短編小説
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態度がとっても紳士的、笑顔がちょっぴり表面的――それが彼の第一印象だった。
「お待たせしちゃってすみません」
私は呼吸を少し整えてから椅子を引いた。
「いえ、実は俺も結構ギリギリに来たんでお互い様ですよ」
翡葉さんはそう言いながら、テーブルの端に立てかけてあるメニューを手渡してくれた。
チラリと目をやると翡葉さんの前にコーヒーが置かれている。
待ち合わせの喫茶店に向かう途中、時間短縮のために翡葉さんと同じものを頼もうと考えていたけれど、私は生憎コーヒーが飲めない。
ざっとメニューに目を通しウエイトレスの女性に合図を送る。
「温かい紅茶を、ミルクつきでお願いします」
女性は恭しくお辞儀をして店の奥に姿を消すと、すぐに注文したものを持って戻ってきた。
今、私が向かい合っている彼――翡葉京一さんとは、会うのはこれで五回目。
翡葉さんはいつもと同じ、丈の長い長袖のコートをカッチリと着こなしていた。ボトルネックの襟は下を向くと口元を覆ってしまうくらい幅が出ている。そんな季節感のない装いは、翡葉さんが常人ならざることを一般人にも感じさせるようで、一緒にいる時いつも周囲から好奇の眼差しを向けられていた。
私は紅茶にミルクを多めに注ぎ、壁にかかった時計を見た。
今日はもう遅いから手短かに要件を済ませてしまおう。
翡葉さんは多忙な人だから、あまり長引かせては申し訳ない。
私は少し居ずまいを正して仕事モードに切り替える。
「早速ですが、翡葉さんの方でランクの指定はございますか?」
ランク――情報機密度のこと。
下がCから上がSまで、私はあらゆる種類の情報を商材としている。
というのも、私は裏でそれなりに名の通る情報屋で、ここ数か月は裏会実行部隊夜行をお客に、近辺の神佑地や妖被害の情報を売っていた。
翡葉さんは夜行の代表として直接私から情報を仕入れる役割を担っている。夜行は私から得た情報を元に案件を解決し、私経由で被害の出ていた地区から報酬を得る。
私はいくつか似たような取引先を持っているけれど、その中でも夜行は特にマルチに活動してくれる組織なので、色々な情報を買ってもらえて助かっている。
「そうですね……前回と同じ妖被害のもので、Bランクをお願いします」
「承知しました。一件だけ私宛に直接依頼が来ていますので、そちらにしたいと思います。一昨日から秦川市の一部のエリアでペットが凶暴化している件に関して……私が調べた範囲では、邪気は一つしか感知できませんでした。おそらく精神支配を行う類の妖だと思います。確証はないですが、大元の妖を叩けば全てのペットの洗脳が解けて正常に戻るかと……」
翡葉さんは内容を吟味するように私の話に耳を傾けていた。
聞きながら、真剣な表情でコーヒーを嗜む姿につい見惚れてしまう。
「えっと、こんな感じの案件で大丈夫でしょうか?」
画になるなぁと思いながら訊ねると、翡葉さんは「十分です」と首肯した。
「うちの経験の浅い戦闘員に任せられそうな案件が知りたかったので……ちょうどよさそうだ」
「あっ、あとですね、この騒動の一件を収拾した際に市の方から高額な謝礼金が出るとのことでしたので、その点を含めて美味しいお話かと思います」
そう言って悪戯っぽく笑うと、翡葉さんは少し困ったように笑った。
会ったばかりの頃の翡葉さんは、張り付いた笑顔を終始浮かべているだけだったけれど、最近は自然に感情を表に出してくれるようになった。
「耳よりな情報ありがとうございます。情報提供料はいつもの口座に振り込んでおきますね」
私はお礼を言って軽く頭を下げた。
紅茶が冷めてはいけないと思い、慌ててスプーンでミルクを軽く混ぜ、ティーカップに口をつける。
「……今日は、してないんですね」
「……はい?」
何の事だか分からず、間の抜けた声を出す。
「いや、なつめさんいつもしてるじゃないですか、指輪。似合ってたから……今日はしてないんだなって思って」
「ああ、あれのことですか」
私はいつも右手の薬指に指輪をはめていた。翡葉さんはきっとそのことを言っているのだろう。
音をたてないようにそっとティーカップをソーサーに置いて右手を見る。
「先日、寝る前に外したきりなくしてしまって……」
我ながら情けない理由だけれど、偽っても仕方がないので正直に白状した。
「大切なものじゃないんですか? 誰かから貰ったものとか」
「いえ、そんな……自分でいいなって思って買って……お守りみたいな感じで身につけていただけです。あっでも、あの指輪は特別な効力とかある訳ではなくて、つけてると安心するというか、なんというか……」
説明しているうちにどんどん恥ずかしくなってしまった。
これではまるでお人形を肌身離さず持ち歩いている少女と同じ心理ではないか。
幼稚な女だと思われてしまっただろうかと、おそるおそる翡葉さんを窺う。
「なるほど、お守りか……いいですね」
幸いなことに、翡葉さんは小馬鹿にするでも軽蔑するでもなく、腑に落ちた様子でうんうんと頷いていた。
心なしか嬉しそうに見えるのが何とも不可思議だ。
それにしても流石、夜行の諜報員だけある。
人を細部まで観察する習慣が自然と身についているに違いない。
私はあまり鋭い方ではないけれど、それを差し引いても相手に見ていることを全く勘づかせないのは凄いと思う。
まさか、指輪のことを指摘されるなんて。
「なつめさんて、ずっと一人で活動してるんですか?」
「ええ。私みたいな仕事ですと、一人の方が何かと動きやすいんですよ」
情報は扱いがデリケートですので、と付け加える。
商品の中でもSランクの情報は極めて繊細な扱いが求められるため、チームのメンバー同士ですら共有できないケースが多々ある。そんなことでと疑問に思われるかもしれないが、それらが積み重なって互いに疑心や不満を抱くようになり最悪の場合裏切りや騙し合いに発展する。
昔はチームに憧れて複数人で動いた時期もあったけれど、信頼関係という危うい繋がりでは成立しない仕事だと痛感した苦い思い出だ。
そんな理由もあり、ここ数年はずっと一人で仕事をこなしている。
とはいえ、仲間同士で協力して切磋琢磨し合っている夜行のような集団が羨ましくないと言ったら、それは嘘になるのだけれど。
「夜行、いい組織ですよね。活き活きしてて絆が強くて。たまに、みなさんが本当の家族に見える時がありますよ。ありがたいことに色々なお客さまがいるんですけど、正直、夜行の方と一緒にお仕事するのがここ最近の楽しみだったりするんです」
私は少し照れながらティーカップを傾けて残りを飲み干した。
紅茶の渋みがミルクで緩和されて香りだけがほどよく口の中に残る。
「なつめさんにそう言っていただけると……嬉しいな」
翡葉さんは私から目を逸らして所在なさそうにそう言うと、コーヒーを一気飲みした――かと思ったら、もの凄い勢いで咳き込みはじめた。
私はギョッとして咄嗟にハンカチを差し出すも、翡葉さんはむせながら「大丈夫です」と首を振った。慌てて飲むから気管に入ってしまったのだろうと、落ち着くまで生温かい目で見守ることにした。
今日の翡葉さんはちょっと様子がおかしい。
翡葉さんは一頻りぜぇぜぇと息を切らしてから、何事もなかったかのように話し始めた。
「失礼しました……まあでも正直、できたばかりの組織なんで裏会から浮いてるっていうか。若い奴なんて力持て余して暴れたりしてて……中は結構バタついてるんですけどね」
翡葉さんは苦笑して肩を竦めた。
そう言う翡葉さんも十分に若いと思うけれど、それでも年長者として手を焼いているのだろう。
「翡葉さんって、人知れず陰で苦労なさっていそうですよね。失礼かもしれませんが、翡葉さんが若い子相手に四苦八苦している姿を想像すると、ちょっぴり微笑ましいです……」
続けて「そろそろ、行きましょうか」と帰りを促すと、翡葉さんは自身のやや後方にある時計を振り返り、ハッとした。
「もうこんな時間か……! すみません、女性をこんな時間まで引き止めてしまって。俺が色々聞いたから……あの、迷惑じゃなかったら家まで送らせてください」
私は数秒思案する。
職業柄、住処を知られるのはあまりよろしくない。住所を自分に関する情報の中で格付けするなら間違いなくAランクだろう。
でも、と私は翡葉さんを見た。
翡葉さんにとっては何でもない当たり前のことかもしれないけれど、私は自分が翡葉さんから「女性」として扱いを受けていることが素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。ではご好意に甘えて……途中まで、ご一緒していただいてもよろしいですか?」
悪びれながらそう応えると、翡葉さんは表情を明るくしてレジの方へ向かった。
翡葉さんは会う度に私の分もまとめて出してくれていた。
改めてどこまでも紳士的な方だと感心してしまう。
私は会計を終えて戻ってきた翡葉さんに頭を下げた。
「いいですよ、これくらい。さぁ行きましょう」
翡葉さんの横に立って、その大きさに圧倒される。
座っている時も大きい人だと感じていたけれど、並ぶと身長差は20センチ以上あるだろうか。
誰かとこんな風に歩くのは初めてで、舞い上がってしまいそうだ。それも、翡葉さんに家路まで送ってもらっているという状況が殊更嬉しい。
翡葉さんからしたら些事かもしれないけれど、仕事ばかりでこういうことに縁遠かった私は夢見心地だった。
「月が綺麗ですね」
翡葉さんはそう言って、月明かりが包む夜空を仰ぐように見上げた。
私も真似して首をめいっぱい傾ける。
「ええ本当に。なんて美しいんでしょう」
気づかれないようこっそり隣を窺うと、翡葉さんの銀色の頭髪が月映えをして息をのむほどの美しさを誇っていた。
私は頭の中でそれを表す言葉を探したけれど、上手に伝えられる自信がなくて心に秘めておくことにした。
「なつめさん、知ってますか。昔は相手に告白する時に使うセリフだったらしいですよ」
「……"月が綺麗"が、ですか?」
「はい。まあ俺も人から聞いただけなんでよく知らないんですけど……」
「素敵な、言葉ですね」
翡葉さんは首肯して、それからまた夜空を仰いだ。
そんな風に思いを伝えられた女性は、きっと幸せだろうな。
翡葉さんは案外ロマンチストなのかもしれない。
そんなことを考える。
「翡葉さんって、女性からモテそうですよね」
「……俺がですか?」
翡葉さんは素で驚いたのか、とんでもない、と聞き返してきた。
「はい。翡葉さん、とっても優しいですから。日頃から女性に対して紳士的に振る舞われているんだろうなって。翡葉さんに優しくされた女性はみんな虜になってしまうと思いますよ」
翡葉さんは何か言いたげな表情をしていたけれど、私は気に留めなかった。
きっと日中に雨が降ったおかげだろう。
肺に流れ込んでくる空気が凛と澄んでいて心地いい。
月明かりが幻想的な雰囲気を生み、数えきれないほど通ってきた家路さえ初めての道のように感じられる。
ふと、あと10分もしないで家についてしまうことに気付き、予定していたよりずっと近くまで来てしまったことに驚嘆した。
「あ、あの! 私ここまでで大丈夫ですので……今日は翡葉さんと色々お話できて楽しかったです。送ってくださってありがとうございました」
翡葉さんに向き直って、名残惜しみつつ頭を下げる。
「あの、なつめさん」
言われて顔を上げると、翡葉さんはひどく切迫した表情をしていた。
只ならぬ雰囲気に息をのむ。
「俺、優しくないですよ」
「……え」
思わず聞き返す。
もしかしたら「優しい」と言ったのが気に障ったのかもしれない。
誤解しないでください。私はただ、翡葉さんの気遣いに感謝したかっただけなんです。
そんな弁解を挟む余地がないほど翡葉さんから緊張感が伝わってきた。
「俺は本来、女に優しくするような男じゃないってことです。いや、女だけじゃない。夜行じゃ年少者にだって恐がられてます。それに今だって……なつめさんじゃなかったら、わざわざ送ったりなんかしない」
翡葉さんは急に何を言い出すのだろう。
私のプチパニックなんてお構いなしに翡葉さんが続けた。
「なつめさん。俺、貴女と、仕事以外の時間に会いたいです。なつめさんのこと、もっと知りたいんです……ダメでしょうか?」
初めて翡葉さんに会った時、私は自分の知識欲が激しく掻き立てられるのを感じて戸惑った。
どうしていいか分からなかった私は、その渇望が情報屋の職業病に由来するものだと自分に言い聞かせ、気持ちから逃げてきた。
だけれど今この瞬間、理解してしまった。
月が美しく見えるのも、家路が特別に感じられるのも、翡葉さんが隣にいてくれるからだということに。
情報屋としてでなく、一人の女としてこの人を知りたい。
そう思う私を、お月様は咎めるだろうか。
To be continued...
150910
『Only the moon knows act.1』
「お待たせしちゃってすみません」
私は呼吸を少し整えてから椅子を引いた。
「いえ、実は俺も結構ギリギリに来たんでお互い様ですよ」
翡葉さんはそう言いながら、テーブルの端に立てかけてあるメニューを手渡してくれた。
チラリと目をやると翡葉さんの前にコーヒーが置かれている。
待ち合わせの喫茶店に向かう途中、時間短縮のために翡葉さんと同じものを頼もうと考えていたけれど、私は生憎コーヒーが飲めない。
ざっとメニューに目を通しウエイトレスの女性に合図を送る。
「温かい紅茶を、ミルクつきでお願いします」
女性は恭しくお辞儀をして店の奥に姿を消すと、すぐに注文したものを持って戻ってきた。
今、私が向かい合っている彼――翡葉京一さんとは、会うのはこれで五回目。
翡葉さんはいつもと同じ、丈の長い長袖のコートをカッチリと着こなしていた。ボトルネックの襟は下を向くと口元を覆ってしまうくらい幅が出ている。そんな季節感のない装いは、翡葉さんが常人ならざることを一般人にも感じさせるようで、一緒にいる時いつも周囲から好奇の眼差しを向けられていた。
私は紅茶にミルクを多めに注ぎ、壁にかかった時計を見た。
今日はもう遅いから手短かに要件を済ませてしまおう。
翡葉さんは多忙な人だから、あまり長引かせては申し訳ない。
私は少し居ずまいを正して仕事モードに切り替える。
「早速ですが、翡葉さんの方でランクの指定はございますか?」
ランク――情報機密度のこと。
下がCから上がSまで、私はあらゆる種類の情報を商材としている。
というのも、私は裏でそれなりに名の通る情報屋で、ここ数か月は裏会実行部隊夜行をお客に、近辺の神佑地や妖被害の情報を売っていた。
翡葉さんは夜行の代表として直接私から情報を仕入れる役割を担っている。夜行は私から得た情報を元に案件を解決し、私経由で被害の出ていた地区から報酬を得る。
私はいくつか似たような取引先を持っているけれど、その中でも夜行は特にマルチに活動してくれる組織なので、色々な情報を買ってもらえて助かっている。
「そうですね……前回と同じ妖被害のもので、Bランクをお願いします」
「承知しました。一件だけ私宛に直接依頼が来ていますので、そちらにしたいと思います。一昨日から秦川市の一部のエリアでペットが凶暴化している件に関して……私が調べた範囲では、邪気は一つしか感知できませんでした。おそらく精神支配を行う類の妖だと思います。確証はないですが、大元の妖を叩けば全てのペットの洗脳が解けて正常に戻るかと……」
翡葉さんは内容を吟味するように私の話に耳を傾けていた。
聞きながら、真剣な表情でコーヒーを嗜む姿につい見惚れてしまう。
「えっと、こんな感じの案件で大丈夫でしょうか?」
画になるなぁと思いながら訊ねると、翡葉さんは「十分です」と首肯した。
「うちの経験の浅い戦闘員に任せられそうな案件が知りたかったので……ちょうどよさそうだ」
「あっ、あとですね、この騒動の一件を収拾した際に市の方から高額な謝礼金が出るとのことでしたので、その点を含めて美味しいお話かと思います」
そう言って悪戯っぽく笑うと、翡葉さんは少し困ったように笑った。
会ったばかりの頃の翡葉さんは、張り付いた笑顔を終始浮かべているだけだったけれど、最近は自然に感情を表に出してくれるようになった。
「耳よりな情報ありがとうございます。情報提供料はいつもの口座に振り込んでおきますね」
私はお礼を言って軽く頭を下げた。
紅茶が冷めてはいけないと思い、慌ててスプーンでミルクを軽く混ぜ、ティーカップに口をつける。
「……今日は、してないんですね」
「……はい?」
何の事だか分からず、間の抜けた声を出す。
「いや、なつめさんいつもしてるじゃないですか、指輪。似合ってたから……今日はしてないんだなって思って」
「ああ、あれのことですか」
私はいつも右手の薬指に指輪をはめていた。翡葉さんはきっとそのことを言っているのだろう。
音をたてないようにそっとティーカップをソーサーに置いて右手を見る。
「先日、寝る前に外したきりなくしてしまって……」
我ながら情けない理由だけれど、偽っても仕方がないので正直に白状した。
「大切なものじゃないんですか? 誰かから貰ったものとか」
「いえ、そんな……自分でいいなって思って買って……お守りみたいな感じで身につけていただけです。あっでも、あの指輪は特別な効力とかある訳ではなくて、つけてると安心するというか、なんというか……」
説明しているうちにどんどん恥ずかしくなってしまった。
これではまるでお人形を肌身離さず持ち歩いている少女と同じ心理ではないか。
幼稚な女だと思われてしまっただろうかと、おそるおそる翡葉さんを窺う。
「なるほど、お守りか……いいですね」
幸いなことに、翡葉さんは小馬鹿にするでも軽蔑するでもなく、腑に落ちた様子でうんうんと頷いていた。
心なしか嬉しそうに見えるのが何とも不可思議だ。
それにしても流石、夜行の諜報員だけある。
人を細部まで観察する習慣が自然と身についているに違いない。
私はあまり鋭い方ではないけれど、それを差し引いても相手に見ていることを全く勘づかせないのは凄いと思う。
まさか、指輪のことを指摘されるなんて。
「なつめさんて、ずっと一人で活動してるんですか?」
「ええ。私みたいな仕事ですと、一人の方が何かと動きやすいんですよ」
情報は扱いがデリケートですので、と付け加える。
商品の中でもSランクの情報は極めて繊細な扱いが求められるため、チームのメンバー同士ですら共有できないケースが多々ある。そんなことでと疑問に思われるかもしれないが、それらが積み重なって互いに疑心や不満を抱くようになり最悪の場合裏切りや騙し合いに発展する。
昔はチームに憧れて複数人で動いた時期もあったけれど、信頼関係という危うい繋がりでは成立しない仕事だと痛感した苦い思い出だ。
そんな理由もあり、ここ数年はずっと一人で仕事をこなしている。
とはいえ、仲間同士で協力して切磋琢磨し合っている夜行のような集団が羨ましくないと言ったら、それは嘘になるのだけれど。
「夜行、いい組織ですよね。活き活きしてて絆が強くて。たまに、みなさんが本当の家族に見える時がありますよ。ありがたいことに色々なお客さまがいるんですけど、正直、夜行の方と一緒にお仕事するのがここ最近の楽しみだったりするんです」
私は少し照れながらティーカップを傾けて残りを飲み干した。
紅茶の渋みがミルクで緩和されて香りだけがほどよく口の中に残る。
「なつめさんにそう言っていただけると……嬉しいな」
翡葉さんは私から目を逸らして所在なさそうにそう言うと、コーヒーを一気飲みした――かと思ったら、もの凄い勢いで咳き込みはじめた。
私はギョッとして咄嗟にハンカチを差し出すも、翡葉さんはむせながら「大丈夫です」と首を振った。慌てて飲むから気管に入ってしまったのだろうと、落ち着くまで生温かい目で見守ることにした。
今日の翡葉さんはちょっと様子がおかしい。
翡葉さんは一頻りぜぇぜぇと息を切らしてから、何事もなかったかのように話し始めた。
「失礼しました……まあでも正直、できたばかりの組織なんで裏会から浮いてるっていうか。若い奴なんて力持て余して暴れたりしてて……中は結構バタついてるんですけどね」
翡葉さんは苦笑して肩を竦めた。
そう言う翡葉さんも十分に若いと思うけれど、それでも年長者として手を焼いているのだろう。
「翡葉さんって、人知れず陰で苦労なさっていそうですよね。失礼かもしれませんが、翡葉さんが若い子相手に四苦八苦している姿を想像すると、ちょっぴり微笑ましいです……」
続けて「そろそろ、行きましょうか」と帰りを促すと、翡葉さんは自身のやや後方にある時計を振り返り、ハッとした。
「もうこんな時間か……! すみません、女性をこんな時間まで引き止めてしまって。俺が色々聞いたから……あの、迷惑じゃなかったら家まで送らせてください」
私は数秒思案する。
職業柄、住処を知られるのはあまりよろしくない。住所を自分に関する情報の中で格付けするなら間違いなくAランクだろう。
でも、と私は翡葉さんを見た。
翡葉さんにとっては何でもない当たり前のことかもしれないけれど、私は自分が翡葉さんから「女性」として扱いを受けていることが素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。ではご好意に甘えて……途中まで、ご一緒していただいてもよろしいですか?」
悪びれながらそう応えると、翡葉さんは表情を明るくしてレジの方へ向かった。
翡葉さんは会う度に私の分もまとめて出してくれていた。
改めてどこまでも紳士的な方だと感心してしまう。
私は会計を終えて戻ってきた翡葉さんに頭を下げた。
「いいですよ、これくらい。さぁ行きましょう」
翡葉さんの横に立って、その大きさに圧倒される。
座っている時も大きい人だと感じていたけれど、並ぶと身長差は20センチ以上あるだろうか。
誰かとこんな風に歩くのは初めてで、舞い上がってしまいそうだ。それも、翡葉さんに家路まで送ってもらっているという状況が殊更嬉しい。
翡葉さんからしたら些事かもしれないけれど、仕事ばかりでこういうことに縁遠かった私は夢見心地だった。
「月が綺麗ですね」
翡葉さんはそう言って、月明かりが包む夜空を仰ぐように見上げた。
私も真似して首をめいっぱい傾ける。
「ええ本当に。なんて美しいんでしょう」
気づかれないようこっそり隣を窺うと、翡葉さんの銀色の頭髪が月映えをして息をのむほどの美しさを誇っていた。
私は頭の中でそれを表す言葉を探したけれど、上手に伝えられる自信がなくて心に秘めておくことにした。
「なつめさん、知ってますか。昔は相手に告白する時に使うセリフだったらしいですよ」
「……"月が綺麗"が、ですか?」
「はい。まあ俺も人から聞いただけなんでよく知らないんですけど……」
「素敵な、言葉ですね」
翡葉さんは首肯して、それからまた夜空を仰いだ。
そんな風に思いを伝えられた女性は、きっと幸せだろうな。
翡葉さんは案外ロマンチストなのかもしれない。
そんなことを考える。
「翡葉さんって、女性からモテそうですよね」
「……俺がですか?」
翡葉さんは素で驚いたのか、とんでもない、と聞き返してきた。
「はい。翡葉さん、とっても優しいですから。日頃から女性に対して紳士的に振る舞われているんだろうなって。翡葉さんに優しくされた女性はみんな虜になってしまうと思いますよ」
翡葉さんは何か言いたげな表情をしていたけれど、私は気に留めなかった。
きっと日中に雨が降ったおかげだろう。
肺に流れ込んでくる空気が凛と澄んでいて心地いい。
月明かりが幻想的な雰囲気を生み、数えきれないほど通ってきた家路さえ初めての道のように感じられる。
ふと、あと10分もしないで家についてしまうことに気付き、予定していたよりずっと近くまで来てしまったことに驚嘆した。
「あ、あの! 私ここまでで大丈夫ですので……今日は翡葉さんと色々お話できて楽しかったです。送ってくださってありがとうございました」
翡葉さんに向き直って、名残惜しみつつ頭を下げる。
「あの、なつめさん」
言われて顔を上げると、翡葉さんはひどく切迫した表情をしていた。
只ならぬ雰囲気に息をのむ。
「俺、優しくないですよ」
「……え」
思わず聞き返す。
もしかしたら「優しい」と言ったのが気に障ったのかもしれない。
誤解しないでください。私はただ、翡葉さんの気遣いに感謝したかっただけなんです。
そんな弁解を挟む余地がないほど翡葉さんから緊張感が伝わってきた。
「俺は本来、女に優しくするような男じゃないってことです。いや、女だけじゃない。夜行じゃ年少者にだって恐がられてます。それに今だって……なつめさんじゃなかったら、わざわざ送ったりなんかしない」
翡葉さんは急に何を言い出すのだろう。
私のプチパニックなんてお構いなしに翡葉さんが続けた。
「なつめさん。俺、貴女と、仕事以外の時間に会いたいです。なつめさんのこと、もっと知りたいんです……ダメでしょうか?」
初めて翡葉さんに会った時、私は自分の知識欲が激しく掻き立てられるのを感じて戸惑った。
どうしていいか分からなかった私は、その渇望が情報屋の職業病に由来するものだと自分に言い聞かせ、気持ちから逃げてきた。
だけれど今この瞬間、理解してしまった。
月が美しく見えるのも、家路が特別に感じられるのも、翡葉さんが隣にいてくれるからだということに。
情報屋としてでなく、一人の女としてこの人を知りたい。
そう思う私を、お月様は咎めるだろうか。
To be continued...
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『Only the moon knows act.1』
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