ついた嘘はたった一つだけ
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昨今の世の中で叫ばれる女性の人権問題。私自身の知識としては学生時代に歴史の授業で学んだことだったり、何気なく見る日々のニュースだったりと割と適当な感じだ。それでもただの一般人の私は、何も思わずとも日々暮らしていけるわけで。
よく言えばおおらか、悪く言えば無関心。華の学生生活を終えて他と違わずに社会のレールに乗せられてからも、特に大きな不満はなく毎日は過ぎ去っていく。
強い希望もなく就職した一般企業でもそれは変わらなかった。職場はブラックではないけれどピュアホワイトでもない。優しい人がいれば、そこそこ嫌味な人もいる。仕事で辛く当たられることは何度かあったけれど、そんな時は自分で稼いだお金で美味しいものを食べたり買い物にでも行ったり。潰れそうになる前に気晴らしをすることで何とか頑張れた。及第点と割り切ってしまえば楽だということをほとんどの人は知っている。私もそんな有象無象の一人だった。
……本当に私は一般人そのものだった。何故過去形になってしまったのかは、その後に私を襲った奇跡に原因がある。ただそれは、出来ることなら全力で遠慮したいありがた迷惑でしかなかったけれど。
一般人だったはずの私はいつも通りの生活をしていただけで、問答無用にパラレルワールド、或いは異世界に送り込まれた逸般人に成り果ててしまった。
そこは完全女性優位の格差社会。元々の私の世界にいた人たちは目を剥くであろう光景を日常的に見ることの出来る、なんとも不思議な世界だった。とあるゲームに夢中だった私が特異点かな?と思ってしまったのもしょうがないことだろう。
***
新しい母の口癖はあなたが望めば叶わないことなんてないのだから、だった。過剰な自信なのだと笑うことが間違っていることに気が付いたのは一体いつの時だったか。
こちらへ来るきっかけも首を傾げるばかりで、家でコンビニの新作スイーツを食べようといそいそと準備をしていたら、いつの間にか新しい人生が始まっていた。その日は仕事があまり上手くいかず、特別機嫌が悪い上司に必要以上に怒鳴られ鬱憤が溜まっていた。だから夜遅くであろうと関係が無い、とお菓子を買い込んだのだ。
あまりに平凡な日常の一ページ。だからおぎゃおぎゃと泣き喚いている赤子が自分なのだということを受け入れるのには、当然のことながら少なくはない時間が必要だった。だって何度考えたってわけが分からない。百歩譲って、私がこの世界に来るのが確定事項だったとしてもだ。せめて予備動作くらいはして欲しかった。叶うのなら「これから異世界に転移します!3!2!1!」くらいのアナウンスは必須。それがあるだけで、後々楽になるとまではいかなくても多少現状を割り切る手助けにはなっただろう。
以上のことが慣れた生活から突然何も説明もなしに、新たな生活を送らざるをえない状況に追いやられるまでの私の全て。
知らない人間が私の親を名乗り、愛情を注いでくれる光景は恐怖以外の何物でもなかった。しかし一方で人は順応性が高い生き物だ。今ではその愛情に応えるべくすくすくと成長している途中である。元の世界のことを忘れたわけではないから、薄情なわけではないと信じたい。そもそも私がこの世界に来てしまってもう十五年もの長さになるのだ。過剰な女性本位には若干の居心地の悪さがあるけれど、いいかげん慣れてしまったのも不思議なことではないだろう。
今の私は人理修復に勤しむFさんが来て、この世界をなかったものにしても、もう何も驚かないだろう。そこにあるのは不条理に慣れてしまった人間の諦念だ。
しかし、生まれ変わってしまった私の一番の頭痛の種は親の肩書きだった。私は中王区の重鎮の娘だった。平たく言えば私は国を動かしている親の元に生まれたのである。
段々と世界の有り様を理解し始めた頃の私は、当然顔を覆って膝から崩れ落ちた。生まれ変わるなら小金持ちくらいが丁度良いと思った回数は両手で数えきれない。
私のような身分の子どもは子どもだというのにこっちの腰が引けるほどしっかりしているし、それ以外で私に話し掛けてくれるのは典型的な取り巻きのような子達だった。あとは静かに遠巻きに見てくるグループ。友だちが欲しいの、なんて言うような精神年齢でもないはずなのに普通に辛かった。その頃の私は精神が肉体に引き摺られていたのかもしれない。
ただ、幸いなことに天才肌でも何でもない私を、親は責めることがなくただひたすらに甘やかすだけだった。だからか友だちのいない私の部屋の大きな本棚にはぎっしりと本が詰まっているし、専用の書庫もあり完全に人との関わり断つ気満々だけれど満足はしている。これで過剰な英才教育、勝手に期待だけかけられたりしていたら私は虫の息だっただろう。転生者の特典であるずるめいた頭脳も、結局あることわざの通りになることは間違いない。凡人が生まれ変わってもスペックは変わらない。当事者になった今でこそはっきりと頷ける。
そんな私の唯一の趣味(読書はもはや生きる糧だから除くとして)は色々なところの図書館を巡ることだった。もちろん一人。寂しいとか言われてもうるせ〜〜としか言い様がない。……せめて友だちの一人くらいできたらよかったななんて遠い目をしてももう遅いのである。
***
いつも通りの休日。友人との予定がない私(そもそも友人がいない)は、趣味の図書館巡りのためにシブヤ・ディビジョンを訪れた。
シブヤ・ディビジョンの図書館は初めてだからか心が浮き足立っている。スマホの地図アプリを開くといくつかの候補が表示される。いつもだったら大きな図書館に入るのに、何故か今回に限っては外れにあるこじんまりとしたところに行こうという気になった。たまには寂れた図書館だって風情があっていいのかもしれない。
人の流れから逆らうようにして私はその図書館へ訪れた。図書館は二階建てで、中王区のものとは似つかない。でもそれが反対に好ましく思えた。
逸る気持ちを抑えて、一歩を踏み出す。少し薄暗いかな、と思える古い電灯の光とまばらな人。おそらく多くの図書館利用者は最近できた大きな場所へ行くのだろう。こちらを見た司書さんに軽くお辞儀をして私は図書館の中を見て回ることにした。
この世界に生まれ落ちてからは問答無用に中心に据えられる日々だった。だからこそ私は本という世界に逃げ込んだのかもしれない。
奥まったところに、閲覧用の机と椅子がある。そこに一冊の本が無造作に置いてあった。
「……✕✕高校、文芸部」
何となく惹かれるものがあって手に取ってみれば、それは学校で発行される文集であるようだった。誰もいないことを確認して、私は端の席に座る。遇にはこんなこともいいかもしれないと思いながら、文集のページを捲った。
高校生らしい荒削りだけれど先が楽しみな文章、拙くても本が好きなのだということが一杯一杯伝わってくる可愛らしいもの、そして他と一線を画し追随すら許さない本物の才能。
文集に載せてあった最後の小説。その小説はもう既に完成されたものだった。お遊びではない、たった一つの本物の才能。本を読んで鳥肌が立つだなんていつぶりだろうか。これはこんなところに無造作に置いて良いものじゃない。
「……夢野幻太郎」
本名なのかペンネームなのかすら分からない不思議な名前。その名前を呼ぶだけで私の鼓動はおかしくなってしまうようだった。
それはいずれ誰もが知るであろう名前。抜けられない衝撃に呆然としている私に、声が掛けられた。
「それ、面白かったですか?」
読後の余韻(にしてはあまりに暴虐的なもの)に浸る私の耳に、あまりに自然に、するりと入ってきた声だった。
「……え」
顔を上げると対面の席にとても美しい少年が座っていた。制服と思わしきシャツを着ているから、おそらく同年代くらいなのだろう。いつからだろう、とぼんやりと思っているうちに少年はまた言葉を重ねた。
「その文集、僕のなんです」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。あの小説に魅せられた私はまるで自分のものだというような錯覚を無意識に起こしてしまっていたのだと思う。所有欲、そんな言葉で片付けれるほど生易しいものではなく、執着に似た何かが既に私は件の小説にあったのだ。それでも私の理性は案外はっきりしてくるもので、考えるより先に行動を起こした。
「ついつい気になって勝手に読んでしまいました。あなたの物だとは知らずに……ごめんなさい」
「いえいえ、そんなに夢中な読者を間近で見ることが出来て僥倖。小生も取りに来て良かったというものです」
随分と不思議な話し方をする子だな、と思うと同時に耳はしっかりとその意味を拾った。
「まさかあなたが夢野幻太郎さんですか……!」
まさか、と思いながらも期待はしてしまう。まさに運命のようだという考えが落ちてくるものの、現実はそう甘くはないらしい。驚いたように僅かに目を見開いた後、少年は首を横に振った。
「私は田中太郎です。ほら、最初の方に載っていた」
「ああ、随分とパワフルな文章だと思いましたが……あなたのような薄幸の美少年の代名詞のような方が書かれているなんて」
「よく言われます」
夢野幻太郎さんでないのなら、興奮も収まるというものだ。何となく少年の纏う雰囲気は不思議で、夢という感じが似合わなくはないのだけれど、と内心少しだけ残念に思う。
田中太郎という名前が本名なのかは気になるものの、文章と見た目のギャップが凄まじくてそっちの印象の方が強い。頭の中で大将と言いながらすごい速さで通り過ぎた少年がいたけれど、きっと気のせいだ。
「……どうかされましたか?」
「え、」
「何か考えているようでしたから」
「いえ、特に大事なことではなくてですね……いや……あの。ちょっと、いきなりで図々しいことは百も承知なのですが、この文集を譲って頂くことは出来ないですか?」
ギャップのことは置いておくとして。どうしようかと逡巡の後、譲ってくれないかダメ元でお願いしてみることにした。それでダメならとお金を積む、むしろ走って持ち去るとか悪い手段しか浮かばないけれど、それだけ私はこの文集を手に入れたかった。完全に我儘な悪側の思考である。親の権力という単語がこっちを見ている気がする。今の私は躊躇なく普通に行使してしまいそうだ。ただのクズである。
そんな私の突然のお願いに少年は形の良い翡翠の目を細める。それに何故だかドキリとした。
「それは何故?」
本当のことを言ってしまうと、それはきっと世間一般には理解し難いことだというのが私には分かってしまっている。夢野幻太郎さんの小説を読んでから収まらない胸の鼓動は、私に芽生えた一種の感情を意味していた。嘘八百並べることも出来るけれど、それをしてしまうと目の前の少年は私に文集を譲らないだろうという確証のない確信があった。そうなってしまうと選択なんて二つに一つないわけで。
迷いながら、それでも何かに背を押されるように私は話し始めた。何かはきっと先程から私を支配している新しい感情なのだと思う。
「……好きになってしまったんです。夢野幻太郎さんが書いた世界も、そしてその夢野幻太郎さん自身のことも。恋、というものは今までの私はよく分からなくて……でも、これが恋なのだと確信が持てるくらいには、私は夢野幻太郎さんも、夢野幻太郎さんの小説も好きなんです。会ったことなんて勿論ありませんし、今日初めて知ったのに、私は……意味が分からないと思います。それでも、それでも…………」
支離滅裂で聞くに耐えない言葉の羅列。言っているうちに、何だか恥ずかしい秘密をあかしてしまったようで泣きそうだ。目線は不安と呼応するように落ちる。精神年齢はもう大人なのに。内心責める自分がいる。もしかすると前世、今世合わせて初めての恋かもしれないと思った。私はいつだって中途半端だったからだ。
耐えられなくなってギュッと目を瞑る。文集だけは胸に抱えたまま。カタン、と少年が席を立った音がした。
そして処刑人のような心持ちの私に降ってきたのは、予想よりも優しい声だった。
「こっちを向いてください」
きっと近くに立っているのだろう。でも、私の中の臆病は首を振らせる。
何度かそんな問答を繰り返した後だった。
「……聞き分けのない人だ」
急に頬を触れられて驚き思わず目を開けた。私の目はしょうがないとでも言いたげな表情で優しげに笑う少年の顔を映し出した。少年は屈んで、座っている私にわざわざ目線を合わせていた。
「その文集はあなたにあげます」
「……本当ですか」
「残念ながら本当ですよ」
じわじわと喜びに蝕まれる体は言うことを聞かない。緩みきった頬を何とかしようとしても、結局そのままお礼を言うことになった。ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。何度下げたって足りないような気がした。
「ただし、条件があります」
「は」
「月に一回、今日がそうなので毎月の第三土曜日にここへ来て僕の話し相手になってください」
突然提示された条件は予想外のものだった。固まる私に少年は訝しげな顔をする。
「何か問題が?嫌なんて言うようであればまろは号泣必須といったところじゃが……」
「……(まろ?)いや、嫌とかではなくてですね、私なんかと会ってくださるんですか?」
友人、という単語が脳裏に過ぎる。少年は文集をくれて更に友人にまでなってくれると言うのか。あまりに私に都合が良い気がして何度確認しても、少年は言葉通りの意味だと言った。そして頷く私に満足気に笑うのだった。
「では、あなたの名前を聞いていませんでしたね。教えてください」
「山田花子です」
苗字が特殊ですぐに親と結び付けられることから、偽名を名乗るのは早かった。
少年が今日一の鳩が豆鉄砲を食った顔を見せたのが正直面白かったのはここだけの秘密である。
よく言えばおおらか、悪く言えば無関心。華の学生生活を終えて他と違わずに社会のレールに乗せられてからも、特に大きな不満はなく毎日は過ぎ去っていく。
強い希望もなく就職した一般企業でもそれは変わらなかった。職場はブラックではないけれどピュアホワイトでもない。優しい人がいれば、そこそこ嫌味な人もいる。仕事で辛く当たられることは何度かあったけれど、そんな時は自分で稼いだお金で美味しいものを食べたり買い物にでも行ったり。潰れそうになる前に気晴らしをすることで何とか頑張れた。及第点と割り切ってしまえば楽だということをほとんどの人は知っている。私もそんな有象無象の一人だった。
……本当に私は一般人そのものだった。何故過去形になってしまったのかは、その後に私を襲った奇跡に原因がある。ただそれは、出来ることなら全力で遠慮したいありがた迷惑でしかなかったけれど。
一般人だったはずの私はいつも通りの生活をしていただけで、問答無用にパラレルワールド、或いは異世界に送り込まれた逸般人に成り果ててしまった。
そこは完全女性優位の格差社会。元々の私の世界にいた人たちは目を剥くであろう光景を日常的に見ることの出来る、なんとも不思議な世界だった。とあるゲームに夢中だった私が特異点かな?と思ってしまったのもしょうがないことだろう。
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新しい母の口癖はあなたが望めば叶わないことなんてないのだから、だった。過剰な自信なのだと笑うことが間違っていることに気が付いたのは一体いつの時だったか。
こちらへ来るきっかけも首を傾げるばかりで、家でコンビニの新作スイーツを食べようといそいそと準備をしていたら、いつの間にか新しい人生が始まっていた。その日は仕事があまり上手くいかず、特別機嫌が悪い上司に必要以上に怒鳴られ鬱憤が溜まっていた。だから夜遅くであろうと関係が無い、とお菓子を買い込んだのだ。
あまりに平凡な日常の一ページ。だからおぎゃおぎゃと泣き喚いている赤子が自分なのだということを受け入れるのには、当然のことながら少なくはない時間が必要だった。だって何度考えたってわけが分からない。百歩譲って、私がこの世界に来るのが確定事項だったとしてもだ。せめて予備動作くらいはして欲しかった。叶うのなら「これから異世界に転移します!3!2!1!」くらいのアナウンスは必須。それがあるだけで、後々楽になるとまではいかなくても多少現状を割り切る手助けにはなっただろう。
以上のことが慣れた生活から突然何も説明もなしに、新たな生活を送らざるをえない状況に追いやられるまでの私の全て。
知らない人間が私の親を名乗り、愛情を注いでくれる光景は恐怖以外の何物でもなかった。しかし一方で人は順応性が高い生き物だ。今ではその愛情に応えるべくすくすくと成長している途中である。元の世界のことを忘れたわけではないから、薄情なわけではないと信じたい。そもそも私がこの世界に来てしまってもう十五年もの長さになるのだ。過剰な女性本位には若干の居心地の悪さがあるけれど、いいかげん慣れてしまったのも不思議なことではないだろう。
今の私は人理修復に勤しむFさんが来て、この世界をなかったものにしても、もう何も驚かないだろう。そこにあるのは不条理に慣れてしまった人間の諦念だ。
しかし、生まれ変わってしまった私の一番の頭痛の種は親の肩書きだった。私は中王区の重鎮の娘だった。平たく言えば私は国を動かしている親の元に生まれたのである。
段々と世界の有り様を理解し始めた頃の私は、当然顔を覆って膝から崩れ落ちた。生まれ変わるなら小金持ちくらいが丁度良いと思った回数は両手で数えきれない。
私のような身分の子どもは子どもだというのにこっちの腰が引けるほどしっかりしているし、それ以外で私に話し掛けてくれるのは典型的な取り巻きのような子達だった。あとは静かに遠巻きに見てくるグループ。友だちが欲しいの、なんて言うような精神年齢でもないはずなのに普通に辛かった。その頃の私は精神が肉体に引き摺られていたのかもしれない。
ただ、幸いなことに天才肌でも何でもない私を、親は責めることがなくただひたすらに甘やかすだけだった。だからか友だちのいない私の部屋の大きな本棚にはぎっしりと本が詰まっているし、専用の書庫もあり完全に人との関わり断つ気満々だけれど満足はしている。これで過剰な英才教育、勝手に期待だけかけられたりしていたら私は虫の息だっただろう。転生者の特典であるずるめいた頭脳も、結局あることわざの通りになることは間違いない。凡人が生まれ変わってもスペックは変わらない。当事者になった今でこそはっきりと頷ける。
そんな私の唯一の趣味(読書はもはや生きる糧だから除くとして)は色々なところの図書館を巡ることだった。もちろん一人。寂しいとか言われてもうるせ〜〜としか言い様がない。……せめて友だちの一人くらいできたらよかったななんて遠い目をしてももう遅いのである。
***
いつも通りの休日。友人との予定がない私(そもそも友人がいない)は、趣味の図書館巡りのためにシブヤ・ディビジョンを訪れた。
シブヤ・ディビジョンの図書館は初めてだからか心が浮き足立っている。スマホの地図アプリを開くといくつかの候補が表示される。いつもだったら大きな図書館に入るのに、何故か今回に限っては外れにあるこじんまりとしたところに行こうという気になった。たまには寂れた図書館だって風情があっていいのかもしれない。
人の流れから逆らうようにして私はその図書館へ訪れた。図書館は二階建てで、中王区のものとは似つかない。でもそれが反対に好ましく思えた。
逸る気持ちを抑えて、一歩を踏み出す。少し薄暗いかな、と思える古い電灯の光とまばらな人。おそらく多くの図書館利用者は最近できた大きな場所へ行くのだろう。こちらを見た司書さんに軽くお辞儀をして私は図書館の中を見て回ることにした。
この世界に生まれ落ちてからは問答無用に中心に据えられる日々だった。だからこそ私は本という世界に逃げ込んだのかもしれない。
奥まったところに、閲覧用の机と椅子がある。そこに一冊の本が無造作に置いてあった。
「……✕✕高校、文芸部」
何となく惹かれるものがあって手に取ってみれば、それは学校で発行される文集であるようだった。誰もいないことを確認して、私は端の席に座る。遇にはこんなこともいいかもしれないと思いながら、文集のページを捲った。
高校生らしい荒削りだけれど先が楽しみな文章、拙くても本が好きなのだということが一杯一杯伝わってくる可愛らしいもの、そして他と一線を画し追随すら許さない本物の才能。
文集に載せてあった最後の小説。その小説はもう既に完成されたものだった。お遊びではない、たった一つの本物の才能。本を読んで鳥肌が立つだなんていつぶりだろうか。これはこんなところに無造作に置いて良いものじゃない。
「……夢野幻太郎」
本名なのかペンネームなのかすら分からない不思議な名前。その名前を呼ぶだけで私の鼓動はおかしくなってしまうようだった。
それはいずれ誰もが知るであろう名前。抜けられない衝撃に呆然としている私に、声が掛けられた。
「それ、面白かったですか?」
読後の余韻(にしてはあまりに暴虐的なもの)に浸る私の耳に、あまりに自然に、するりと入ってきた声だった。
「……え」
顔を上げると対面の席にとても美しい少年が座っていた。制服と思わしきシャツを着ているから、おそらく同年代くらいなのだろう。いつからだろう、とぼんやりと思っているうちに少年はまた言葉を重ねた。
「その文集、僕のなんです」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。あの小説に魅せられた私はまるで自分のものだというような錯覚を無意識に起こしてしまっていたのだと思う。所有欲、そんな言葉で片付けれるほど生易しいものではなく、執着に似た何かが既に私は件の小説にあったのだ。それでも私の理性は案外はっきりしてくるもので、考えるより先に行動を起こした。
「ついつい気になって勝手に読んでしまいました。あなたの物だとは知らずに……ごめんなさい」
「いえいえ、そんなに夢中な読者を間近で見ることが出来て僥倖。小生も取りに来て良かったというものです」
随分と不思議な話し方をする子だな、と思うと同時に耳はしっかりとその意味を拾った。
「まさかあなたが夢野幻太郎さんですか……!」
まさか、と思いながらも期待はしてしまう。まさに運命のようだという考えが落ちてくるものの、現実はそう甘くはないらしい。驚いたように僅かに目を見開いた後、少年は首を横に振った。
「私は田中太郎です。ほら、最初の方に載っていた」
「ああ、随分とパワフルな文章だと思いましたが……あなたのような薄幸の美少年の代名詞のような方が書かれているなんて」
「よく言われます」
夢野幻太郎さんでないのなら、興奮も収まるというものだ。何となく少年の纏う雰囲気は不思議で、夢という感じが似合わなくはないのだけれど、と内心少しだけ残念に思う。
田中太郎という名前が本名なのかは気になるものの、文章と見た目のギャップが凄まじくてそっちの印象の方が強い。頭の中で大将と言いながらすごい速さで通り過ぎた少年がいたけれど、きっと気のせいだ。
「……どうかされましたか?」
「え、」
「何か考えているようでしたから」
「いえ、特に大事なことではなくてですね……いや……あの。ちょっと、いきなりで図々しいことは百も承知なのですが、この文集を譲って頂くことは出来ないですか?」
ギャップのことは置いておくとして。どうしようかと逡巡の後、譲ってくれないかダメ元でお願いしてみることにした。それでダメならとお金を積む、むしろ走って持ち去るとか悪い手段しか浮かばないけれど、それだけ私はこの文集を手に入れたかった。完全に我儘な悪側の思考である。親の権力という単語がこっちを見ている気がする。今の私は躊躇なく普通に行使してしまいそうだ。ただのクズである。
そんな私の突然のお願いに少年は形の良い翡翠の目を細める。それに何故だかドキリとした。
「それは何故?」
本当のことを言ってしまうと、それはきっと世間一般には理解し難いことだというのが私には分かってしまっている。夢野幻太郎さんの小説を読んでから収まらない胸の鼓動は、私に芽生えた一種の感情を意味していた。嘘八百並べることも出来るけれど、それをしてしまうと目の前の少年は私に文集を譲らないだろうという確証のない確信があった。そうなってしまうと選択なんて二つに一つないわけで。
迷いながら、それでも何かに背を押されるように私は話し始めた。何かはきっと先程から私を支配している新しい感情なのだと思う。
「……好きになってしまったんです。夢野幻太郎さんが書いた世界も、そしてその夢野幻太郎さん自身のことも。恋、というものは今までの私はよく分からなくて……でも、これが恋なのだと確信が持てるくらいには、私は夢野幻太郎さんも、夢野幻太郎さんの小説も好きなんです。会ったことなんて勿論ありませんし、今日初めて知ったのに、私は……意味が分からないと思います。それでも、それでも…………」
支離滅裂で聞くに耐えない言葉の羅列。言っているうちに、何だか恥ずかしい秘密をあかしてしまったようで泣きそうだ。目線は不安と呼応するように落ちる。精神年齢はもう大人なのに。内心責める自分がいる。もしかすると前世、今世合わせて初めての恋かもしれないと思った。私はいつだって中途半端だったからだ。
耐えられなくなってギュッと目を瞑る。文集だけは胸に抱えたまま。カタン、と少年が席を立った音がした。
そして処刑人のような心持ちの私に降ってきたのは、予想よりも優しい声だった。
「こっちを向いてください」
きっと近くに立っているのだろう。でも、私の中の臆病は首を振らせる。
何度かそんな問答を繰り返した後だった。
「……聞き分けのない人だ」
急に頬を触れられて驚き思わず目を開けた。私の目はしょうがないとでも言いたげな表情で優しげに笑う少年の顔を映し出した。少年は屈んで、座っている私にわざわざ目線を合わせていた。
「その文集はあなたにあげます」
「……本当ですか」
「残念ながら本当ですよ」
じわじわと喜びに蝕まれる体は言うことを聞かない。緩みきった頬を何とかしようとしても、結局そのままお礼を言うことになった。ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。何度下げたって足りないような気がした。
「ただし、条件があります」
「は」
「月に一回、今日がそうなので毎月の第三土曜日にここへ来て僕の話し相手になってください」
突然提示された条件は予想外のものだった。固まる私に少年は訝しげな顔をする。
「何か問題が?嫌なんて言うようであればまろは号泣必須といったところじゃが……」
「……(まろ?)いや、嫌とかではなくてですね、私なんかと会ってくださるんですか?」
友人、という単語が脳裏に過ぎる。少年は文集をくれて更に友人にまでなってくれると言うのか。あまりに私に都合が良い気がして何度確認しても、少年は言葉通りの意味だと言った。そして頷く私に満足気に笑うのだった。
「では、あなたの名前を聞いていませんでしたね。教えてください」
「山田花子です」
苗字が特殊ですぐに親と結び付けられることから、偽名を名乗るのは早かった。
少年が今日一の鳩が豆鉄砲を食った顔を見せたのが正直面白かったのはここだけの秘密である。