春告る桜もちもち
乱藤四郎は、この本丸が好きだ。
焼きたてのさっくりしたマカロンを頬張ってしみじみそう思う。オーブンの中ではパステルの華やかなマカロンが橙に照らされながら大量にズラリと並び、厨には甘やかな香りが漂っていた。
「伽羅さんの作るお菓子、美味しいなあ」
一口含んで、こぼれ落ちそうな頬を手のひらで抑えて笑う。肘をついちゃいけないのはわかっているけれど、テーブルがないと床までとろけてしまいそうなのだから、今この瞬間だけは許して欲しい。
この本丸の隠れたパティシエは、真面目で、寡黙で、無愛想だけれど、食べた人の頬を柔らかいつきたてのお餅に変えてしまう魔法使い。
厨の小さなテーブルに質素な平皿。その上に、ちょっと不揃いな、まぁるいパステル。
焼いている間に、形が崩れたのだという。魔法使いは真面目だから、それだけでこっそり避けて、誰にも食べさせようとしないのだ。こうして香りに誘われて顔を出した乱からすれば、それはそれは勿体無いわけで。食べてもいい? と無邪気に聞けば、好きにしろ。と返される。
「知ってたのか」
「ボク、意外と目敏いでしょう?」
本丸のみんなが正体を知らない、秘密のパティシエ。
自分は甘いものが苦手と言いながら、こうやって一人、夜な夜な作っている。その真意もわかっているつもりだ。
人前に出さないお皿は無愛想なものとか、そういうところは、男士らしいなあなんて思いながら、大倶利伽羅の後ろ姿を眺め、マカロンをもう一口。
「隊長、好きそうだなあ」
「……。」
長らく隊長を勤め上げる山姥切国広は、誰にも言わないけれど、甘いものがすき。隊長だからと言ってすぐほかの男士たちに譲ってしまって、きっと彼女は、心行くまで好きなものを食べたことなんてないのだろう。
そういえば、夜戦帰りだから、声をかければ来てくれるかもしれない。隊長、ボクのお願いには弱いから。
すでに第二弾まで焼きあがっている。綺麗に仕上がったマカロンたちはそれらしい皿の上に見栄えよく積まれていて、形の崩れたらしいマカロンはまだいくつか残されていた。
「隊長、呼んできてもいい?」
「……好きにしろ」
大倶利伽羅は、そんな隊長のためにお菓子作りをしている。頑張り屋の彼女が、好きなものを食べられるように、そう想って作っている。
ふたりをすぐ近くで見てきた乱藤四郎には、それくらい、不器用な大倶利伽羅の気遣いくらい、お見通しだ。
大倶利伽羅の焦れったい恋を、こっそり、応援している。
******
赤い、糸…?
彼が顕現されたのは、この本丸が発足して三日目のことだった。夏も終わりの頃。カラリとした暑さに、蝉の声が寂しげに響いていたのを覚えている。
顕現に立ち会ったのは俺ひと振り。
刀身から桜の花びらが舞って、褐色の青年が瞼を開く。金色の瞳を持った端正な顔立ちの彼が鍛刀部屋の床に足先をつけると、空間いっぱいに舞っていた花びらが、静かに姿を消した。
「……大倶利伽羅だ。…別に、語ることはない。馴れ合う気はないからな。」
少し言い淀んだ様子の大倶利伽羅の台詞に構わず、俺はいつも通り俯き気味に歓迎の言葉を告げる。今まで短刀たちが多かったから、顔を上げると目の前に顔があるというのはあまり落ち着かない。目を合わせるのも得意ではないのだが、俺の次に来た打刀だ。戦力になってもらわなければならない。
「山姥切国広だ。ここの審神者の初期刀をしている。あんたは打刀ふた振り目だから、俺が面倒を見ることになる。写しの俺が相手で不服だろうが、よろしく頼む。」
無言を突き通されて、まあそれがこいつの性格なのだろうと納得する。刀剣男士は皆個性豊かだし、写しの俺にそれを否定することはできない。
それよりもずっと気になったのは、大倶利伽羅の薬指に結ばれた赤い糸だ。花びらと同じように消えるのかと思いきや、俺の右手薬指に繋がって床に垂れている。
「……何だ、これ」
「何がだ。」
右手を目の前にかざすと、やっぱり糸は根元で結ばれている。垂れている割に余った様子はなくて、左手で触ろうとしても取れないし、糸の繊維に触れたような感覚が無い。
本当に、なんだこれ。
「……何をしているんだ」
「…見えないか?赤い糸」
「はあ……?」
大倶利伽羅が心底怪訝そうな顔をする。反応から見るに、これが見えるのは俺だけらしい。
「いや、なんでもない。本丸を案内する。まずはあんたの部屋だ」
指が締め付けられているという感覚もしないし、害がないのならばそのままでも構わないだろう。本丸が発足したばかりで審神者もばたばたと忙しい。俺にしか見えない糸なんかの話で煩わせるわけにはいかない。
「……ああ」
本丸を歩き回る。口数は少ないが説明はしっかりと聞いているらしい。短刀たちばかりで手探りに本丸を運営しているわけだが、こうして男士が増えるのはいいことだ。
「ああ、そうだ。言い忘れていたが、俺は刀剣女士だ。風呂や厠、洗濯も別になっている」
「……あんた、女なのか」
「戦闘で支障をきたすわけにはいかないだろう。……生活スペースは分かれているが、特にお前に気をつけてもらうことはない。俺自身が管理しているからな」
刀剣女士として顕現されても、俺たちが人の身を得られるようになったのは、とどのつまり戦争に勝つ為だ。審神者も、俺たちも、目的は戦争に勝つ為。
初期刀が足を引っ張るようになるなんて、写しの俺といえど真っ平御免だった。
「審神者は?」
「承知している」
「そうか」
大倶利伽羅はその話は終わったとばかりにそっぽを向いていた。お前の部屋に案内する、と言えば、同じく、そうか、と返される。
短刀たちは狭い部屋で並んで寝ているようだったが、基本的には個室を充てがうことに決まっていた。男士の人数も少ない上、全員が手探りで人の生活に慣れているところなのだ。
それ以上の会話もないまま、大倶利伽羅の部屋まで案内する。まずは一度よく休め、という一言を伝え、自室に戻る。
男士は少なくとも、この本丸は如何せん敷地が広い。時刻は日が暮れ始める頃だった。
自室の襖を開け、広い庭を眺める。生まれたばかりのこの本丸は、ただ広いだけだ。きっとそう遠くない未来、沢山の刀剣男士で溢れるのだろう。
赤い糸が結ばれている。
移動中、それとなく観察したその赤い糸は、大倶利伽羅と俺の距離によって縮んだり伸びたりしている。本丸の障害物には引っかかるが、人体は通り抜ける。
「ふむ…」
部屋で一人、首をひねる。どんなメカニズムか、皆目見当もつかない。
「まぁ、いいか」
どうにかなるだろうと高を括る。考えても答えがないのなら、考えたところで何にもならない。外は帳が降りてきている。夕食を作らねばならない時間になってしまうことのほうが重要だった。防具を外し、厨に向かった。
大倶利伽羅が居ようが居まいが、戦場に繰り出せば、その糸は見えなくなる。うっとおしいものが無くなって幸いだ。ただそれも戦場に出ている間だけで、本丸に戻ればしれっと薬指の根元に結ばれている。
大倶利伽羅も何も言わないし、気にしている様子もない。結論は最初と同じで、俺だけに見えているらしかった。
大倶利伽羅は馴れ合わない、と鳴き声のように毎度繰り返しているけれど、然うは問屋が卸さないとはよく言ったもので。わいわいと騒がしくなっていく本丸で、なんだかんだいいつつ後から来た刀剣たちの面倒も見てくれるし、戦場でもよく活躍してくれる。何より一番助かったのは、大倶利伽羅が料理上手だったことだ。
お生憎様、俺はざっくりとした大皿料理しか作れない。本丸が出来て一ヶ月で刀剣男士も少なかったが、正直、不得意なことを続けるというのは中々心労が大きかった。
常々、甘味を食べたいとは思っていた。審神者が時折買ってくるプリンやロールケーキを、みんなと分け合って食べていたのをよく覚えている。だからか、甘味なんてものは自分たちで作ろうと思えるものではないのだとばかり思っていた。
日々刀剣男士は増えていって、料理が得意な男士たちが厨に立つようになった。燭台切や歌仙はその筆頭で、食事も、もちろんそれに伴って畑も豊かになった。
食事に関しては話が丸く収まったけれど、しかし今まで厨に立ってくれていた大倶利伽羅は歌仙と馬が合わないらしく、厨に立つ機会がぐんと減った。
その頃からだ。俺は不思議に思っていたことがあった。朝餉が終わると、甘味が一種類、大広間の机の上に置かれるようになった。それも毎日。出陣があってもなくても、毎日だ。
その甘味の数々の美味しさたるや、なんと言い表せば良いのか!
一番初め、素っ気なく、レアチーズケーキが置かれていた。
「先着順。お早めに。」と几帳面に書かれたメモの横に、一切れずつ分けて置いてある、なんとも魅力的なチーズケーキ。隊長を任されていた俺は強がって食べようとしなかったけれども、短刀たちがあんなにも美味しそうに食べるのだから、抗えなかった。
口に含むと爽やかに香るレモン、サックリとしたタルト生地!
何と言っても、丁寧に作られたことが分かる滑らかな舌触り。自然と口元が綻んでしまったのをよく覚えている。手作りはこんなにも美味しくできるのか、あの時できなかったのは俺が写しだからか……と話せば、隣で大事そうに食べていた乱が、あの時一緒に作ったお菓子もすっごく美味しかったよ、と慰めてくれた。……いや、乱のことだ、慰めたのでなく本心なのだろう。
それ以降も、おはぎや、パウンドケーキや、プリンやごま団子や、……上げればきりがないほど多種多様な、それはそれは魅力的な甘味が、朝餉のあとの机を、ぽつんと華やかにしていた。
厨当番がしているのだろうと思っていたのだが、はて、と疑問に気付く。もしそうであれば、あの二振りのことだから全員分準備しているだろう。
では誰が?
この本丸にお菓子作りが趣味という小豆長光はいないし、はて、誰が準備しているのだろう。
見た目も凝っていて綺麗。取り合いになるほど美味しい。そんなお菓子を作る、顔の知れぬ職人はいったい、誰なのだろう、と。
その疑問の解決を急がなかったのは、周囲に知られたくない男士がやっているのだろう、と結論付けたからだった。
……のだが、偶然にも、俺は知ってしまう。
刀剣女士に使用が許可されている小さい浴室は、元々は審神者専用だったこともあり本丸の端にあった。今では数振りが刀剣女士として顕現し、本丸全体の改造が計画されている。しかし、それも冬を越してからになるのだろう。
夜戦から帰城してすぐ風呂に入り、内番着へ着替えて脱衣所を出た。
つい数週間前まで暑かったというのに、もう秋口だ。夜空は遠く、空気が柔らかく頬に触れる。
白い布は返り血を浴び洗濯中。代わりのバスタオルを被っていた。
今日は一日、戦闘が続いていた。池田屋出陣前、調子を上げるために鳥羽や厚樫山で敵を屠っていたのだ。あっという間に一日が過ぎていた。
いつもの癖で顔を隠そうと布を引っ張る。バスタオルは小さくていけない。
ふと目に留まる。この赤い糸、そういえば大倶利伽羅の部屋の前を通り過ぎても廊下に続いている。はて、こんな時間に彼はどこにいるというのか。厠も通り過ぎているし。
戦闘続きの疲れた頭はそればかりが気になってしまっていた。彼がどこに居るのか気になって、導かれるまま辿っていくと、そこは厨だった。ふだんと違い、甘い香りが漂っている。
厨の中から乱の声が聞こえた。誰かと話していたらしい。少しハスキーで控えめな「またねー!」が聞こえてきたかと思うと、中から乱が出てきた。
「あっちょうどいいとこに! 国広さん、中に入るといいことがあるよ。そろそろお風呂から出てくるかなーと思って呼んでこようと思ってたんだ〜」
えへへ、と乱が笑う。
「いいこと? 何があるんだ」
「行ってみれば分かるよ〜」
そう言われれば、俺に行かないという選択などない。この本丸の初日から、ずっと一緒に居る乱に言われたのだから。それに随分楽しそうだ。乱の、楽しさを分かち合おうとしてくれる言動に、何度救われたことだろう。
言われたとおり厨の暖簾をくぐると、黒いエプロンをした大倶利伽羅が立っていた。厨のテーブルには、大きな平皿にピンクや緑や黄色といった丸いお菓子が数個置かれている。
「……ちょうど乱と会えたみたいだな」
「ああ、楽しそうに良いことがあると言われて……これは?」
「マカロン」
へぇ、まかろん。初めて見る。
「クッキーみたいなもの?」
「……ちょっと待て」
そういうと大倶利伽羅は、冷蔵庫からピンク色のクリームが入った絞り袋を取り出す。
「これを挟む」
皿に乗ったピンク色の焼き菓子を一枚取ると、クリームを絞り、もう一枚で挟む。
ひとくちサイズ。
「これでマカロン。……そら、受け取れよ」
ずい、と差し出された まかろん を遠慮なく頂くことにした。すごく美味しそうだったからだ。
「美味しい……!」
「そうか」
俺がもくもくと食べているところを見た大倶利伽羅が、細い息でふっと笑う。なんだか胸のあたりがざわざわする。
「うまく出来てるようだな」
「乱も褒めてたんじゃないか」
「……まぁな」
照れ隠しか、流しの方を向いてしまった大倶利伽羅がぽそ、と話す。マカロンは初めて作ったという。
サクッとほろほろした生地に、ラズベリーの甘酸っぱさがアクセントになったクリーム!
ああ、毎日上等なお菓子を食べているだけあって、舌が肥えてきたようだ。なんと美味なことか!
「……もう一つ食べるか」
「え、いいのか」
「焼いているうちに型崩れしたやつだからな。割れたものもあるだろう。……バタークリームはラズベリーのものしか余らなかったがな」
太っ腹だ。こんなに美味しいものを食べるのは、なんだか罪悪感が芽生える。
一つ手に取る。もう一つ食べるのはなんだか、つみぶかい。
「残れば捨てるくらいしかないんだがな」
「大倶利伽羅は食べないのか? 本当に全部食べていいのか」
もしかしたら自分のあとに誰か来るかも、とか、ちょっと考えれば良かったのに、大倶利伽羅と自分しか食べる人が居ないと思い込むなんて。いや、捨てるという方が罪深い。
「…ふはっ」
あの大倶利伽羅が笑った。むすっとしていたのが余程おかしかったらしい。
胸のあたりがぎゅむぎゅむする。
「なら一つだけ残しておいてくれ」
「……わかった」
横にあったクリームを勝手に絞って、挟んで、たべる。
「美味い……」
噛み締めたその一言に、また大倶利伽羅が笑っていた。
大倶利伽羅が、ふんわりと砂糖の香りを纏わせ、慣れた様子でボウルやゴムベラを片付ける姿を見て、そこでやっと、顔の知れぬ職人が大倶利伽羅だということに気付いた。馴れ合いたくないと言うけれど、俺と同じで短刀には滅法弱い。陰でこっそり、甘やかしてくれている。きっと、乱もこうして甘やかしてもらったのだろうと思い至る。
そんな事を考えていたら、大倶利伽羅に「少しは手伝え」と叱られた。最初は今日の片付けだけだと思ったら、違ったらしい。明日22時、と言われ、トントン拍子にお菓子作りを手伝うことになった。曰く、口封じの取引という。
「乱も知ってたのに?」
「……あいつには別件を持ち掛けてる」
まぁ、この大倶利伽羅だ。他にバレて馴れ合うのは嫌と言われれば納得する。好きなようにお菓子作りをしているらしいし。俺が口外するような性格ではないとわかっているだろうが、念を押すようだ。
現状、馴れ合っているんじゃないかと思ったけれど、それを言うのは些か憚られる。例えば大倶利伽羅の作ったお菓子を、これから自分だけ食べられなくなったら、それは凄く嫌だ。
それに、その日の夜戦以降、俺も教育係として出陣する機会は減る予定だった。暇を持て余してしまうからと引き受けた。真夜中に食べるお菓子は罪悪感も強い。でも、大きな声で言わないけれど、お菓子が好きな俺にはうってつけの取引だったのだ。
そうして、毎日風呂上りの数時間、大倶利伽羅の手伝いとして隣に立つ。
そんな生活が続いて、数ヶ月。俺はお菓子なんて作れないと思っていた自分が驚く程、メレンゲを作るのも、粉を散らさずに振るうのもそこそこ上達していった。
大倶利伽羅は教え方が上手くて、隣にいてやりやすかったし、終わってからちょっと失敗した分を一足先に頂ける。
人の身体を得て、こんなに楽しかったことはあったろうか。
秋から冬へ、季節がかわる。
年末年始は厨が常に使用中で、その一週間は俺のお菓子教室はお休みだった。最近顕現した男士たちは、厨のメンバーにお菓子は無いのかと問いかけ、お菓子職人がその男士達でないことを初めて知っていたようだ。
そうして一ヶ月と少しが経ち、二月十四日。バレンタインデー、というやつだ。前日の夜に仕込んだガトーショコラを三ホール。朝餉の後、大広間の机の上に置き、そっと自室に戻る。
手伝いを始めてから、俺がお披露目の役目を仰せつかっていた。男士の殆どは、誰が作って、誰が置いていくのか知らないから、お披露目ということでもないのだが。
廊下を歩いていれば、遠くから短刀たちの「がとーしょこらだ!!」の声が聞こえた。自室に籠っていれば、ドタドタと大広間に向かう足音が聞こえる。
このちょっとした時間が嬉しくなるみたいだ。
自室。電源のついていないこたつに足を入れ、和菓子の本を開く。大倶利伽羅曰く、和菓子と洋菓子はまったく異なるらしい。俺の経験上、今まで作っていた和菓子は、どら焼きやおはぎ、饅頭といったあんこのお菓子ばかりだった。他に何があるのかとページを捲る。
こたつでそんなふうに読んでいると、襖の向こうから大倶利伽羅が声を掛けた。いいか、と言われたから、どうぞ、と返す。俺の部屋に入り、横に立たれた。
はて、なんだか大倶利伽羅の雰囲気が違う。大倶利伽羅を見上げ、首を傾げる。なんだか緊張している様子に見受けられた。
そして、それは唐突だった。
「これを、受け取って、ほしい」
差し出されたものは、小さな紙袋。マカロンだ、と言う。
大倶利伽羅は、俺が知らないうちにマカロンを作っていたらしい。
「ああ、ありがとう……?」
これを渡すためだけに緊張しているのだろうか、ともう一度首を傾げる。
「あんたが好きだ。あんたに一目惚れして、ずっと、あんたが好きなんだ。」
え、と小さく声が漏れる。
急な出来事に何も返せない俺の手に、大倶利伽羅はマカロンの入ったシックな紙袋を仰々しく持たせて、用は済んだとばかりに、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
そして、数日。俺の中で、ひとりギクシャクした雰囲気が続いている。
赤い糸が、所謂「運命の糸」と言われるものなのだとは薄々気づいていた。乱に勧められて読んだ少女漫画の題材だった。赤い糸に結ばれたふたりは幸せになる。そんなの言い伝えで、まさか刀剣男士であるべき、武器である俺たちに、そんなものがあるとは思わないだろう。
こういった色恋話の頼みの綱は、俺にとっては乱しかいない。それは乱もわかっていただろうに、俺の、大倶利伽羅に対するギクシャクした雰囲気を感じていながら、決心したと言い残して修行の旅に出た。
あと三日、乱は帰ってこない。
大倶利伽羅は普段と変わらず、いつも通りに接してくる。
どうしたらいいのだろう。一緒に真夜中の厨に立ち始めてしばらく経ったし、その、告白のあとも休まず手伝いは続けている。けれど、そろそろ、沈黙が重苦しくて、居た堪れない。
数ヶ月前はこの沈黙がなんとも心地よかったというのに、だ。
好きか嫌いか。二択で問われたのなら、嫌いではないし、好きだと答える。大倶利伽羅は律儀で、誠実だ。
それなのに、告白されてから好きになったような気になるのは不誠実だ。そして、その気の所為で返事をするのも、不誠実だ。
風呂上がり、いつも通り厨に向かう。厨に入るようになってから、夜は真新しいバスタオルを被るようになった。厨に汚れた布は御法度だと、大倶利伽羅に叱られたから。
そろそろ夜の凍える寒さも和らいでくる季節。風呂上がりの素足から、廊下の床に熱がゆるゆると逃げていく。熱と一緒に、足取りも逃げて重たくなっていくようだった。
そろそろ俺から何かするべきだとわかっている。たぶん、大倶利伽羅のことだから俺がこうして悶々と悩んでいることなんてお見通しなのだろう。おかげで、連日あまりぐっすりと眠れている実感がない。
赤い糸は何も言わない。それもそうか。ただの糸だ。しかも、俺にしか見えない糸。
「……悪い、遅れた」
「構わない」
バスタオルをいつもより前に引っ張って、頭の後ろで余った部分を縛る。視界が半分狭いけれど、天板が見えればいいと妥協する。入口に提げてあるストライプのエプロンはいつも通り身につけて、大倶利伽羅の横に立った。
きゅ、と後ろ手にエプロンの紐を締める。
「……何、作るんだ」
「チーズケーキ。焼くほうの」
大倶利伽羅はシックな黒いエプロン姿で、クッキーの入っていた空箱を潰していた。
型にクッキングシートを敷いておいたり、生地の材料をあらかじめ出しておいたり、下準備は全て済んでいる。大倶利伽羅は、こういうところの手際もいい。
箱を畳んでゴミ箱に入れると、大倶利伽羅はオーブンの前に立つ。俺は天板の上に置かれた大きめのボウルを覗き込んだ。中には生地の材料が入っていて、あとは混ぜるだけになっている。クリームチーズと砂糖と、卵と、薄力粉。
「これ?」
「ああ。泡立て器使っていい」
返事を受けて、泡立て器を手にとった。少し太めのそれは使い慣れてきている。
お菓子作りは、大倶利伽羅の性格に合っているらしい。正確に計量して、無心になって混ぜて、休憩がてら冷蔵庫に寝かせたり、オーブンで焼いたり、見た目を綺麗に飾ったり。大倶利伽羅がそうやって楽しんでいるようで、見ているだけで面白い。林檎を薄く切って、バラに見立てて作ったアップルパイは飾って眺めておきたいほど綺麗だった。しかも美味しいのだから、大倶利伽羅は魔法使いのようだ。
「混ぜたら、生クリームとレモン汁もいれる」
「わかった」
厨の前に来る前は考えられないほどいつも通りの時間が過ぎる。オーブンが温まる音。大倶利伽羅が隣に立って、クッキーを手でぱきぱきと砕く音。壁絵掛け時計が秒針を刻む音。常温でも少し硬い、クリームチーズを泡立て器で混ぜ合わせる。カチカチと銀のボウルと泡立て器がぶつかる音。
白いそれらが黄色を含みながら混じっていって、クリームチーズなんかなかったかのようになめらかになる。こうして蟠りも全部無くなって、あったことも全部含めていつも通りに戻ってしまって欲しい。
生クリームも、レモンの酸っぱい果汁も、全部、ぜんぶ。
腕が重たい。量が多いと一苦労だ。
「…い、おい。山姥切。それ、ここに入れてくれ。」
随分考え込んで混ぜていたらしい。大倶利伽羅に覗き込まれてやっと気付いた。
言われたように、溶かしバターと混じったクッキーが均等に敷かれた型に流し込んで、オーブンに突っ込む。ケーキホールは四台。刀剣男士も増えたものだ。
これでも足りないのだから、大倶利伽羅の作るものの美味しさが伺い知れる。
「焼く間に風呂入ってくる。あんたはもう寝たらどうだ」
「……ああ」
曖昧に返事をして、大倶利伽羅が出て行く後ろ姿を見つめた。赤い糸が着いていく。何か言おうと思ったのに、結局何も出来ないまま、無言のまま一時間弱が過ぎている。これだから、写しは。
食器棚の端にしまってあるココアを淹れる。パステルカラーのカップは使い勝手がいい。
小さなテーブルに腰を据えて、大倶利伽羅が戻ってきてから話そうと思う。告白されたからと好きになったような気になってしまうのは、誑かされているのと同じだと思う。そう言って、きっちりと思っていることを伝えよう。
ココアの甘い香り。チーズケーキの焼ける香り。じりりとオーブンの燻る音がうっすらと聞こえる。
カップの持ち手を包む。小指から赤い糸が垂れていた。
大倶利伽羅は、断っても変わらずに接してくるのだろうけれど、もし嫌われたのなら、こうやって手伝うのも今日が最後かもしれない。それは、さみしい。
でも、だからと大倶利伽羅の気持ちを無下にするのはあまりに、名刀に対して写し如きが、あまりに失礼だ。
ああでも、どうするのが一番いいのだろう。
赤い糸が見えているうちは、大倶利伽羅は今までと変わらずに接してくれるのだろうか。
思考が迷走を始めて、それに歯止めをかけるよう瞼が閉じる。最近、寝不足だったからだろうか。船も漕がずに、机に突っ伏してしまった。
******
この本丸に来たのは、夏の終わりだった。
目の前にいるその人と目があったとき、綺麗だと思った。すぐ俯かれてしまって、見られたのは一瞬だったけれど。一瞬で高鳴った鼓動に、これが俗に「恋」と言われるものだろうと察しがついた。
山姥切国広という そのうつくしい人は、自分の右手をまじまじと見つめて不思議そうに首を傾げている。表情さえ見えないけれど、なんだかかわいいと思えてしまって、恋とは恐ろしいと息を吐いた。
「……何をしているんだ」
「…見えないか? 赤い糸」
「はあ……?」
赤い糸、という。
数日経って不思議に思い返し、書庫の本を漁った。まだ本丸が出来た頃で、主が現世から集めたという大量の本が、乱雑に高々と積まれている書庫だった。散らばった本や雑誌を、片付けながら読み明す。
赤い糸を調べてあて、ゾッとした。
まさか、一目惚れしたことがバレているのだろうか。熟考する。もしかしたら、赤い糸は俺以外と繋がっているのではないか。それに、赤い糸如きに、簡単に折れるような、振り回されるような恋心などではなかった。
教育係として山姥切と長らく出陣していたが、山姥切は何も気にしていないようだった。何より、俺の顕現した日以降、赤い糸の話を彼女から聞いたことがなかった。俺には赤い糸なんて見えない。
せめて、山姥切が苦手だと言った厨番を代わって数日。山姥切は甘味が好きなことに気づいた。作りたくても性に合わない、といい、項垂れた山姥切のために、真夜中の厨で菓子作りを始めた。そのうち番人の歌仙が顕現されてからは、真夜中に厨を使うようになっていくのも致し方ないことだろう。
夜戦帰りの乱が偶然迷い込んで、口止め料にマカロンを差し出した。続けて呼んできたという山姥切は、風呂上りらしくバスタオルを被っていて、心がざわついたのは言うまでもない。
こちらが、ただでさえ好きだというのに、山姥切はマカロンを手放しに褒めて、それで、それから好きを拗らせないわけがなかった。
気がついたら、真夜中の誰もいない厨に誘い込んだ。
毎日同じ時間を過ごすようになっても、山姥切を好きになる一方だった。好きなものを聞けば「あんたが作るものはなんでも好きだ」などという。息が詰まるほど好きになっていく。
そういうものだから、バレンタインデーには山姥切が手放しに褒めたマカロンを渡した。いつも心をかき乱されている俺としたら、目を丸くして驚いている山姥切を思い返すたびにしてやったり、と口元が緩む。
それから、数日。山姥切は思い悩んでいるようだった。
してやったり、と思ったのは三日までだった。真夜中の厨に来るたび、山姥切が思い悩んで眠れていない様子なのは明確だった。ぼんやりと夢現を彷徨っているようで、これで体調を崩そうものなら、俺の方から手伝いをやめさせようと進言するつもりでいた。俺は、俺の身勝手で彼女を追い詰めてしまっていたことにやっと気付いた。
ベイクドチーズケーキは、予熱したオーブンで四十分。そのあいだに風呂に入って、戻ってくればちょうどいい頃合いだろう。
山姥切にも部屋に戻るよう声をかけた。休んでほしい。でも、もっと俺と居てほしい。我儘だ。
戻ってくると、チーズケーキの甘やかな香りが厨を満たしていた。あと十五分。まだ焼けていない。
そんな香りの中で、山姥切は少し冷めたココアを横に置いて、机に突っ伏して眠っている。
丸いあたま。手のひらに触れたバスタオルはもうほとんど乾いていた。
寝不足になるほど、思い悩まなくていい。その決断一つで、あんた自身が消えるわけでも、この本丸がなくなるわけでもない。断られたところで、恋に身を焦がす俺からしたら、それっきりで諦められるほどのことじゃない。ああ、本当に我儘で身勝手だ。
「……ん、」
「……部屋で寝たらどうだ?」
むくりと起き上がった山姥切は寝惚けた顔をしている。ゆめうつつを彷徨っている。愛おしくてたまらなくて、頬を撫でた。
「いと、……つながってる……」
「?」
山姥切が俺の手を取ってふふ、と笑う。すりすりと手に頬を当て、安心しきった顔をする。
この手を切り落として、山姥切ごと飾っておきたい。ずるい、あまえたかおをしないでほしい。すきだ。味見するときも、そうやって柔らかく口元を綻ばせて笑うところが。すきだ、すきだ。
「……山姥切、目を覚ませ。部屋で寝たほうがいい」
何かどす黒いものが身体の奥から迫り上がってくる。俺は山姥切の頬をつまんだ。白いつきたての餅のように柔らかい頬だ。少し乾燥した唇は淡いピンク色。
ぱっちりと目を覚ました山姥切は、あの日の、あの時のように、目をまんまるに丸めて驚いていた。
「あ、す、すまない…!」
両手で俺の手を優しく突き返す。バスタオルを引っ張って必死に顔を隠している山姥切を、今すぐ抱き寄せたい。キスをしたい。今すぐ。どす黒いものがもうそこまで迫っている。
こんな俺を嫌ってくれ。
「構わない。いくら暖房をつけているとしても、体が冷える」
「あ、ああ」
俺は山姥切の隣に腰を下ろす。オーブンのベルが鳴るのはあと十分といったところだ。嫌いにならないでほしい。好きになってほしい。好きにならなくていい。
ジジジジ、とオーブンの音がする。
「……なあ、大倶利伽羅。」
山姥切は出ていくつもりはないらしい。バスタオルで顔を隠したまま、もう一度机に突っ伏す。腕に包まれたバスタオルの端から、くぐもった俺の名前が聞こえた。
「俺、赤い糸が見えるんだ。……あんたと、俺が繋がってて。…」
沈黙が落ちる。俺と繋がってるのか、それは。喜んでいいのか、俺は。彼女を急かすようなことはしたくない。でも、彼女が苦しむというのなら見えなくなってほしい。嫌ってほしい。
感情がぐちゃぐちゃだ。
「告白されたとき、ああ、ついにかって思った。告白されたから、好きになったような気になるのは、あんたに対して不誠実だ」
「……山姥切」
「……なんだ」
「顔、上げてくれ」
「……」
「俺は、あんたが思ってるよりずっと欲深い」
「?」
「あんたに嫌われようと、俺はあんたを嫌いにはならない。断言する。好きになってほしいと思っているが、あんたが悩んで苦しむなら、いっそ嫌ってほしいとも、思う」
「きらいじゃ、嫌いじゃない……」
「……俺は、あんたと一緒に、桜が見たい。この先の一年を一緒に過ごしたい。それが例え隣に居なくても、この本丸の山姥切国広と、この本丸で過ごしたい。あんたが大事なんだ」
山姥切が顔を上げる。頬が赤らんでいる。じぶんの心臓が脈打っている。
「厨当番を引き受けた理由は、あんたと話せるからだった。この本丸のためだけを思ってやってた訳じゃない。……俺は、一目惚れを拗らせ過ぎたようでね。最初から誠実に恋をしていたつもりがない」
呆れた顔をすると、山姥切はふっと笑った。
オーブンのベルが鳴る。考えながら言葉にするというのが如何に難しいか思い知る。こちらが思っていること全てを言葉にしたら、不誠実どころか、侮蔑の目で見られてしまいそうなことを考えているというのに。
席を立ちオーブンを開く。これで粗熱を取れば、ベイクドチーズケーキの完成だ。
「誠実が不誠実かって、考えすぎてたのか……」
「あんたは考え込みすぎる質がある」
「うん……」
かた、かた、かた、かた。焼き立てのチーズケーキが、彼女の目の前に並んでいく。おいしそう、と呟いた彼女に、今日は試食はない、と伝えた。
「粗熱を取らずに切り分けるわけにいかないからな」
「……明日が楽しみだ」
絞り出した返答に、ははっ、と大口を開けて笑ってしまった。そんなにしょぼくれなくてもいいだろう。明日が一番美味しいのだから。
「……春、一緒に桜もち作りたい」
じっと俺の目を見つめ、山姥切が言う。居た堪れずに視線を外す。ミトンを壁にかけて、そうか、と返した。その顔は、たぶん、意を決した顔をしていた。
「大倶利伽羅と一緒に作った桜もちを、一緒に食べたい」
「……」
山姥切が俺の手を握り、ぐいっと引っ張る。ひどい顔をしている自覚がある。振り返ろうとしないでいると、ぐい、ぐい、と強く引かれた。
「おれ、あんたと一緒にいるのが好きだから」
俺にとって、特別な存在。
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「乱が帰ってきたら、乱の好きな物も作ろう」
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