだ。握られたままの手をどうしたものか、と、とりあえず外そうとする。振っても空いた片方の手を使っても、それは叶わなかった。何故か余計に少年が私の手を握る力が強くなっている気がした。細いその腕のどこに筋力が隠れているのか。人は見かけによらない。
「あの」
「……僕の顔をじっと見るのを許すから、ふらふら何処かに行くな」
「は」
「もう一度言わないと理解することが出来ないほどあなたの脳は出来が悪い、と?」
少年の目が今度はしっかり私を向いている。というか、顔見てたのモロバレやないかい、とか、悪口のレベル上がってない?、とか言いたいことは沢山ある。それを踏まえても、私は笑みを堪えることができなかった。
「、何をそんなにおかしそうに」
「猫が懐くってこんな感じかなって」
「は」
「頭を叩いたのは、私が気が付かなかったからしょうがないとして。こんな風に触れるっていうのは初対面以来?あなたは、自分からあまり人に触れたりしませんから。最近見られるあまり飾らない物言いも、躊躇なくって感じがthe友人同士というようで嬉しくて」
少年はくるくると七変化する面白おかしい態度に隠れて、案外心の壁が厚い人種だということは割と最初の方に理解していた。少年がいくら演技が上手かろうと、私が昔伊達に社会人をしていなかったということだ。世の中には沢山の人がいる。
少年は気まぐれで、それでも警戒心が強い。少年の特別に私が入っている、とまで烏滸がましいことは思わない。けれど、最初に比べて少しでも少年が私に気を許しているのは確かだろう。
私の言葉に固まる少年は、理解したのだろう。罰が悪そうに、それでも手を離すことは無かった。
「……俺が、一体どんな風に思って」
少年が次に言ったことは、本当に小さな絞り出すようなもので聞き取れなかった。
「、すみません。聞こえなくて」
「……別に、問題ありませんよ」
「問題ないって言いながら、チョップをかましてくるのは如何なものかと」
「小生にはわかりかねます」
先程まで年相応な顔をしていたように思うのだけれど、少年はいつもの澄ました様子にすっかり戻っていた。いつも振り回される側としては、少しだけ残念だ。
そのままチョップを終えた手で少年はノートを私に差し出した。私は目を丸くする。
「これ、あなたに返します」
「まだ途中のようでしたけど」
「いいんです、今は。それに僕にはいつかあなたに聞きたいことができました」
そう言った少年の顔はどこか晴れやかだ。今聞いてくれていいのに、と思わなくもないけれど少年はいつかと言ったから。私が急くのは無粋だろう。
それよりも私には気になることがある。
「あのですね、この手は一体いつになったら離して頂けるのでしょうか」
「ん?」
「……今、力込めましたよね」
「小生にはわかりかねます」
先程にも聞いた返答に私は諦めて、少年は手汗とか諸々の問題を気にしない性質なのだと、半ば無理矢理結論づけた。手汗やべえと思いながら握るなんて特殊性癖、少年には無いのだと信じたい。
「ところで花子さん」
「はい、なんでしょうか太郎くん」
「今日はとてもいい天気ですね」
「そうですね」
「図書館に籠りっぱなしもどうかと思います」
「ん?なるほど」
「幸いなことに、ここから歩いて丁度良い距離に甘味屋があります」
「はい」
「僕は今、無性にそこの白玉餡蜜が食べたくてしょうがありません。遇には一緒に行くというのも良いと思うのですが」
図書館から出て、少年と何処かに行くのは初めてではないだろうか。それにしても回りくどくて、少年らしい誘い文句だ。少年の微かに赤い耳に、私は笑みを漏らす。
返事なんて、とっくに決まっていた。