「走れ、ロマネスク」
極楽の蓮池からじっと地獄を眺めていたお釈迦様は、罪人まみれの地獄の底にふと、たった一匹の蜘蛛を殺さず逃した犍陀多を見つけた時どんな気持ちになったのだろうか。
彼はとっくのとうに見飽きた地獄へ、か細いながらも救いの糸を一本垂らしたのだ。きっとさぞや内心は嬉しかったのかもしれない。
しかしこれはあくまでただの読書感想文でしかない。お釈迦様の本心なんて一生かけても全ては理解できないだろう。
いや、釈迦どころか自分は一生この「問題児」の機嫌を、気まぐれを完璧に理解できる日なんて来ないであろう――「――遅いぞ山田、」
「私を待たせるとはいい根性だ」
快晴、快晴。雲ひとつない日差しの下、白いワンピース姿の彼女はそう言ってその脚を組んだ。
満員御礼の元、混み合うスタジアムの観戦席――お世辞にも良い位置とは言えないその席に座る態度は、さながらどこぞの女王にすら見えるほど堂々――否、偉そう、と言ったほうが正しいか。
なにが「遅いぞ」だ。
あんた、今まで僕との打ち合わせにちゃんと遅刻せずに来たことあります?
遅刻どころか当日のドタキャンだって何度あったことか!
ええ、まぁ、「どうせ先生のことだ、また遅刻するに違いない」と勝手に決めつけ、呑気にそこの売店でポップコーンとジュースのセットを買っていた自分にもほんの僅かに非があるかもしれない。
しかし自分はそんなあなたの担当編集として、あなたが好きなコーラだってちゃんと忘れずに買ってきたのだ。
少しはありがたいと思って頂けないもんですかね――「山田じゃないです、佐藤です」
「珍しいですね、先生のほうが早いなんて」
文句を言ったらきりがない。
第一、今更文句を言ったところでなにひとつ変わることがない作家、それこそが「文学界の問題児」こと桃原アヤメなのだ。
そして彼女との付き合いが長い青年、編集部の佐藤は誰よりもそれを理解している。
いつの間にか彼と彼女の間ではお約束のやり取りになった「山田」呼びからの「山田じゃないです、佐藤です」を早々に終わらせ、佐藤は勝手に待ちくたびれていた作家の隣へ腰掛けた。
「はい、先生。コーラ買っておき……えっ、先生それどうしたんですか?」
「それ?」
「お顔のペイントですよ」
「ああ、これか……そこの売店の横にな、簡単なフェイスペイントならすぐに受けてくれるというショップがあったのでね。まぁせっかく良い機会だからな、シルバーキャッスルのマークを描いてもらったんだ」
そう機嫌よく語るその左頬に描かれたマーク――まさか本当にシルバーのファンになっていたとは、と今更驚いてしまう。
――山田、取材だ。アイアンリーグを生で観戦したい。
でもどの試合でもいいってわけじゃない。
シルバーキャッスルが出場する試合の席を手配してくれ。
えーっと。グレード……というのか? 席の位置は問わん。任せたぞ。
という連絡が来た先日は首を傾げたものだ。
元よりスポーツとは縁のない作風だった彼女が意欲的になった、ということよりも、わざわざあのシルバーキャッスルを指名してきたことが不思議だったのだ。
彼女は暴力を肯定している。
無論、無抵抗の弱者へ拳を振るっても無罪なり、と言っているわけではない。
無法には無法を。
暴力には暴力を。
ここに生きる者全てが誰かの加害者であり、そして被害者なのだ。
自分を守るためならば、時には無法の暴力も必要不可欠となろう――桃原作品、否、桃原アヤメというひとりの人間に根を張る思想は、どんなに理不尽なラフプレイを受けようが、いつだって正々堂々と掲げた信念を崩さぬシルバーキャッスルとは相反するものだ。
むしろ、過激なプレイで勝利と観客からの支持を掴むダーク側のスタンスに惹かれそうなものだが、意外にもそうはいかなかったらしい。「――山田、」
「ペイントもいいが、この服はどう思う? 昨日買い揃えたばかりでな」
試合開始の時刻までまだ後しばらく。
絶好の観戦日和に賑わう中、彼女は席を立ってはその姿を彼へ見せるが――なんだなんだ、今日の先生は! 絶対に様子がおかしい!
普段から身勝手な好奇心と文学に対する探究心から奇行に走ることも多々ある人間だが、今回はそうじゃない。「おかしい」のベクトルが違う。
社会性と常識を放り出したこの世捨て人が、まさか自分のファッションについて訊いてくるなんて!「――えーっと……」
「その、よく似合ってると思いますけど……」
ようやく言い返せた回答はなんとも無難すぎる一言だった。
しかし決して嘘ではない。
真っ白、というよりは落ち着いたアイボリーホワイトのワンピースは、極限まで飾り気のないシンプルなものだ。
だからこそウエストに巻かれた臙脂色の太いベルトと、マットな光沢を纏う金のバックルがよく映えている。派手すぎず、地味すぎず、彼女に似合っていることは本当だ。嘘ではない。
が、なぜいきなり感想を問われたのかが分からない。「……なるほど、」
「私の『概念コーデ』はまだまだ甘いか」
良い気づきを得た、と満足げに頷く。
「概念コーデ?」
「そうだ、リュウケンくんをイメージしたコーディネイト……『リュウケンくん概念コーデ』だ」
「リュウケンくんがいねんこーで、」
思わず間抜けなオウムのように繰り返してしまった。が、だって仕方ないだろう。
この桃原アヤメ、彼女は彼女自身の作品に対する受賞パーティーにすら「寝坊した」とパジャマで出席したような女なのだ。
それほどまでに服装へ無幢着な問題児から「コーデ」なんて言葉が出てくるとは……「――山田、見ろ、」
「今そこでカメラのレンズを拭いている子なんて凄いじゃないか。金髪のポニーテールに緑のワンピース、ネイルは緑と黄色と……白か。頭から爪の先までマッハウインディが好きだと愛を示している。実に文学的で興味深い」
桃原が指した先、観客席にいた娘、それはたしかに格好からしてこの試合にて誰を熱烈に応援するつもりなのか一目瞭然だった。
「チケットやグッズを買うだけじゃなく、各々自由に応援の形を思いっきり示せる場がスタジアム観戦、か……テレビの中継や資料だけでは分からん空気、文化、実に良いね。来てよかったよ」
そういって他の観客を眺めるその横顔は心底楽しげに綻んでいる。
人間が持つ醜い欲、性、そこから生まれる救いようなく汚れたグランギニョルだけをずっと見つめ、それを文学として書き残している彼女が。
彼女とはもうなんだかんだと長い縁だ。しかしここまで浮かれているのは珍しく、思わずまじまじと見つめてしまう。
その視線、というより手元に抱えていたポップコーンとコーラに桃原は気づき、気が利くな、と一声かけてそれを受け取った。
他人から見ればなんということのない流れだが、佐藤はそれにすら驚く。「――先生、」
「いつからポップコーンなんて食べられるようになったんですか」
「大して好きじゃない。……が、観戦する時の必須アイテムらしいじゃないか。だから私も少し頂こうと思って……これ何味だ?」
「し、塩キャラメル味ですけど……」
「塩とキャラメル? 変わった組み合わせだな」
「割りとメジャーな組み合わせですよ」
ふうん、なんだか不思議な味がするな、と食べるその手付きも軽やかだ。
肉、魚、野菜、甘いものだって好まずほぼ一切口にしない、という文学界一の偏食家とは思えぬ光景だ。
このポップコーンだって、佐藤自身が食べたくて何気なく買ってきたものだ。(別に構わないが、)まさか桃原が食べるだなんて思いもしなかった。
「先生、本当にどうしちゃったんですか。なんというかその……楽しそうなのはなによりなんですが、なんか意外でして……」
「意外かねぇ」
「ええ、まぁ……だって先生、アイアンリーグどころか、そもそもスポーツに興味ないじゃないですか」
「だってスポーツは、」
「『暴力を娯楽にラッピングしただけのもの』でしょう? 何度も聞いてますよ」
「しかしだね、実はそうじゃないかもしれないって気づかせてくれた子がいたんだ。だから私はその子を応援してみたくなった……なに、単純な話だ」
いつもは世を、人生を憂い荒んだ瞳が、自殺こそが唯一絶対無二の美学であり救済だと嘆く口元がそう微笑む。
「それがその……キアイリュウケン、ですか?」
「そうだ、彼はいい。きっとこれからどんどん成長すると思う。そうだろ?」
青い空の下、晴れ晴れと爽やかな風がスタジアムを通りぬけてゆく。
なぜそこまでキアイリュウケンに目をつけるのか、なにがあったのか、好奇心から色々と訊いてみたくなった口を佐藤は閉じた。
極楽の蓮池からじっと地獄を眺めていたお釈迦様は、罪人まみれの地獄の底にふと、たった一匹の蜘蛛を殺さず逃した犍陀多を見つけた時、もしかしたら今ここにいる桃原のように嬉しそうに微笑んでいたかも知れない。
そうやって機嫌のいい彼女へあれこれ隅々まで聞き出そうとし、空気を壊すのは野暮だろう。
今はただ、付き合いの長い仕事仲間として見守ってやるのが一番いいのだろう。
「リュウケンくん、勝つかな」
ポップコーンに夢中になっていた手が止まり、代わりに聞こえてきたのはそんな呟きだった。「――ええ、」
「きっと頑張ってくれますよ」
その一言に満足した文学界の問題児、桃原アヤメはより明るい笑みを見せ、そうだな、とひとつ頷いた。
「山田の言うとおりだ」
山田じゃなくて佐藤です、というお決まりの訂正は、待ちに待ってようやく開幕を告げるアナウンスと歓声にかき消された。