「走れ、ロマネスク」
――蟻という生き物は欲張りだ。
炎天に焦がされる地面の上を這い回り、自身の身体よりも大きな蝉の死骸を、干からび死んだ蚯蚓を千切っては運び、千切っては運び、ぽつりと空いた巣穴へ引きずり込む。
なんとまぁ欲張りなんだ、と感心した幼少の心に一言言えるならば、その背に向かって人間だって大して変わらないと言ってやろう。
蟻が蚯蚓を千切るなら、人間は砂糖を千切る。
金、名声、地位名誉、ありとあらゆる甘味で飾り立てたその様は、まるで縁日の夜に見る不格好な綿菓子だ。
一見は大層立派に見えるが、その中心にあるのは細く脆い割箸一本である。
そう、これこそが人間の本質であろう。
そんな粗末な自身を隠すために纏った淡い砂糖のなんたる甘美よ。
人はそれを欲する。千切って、奪って、今度は自分の身に貼り付けるのだ。
他人へ分ける義理も道理も無い。
ささくれ歪に割れた割箸――本来の自身を隠したい、他人より立派なのだと誇示したい、という惨めな欲は、生来誰しもが抱え込んだ原罪であろう。
他人へ優しき心を、身を呈した施しと情を分け与える事なんて出来やしない。
奪い、奪われ、また奪い、醜い輪廻の中で息絶えるその日までずっと繰り返すのだ。
今は懸命に蝉の羽根を噛み、巣穴へ戻らんと強く生きる蟻だって、その短き命が終わり次第、今度は餌として別の蟻に食われるのが運命――これが人間の縮図か、はたまた高尚ぶった人間も蟻と大して変わらない程度の生き物か。
人は皆、誰しもが奪う加害者でもあり、奪われる被害者でもある。この対極は両立するのだ。
慈悲と温情だけで動ける者というのは、神か仏か、はたまた生に疲れた敗者が夢見る幻想か――「――おいおい……」
「なんじゃこりゃ……」
思わず口から出た情けない呟きには呆れが混ざっていた。
桃原アヤメ――今や誰もがその名を忘れかけている落ちこぼれ作家は、とあるグラウンドが覗ける塀によじ登り、そこから見える光景に首を傾げる。
シルバーキャッスルってサッカーのチームだったよなぁ……?
そう、今彼女が取材(という名の勝手な覗き見)で目にしているグラウンドに駆ける彼ら、シルバーのリーガーたちは何故かサッカーではなく――何故か野球をしていた。
アヤメには野球のことは分からない。
しかしそんな素人の目から見ても酷い光景だ。
取り損ねて顔面に当たるボール、飛びついても届いていないベースに、またも取り損ねたボールは顔面へヒット、脚と脚の間を転がり通り抜けるボール――何故だ。何故こんなことになっている?
行き過ぎた好奇心から成る取材第一主義故、今まで何度も強引な取材(という名の押しかけと不法侵入)を繰り返し警察沙汰になったこともある。
そのせいか「文学界の問題児」なんて呼ばれたこともあったが、その全ては己の好奇心と文学のためだ。
どんな事象も「これもまた文学だな」という万能な一言で飲み込んできたが、流石にこれは……好奇心というより、まず先に心配と困惑が湧く。
せっかく徹夜でサッカーの知識を徹底的に頭へぶち込んできたのに……なんてこったい。
知識というものは無駄にならない。
今やすっかり日陰者だが、仮にもまだ知識を紡いで作品を成す小説家としてそれは重々分かっている。理解している。
が、あまりにもお粗末な野球の練習を前にした今、溜め息のひとつやふたつ出ようというもの――「……あっ、」
「あの、そこ危ないよ」
「え?」
予想外すぎる現状に落胆していた身に一言、自身を注意する声が掛けられた。
塀にみっともなくよじ登ってはグラウンドを見ていた視線が、そんな自分を見上げる声と――ひとりのリーガーと目が合った。「……この電磁ネット、もうだいぶ古いから……」
「もしかしたらボールが通り抜けちゃうかもしれないんだ。だから今点検中で……」
控えめで抑揚が薄く、しかし温和である性格が滲むその声は――「――キミ、」
「キアイリュウケンくんだろ?」
「えっ? そ、そうだけど……」
「はは、テレビで見るより随分と大きいな」
不思議そうに、困ったように自身を見るその目に惹かれるよう、彼女はなんと自力でその塀を軽々登り切ってはあっという間に彼の横へ飛び降りた。
取材第一主義に走る中で自然と身についた体力と身のこなしが活きたのだ。
「あ、あの、勝手に入っちゃ……」
「なぁに、安心したまえ。私はキミらの練習の邪魔をするつもりはないし、なんならダーク側の人間でもないよ。ちょいとここのオーナーちゃんと監督さんにお話があるだけさ」
人の、否、リーガーの注意も聞かず彼女は自身のポケットから一枚の紙切れを出しては彼へ渡す。「――私はね、」
「桃原アヤメという奴さ。小説を書いてる人間なんだが……今度の新作は是非、このチームをモデルにさせてほしくてね。取材の許可が欲しいんだ」
「天才小説家 桃原アヤメ」と明らかに彼女自身が筆ペンで書いたであろう名刺――いや、名刺と呼ぶにはあまりにも失礼なその紙切れを前に、従順で愛らしい子犬にさえどことなく似ている彼の目はもっと困ってしまった。
しかし彼女は止まらない。そんな表情にいちいち止まっているようでは取材にならない。というより、最初から止まるつもりなど一切ないのが彼女が「問題児」たるところであるのだが。
「誰もが期待しなかった弱小チームに移籍してきたマッハウインディというスター……それだけでも十分美味しいのに、突然試合に飛び入り参加してくる謎のリーガー、マグナムエース……こんな良いネタ放っておけるわけがないだろう? これはもう書くしかないと思ってね」
「えっと……じゃあウインディとマグナムを呼んでくればいいの?」
「違う、キミは分かってないな……私が欲しいのはキミたち全員だ。全員いなきゃ『シルバーキャッスル』にならないだろう?」
快晴の練習日和。
好き勝手身勝手なことを言うこの部外者を追い出し、ネットの点検を済まし、大事な練習に戻ったところで誰も責めない。むしろそうするべきであろう。
しかし哀れなり。このキアイリュウケンというリーガーはどこまでも真面目で、根が優しく、それ故に彼女を追い出すという選択肢そのものがなかった。「――とは言ったものの……」
「監督さんもオーナーちゃんも……マグナムも取り込み中のようだね」
グラウンドから少し外れた所で話し込む三人の表情は真剣なものだ。なにがあったのかは知らないが、練習の合間の他愛ない雑談、というわけではなさそうだ。
「……そういやウインディくんは? 見当たらないが……休憩中かね?」
「いや、ウインディは今修理中で……」
「修理? どこか怪我でもしたのかい?」
「うん……野球の練習してたんだけど、マグナムが投げた球が強すぎて受け止め切れなかったんだ」
「『球が強すぎて受け止め切れなかった』……?」
「うん、ボクもびっくりしちゃった」
「……? ……いや、待て、っていうか何故キミたちは野球なんかやってるんだね!? ここはサッカーチームじゃなかったのか!?」
なんで野球ボールで自分のチームのエースストライカーを修理送りにするんだ!?
ようやく訊けた最大の疑問――それを問い、彼の口からぽつりぽつりと理由を聞いた彼女は、まだ話の途中だというのに「最高だ!」と一言呆れ半分笑った。
「一勝しただけで別の種目で潰されかかってるなんて……はは、流石リーグ一の弱小チーム、なんでもありだな……いいね、キミらには悪いがますます気に入った! なんとしてでも絶対に書き上げたいが……」
胸の高鳴りと共に再度若きオーナーがいた場所へ視線をやるが、残念なことに未だ深刻そうに取り込み中らしい。
そんな状況下――なんとも短気で、単純で、目を輝かせた文学界の問題児は、隣で自身の様子を伺っていた不運なリーガーへその人差し指を向けた。「――まずはキミからだ!」
「キアイリュウケンくん、私はまずキミへ取材を申し込む!」
「えっ、いや、そういうのはオーナーと話し合わないと……」
「違う違う、分かってないね。私は今『キミへ』問うているんだ。キミが今ここでイエスかノーか答えたまえ」
「急にそう言われても……」
「困るって?」
「……うん、」
大抵の者なら「分かってるならそんなこと言うな」と反発するだろう。言葉にせずとも表情にだって出るだろう。
しかし彼の様子にそんな素振りは一切見えない。
これは彼ら「アイアンリーガー」という無機質で造り上げられた身に心がない、というわけでなく、例え相手が初対面の身勝手な作家気取りであろうと事を穏便に、円満に済ませたい、という彼の果てしない温情から成るものか――「――実を言うとな、」
「たしかにウインディくんやマグナムだって気にはなるさ。……でも私はな、一番興味あるのはキミなんだよ、リュウケンくん」
「えっ、ボク……?」
その穏やかな顔にようやく、文句でも嫌悪でもなく、ただただ素直に疑問の色が入った。
テレビで見るよりも圧倒的に存在感のあるその身を見上げていた視線を下ろすと、足元に一粒、この晴れ間を這う蟻がいる。
思えば懐かしいものだ。
今からもう十年と何年前だろうか――華々しく新人賞を刈り取ったデビュー作で、人間の醜き欲深さを描く参考にとただひたすら蟻を眺めている日々があった。
家長の座に胡座をかいていた祖父が死んだ瞬間に遺産だ、保険金だ、遺言状だ、愛人と隠し子だ、と始まった身内で罵る喧騒を聞き流し、庭の隅で蟻を眺めながら己の思想が固まっていったかつての日――人は人を救わない。自分が一番愛おしいのだから。人は皆、誰しもが奪う加害者であり、奪われる被害者でもある。蟻と同じだ。虚しい堂々巡り。
結局、物事なんて無法には無法を、暴力には暴力をぶつけるしか解決しないのだ、なんて悟ったつもりで生きていた心に対し、先日テレビで見たあの一戦はあまりにも眩しすぎたのだ。
誰よりも注目を集めていたエースストライカーのマッハウインディが、急遽移籍したシルバーで活躍したことじゃない。
突如シルバーの選手として飛び入り参戦してきたマグナムエースのインパクトでもない。
誰にも理解し難く偏った思想、人間嫌悪と自己嫌悪、己の胸の中で黒く渦巻くただそれだけを動力に生きていた作家の心を掴み革命を起こしたのは、他の誰でもない。
今ここで隣にいるキアイリュウケンなのだ。
目の前にある勝利への過程に、ボールに、敵へ迷うことなく背を向けて、まだチームメイトになってからあまりにも日が浅すぎるウインディを暴力から庇い、一切の反撃もなくただ耐えるあの場面を、いつも悪態を吐いてばかりの放送席は変わらず嘲笑っていた。
人は人を救わない。己の身が一番愛しいから。
生きる者は皆誰しもが加害者であり被害者である。
無法には無法を、暴力には暴力をぶつけることしかできない――その全てが、信条が、この世の正解だと思っていた思想に、躊躇いなく仲間を庇い忍び耐えていたその姿が鋭く突き刺さり、あの日からずっと抜けないままでいる。「――……私はね、」
「キミから貰った感動を書いてみたいんだ」
小説家だと堂々名乗るくせに、いざ心中を声にし伝えようとしてもうまくいかなかったらしい。
そんな説明にもなっていない曖昧な一言を言うのが精一杯で、ダメかな、と一言追加するぐらいしかできなかった。
最初の豪快な勢いはどこへやら――普通なら呆れて断るであろう。
しかし神か仏か、はたまた生に疲れた敗者が見る夢かと思うほどに慈悲を持つ彼は、そのか細い声でひとつ返事をした。
「――それじゃあこれからよろしくね、リュウケンくん」
まぁなにも心配することはない。私は天才小説家だからね、キミらの高潔な信念を元に至高のリーガー小説を書き上げて魅せる、と今ここでキミに誓っても――己の心に一筋の光を差した相手への宣言は、中古の電磁ネットに引っかかったボールが焼け付く音と、遠くから「すみませーん!」とボールを飛ばした誰かからの謝罪に被って消えた。
「えっと……」
「……なんでもない、なにも言ってない。気にしないでくれ」
見栄張って格好つけた宣言なんて、わざわざもう一度言い直したら格好悪いじゃないか――という見栄で勝手に話を打ち切った気難しい作家気取りは、苦し紛れに「あー……じゃあまずは趣味から訊こうかな、」なんてありきたりすぎる一言で誤魔化した。