特別扱い
放課後の体育館には、床にボールをつく音とバッシュのスキール音、それから部員たちの声が響いている。その中でも一際大きく響いているのがマネージャーである、彩子の声だった。
「ほら、桜木花道! もっと腰を落としなさい」
「赤木先輩もこう言ってるでしょ」
「あ、ルカワ。お手本見せてあげて」
「……もうまたアンタらは。やっちゃんいいの? ほら桜木花道! やっちゃんがお手本見せてくれるって」
男ばかりのバスケ部の紅一点だからなのか、それとも好きな人だからなのか、リョータの耳に届くのは彩子の声ばかりだった。そうなると言わずもがなリョータの視線は彩子へと向けられる。それはもう1on1の相手をしていた三井に呆れられるくらいにハッキリと。
「オイ、こら。そんなディフェンスでいいと思ってんのかよ」
「……あ、ヤベ」
にっと口角を上げて笑った三井は、今更リョータが距離を詰めてきたのもお構いなしにアッサリと3Pを決める。スパッと綺麗にゴールへと吸い込まれていったボールを拾いにいくと、リョータは大きく溜息をついた。
「はぁ……」
リョータの視線の先には相変わらず彩子とそれから花道がいた。二人はギャーギャーと騒ぎながらも楽しそうに練習していて、思わず花道に妬ける。そんなことを考えながらリョータはドリブルをついて今度はシュート練に向かった。
こんな集中してもいない時に三井サンと勝負をしたって意味はない。つーかそんなのお互いのためにならねー。それならばいっそのこと個人練習をした方がいい。ドリブルをして、ひたすらシュートを打って。頭を空っぽにする。そうすりゃこんなカッコ悪ぃことは気にならなくなるだろうから。
ドリブルをして、シュートを打って。いくら頭を空っぽにしようと練習をしたところで、やっぱり耳に入ってくるのは花道を呼ぶ彩子の声だった。そしてそれを聞いたリョータは唇を尖らせながらふと呟いた。
「クソ、花道のヤツめ」
誰にも聞かせるつもりはない、ただの独り言のはずだった。だけどその言葉はしっかりと聞かれていたらしくリョータは眉を下げたヤスに心配そうに声を掛けられた。
「リョータ。何かあったの? 桜木と」
「……ヤス」
何かあったのかと聞かれても、何もない。オレが勝手に思ってるだけだから。そう心の中で呟いたリョータは、ヤスからふいっと視線を逸らして答えた。
「なんでもねー」
「……それならいいけど」
ヤスは目尻を下げただけでそれ以上は何も言わなかった。
それでもヤスが時折自分の方を見てきていることに、リョータは気づいていた。
「ヤス、帰ろうぜ」
「準備早いね、リョータ」
同中出身で家も近いからなのか、リョータとヤスは一緒に帰ることが多かった。
ヤスから時折感じた自分に向けられた視線。それは自分を心配してくれているからこそだとは分かっているが、リョータは今更なんと切り出して良いのかが分からずに空を見上げながら歩いていた。そんな時にヤスは、リョータの胸中を知ってか知らずか不意に口を開いた。
「……あのさ、リョータが何かあったのって桜木とじゃなくて彩子と、でしょ?」
不思議そうに小首を傾げたヤスにリョータは何も言えなくなる。眉を下げたヤスに心配そうに聞かれたのに、ここで否定をしようものなら図星だと認めるような、そんな気がしたからだ。もっとも、ここでそんな反応をしたところでヤスには図星であることなどお見通しなのだろう。だったらヤスにもこのカッコ悪い悩みを一緒に抱えてもらった方がよっぽど楽だ。
「……そうだよ」
リョータが自分よりも少し背の低いヤスを心持ち見下ろしたら、ヤスは眉を下げて笑っていた。
「アヤちゃんてさ、花道のことだけ呼び方が違うと思わねー? 花道のこと特別扱いしてんのかな」
夜の公園のブランコで、リョータは真剣な顔つきでヤスに投げかけた。しかしヤスはというとあんまりにもくだらないと感じたのか細長い目を見開いて、驚いている素振りを見せるだけだった。
「……特別扱い?」
「花道のことだけ桜木花道って呼ぶだろ、アヤちゃんって」
「確かに違うね」
唇を尖らせながらポツリと呟くリョータを見て、ヤスはふっと口角を上げて笑った。そんなヤスの反応に今更恥ずかしくなったリョータはほんの少し頬を赤く染めた。やっぱこんなカッコ悪ぃこと話すんじゃなかったぜ、と溜息をつきながら。
「悪い。やっぱりなんでもねー」
「それって彩子には聞いたの?」
ブランコから立ち上がったリョータに、ブランコに座ったままのヤスは問いかける。その言葉を聞いて振り返ったリョータは、ニコニコと自分を見ながら笑うヤスを見て眉を歪めた。
「アヤちゃんに聞くのはカッコ悪くねー?」
「まあカッコ良くはないけど、でもリョータは気になるんでしょ? だったら彩子本人に聞いた方が早いと思うけど」
相変わらずヤスはニコニコと笑っている。リョータの数少ない友達であるヤスの言うことなのだ。聞いた方が早いというのも言われてみればそりゃそうだ。
「明日聞いてみなよ、リョータ」
「ヤス。……お前なんか楽しんでねーか」
「まあ桜木だけじゃないってことだよ」
「……? 意味わかんね」
何か他意を含んでいるような気がしないでもないヤスの楽しげな笑みにリョータは再び眉を歪めた。
翌朝、いつもよりも早く学校へとやって来たリョータは、教室の自分の席に座ってソワソワしながら教室の前と後ろの扉両方を気にしていた。
チラチラと扉の方を見ては、いまだやって来ないお目当ての人物を頭の中で浮かべては胸がきゅーんっとなって。胸がいっぱいになったから机についた肘に頭を預けた、その時だった。
「アヤちゃん!」
パァァっと表情が晴れたリョータは一直線にその人物の元へと向かう。その先にいるのは他でもない彩子だ。
「おはよう、アヤちゃん」
「あら、リョータ。おはよう。今日はずいぶん早いわね」
彩子が教室に入ってくるやいなや、リョータは彩子の腕を引いて教室よりかは人がまばらな階段の踊り場へと連れ出した。
「ちょっとリョータ。急にどうしたの?」
突然こんな所まで連れてこられた彩子には何がなんだか分からない。だから怪訝そうに眉をひそめてリョータを見たのに、リョータは俯いたまま息を整えている。
「あのさ、アヤちゃん!」
勢いよく顔を上げたリョータの圧に押されて彩子が後退る。しかし一歩下がった先はもう壁だった。
「な、なによ?」
「アヤちゃんって、花道のことだけ特別扱いしてない!?」
「特別扱い? そんなのしてないわよ」
「えー、絶対してるって!」
「……まあ確かに。素人だからみんなとは違う練習をさせてるけど、桜木花道には。でもそれだけよ?」
先程からものすごい剣幕でじっと自分を睨んでくるリョータから思わず目を逸らした彩子は、口元に手を当てながら思い出したように呟く。するとそんな彩子の返答を聞いて、リョータは壁にバンッと手をついた。
「ほら、それ!! アヤちゃんって花道のことだけ桜木花道って呼ぶじゃん! それって特別扱いじゃないの!?」
狼狽えたように、しかし証拠を掴んだとでも言わんばかりに自信をありげに、口を開いたリョータが声を上げる。しかし彩子はそんなリョータとは裏腹に溜息が漏れた。彩子自身、特に気にもしていなかったそんなことを問い詰められたから体の力が抜けたのだった。
「アンタは何をバカなこと言ってんの」
彩子がどこからか取り出して振り下ろしたハリセンは、綺麗にリョータの頭へとぶつかる。バシッという音と鈍い痛みでようやく我を取り戻したリョータは、彩子と自分との距離の近さに驚いて慌てて壁から手をよけて後退った。
「ご、ごめんね。アヤちゃん」
自分でやったことに対して自分で真っ赤になっているリョータは、やり場の失った手をアタフタと動かしながら眉を歪めた。そんなリョータを見て、彩子はふっと口元を緩めた。
「そんなことを気にしていたなんてバカね。何も特別扱いなんてしてないわよ」
リョータの腕から解放された彩子は歩き出すと、チラリとリョータを振り返ってから階段を上る。そんな彩子の後に続いてリョータも階段を上って、教室へと向かう。
「で、でもさ、アヤちゃん」
すると彩子の後ろをゆっくりと歩いていたリョータが、彩子を呼び止めた声と重なってチャイムが鳴った。
「ほら早く急ぐわよ、リョータ!」
「う、うん。アヤちゃん」
そんな返事とは裏腹に、リョータはその場に立ち止まり動かない。だから彩子はリョータの元へと戻ってくると、リョータの腕を引いて駆け出した。
「リョータ! 何やってるのよ!」
「……うん。アヤちゃん」
リョータは彩子に腕を引かれたまま、“リョータ”と彩子に呼ばれたばかりの自分の名前を心の中で繰り返す。
いつの間にかすっかり人がいなくなっていた廊下では、彩子がリョータを呼ぶ声だけが響いていた。
「ほら、桜木花道! もっと腰を落としなさい」
「赤木先輩もこう言ってるでしょ」
「あ、ルカワ。お手本見せてあげて」
「……もうまたアンタらは。やっちゃんいいの? ほら桜木花道! やっちゃんがお手本見せてくれるって」
男ばかりのバスケ部の紅一点だからなのか、それとも好きな人だからなのか、リョータの耳に届くのは彩子の声ばかりだった。そうなると言わずもがなリョータの視線は彩子へと向けられる。それはもう1on1の相手をしていた三井に呆れられるくらいにハッキリと。
「オイ、こら。そんなディフェンスでいいと思ってんのかよ」
「……あ、ヤベ」
にっと口角を上げて笑った三井は、今更リョータが距離を詰めてきたのもお構いなしにアッサリと3Pを決める。スパッと綺麗にゴールへと吸い込まれていったボールを拾いにいくと、リョータは大きく溜息をついた。
「はぁ……」
リョータの視線の先には相変わらず彩子とそれから花道がいた。二人はギャーギャーと騒ぎながらも楽しそうに練習していて、思わず花道に妬ける。そんなことを考えながらリョータはドリブルをついて今度はシュート練に向かった。
こんな集中してもいない時に三井サンと勝負をしたって意味はない。つーかそんなのお互いのためにならねー。それならばいっそのこと個人練習をした方がいい。ドリブルをして、ひたすらシュートを打って。頭を空っぽにする。そうすりゃこんなカッコ悪ぃことは気にならなくなるだろうから。
ドリブルをして、シュートを打って。いくら頭を空っぽにしようと練習をしたところで、やっぱり耳に入ってくるのは花道を呼ぶ彩子の声だった。そしてそれを聞いたリョータは唇を尖らせながらふと呟いた。
「クソ、花道のヤツめ」
誰にも聞かせるつもりはない、ただの独り言のはずだった。だけどその言葉はしっかりと聞かれていたらしくリョータは眉を下げたヤスに心配そうに声を掛けられた。
「リョータ。何かあったの? 桜木と」
「……ヤス」
何かあったのかと聞かれても、何もない。オレが勝手に思ってるだけだから。そう心の中で呟いたリョータは、ヤスからふいっと視線を逸らして答えた。
「なんでもねー」
「……それならいいけど」
ヤスは目尻を下げただけでそれ以上は何も言わなかった。
それでもヤスが時折自分の方を見てきていることに、リョータは気づいていた。
「ヤス、帰ろうぜ」
「準備早いね、リョータ」
同中出身で家も近いからなのか、リョータとヤスは一緒に帰ることが多かった。
ヤスから時折感じた自分に向けられた視線。それは自分を心配してくれているからこそだとは分かっているが、リョータは今更なんと切り出して良いのかが分からずに空を見上げながら歩いていた。そんな時にヤスは、リョータの胸中を知ってか知らずか不意に口を開いた。
「……あのさ、リョータが何かあったのって桜木とじゃなくて彩子と、でしょ?」
不思議そうに小首を傾げたヤスにリョータは何も言えなくなる。眉を下げたヤスに心配そうに聞かれたのに、ここで否定をしようものなら図星だと認めるような、そんな気がしたからだ。もっとも、ここでそんな反応をしたところでヤスには図星であることなどお見通しなのだろう。だったらヤスにもこのカッコ悪い悩みを一緒に抱えてもらった方がよっぽど楽だ。
「……そうだよ」
リョータが自分よりも少し背の低いヤスを心持ち見下ろしたら、ヤスは眉を下げて笑っていた。
「アヤちゃんてさ、花道のことだけ呼び方が違うと思わねー? 花道のこと特別扱いしてんのかな」
夜の公園のブランコで、リョータは真剣な顔つきでヤスに投げかけた。しかしヤスはというとあんまりにもくだらないと感じたのか細長い目を見開いて、驚いている素振りを見せるだけだった。
「……特別扱い?」
「花道のことだけ桜木花道って呼ぶだろ、アヤちゃんって」
「確かに違うね」
唇を尖らせながらポツリと呟くリョータを見て、ヤスはふっと口角を上げて笑った。そんなヤスの反応に今更恥ずかしくなったリョータはほんの少し頬を赤く染めた。やっぱこんなカッコ悪ぃこと話すんじゃなかったぜ、と溜息をつきながら。
「悪い。やっぱりなんでもねー」
「それって彩子には聞いたの?」
ブランコから立ち上がったリョータに、ブランコに座ったままのヤスは問いかける。その言葉を聞いて振り返ったリョータは、ニコニコと自分を見ながら笑うヤスを見て眉を歪めた。
「アヤちゃんに聞くのはカッコ悪くねー?」
「まあカッコ良くはないけど、でもリョータは気になるんでしょ? だったら彩子本人に聞いた方が早いと思うけど」
相変わらずヤスはニコニコと笑っている。リョータの数少ない友達であるヤスの言うことなのだ。聞いた方が早いというのも言われてみればそりゃそうだ。
「明日聞いてみなよ、リョータ」
「ヤス。……お前なんか楽しんでねーか」
「まあ桜木だけじゃないってことだよ」
「……? 意味わかんね」
何か他意を含んでいるような気がしないでもないヤスの楽しげな笑みにリョータは再び眉を歪めた。
翌朝、いつもよりも早く学校へとやって来たリョータは、教室の自分の席に座ってソワソワしながら教室の前と後ろの扉両方を気にしていた。
チラチラと扉の方を見ては、いまだやって来ないお目当ての人物を頭の中で浮かべては胸がきゅーんっとなって。胸がいっぱいになったから机についた肘に頭を預けた、その時だった。
「アヤちゃん!」
パァァっと表情が晴れたリョータは一直線にその人物の元へと向かう。その先にいるのは他でもない彩子だ。
「おはよう、アヤちゃん」
「あら、リョータ。おはよう。今日はずいぶん早いわね」
彩子が教室に入ってくるやいなや、リョータは彩子の腕を引いて教室よりかは人がまばらな階段の踊り場へと連れ出した。
「ちょっとリョータ。急にどうしたの?」
突然こんな所まで連れてこられた彩子には何がなんだか分からない。だから怪訝そうに眉をひそめてリョータを見たのに、リョータは俯いたまま息を整えている。
「あのさ、アヤちゃん!」
勢いよく顔を上げたリョータの圧に押されて彩子が後退る。しかし一歩下がった先はもう壁だった。
「な、なによ?」
「アヤちゃんって、花道のことだけ特別扱いしてない!?」
「特別扱い? そんなのしてないわよ」
「えー、絶対してるって!」
「……まあ確かに。素人だからみんなとは違う練習をさせてるけど、桜木花道には。でもそれだけよ?」
先程からものすごい剣幕でじっと自分を睨んでくるリョータから思わず目を逸らした彩子は、口元に手を当てながら思い出したように呟く。するとそんな彩子の返答を聞いて、リョータは壁にバンッと手をついた。
「ほら、それ!! アヤちゃんって花道のことだけ桜木花道って呼ぶじゃん! それって特別扱いじゃないの!?」
狼狽えたように、しかし証拠を掴んだとでも言わんばかりに自信をありげに、口を開いたリョータが声を上げる。しかし彩子はそんなリョータとは裏腹に溜息が漏れた。彩子自身、特に気にもしていなかったそんなことを問い詰められたから体の力が抜けたのだった。
「アンタは何をバカなこと言ってんの」
彩子がどこからか取り出して振り下ろしたハリセンは、綺麗にリョータの頭へとぶつかる。バシッという音と鈍い痛みでようやく我を取り戻したリョータは、彩子と自分との距離の近さに驚いて慌てて壁から手をよけて後退った。
「ご、ごめんね。アヤちゃん」
自分でやったことに対して自分で真っ赤になっているリョータは、やり場の失った手をアタフタと動かしながら眉を歪めた。そんなリョータを見て、彩子はふっと口元を緩めた。
「そんなことを気にしていたなんてバカね。何も特別扱いなんてしてないわよ」
リョータの腕から解放された彩子は歩き出すと、チラリとリョータを振り返ってから階段を上る。そんな彩子の後に続いてリョータも階段を上って、教室へと向かう。
「で、でもさ、アヤちゃん」
すると彩子の後ろをゆっくりと歩いていたリョータが、彩子を呼び止めた声と重なってチャイムが鳴った。
「ほら早く急ぐわよ、リョータ!」
「う、うん。アヤちゃん」
そんな返事とは裏腹に、リョータはその場に立ち止まり動かない。だから彩子はリョータの元へと戻ってくると、リョータの腕を引いて駆け出した。
「リョータ! 何やってるのよ!」
「……うん。アヤちゃん」
リョータは彩子に腕を引かれたまま、“リョータ”と彩子に呼ばれたばかりの自分の名前を心の中で繰り返す。
いつの間にかすっかり人がいなくなっていた廊下では、彩子がリョータを呼ぶ声だけが響いていた。