天和・一発、一目惚れ!


 疫病神、というものがある。

 人によってなにを疫病だと指すのかはそれぞれ違うだろうが、いち料理人として、商売をする身としては一番縁遠くいてほしいものだが――「私、リコ!」

「お利口さんのリコ、って覚えて!」

 目の前にいる疫病神は、そういって到底利口には見えぬ笑顔で名乗った。

 先日遠方から取り寄せた新しい出汁を試す時間が欲しい。そう思って「休業日」と札をかけた店に訪ねてくる客はいない。
 非常に、心底、うんと鬱陶しく面倒でたまらないが、とりあえず一旦そんな店の中に入れた女、リコは誰もいない客席でにたにたと笑っている。「――驚いた?」

「ダーリン追っかけてきちゃった」

 そう首を傾げる金髪頭と能天気な顔には見覚えがある。そうだ、こいつに出会ったのは去年末の夜だった、と、いきなり目の前に現れた疫病神へ苛立つ頭で蕎麦職人、武智村正はその夜を思い出す。

 今いるこの店は味将軍グループの計らいで開いたものだが、自身の料理道を見直すきっかけとなった敗北――味吉陽一との年越し蕎麦勝負に負けたあの日から約一年ほど、修行のためと店を畳んで屋台を引く日々があった。

 そんな日々が終わりかける一夜、なにがあったのかは知らないが、ぐずぐずと情けなく泣きながら座ってきた女がいたものだから、売れ残りの処分を兼ねたほんの気紛れで一杯、情けを恵んでやっただけなのだ。

 それをこの女、なにを勘違いしたのか勝手に自惚れやがって――「お前、」

「どうしてここが分かった?」

 一般人、否、同じく料理に生きる職人ですら近寄り難き物騒な雰囲気を持つ村正だが、やっと訊けた一言はなんともありふれたものだった。

 もう季節はあの夜から何度も変わった秋空の日。
 枯れ葉が地面を走るこの日、村正が買い出しから店に戻ると、「休業日」の札と閉じた戸を背にし、真っ赤なキャリーケースと共に店主を待ち構えていた彼女は自慢げに語りだす。

「リコ、あれからダーリンを探すのにあちこち行ったんだよ? ダーリンの屋台、全然見つからないし……もしかしたらお店でも開いたのかな、って思ってさ。それでね、ダーリン、」

 本当に役立つのは、こんな薄っぺらい雑誌なんかじゃないんだよ。

 鞄からいくつか机の上に放り出されたグルメ雑誌――「蕎麦特集!」なんて文字も目立つが、派手なマニキュアに塗られた彼女の指先は、そんな文字を馬鹿にするようとんとんと軽く叩く。「本当に美味しいご飯屋さんを知ってるのはね、」

「地元のおじさんたちだよ、ダーリン」

 もう本当に大変だったんだから!
 あっちの街、こっちの街、って色々引っ越しながら色んなおじさんたちに聞き込みしてさぁ……やーっと昨日ここがダーリンのお店だって分かったんだから!

 溜め込んだ愚痴を吐き出すかのように頬を膨らませて語る彼女を前に、村正はまず考えるよりも先に(前回同様)襟元を掴んで追い出そうと席を立ったが、その様子を前にむしろリコは強気に宣言する。

「あ、ダーリン、また私のこと追い出すつもりでしょ?」

「……ああ、疫病神は客じゃないからな」

「ふふん、残念でした! ねぇダーリン、ここから歩いてすぐのところに雀荘あるの知ってる? リコ、そこに引っ越したんだから!」

「雀荘?」

「そ、私麻雀できるからさ、雀荘のお手伝いしたり、打ち子やったり……そうやって泊まり込んで色々引っ越してるの! 雀荘ならおじさんばっかだしね!」

 その勝ち誇ったような宣言でようやく、ようやく今になって村正はこの女、リコの執念深さを理解することができた。
 まさか――まさか本当にあの夜から、この女は自分だけを探しにここまで辿り着いたというのか?
 あの時屋台を出していた場所は、今この店からは県をいくつか越えた遠方の地……それをたったひとりで、雀荘を渡り歩きながら旅してきたというのか?

「お前……親はどうした?」

 無情に首元を掴み、もう日が暮れたこの寒空の元、店の外に放り出してやろうと伸ばした腕が思わず止まる。

 壁にかかったメニューの札を物珍しげに見上げていたその幼い目が村正の、極々普通に思って当然の質問を投げかける目と合った。「――親?」

 残念でした、と再度笑う口元が僅かに引つったように見えたのは気のせいだろうか。

「リコ、これでもちゃんと二十歳だからね? だから保護者呼び出し……? みたいなやつ、できないから!」

 どう見たって不似合いな年齢宣言――村正の口から「嘘だろ、」なんて責める一言が出るのを躱すよう、逃げるようにリコは席を立った。「……まぁ、今日はこれから仕事だし、」

「次は普通にお客さんとしてまた来るよ、ダーリン。今度はちゃんとお金持ってね」

 なんて言うその飄々とした態度。
 なにも知らぬ人間が見れば他意のない、何気ないただの可愛らしい口約束なのだが、この女から自身へ向けられる底知れぬ情の不気味さに、剣の道も行く村正ですら戸惑っていた。
 そして良いも、悪いも、文句のひとつも言い返す前に、がたがた煩く鳴くキャリーケースの音を連れて彼女は自ら店を出ていったのだが――なぜだろうか。

 偶然出会ったあの夜のよう、さっさと追い出したくてたまらなかったあの金髪が勝手にいなくなってくれた、というのに、なにひとつ良い気になれないのは。

 換気のためにと開け放していた勝手口の戸から吹き込む冷たい夜風。
 もう十分だ、と戸を閉じる時にふと思い出したのは、今吹き込む風と大して変わらぬ寒さの元、この店の前で自分を待っていた彼女と目が合った時の、迷子の子がようやく親を見つけた時のような顔――よかった、と安心したように笑った顔。

 武智村正、彼にとってリコという厄介者を追い出すことは簡単だ。
 また野良猫をつまみ出すように掴んで放ってもいいし、それでもごちゃごちゃ文句を喚くのならば、自慢の愛刀の切っ先を向けてやれば一瞬で黙るだろう。

 そう、結局は単純明快なこと。
 なにを迷うことがあるのだろう。

――また来るよ、ダーリン。

「……そうか、」

 彼女が帰り際に残した一言へ、とっくに彼女が消えた店の中で今更ひとつ、呟いた。



「――月見蕎麦、ふたつお待ち」

 夕から夜に移る頃合い、そういって客の前に差し出せば、割り箸をぱちんと割る音が二回する。「――おお、いいね」

「いただきます」

 と機嫌よく麺を啜るのは、仕事終わりのように見える中年のサラリーマンふたりだ。
 ここは蕎麦屋。特にこれといって珍しい客でもないが、最近少し気がかりなことがある。

 不思議なことに、最近やたら月見蕎麦ばかり売れるのだ。

 しかも大抵決まってこの時間、中年頃の男客がよく頼んでいく。
 商売というものはまず売れなくては話にならない。
 理由がなんであろうと売れていく分には歓迎だが、人間、一度気になった些細なことを忘れる、というのはなかなか難しいらしい。

「――うん、うまいな」

「ああ、さすがリコちゃんお勧めの店なだけあるな」

 ぐらぐらと煮える湯の音、客たちの賑わいの中で聞こえたその言葉と名前に、村正は薬味の葱を切っていた手元から顔を上げていた。
 
「しっかしあの子、可愛い見た目してんのにさ、打ち方に容赦ねぇよな」

「ああ、この前はほら、そこの魚屋の親父いるだろ? そいつがリコちゃん相手に派手にスったらしいぜ」

「あらら、ご愁傷さまだな……」

「はは、俺たちもそうならねぇようにさ、月見蕎麦でも食って良いツキあやからねぇとな」

「ああ、藁にもすがる、ってやつだなぁ」

 そういって笑う客ふたりはさっさと器を平らげると、ごちそうさん、よし、今日こそリコちゃんにリベンジだ、なんて意気揚々と店を出ていった。

 きっとその浮ついた足は、ここからすぐの場所にあるという雀荘――自分を追いかけ引っ越してきた、と彼女が話していた雀荘に向かうのだろう。

 また来るよ、と言い残して去ったあの日から、あの目立つ金髪少女が店に、村正の前に現れることはなかった。
 最初の内は、再び懲りもせず遊びに来るのなら斬ってやろう、とでも思っていたが、仕事に追われる日々の中でそんなことはもうすっかり一ヶ月忘れていた。

 しかし今さっきの客の会話は聞き捨てならない。
 良きツキを得るなら月見蕎麦、なんて馬鹿らしい理由で売れていたのは、あの女――リコが雀荘でなにかしら吹聴、宣伝でもしていたらしいのだ。

 また来るよ、と言ったのはあいつ自身だ。
 わざわざ自分を追いかけて来たんだと話していたくせに、たった一回会っただけでもう来なくなるとは――訳の分からん女だ。

 そんな女に構っているほど暇な店でもない。
 いち料理人というのは、そんな女に構っている暇があるような者でもない。

 あの派手に髪を染め、ちゃらちゃら着飾った疫病神が来ないなら上等。
 それでいいじゃないか。

 他人から見れば強がりに見える村正の内心も知らず、リコと名乗った疫病神は今夜もまた、彼の店に訪れることはなかった。



――冬は嫌いだ。

 もっと正確に言うなら、雪の降る日は嫌いだ。

 地面へ降るその白を見るたびに、己の自信と技術を子供に打ち砕かれた、忌々しい勝負のことがどうしても思い出されてしまう。

 おまけにこの雪は明日の夜まで止まないらしく、窓から覗いた景色から見える夕暮れ道には人の影ひとつ見えない。

 こんな日はもうどこの店も開けていないのだろう。
 彼も一応店を開けたものの、その戸を開けて入ってくる客は未だいない。

――仕方ない。今日はもう店仕舞だ。

 昨日店に取り寄せた良い比内地鶏、あれを使った試作を作る時間ができたと思えばいい。

 「休業中」の札を持ち、暖簾を下げようと戸を開け――ちょうど目の前、そこに立っていた女と目が合った。

 紛れもない。見間違えるわけがない。
 金に染めた髪をふたつに結い上げ、きらめくピアスが目を引く女――「――リコ?」

「お前……」

 思わず名を呼んだが、彼にはそこから先の言葉が出なかった。

 どうしてここに?
 今までなにやってたんだ。
 なんであれっきり来なかった?

 アスファルトを埋め隠す真っ白な雪景色とは反対に、寒さで鼻先まで赤らんだその幼い顔に問う前、彼女の方から口を開いた。「――ごめん、」

「今日お店、もう閉めるんだね」

 カラーコンタクトで覆った青い目が、村正が手にしていた休業の札へ視線が移る。

「……まぁこんな雪だもんね、また来る」

 よ、と言い切る刹那だった。

「そういってお前、来なかっただろ」

 自身の言葉を打ち消した村正の言葉に、彼女は元から大きな瞳を一層丸くして驚いた。

 また来やがって、なんで来たんだ、お呼びじゃない、そういった否定の言葉を言われるであろう。
 勝手に好いて、勝手に押しかけている身なのだ。
 そんなことを言われるのは当然だ、とリコは弁えているつもりだった。

 が、まさか来なかったことを責めるように言われるなんて――「いいじゃん別に、」

「ダーリンは困らないじゃん」

「……こっちの気も知らないで、」

 悪びれる様子ひとつない。
 なにが悪いのか微塵も分かっていないその顔が、久しくやっと対面した彼女の態度が気に食わない。

 良いも、悪いも、文句のひとつ言わせる前にその腕を掴み、あの時と同じように客ひとりいない店の中に引っ張り込んだ。

「――……あのさぁダーリン、」

 客席で頬杖をつき、不思議そうに覗き込んでいるのは目の前に出された一杯の蕎麦だ。

「なにこれ?」

「……村正蕎麦だ」

「いや、見れば分かるけどさぁ……そうじゃなくて、」

 温かな湯気と共に感じるのは蕎麦と出汁の香り、琥珀の汁に浮かんでいる具材は、初めて食べたあの時と同じようにそこにあった。

「ダーリン、私のこと好きじゃないでしょ。なのになんで?」

 あの夜は勝手に運命の人だと舞い上がっていた顔は困惑一色だ。
 怪訝そうに首を傾げ、対面に座っている店主へそう問えば、返事の代わりにさっさと食えと急かすよう、箸を一膳差し出される。

「……いただきます」

 そんな無言の圧に敵うわけがない。
 仕方ない、と箸を手にし、なぜかまた食すことになった彼の料理を啜る。
 今世話になっている雀荘から歩いてきた雪空の元、コートの中まで冷え切ってしまうほどの寒さに参っていた身体が一口、一口食すたびに癒やされていく幸福な感覚――「……お前、」

「雀荘でこの店の話、してるだろ」

「え? ……ああ、まぁね。本当は私も行きたかったんだけど、今の雀荘、昼も夜もけっこう忙しくてさ」

「お前のせいで月見蕎麦ばっかり売れやがる」

「あー……良いツキがありますようにーって? それ私のせいじゃないよ、博打好きのおじさんたちが勝手に言ってるだけ。ほんと単純なんだから……」

 今手元に出された蕎麦。その味は屋台で惨めに泣きながら食べた、あの夜と変わらぬ美味しさだ。
 しかしどうしても理解できない。
 自分の勝手な好意を押し付ける形で再来した自分に対し、なぜまたこの人は情けを恵んでくれているのだろう?

 器から少し目線を上げ、自分が見てきた限りではいつだって不機嫌そうに見えるその顔を見つめてみる。
 
「……かたじけない」

「は?」

「……お前が雀荘でなにを言ってるかは知らんが……それでも宣伝になって客が来ているのは確かだ」

 拒絶の言葉を、態度を受けるであろうという心構えはいつだってできている。
 さぁどんな文句を言われるのかと思えば――「――……だから、」

「……礼ぐらい黙って食え、リコ」

 真っ直ぐと向けられたのは拒絶でも、悪意でもない。
 こんな自分にも義理堅く接してくれる、職人としての恩義――今まで聞いてきた彼の数少ない言葉の中で、ほんの少し、ほんの少しだけ柔らかいその声に、リコは満面の笑みを返した。

「……ありがと、ダーリン」

 おい、その呼び方は止めろ、と今度は明確な拒否をされたのだが、それでも懲りないリコはもう一言、ダーリン、と愛しさを込めて彼を呼んだ。

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