天和・一発、一目惚れ!
春に降る雨は、桜流しというらしい。
時折気まぐれに小雨が桜の花びらを流す卯月の夕方、ひとりの客が村正庵へ入ってきた。
まだ大学生ぐらいであろうか。男は金がないのだろう。
壁に掛かった品書きを特に見ることなく、「かけ蕎麦、並みで」と言った。
羽織っているジャンパーも所々ほつれている。
そんな彼はカウンター席――村正庵の常連、眩い金髪が目立つ女の隣に座った。「――宝燈リコさん、ですよね」
「そこの雀荘で手伝いと打ち子やってるんでしょ」
ここの看板メニュー、村正蕎麦の大盛りと海老天を口にする彼女は特に返事をするでもなく、彼へ一瞥しただけで無言だった。しかし男は怯むことなく、どこか浮ついた明るい声で話を続けた。「――俺、昨日あんたが入った卓見てたんだ」
「あんたが親のオーラス、四巡目の速攻リーチからの大三元ドラ六、逆転トップ――途中まで客勝たせて良い気にさせといて、最後の最後にはきっちり回収してたの、あんた凄いよ。本当に。あんた、正真正銘バイニンってやつだ。あの大三元、拾って積み込んでたんだろう?」
リコは特に答えなかった。眉間に少し皺を寄せたのが答えだったのかもしれない。
男はかけ蕎麦を受け取ると、今度はそれを啜りながら尚も話を続けた。
「積み込みの大三元に上家のカンでドラが乗って六……いくら拾いが上手くたってドラはそうもいかない。あんた、技術もあるけどバイニンとしての運もちゃんと持ってんだ」
男は腹が減っていたのだろう。蕎麦を啜る音は景気が良い。その音に紛れる程度の小声だったが、リコは呆れるようにため息をひとつついた。
「本当に運が良ければリーチ一発がついてたわよ」
どこか不服げな、投げやりな言い方だった。リコからすれば希望の和了ではなかったらしい。しかし男は「それがいい、」と首を振った。
「あんまりバカツキしすぎるといけねぇや、カモがビビッて逃げちまう。そこそこの運と技術で上手く凌ぐのが一流のバイニンさ」
あっという間に蕎麦を空にした男は、そこで話があるんだが、とリコに向き直った。
「俺をあんたのオヒキにしてくれないか? 積み込み、カベ、エレベーター、なんだってやるよ。取り分だって文句言わねぇ。俺、あんたみたいな一流のバイニンと組んでみたいんだ」
蕎麦汁を一口、一口と飲むリコへ頭を下げた。
からかいや冗談ではない、本気だった。
昨夜のリコの打ち筋は、それはそれはあまりにも鮮烈だったのだ。
振り込むことはないが、途中までは他の客が勝っていた。誰しもそのまま卓が終わるであろうと思っていたオーラス、親の彼女は四巡目で早々リーチをかけた。
手の中にはドラ三の大三元が眠っている――それだけでも火力が高いのだが、当然ながらそれを知らない上家はカンした。男は思わず息を飲んだ。そのカンによって増えたドラ――三枚がリコの手牌の中に潜んでいる。
大三元ドラ六の完成である。
リーチ一発こそつかなかったが、その手牌はあまりにも鮮やかすぎた。男が心を持っていかれたのも当然である。
そうしてリコ本人と対面した今、男は高鳴る鼓動と共に頭を下げているのだが、それとは対極的にリコの反応は冷ややかだった。「――ここ、蕎麦屋よ」
「女口説くなら他所にして」
ふい、と顔を背けられた。それは拒絶の意だった。
「どうしてもダメかい、」
どうしても、と念押ししたが、リコの顔色は変わらない。一向に明るくなる様子のないその横顔に、男は未練を残しつつ席を立った。
「――俺、安田って言うんだ。またあんたの店行くんで、気が変わったら声かけてください」
未だリコの相棒になることが諦めきれないのだろう。
名残惜しく店を出て行った彼の後ろ姿を見送り、また億劫そうにため息をついた。
「――……よかったのか、」
そう訊いたのはここの店主である武智村正だった。
彼は厨房にて蕎麦を茹でていたが、耳に入ってくる話というものは止められない。オヒキ、という単語に馴染みはなかったが、話の様子からするに、男がリコと組みたがっているということは察しがついた。
武智村正に麻雀の知はない。積み込み、カベ、エレベーターという単語の意味も分からなかったが、それがどうやら麻雀を有利に進める要素になる、という程度にはぼんやり話が分かった。そしてリコがそれを断り、孤立を選んだことも。
正直、村正からすればリコがどう選択しようが関係のない話である。こんな女に構っている暇なんかない。よかったのか、なんて思わず訊いてしまったが、我ながら意味のない問いだ、と冷静になって思う。
「あらやだダーリン、聞いてたの?」
リコは器に注がれた蕎麦汁を綺麗に飲み干すと、参っちゃうわね、とぼやく。
「リコってばあんまりにも強いから、ああいうのにもモテちゃうのね」
茶化す台詞とは裏腹、その瞳は笑っていない。
それは彼女が本心から孤立を選んだことを物語っている。
そんな彼女は財布から会計ぴったりの金を机に出すと、席から離れて出口に立った。
戸を少し開けると、風と共に雨の香りが吹き込んできた。店に来た時は降っていなかった気まぐれな春雨である。「――私は……」
「宝燈リコはひとりよ」
しとしとと降り注ぐ霧雨にも関わらず、彼女はなにも持たずそのまま店を出て行こうとした。
その孤高な背になにか言おうと、引き留めようと思ったが言葉が間に合わない。
雨の中、独り歩いていこうとする背は強くもどこか寂しいものだった。
「――リコ、」
待て、とその肩を掴むと、彼女はカラーコンタクトで青くした瞳を丸くして振り向いた。「――なによ、」
「放っといてよ、」
霧雨が顔を濡らす、身を冷たくする。
村正は一本の番傘を差し出すと、その身がこれ以上濡れないように彼女へ差し出した。
「――……傘ぐらい、持っていけ」
武智村正は料理の道に生きる職人である。
麻雀なんていう賭け事に縁はない。もっと言えば、今この女に優しくしてやる義務もなにもない。理解してやる義理もない。
蕎麦打ち職人と麻雀打ち――普通なら決して交わることのない生き様だ。彼女がいくら孤独だろうと、隣を歩むことなんてできない。
が、雨の降る夕に傘の一本貸すぐらいなら――「なによ、」
「急に優しくしないでよ……」
それは今降る霧雨の如く消え入りそうな声だった。
僅かに頬が熱を持った気がし、恥ずかしくなって顔を反らした。
孤独なんて上等だと威勢を張っていたのに、差し出された一本の優しさがじんわりと胸を満たす。
「……ありがと、また明日返しに来るから……」
彼から借りた不器用な優しさを持ち、孤高の雀士は雨の中帰っていった。
*
「――どうしても、ですか」
霧雨が晴れた翌日、村正庵にて蕎麦を啜るリコの横には、彼女のオヒキ志願の彼が座ってかけ蕎麦を啜っていた。「――どうしても嫌なんですか、」
「オヒキを作るのがそんなに、」
彼からの必死な問いに関わらず、リコはそうね、と涼しい顔をして村正蕎麦の大盛りを食べ進めている。
「あんたの打ち筋は凄いよ、それは分かる。でも、独りで打って独りで勝つなんて寂しくないのかい」
その言葉にリコの箸が一瞬止まる。止まったが、また蕎麦を掴んで口に運んだ。
「案外そうでもないわよ」
虚勢や見栄ではなく、本心からそう答える。
その呟きにはバイニンとしての芯、のようなものがしっかりと揺らぐことなく通っていて、今更どんな言葉で誘おうが無駄であると知らしめていた。
「……そうですか。じゃあお元気で、リコさん」
かけ蕎麦を食い終わった彼はようやく諦めたらしい。
未練のある顔色だったが、金を机の上に置くと店を出て行った。
「寂しくないのか、なんて失礼しちゃうわ、まったく……」
そうぼやく顔に呆れの色はあるが迷いはない。
独りで麻雀という賭け事に金を、命を張ることを選んで生きている彼女――リコは蕎麦と天ぷらを食べ終わると、昨日借りた傘を村正へ見せた。
「ダーリン、たまーに優しいから……案外寂しくないもんよ」
ね、と微笑まれたが無視してやった。
この女に優しくしてやる義理なんてないからだ。
たかが傘一本借りただけなのにどこか嬉しそうなリコとは反対に、村正は素っ気なく「そこ置いとけ」とだけ返した。
それすら赤の他人から見れば甘いやりとりなのだが、そんなことは知ったことではない蕎麦職人、武智村正は今日も料理に命を注いでいる。
時折気まぐれに小雨が桜の花びらを流す卯月の夕方、ひとりの客が村正庵へ入ってきた。
まだ大学生ぐらいであろうか。男は金がないのだろう。
壁に掛かった品書きを特に見ることなく、「かけ蕎麦、並みで」と言った。
羽織っているジャンパーも所々ほつれている。
そんな彼はカウンター席――村正庵の常連、眩い金髪が目立つ女の隣に座った。「――宝燈リコさん、ですよね」
「そこの雀荘で手伝いと打ち子やってるんでしょ」
ここの看板メニュー、村正蕎麦の大盛りと海老天を口にする彼女は特に返事をするでもなく、彼へ一瞥しただけで無言だった。しかし男は怯むことなく、どこか浮ついた明るい声で話を続けた。「――俺、昨日あんたが入った卓見てたんだ」
「あんたが親のオーラス、四巡目の速攻リーチからの大三元ドラ六、逆転トップ――途中まで客勝たせて良い気にさせといて、最後の最後にはきっちり回収してたの、あんた凄いよ。本当に。あんた、正真正銘バイニンってやつだ。あの大三元、拾って積み込んでたんだろう?」
リコは特に答えなかった。眉間に少し皺を寄せたのが答えだったのかもしれない。
男はかけ蕎麦を受け取ると、今度はそれを啜りながら尚も話を続けた。
「積み込みの大三元に上家のカンでドラが乗って六……いくら拾いが上手くたってドラはそうもいかない。あんた、技術もあるけどバイニンとしての運もちゃんと持ってんだ」
男は腹が減っていたのだろう。蕎麦を啜る音は景気が良い。その音に紛れる程度の小声だったが、リコは呆れるようにため息をひとつついた。
「本当に運が良ければリーチ一発がついてたわよ」
どこか不服げな、投げやりな言い方だった。リコからすれば希望の和了ではなかったらしい。しかし男は「それがいい、」と首を振った。
「あんまりバカツキしすぎるといけねぇや、カモがビビッて逃げちまう。そこそこの運と技術で上手く凌ぐのが一流のバイニンさ」
あっという間に蕎麦を空にした男は、そこで話があるんだが、とリコに向き直った。
「俺をあんたのオヒキにしてくれないか? 積み込み、カベ、エレベーター、なんだってやるよ。取り分だって文句言わねぇ。俺、あんたみたいな一流のバイニンと組んでみたいんだ」
蕎麦汁を一口、一口と飲むリコへ頭を下げた。
からかいや冗談ではない、本気だった。
昨夜のリコの打ち筋は、それはそれはあまりにも鮮烈だったのだ。
振り込むことはないが、途中までは他の客が勝っていた。誰しもそのまま卓が終わるであろうと思っていたオーラス、親の彼女は四巡目で早々リーチをかけた。
手の中にはドラ三の大三元が眠っている――それだけでも火力が高いのだが、当然ながらそれを知らない上家はカンした。男は思わず息を飲んだ。そのカンによって増えたドラ――三枚がリコの手牌の中に潜んでいる。
大三元ドラ六の完成である。
リーチ一発こそつかなかったが、その手牌はあまりにも鮮やかすぎた。男が心を持っていかれたのも当然である。
そうしてリコ本人と対面した今、男は高鳴る鼓動と共に頭を下げているのだが、それとは対極的にリコの反応は冷ややかだった。「――ここ、蕎麦屋よ」
「女口説くなら他所にして」
ふい、と顔を背けられた。それは拒絶の意だった。
「どうしてもダメかい、」
どうしても、と念押ししたが、リコの顔色は変わらない。一向に明るくなる様子のないその横顔に、男は未練を残しつつ席を立った。
「――俺、安田って言うんだ。またあんたの店行くんで、気が変わったら声かけてください」
未だリコの相棒になることが諦めきれないのだろう。
名残惜しく店を出て行った彼の後ろ姿を見送り、また億劫そうにため息をついた。
「――……よかったのか、」
そう訊いたのはここの店主である武智村正だった。
彼は厨房にて蕎麦を茹でていたが、耳に入ってくる話というものは止められない。オヒキ、という単語に馴染みはなかったが、話の様子からするに、男がリコと組みたがっているということは察しがついた。
武智村正に麻雀の知はない。積み込み、カベ、エレベーターという単語の意味も分からなかったが、それがどうやら麻雀を有利に進める要素になる、という程度にはぼんやり話が分かった。そしてリコがそれを断り、孤立を選んだことも。
正直、村正からすればリコがどう選択しようが関係のない話である。こんな女に構っている暇なんかない。よかったのか、なんて思わず訊いてしまったが、我ながら意味のない問いだ、と冷静になって思う。
「あらやだダーリン、聞いてたの?」
リコは器に注がれた蕎麦汁を綺麗に飲み干すと、参っちゃうわね、とぼやく。
「リコってばあんまりにも強いから、ああいうのにもモテちゃうのね」
茶化す台詞とは裏腹、その瞳は笑っていない。
それは彼女が本心から孤立を選んだことを物語っている。
そんな彼女は財布から会計ぴったりの金を机に出すと、席から離れて出口に立った。
戸を少し開けると、風と共に雨の香りが吹き込んできた。店に来た時は降っていなかった気まぐれな春雨である。「――私は……」
「宝燈リコはひとりよ」
しとしとと降り注ぐ霧雨にも関わらず、彼女はなにも持たずそのまま店を出て行こうとした。
その孤高な背になにか言おうと、引き留めようと思ったが言葉が間に合わない。
雨の中、独り歩いていこうとする背は強くもどこか寂しいものだった。
「――リコ、」
待て、とその肩を掴むと、彼女はカラーコンタクトで青くした瞳を丸くして振り向いた。「――なによ、」
「放っといてよ、」
霧雨が顔を濡らす、身を冷たくする。
村正は一本の番傘を差し出すと、その身がこれ以上濡れないように彼女へ差し出した。
「――……傘ぐらい、持っていけ」
武智村正は料理の道に生きる職人である。
麻雀なんていう賭け事に縁はない。もっと言えば、今この女に優しくしてやる義務もなにもない。理解してやる義理もない。
蕎麦打ち職人と麻雀打ち――普通なら決して交わることのない生き様だ。彼女がいくら孤独だろうと、隣を歩むことなんてできない。
が、雨の降る夕に傘の一本貸すぐらいなら――「なによ、」
「急に優しくしないでよ……」
それは今降る霧雨の如く消え入りそうな声だった。
僅かに頬が熱を持った気がし、恥ずかしくなって顔を反らした。
孤独なんて上等だと威勢を張っていたのに、差し出された一本の優しさがじんわりと胸を満たす。
「……ありがと、また明日返しに来るから……」
彼から借りた不器用な優しさを持ち、孤高の雀士は雨の中帰っていった。
*
「――どうしても、ですか」
霧雨が晴れた翌日、村正庵にて蕎麦を啜るリコの横には、彼女のオヒキ志願の彼が座ってかけ蕎麦を啜っていた。「――どうしても嫌なんですか、」
「オヒキを作るのがそんなに、」
彼からの必死な問いに関わらず、リコはそうね、と涼しい顔をして村正蕎麦の大盛りを食べ進めている。
「あんたの打ち筋は凄いよ、それは分かる。でも、独りで打って独りで勝つなんて寂しくないのかい」
その言葉にリコの箸が一瞬止まる。止まったが、また蕎麦を掴んで口に運んだ。
「案外そうでもないわよ」
虚勢や見栄ではなく、本心からそう答える。
その呟きにはバイニンとしての芯、のようなものがしっかりと揺らぐことなく通っていて、今更どんな言葉で誘おうが無駄であると知らしめていた。
「……そうですか。じゃあお元気で、リコさん」
かけ蕎麦を食い終わった彼はようやく諦めたらしい。
未練のある顔色だったが、金を机の上に置くと店を出て行った。
「寂しくないのか、なんて失礼しちゃうわ、まったく……」
そうぼやく顔に呆れの色はあるが迷いはない。
独りで麻雀という賭け事に金を、命を張ることを選んで生きている彼女――リコは蕎麦と天ぷらを食べ終わると、昨日借りた傘を村正へ見せた。
「ダーリン、たまーに優しいから……案外寂しくないもんよ」
ね、と微笑まれたが無視してやった。
この女に優しくしてやる義理なんてないからだ。
たかが傘一本借りただけなのにどこか嬉しそうなリコとは反対に、村正は素っ気なく「そこ置いとけ」とだけ返した。
それすら赤の他人から見れば甘いやりとりなのだが、そんなことは知ったことではない蕎麦職人、武智村正は今日も料理に命を注いでいる。
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