「走れ、ロマネスク」


「――先生、もう限界です」

 カフェというのは案外、平日のほうが混むのかもしれない。
 忙しなくフロアを行き来するウェイトレスと飛び交う注文。オフィス街の中にあるこの店はサラリーマンたちのオアシスなのだろう。
 揃いも揃って気の抜けた顔でコーヒーを、ナポリタンを、オムライスを口にする彼ら企業戦士の姿をぼんやりと眺めていた女は、自身を「先生、」と再度呼ぶ声にようやく返事をした。「――なに?」

「なんか用?」

「なんか、って……ありまくりですよ! だから呼んだんです!」

「ああそう、」

 向かい合わせのボックス席。そこに座る彼と彼女の温度差たるや酷いものである。
 スーツを着た青年は苛立った様子で声を荒げるが、それを真正面から受けている彼女の態度は冷めきっている。興味のない授業を聞き流す不真面目な生徒そのものだ。

 気だるそうに――否、本当に心底だるいのだが、長い髪の毛先を退屈そうにいじり、甘ったるい香りの煙草を一吸い。そして溜め息とともにそれを吐き出した。

 彼女の名は桃原アヤメ――この名に覚えがあり、ぴんと来る者はもうそんなにいないのかもしれない。

 彼女の前に座る青年、出版社の編集部に務める彼は、本人よりもそんな現状に焦っているのだ。「――いいですか?」

「先生が二ヶ月前にうちのネット週刊誌に載せた短編、あるじゃないですか?」

「あー……ああ、あったね、売れない画家の話か」

「単刀直入に言いますけどね、あれ多分誰も読んでないです。閲覧数まさかの2って……」

「ならふたりは読んでるじゃん」

「ふたり『しか』読んでませんよね?」

「よくあることだろ。なにを今更騒いでるんだか……そうカリカリしてると寿命が縮むぞ、山田くん」

「佐藤です! 原稿料の前借りという借金してる担当の名前ぐらいいい加減覚えてください!」

「あーもう……キミねぇ、こういういつも通りのお約束なやり取りをするためだけに呼んだのか? テンプレというのは飽きるんだよ、実に文学的じゃないね」

 悪いけど眠いから帰るよ、なんて席を立とうとする気ままな小説家。その手を無理に掴んでは引き止める担当の雰囲気は、彼女が今まで彼と打ち合わせしてきた中でも一層必死で、その気弱な目もより一層追い詰められているものだった。

「先生! ちょっ……まだ話終わってませんって! ほら、そこ座って!」

――あのですねぇ、もう本当に限界なんです。
 先生の小説、今は書き下ろしの短編をうちの雑誌に載せてるのがメインですけど……さっきも言いましたが、閲覧数は一桁、いや5だっていかないことが当たり前。
 以前は出していた文庫本だってもうちっとも売れてないんです。これぐらいはご存知ですよね?
 「桃原アヤメ」という作家の人生が終わりかけているんですよ?

 そう語る担当の姿、悔やむように語る様は悲痛そのものだ。
 本来ならば作者本人もそうあるべきなのだが、彼女は呑気に片眼鏡のレンズをスカートの裾で拭いている。「――そう言われてもね、」

「終わりがないものなんてこの世にないんだよ。至高だと崇め称えられたかのローマ帝国、ギリシャ帝国ですら終焉を迎えたんだしね」

「またそういう変な理屈並べないでください、僕はまだ終わってほしくないんですから……僕が編集者になったのは先生のデビュー作を読んだのがきっかけなんです。見過ごすわけにはいきません」

 名家の莫大な遺産を「綿菓子」と呼んだセンスも好きですし、それを我先に、そして多くむしろうとする人間の醜さ、浅ましさ、お金が倫理を狂わす果ての虚しい結末……感動、っていうのはなにも良い話に泣くことだけじゃないんだって初めて気づけたんです。
 文章だけであんなに不快で、嫌悪感が湧くものが書ける小説家って凄いなって憧れたんです!

 先生、分かりますか?
 あなたのお陰で生き方が変わった人間が今ここにいて、もしかしたらこの先も先生の作品に惹かれる人がたくさん生まれるかもしれないんです。
 そんな尊い可能性を潰していいんですか?
 少なくとも先生のファンのひとりとして、僕はそんなの耐えられません。

「あんなもん、ジジイとババアがそれぞれ愛人作って、その愛人がまた別でセフレだの子供だの作りまくって、いざジジイが死んだら金寄越せって勝手に身内で揉めてた大乱交スマッシュブラザーズみたいな話じゃん。穴兄弟だけに、ってか? はははは」

「そりゃそうかもしれませんけど……とにかく! 先生の臨場感ある描写スタイルは、なにもそういった陰鬱なもの以外でもイケると思うんです! というか、先生が今後うちの社で生き残っていく道はもうこれしかありませんのでよーく聞いてくださいね?」

 退屈な授業――ではなく、担当編集からの説教がようやく終わりかけた頃、次に持ちかけられた「生き残っていく道」を聞いた怠惰な作家は、あまりにも予想外な話にその日ようやく、重苦しく脳を圧迫していた眠気から覚めた。

 呆れた、という意味で。



――結局、「スポーツ」というものは暴力沙汰を大衆娯楽になるようにラッピングしたものにすぎない。

 大衆が刺激を求める、そして選手はそれに応える。
 それが多少なりとも過激だろうが、両者とも利は成立しているのだ。むしろ形式上のルールと倫理に沿うことばかりに注力し、見せ場もなく負けっぱなしな奴らのほうがある意味では不正解かもしれない。

 そう、いつだって損をするのは不器用に真面目な方なのだ。報われない。救えない。誰も気にしない。

 人間もロボットも大して変わらん。
 つまらん。
 
 二ヶ月間溜めていた電気代を担当に立て替えてもらい、久しく電気が通った自室のテレビでスポーツ――アイアンリーグの中継、特集、担当から渡された過去の試合を録画したものを朝から晩まで、時には酒とともに徹夜して見る生活をして早一週間。

 さぁどんなもんだ、と多少期待して見始めたものの、率直な感想を言えばただ一言、つまらん、で終わってしまった。

――今度、うちで新しくアイアンリーグを特集する月刊誌を立ち上げるんです。
 メインターゲットは小学生から中学生ぐらいの子達向けの児童雑誌なんですが、ここに先生の小説を連載しましょう。

 先生がエログロナンセンスな作風メインで書いてるのはもちろん分かってます。分かってますけどね、もうそういう暗いのはウケないんです。

 先生のその取材第一主義、かつリアリティを重視したスタイルはきっと児童向けにスポーツだって書けると思うんですよ。
 というかもうこれしかないです。本当に。
 最後の最後のチャンスですよこれ。この連載がコケたらもう契約更新できないって上に言われちゃってるんです。

 アヤ先生、とりあえずまずはアイアンリーグを知りましょう。今日から中継見ましょう。
 資料とかはできるだけこっちで準備しますので……えっ? 電気止まってるからテレビ見れない? 

 あーもう……しょうがないから貸しますけど、絶対に良い原稿書いてくださいね!

 なんて言っていた担当には悪いが、どうにも机に向かう気になれない。
 足の踏み場もないほどビールの空き缶や本が散乱し、カーテンレールにはいつ干したのかすら分からぬままの洗濯物がぶら下がっている。
 そんなだらしなく荒れた部屋の中からなんとか発掘した古いテレビの狭い画面の中、フィールドを駆けていくリーガーたちの姿を眺め、煙草を吸い、また眺める。

 今見ているのは録画ではなくリアルタイムな中継だ。
 だが、もう既に見飽きた展開の試合には欠伸が出てしまう。
 花形プレイヤーであるマッハウインディが移籍先にシルバーキャッスルを選んだことにはやや驚いた。
 悪くない展開だ。彼には華も人気もある。彼を主役のモデルにするか? うまくやればこれだけで一本書けそうだ、ついでにこのまま綺麗に逆転勝ちでもしてくれれば子供にはウケるだろう、とも思ったが、勝負の世界は甘くない。そうそう都合よく簡単に勝利は得られない。

 過激なプレイでゲームとオーディエンスの勝利、支持を掴むダークプリンス。どんな信念があるのかは知らないが、一切のラフプレイをしない代わりになにも得られないシルバーキャッスル。
 そしてそれを嘲笑う放送席――醜いったらありゃしない。
 信念やプライドは一銭にも成らず。むしろ己の首を締める縄になりけり。無法には無法を、暴力には暴力をぶつけるしかないのだろうと改めて思う。こんなものを元に、なにをどうしたら明るく、快活で、それでいて子供に楽しいと思ってもらえるようなものが書けるというのか。

 せめて元々児童文学を書いている作家に頼むべき案件だろう。
 少なくとも、一回り歳の離れた従姉妹に歪んだ恋慕を抱き、若さ故の過ちで殺めてしまった後に自宅の軒下に埋めて隠す。という内容で出した本が発売早々発禁になってしまった作家がやるべき仕事じゃないだろう。

 しかし悲しいかな。今の自分に仕事を選んでいる猶予はない。
 唯一まだ契約がかろうじて残っているこの出版社からも見放されたら、話は電気代云々だけでは済まなくなる。貯金なんてない。残高はいつだってマイナスという綱渡りな生活の綱が千切れてしまう。
 ああ、実に嘆かわしい。実に文学的ではないが、書く気力と興味がないものを必死に絞り出して書くのも仕事の内だと割り切るしかない。

 悪く思うな、リーガーくんよ。

 キミたちが必死に駆け回ってボールを、勝ちを追いかけなきゃいけない理由はなんだ?
 生きるためだろう? メンテナンスをして、オイルを飲み、そうやってギアを回して生きるには金がいる。
 人間だって同じだ。生きるためには金がいる。やらなきゃいけないことがある。

 キミたちをネタに適当な話を書くことが私の命を繋ぐことになる。
 自分のことしか考えていない、と後ろ指を差す者もいるかもしれない。
 しかし私は胸を張ってこう答えよう。

 世界はみんな自己中だ、と。

 この資本主義の元、生きるために金を集める行為そのものが結局みな自分可愛さ故の行動の他ならない。
 生けとし生きる者みななにかしらの加害者であり被害者である。
 そこに人間もロボットも関係ない、というのがよく分かった――これは彼女の悪い癖だ。いつの間にか思考が大きくズレて飛躍し、偏った思想がそのまま爆走を始める。

――これ以上負けっぱなし、勝ちっぱなしの試合を見ててもしょうがない、もうそろそろ適当に書き始めるか。

 そう思いテレビの電源を切ろうとリモコンを探す。
 が、資料と灰皿、食べかけの菓子と原稿用紙でごちゃごちゃ溢れた机の上で行方不明になってしまったらしい。

「あれ、どこだっけ……リモコン……」

 本を退け、空き缶を退け、そうしてようやくリモコンを見つけたその時――とうに飽きた中継を垂れ流していたテレビから、一際大きな歓声が部屋に響いた。



『――ちょっと先生、今どこにいるんですか! 今日は資料持っていくから家で待っててくださいって昨日言ったじゃないですか!』

「外だよ、ちょっと行きたい所があってね」

『行きたい所って……あんた原稿は、』

「うるさいっ! あんな面白いもん見せられて大人しく原稿なんかやってられるか!」

 じゃーな山田! と捨て台詞と共にデバイスの電源自体ぶっち切ってやったところで丁度、目の前の横断歩道は青になった。
 人混みを縫いくぐり、サンダルのまま晴天の街を駆けてゆく。
 ショルダーバッグに詰め込んだ取材用のカメラやノートの重さなんかでは、彼女が今胸に高鳴り持つ熱い好奇心は止められない。

――いったい何だったんだ、昨日の試合は!

 ダークから移籍したマッハウインディがシルバーで活躍する、という展開だけでも美味しいのに、突然乱入してきた謎のリーガー――いったい何事かと困惑した。ただただテレビに映る破天荒な展開にずっと目を奪われていた。
 そしてあれよあれよといつの間にかシルバーの初勝利が確定したその時、もう既に心から彼らを応援していた小説家は、思わず手にしていた缶ビールを床に落とした。

 まさに鮮烈の一戦――そして心底感動すると同時に己を恥じた。この上なく恥じた。

 世界はみな自己中だ、と現世を達観したつもりでいた浅い自分を恥じたのだ。

 生きる者はみな全て誰かの加害者であり被害者である。それを素知らぬふりをし、欲を隠し、常識を着こなして世間を生きる様は醜い。救えない。自分はそんな世の中で唯一それを赤裸々に写し書ける者だ、という酷く歪んだ認知に生きていた彼女にとって、あの一戦はあまりにも眩しすぎたのだ。

 どんなに追い詰められようがチームで掲げた信念と正義を曲げぬその意志、仲間を信じ、庇い合い、タイムアップが告げられる最後の最後まで全力で走り抜けるその姿――会いたい! 彼らに会ってみたい! そして取材したい! 絶対に書き上げてみせる!

 走り慣れていない脚が悲鳴を上げ痛む。
 息はみっともなく荒く上がり、汗で張り付いた前髪が鬱陶しい。
 しかしもう止まらない。もう止まれない。
 退屈に燻っていた好奇心が火柱を上げ燃え盛る!

――待ってろシルバー!

 待ってろアイアンリーガー!

 意気込み高らかに駆ける小説家、桃原アヤメ――彼女が持ち前の(やや狂気じみた)行動力と好奇心を元に、シルバーキャッスルの本拠地へ突撃アポなしインタビューをするまで、あとしばらく。

 誰にも予想できない奇天烈な出会いと運命が今、この日本晴れの元始まろうとしていた。

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