天和・一発、一目惚れ!
人間に欠かせないものとはなんだろうか。
十分な酸素、水、心も満たす食事と、いつどんな時であろうと思考を止めぬ脳を休ませる睡眠――そう、人間という難儀な生き物は皆、起きている間はなにかしらの思考の元に生きている。
その思考の奥、もっと深く底に沈んだ「覚悟」という名の重たい錨の姿を、存在を察せる他人――それは案外、密かに錨を仕舞い抱え込んだ本人の近くにいるかもしれない。「――ねぇ、」
「そんなに見ちゃってどうしたのよ」
暮れる平日。昼と夜が混ざり合うこの頃合いというのは案外静かなもので、店に来る客足も一旦途切れることがある。
彼女――この店の常連、金髪頭とピアスが眩しい女が来るのも大抵そんな時間だ。
「――あ、分かった! 今日のリコめっちゃ可愛いんでしょ? ちょっとアイシャドウ変えてみたんだよね、ダーリン分かる?」
分かるわけないだろ。
カウンター席から問われた間抜けに明るい声に呆れてしまうが、だからといって野良猫のように追い出すわけにもいかない。
(不本意ながら)彼女は常連客である。
おまけに彼女が夜な夜な手伝いに走る雀荘では、「リコの麻雀が強い秘密? それはね、村正庵のお蕎麦を食べてるからよ!」なんて馬鹿げた宣伝を抜かし、それを真に受けた客が実際蕎麦を食べに来ることにも正直慣れた。
つまりこの店の店主、武智村正はこの小娘にひとつ割と大きな借りがあるようなものなのだ。「……別に、」
「うるさい奴が帰ってきたなと思ってな」
「あらやだ、もしかして死んだかと思ってた?」
「…………」
そうだ。と思わず答えそうになった音を飲み、その代わりに彼女が注文した蕎麦をその姿の前に置く――彼がリコへこうしてやるのは、もう何ヶ月ぶりのことだろうか。
*
道を歩けば路の隅に、とうに咲き落ち踏まれ潰れた桜の花びらが朽ちる今日此頃。春と呼ばれる季節が死にゆく時期が今だ。
去年の春には無理にせがまれ、仕方なく差し入れの弁当を包んでやった。
去年の夏には、夏風邪を拗らせ寝込んだ彼女へ仕方なく見舞いにだって行った。
いつも同じカウンター席に座っては、麻雀で勝った、負けた、と、訊いてもいないのに勝手に話すその声が呼ぶ蕎麦を、もう何度彼女の前に置いただろうか。
自分が作り上げる一杯を好きだ、と言ってくれる彼女が店に来てくれることが日常に溶けていた日々、ある日彼女はぱったりとその姿を見せなくなった。
紅葉を過ぎ、色褪せた木の葉が地面を走る秋からずっと。
どうせどこかの雀荘に入り浸っているのだろう、あの頭の軽さと惚れっぽさだ、どうせまた違う男相手に熱でも出しているのだろう――心配に少し近い、呆れた感情が微塵もなかったわけじゃない。
だからといって自分がなにかしてやる義務も義理もない。
なにひとつ確証のない、ただただ不確定な思い込みだが、「どうせ年越しになったら蕎麦を食いにここに帰ってくるだろう」という気持ちもあった。
が、実際は帰ってくるどころか電話の一本すらないままひとつの年が終わり、村正はその時ようやく「あの馬鹿はどこにいるんだ」と内心心配を毒づいた。
しかし彼女が身を置いていた雀荘の客だってあてにならない。
なぜならどいつもこいつも「そういやリコちゃん、いつ帰ってくるんだろうな」「ああ、そういやどこにいるんだろうな」と、とぼけた顔で首を傾げつつ蕎麦を啜っていたからだ。
ああ、そんな人の気も知ってか知らずか、数カ月ぶりにふらりとやってきたと思えば、開口一番「ダーリン、村正蕎麦大盛りひとつね、あと海老天!」である。
「――残念でした~。この最強美少女雀士、リコちゃんがそう簡単に死ぬわけないでしょ」
村正自身が思っているよりも彼女に目を奪われていたのだろう。
その視線をからかうように笑い、一口蕎麦を啜っては満足げな顔をするその姿――「お前、」
「今までなにしてたんだ」
「え? 麻雀」
「どこで、」
「ないしょ」
「リコ、」
普段の鬱陶しい態度が嘘のよう、飄々と一言で済ます彼女は一体なにを考えているのか――気がつけば厨房から出、気ままに海老天を堪能する彼女の隣に立っていた。「――お前は……」
「お前は一体なんなんだ、なにがしたいんだ」
「なにって……今日は随分とお喋りね、ダーリン」
――リコはリコよ。宝燈リコ。
「九蓮宝燈」っていう麻雀の役があるの。とってもレアな役……縁起よさそうでいいでしょ?
「そんなことは訊いてない」
「そう言われてもねぇ……」
母親が我儘な子へ手を焼き、困った時にひとつ吐くようなため息。その口はお望み通り大盛りにしてやった蕎麦を食し、味わい、汁すらも綺麗に飲み干した後にようやく問いへ応じた。
「なにがしたいか、なーんて単純よ。大好きな麻雀打って、勝って、そのお金でお洒落したり、こうやって美味しいものが食べられるなら幸せなの。分かる?」
「分からん」
「あらそう、残念。……ってかなんでダーリンがそんなに食いついてくるわけ? なに? え? ねぇ、まさかリコのことちょっと心配とかしてくれてたわけ?」
ああ、そうだ。余計な心配かけさせやがって、と悪態をそのままぶつけられたらどんなに気楽なことだろう。
嫌味にプライドが高く、不器用で、それでいて素直になれない捻くれ者の蕎麦職人、武智村正には到底そんな器用なことはできない。
が、人間の思考というものは実に都合がよく、わざわざ厨房から出ては自らの隣で説教じみた小言を問うてくる彼のその態度を前に、宝燈リコは彼なりの情を感じていた。「――まぁ別にどっちでもいいけどさ……」
「昔色々お世話になった人に代打ち頼まれて出張してただけよ。ほら、リコって麻雀強いし可愛いから人気者なの。アイドルなの。だからなかなか帰してくれなくて大変だったんだから」
代打ち? なかなか帰してくれない?
お前、危ないことに首突っ込んでないだろうな?
大体お前みたいな小娘が夜な夜な賭け事なんざやってるのがおかしいんだ。
親はどうした? 家はどうした?
お前、たしか俺と初めて会ったあの夜だって、付き合ってた男にさっき家を追い出されたって荷物抱えて泣いてただろ。
ふらふらと人懐っこい野良猫のようなその日暮らしなんかもう止めろ。危なっかしくて見てられるか!
――という説教を口からひとつたりとも出さず、胸の内だけに留めることができたのは武智村正、彼の己を律する精神力が強かったからだろう。
そして彼自身、ただの常連客(しかもダーリンというふざけた名で呼んでくる厄介者)でしかないリコ相手へここまでの情があったのかと驚き、その動揺をリコ本人へはなんとしてでも隠したいと思ったのだ。
「――でもねぇダーリン、これだけは言っておくわ」
リコ、どんなにお金を積まれたって食べたくないものは食べないし、着たくない服は着ないし、麻雀だって打たないわ。
その逆……反対にね、やりたいことがあればどんなことしてでも絶対やってみたいの。
たとえそれが数ヶ月遅れの年越し蕎麦だって、私が食べたいって思ったら食べるの。
そのためにやっと帰ってきたんだからね、ダーリン!
*
「――昨日リコちゃんに大負けしちゃってさぁ、今夜のリベンジ付き合ってくれよ」
「嫌ですよぉ、ボクだって先週リコちゃんに全敗してるんですから……いや、途中までは勝ってたんですけどね、まさか四喜和で逆転トップかましてくるなんてもはやトラウマですよ。というか四喜和なんて初めて見ましたよ」
「俺なんてまんまとリコちゃんの清老頭に振り込んじゃったよ……なんなんだあの子は、」
「さぁ……麻雀の悪魔とか? あっ、先輩ほら、お蕎麦来ましたよ」
きっと仕事帰りなのだろう。スーツのネクタイを緩め、カウンター席に並んで座っては負けた話しかしないサラリーマンふたり。
彼らはいかに自分が手酷く負けたかという話にしばらく花を咲かせていたが、店主である村正がその机へ蕎麦を置いてやると「まぁいいや、一旦忘れて食べよう」「そうですね」とあっさり終わった。
村正に麻雀のことはなにひとつ分からない。
料理一筋、蕎麦一筋。賭け事に興じている暇なんてない。そんな時間があれば大事な刀の手入れをするか、娘がまだ幼かった頃は河原にでも散歩に連れ出してやっていた。
ただ間違いなく分かることは、宝燈リコ、彼女は相変わらず楽しそうに麻雀を打って生きているということだ。
どれだけ金を積まれようともやりたくないことはやらない。
その反対に、やりたいと思ったことを実現させるためならなんでもやってやる――そう言うのは簡単だが、その信念のままに生きるというのはなんとも難しいものである。その道を塞ぐ数多の障害は過酷なものだろう。
それでも曲げぬ意志を、砕けぬプライドを牌に込めて打つことを選んだリコの秘めたる覚悟――なぜ彼女がそれを抱えたのか、それは結局本人から語られることなどもなかった。
ただ分かることは、彼女には彼女なりに覚悟した生き方の中で人生を謳歌していること。
そして、これは村正自身あまり認めたくない上、間違ってもリコ本人には微塵たりとも勘付かれたくないのだが――そうやって強く、真っ直ぐと生きるその姿は嫌いじゃない。
リコ相手に大きく負けた、と話す客の情けない顔を一瞥し、内心、当然だろうと鼻で笑ってしまう。
そう、たしかに見た目こそはただの小娘だ。派手に着飾り、浮かれた頭をした品の悪そうな小娘だ。
だが中身は違う。覚悟が違う。
本人はなにも語らぬが、きっと潜ってきた修羅場の数も到底凡人とは桁が違うのだろう。
――ああ、人間の持つ思考、感情、それはなんて滑稽で愛しいものだろう!
ただただみっともなく負け、財布の中身を吐き出すしか役目のない凡人たちは、見るからに頑固で神経質、おまけにこの上なく日本刀が似合う物騒で無愛想な店主――村正が、リコの生き方を応援しているなんて想像すらしないだろう。
しかしそれも無理はない。
なぜならそれは(ほんの僅かに気づきつつあるが、)彼本人もまだ自覚し切れていない感情だからだ。
いつまでたっても素直になれない。否、なるつもりもない。
カラーコンタクトで覆った青く煌めくあの瞳を真っ直ぐと見つめ、お前のそういう部分は嫌いじゃない、なんて言ってやるつもりもない。
――だが、ほんの僅かばかりの情けとして、彼は気高き雀士が好きな海老天を用意し、今夜も店で待っている。
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