「走れ、ロマネスク」
僕は受験に失敗した。
だから死ぬことにした。
こう書くとたった二行で終わってしまう簡単な話だが、これでも色々と悩んだんだ。
悩んで、悩んで、悩み抜いた上で僕は死のうと思った。
世間では「親ガチャ」なんて言葉が流行っているが、グレードの高すぎる親っていうのも考えものだ。
父は国会議員、母は弁護士、その間に生まれた僕の将来性はある意味狭い。失敗が許されない「エリート街道」と名付けられた細い綱渡りをさせられているようなもんだ。
……で、落ちた。模試じゃA判定を貰っていた難関校に落ちた。エリート街道から落ちた。
親は泣きも怒鳴りもしなかった。
ただただ不思議そうに首を傾げるんだ。
「なんでこんな簡単な受験に落ちたんだ?」って。
ある意味軽蔑の視線より、罵倒より痛いそれに耐えきれず、僕は滑り止めで受かった学校に向けた準備なんか放り出し、その日からずっと自殺のことばかり考えて過ごしてきた。
――霙山の山頂より北に約一時間下ると、僅かに木々が開けた場所がある。
そこには丁度腰掛けるのに良い岩があり、そこで一服してからロープに首を通すも良し。砒素を飲むも良し。
そこから望む燃えし夕暮れが、きっと貴方の最期を綺麗に赤く彩ってくれるでしょう――ネット通販で買った「自殺のすゝめ」という本に書いてあったこの一文に惚れた僕は今、その霙山の道を踏み進んでいる。
頂上までは少し整備されたハイキングルートのような道だったのだが、本の通りに北へ降りると様子が違った。
どこまでも深く鬱蒼と生い茂る木々に、スニーカー越しでも分かるごつごつ荒い岩山の道。きっとこれが獣道というやつなのだろう。
少しでも気を抜けばこの葉に、枝に、蔦に捕まって沈んでしまいそうになる道を、たった一冊の希望を抱えてかき分けてゆく。
本には約一時間、とあったが、体感的には二時間も三時間も彷徨っていたかのような疲労にふらつく足がようやく止まったのは、同じく本の通りに少し木々が開けた場所――清々しい気持ちで「丁度腰掛けるのに良い岩」を見て、僕は思わず小さな悲鳴を上げた。
人が、いた。
女がいた。
咥え煙草、手元には雑誌、片眼鏡をかけた髪の長い女が、まるで喫茶店の一席かのようなくつろぎようでそこにいた。
「なんだね、少年」
こちとらまさかこんな場所に先客がいるだなんて思わなかったのだ。驚いてなにも言えないこちらとは反対に、彼女は欠片の動揺もなく訊いてきた。
「自殺かい?」
「な……どうしてそれを、」
「こんな樹海にわざわざ散歩しに来る物好きがそうそういてたまるか」
それにその本、と一本の指先が向けられる。
ここまでずっと抱えていたこの一冊に、なぜか彼女は笑った。「――懐かしい、」
「その本、すぐに発禁になったから買うのに苦労したろう。定価二千円ぐらいだったはずなのに、ネットじゃ変にプレミアがついて三万ぐらいになっちまってな」
たしかにそうだ。その通り、ネット通販で三万と四千円もしたんだ。普段なら本に出せる金額ではないが、どうせもう死ぬんだ。貯金もなにもいらない。そう自棄になって払った金額をほぼぴたりと言い当てられ、僕は目の前にいるこの女が酷く怖くなった。
「あなたは一体……」
「なぁに、通りすがりの自殺マニアだよ」
自殺マニア。そんな聞き慣れない単語を堂々と名乗った彼女は、これからもうしばらく経てば絶景の夕焼けが見えるであろう方角を指す。
「『そこから望む燃えし夕暮れが、きっと貴方の最期を綺麗に赤く彩ってくれるでしょう』――か。人も虫も大して変わらん。光があればそれに惹かれる……君は最期に見える赤い光に理想を抱いた。そうだろう?」
「え、ええ、まぁ……あなたも?」
自殺マニア……というのはよく分からないが、こんな場所にわざわざ来るんだ。この人だって死ぬつもりなんだろう。
想定外すぎるバッティングに驚いてしまったが、よくよく考えてみれば案外そう悪くないかもしれない。
この人も死ぬ。僕も死ぬ。
今これから起きることは心中だ。
お互いのことなんてなにひとつ知りやしないが、それで心中というのもなかなか良いかもしれない。随分と古い文豪のような最期だ。
吸い殻を携帯灰皿に落とし、また新しい煙草にマッチで火を付ける彼女はなにを考えているのだろうか。
どうにも本当にくつろいでいるような態度に見えるが、本当は手元の雑誌の文字なんて読まず、ただただぼんやりと夕暮れに迎える最期の一服を済ませているだけなのだろうか――おっ、と雑誌を見ていた彼女が声を上げた。
「君、見たまえ。ほら、ここだ、ここ」
そう弾んだ声で呼びかけられ、目の前にはその雑誌を突き出される。ここだ、と指で叩いた部分のスペース……というより記事はかなり小さい。
「えーっと……『シルバーキャッスル、マッハウインディ、マグナムエースなど、新メンバー続々投入で好成績』……あの、これがなにか?」
さっきからずっと読んでいた雑誌はアイアンリーグの特集雑誌だったらしい。
しかしシルバーキャッスルだなんて聞いたこともない上、写真一枚すらないこんな記事を見せられてどうしろというのか――「君、これは革命だよ」
「今まで弱小すぎて一文字も書いてもらえなかったシルバーがようやくこうやって記事になったんだ」
「は、はぁ……?」
「しかしこれを書いた奴は分かってないね。たしかにウインディやマグナムの登場は鮮烈だ。が、その彼らの華々しい活躍を支えたのは誰か――私はキアイリュウケン、彼だと思うがね」
誰ですか、それ、なんて言葉を挟むまでもない。
まるで彼女は雄弁な選挙演説のように、宝塚の舞台の中心に立つ勇ましい男役のように言葉絶えず語り出した。
――キアイリュウケン、彼は良い。実に良い。
決して華があるというわけではない。控えめで大人しく、簡単に言えば地味だと評する奴もいるだろう。
しかし中身は違う。純朴で素直な好青年であり、その胸の内にはスポーツと仲間に対する熱く青い炎を宿している!
シルバーに移籍したばかりのマッハウインディをダークのラフプレイから庇ったあの瞬間……勝ちから、ボールから背け、真っ先に仲間になったばかりの者をその身を挺して庇ったあの瞬間、私はこの腐った世に一片の光を見つけたと確信したのだ!
「彼こそ救済、光……今ここで首でも吊って死のうか、と気軽に暗い死の淵に立った今この瞬間だからこそ、その唯一絶対の光が眩く見えてくる! ああ、これぞ自殺の醍醐味! 死に直面したその刹那にようやく見えてくる己の使命! 私はこれに脳を焦がしてるのだ! 書きたい……今すぐにでもこの衝動を書きたい!」
「あー……じゃあその、とりあえず今は死なないってことです?」
「よし、今日はシルバーが雑誌に載ったから雑誌記念日にしよう。帰ってこの祝日を書き留めねば」
話聞いてねぇ。
よほど雑誌に(小さくだが)取り上げられたことが嬉しかったのだろう。いそいそと雑誌を鞄にしまい、晴れ晴れとした顔で帰ろうとするその姿に困ってしまう。
「ちょっ……死なないんですか? わざわざここまで来て? 心中は?」
「心中? なんのことだね」
「あ、いや……」
「私はただの自殺マニアだ。自殺しようとしたその瞬間だけに見えてくる心残り、未練、使命に燃えるだけだ。今日はもういい、死にたいなら君だけで死にたまえ」
まぁここで会ったのもなにかの縁か、そういって彼女は手元の鞄を少し漁る。
「餞別だ、君にくれてやる」
鞄から出てきたのはなんとも定番な首吊りロープこと麻縄の束と――一枚の紙切れ。
「じゃあな、命あらばまた他日」
そう背を向け、帰りの獣道へ踏み進んでいく後ろ姿をただ見送るしかなかった。
たったひとり取り残された僕を照らす日が、ようやくじりじりと赤く滲んで夕暮れになっていく。
「な、なんだったんだ、あの人……」
有無も言わさず渡された麻縄を見つめる。
そして一緒に紛れていた一枚の紙切れ――よくよく見るとそれは筆ペンで書かれたであろう手書きの名刺だと気づいた。
「天才小説家、桃原アヤメ……」
なんともふざけた名刺だ。
なんだ、ただの狂人か――そう呆れた時、脳裏の記憶はその名に反応した。
ここまでずっと抱えていた一冊、僕をここまで連れてきた「自殺のすゝめ」の作者名――桃原アヤメ。
悪ふざけのような名刺と、本の表紙に刻まれたその名が全く同じだったことになぜか脱力し、思わずその場で膝をついて笑ってしまっていた。
こんな偶然そうあるか?
いや、きっとそうそうないだろう。
僕はこの一冊を読んで死に憧れた。
しかし実際はどうだ、これを書いた本人は死と生の狭間を往復することをこの上なく楽しんでいて、雑誌のたった一文に喜んで自殺を中断してしまうのだ。
単刀直入に言おう。
なんだが死ぬのが馬鹿らしくなった。
自殺しようとしたその瞬間だけに見えてくる心残り、未練、使命、かぁ……。
そんな大層なもんじゃないが、とりあえず真っ暗に日が落ちる前に帰り、奇っ怪な自殺マニアから熱を持って布教されたシルバーキャッスルのことでも調べてみるか。と、自殺に対するやる気に冷水をぶっかけられた青年は、自身をここまで導いた本と渡されたロープをその場に残し、別れを惜しまず下山した。