天和・一発、一目惚れ!
「――はい、お待たせ! リコの役満確定チャーシュー丼セット! ふたつね!」
キッチン、と呼ぶには少し、否、けっこう手狭な台所からそう呼びかけ、盆に乗せた器二杯を腹を空かせた雀卓へ運んでやる。
もう勝ち負けに一喜一憂するよりも、手元のハイボールの酔いに機嫌が良い中老の客ふたりはその丼を見るなり、よりさらに機嫌を良くした。「――おお、」
「さすがリコちゃん、今日も美味しそうだね」
「ほんとほんと、このタレがまた酒に合うんだよな。てことでリコちゃん、ビール追加で」
「えー? そんなに飲んでたらまた奥さんに怒られますよ?」
いいのいいの、なんて開き直った客に呆れながらも、宝燈リコ、彼女はこの雀荘の使いとして瓶ビールとグラスを運んでやった。「――なぁリコちゃん、」
「次の半荘入らない? この前の負け、リベンジさせてくれよ」
「おいおい岩槻さん、やめとけって。昨日のリコちゃん、三連荘もやってツキまくってるんだから」
「あはは、そんなのたまたまですよ。もうツキが落ちてそうなんで……今日はお手伝いだけにしときます」
もう酔いのせいでろくに頭の回っていない客からの挑戦を適当に受け流し、今夜はビール、酎ハイ、ポッピー、酒やつまみ、特製のまかない夜食を届ける役になる。
夜に牌と金が行き来する雀荘の中、リコのような小娘がいるなんてそれだけでもなかなか珍しいものだ。
しかも打ち手としての腕も立つ上、「リコ特製」とメニューに書かれたまかない料理の味も評判――巣を持たぬ流れ者のリコがこの雀荘の手伝いとして、雀士として馴染むのに、そう時間はかからなかった。
じゃらじゃらと小石をかき混ぜるような、牌を卓でかき回す音と煙草の煙、酒の香が満ちる部屋の中――ポケットの小銭入れからレジに百円玉を食わせ、その代わりに冷蔵庫から瓶コーラを一本拝借する。
少し窓開けるよ、と呼びかけた声に特に返事はなかったが、そんなことは特に気にせず「雀荘」と看板代わりのテープが貼られたその窓を開けた。
白く濁った煙草の煙と入れ違いに流れ込んで来たのは、まだ少し冷え込む夜の澄み切った空気――手元の栓抜きで開けたばかりの瓶コーラを口にするには良い夜だ。
なにげなく窓から少しばかり顔を出し、青い瞳を作るカラーコンタクト越しにその空を見上げる。「――あら、」
「満月だ」
思わず呟いた言葉にも返事はない。
リコ自身も特に求めているわけでもない。
ただただぼんやりとそれを見上げながらふと思う。
――綺麗な丸、綺麗な灯り、まるで舞台のスポットライトみたい。
こんな自分でも主人公みたいに照らしてくれるなんて、月って随分優しいものね。
どんなに馴染もうが結局は麻雀、という一か八かの賭け事で生きていくことを選んだ日陰者の身。
そんな自分に対しても曇りひとつなく照らしてくれる月を眺めていると、自分を呼ぶ一声が聞こえてそちらへ振り向く。「――リコちゃん、」
「ちょっといい?」
そう呼んできたのは客ではなく、この店の女将だった。
その声にリコは向き直り、まずはひとつ頭を下げた。
「ああ。女将さん……おはようございます、お身体は大丈夫ですか?」
「うん、今日は調子良いから……お店のほう、色々ありがとうね」
「いえ、これぐらい当然ですので……今日はどうかしましたか?」
白髪をひとつにくくりまとめ、セーターにカーディガンを羽織った小柄な老女――彼女がこの店の主人なのだ。
彼女には麻雀のことは分からぬ。
しかし雀士だった旦那が作ったこの店を、彼が亡き今も形見として守り続ける聖女である。
されど人間、誰しも老いというものには勝てぬもので、気丈に店を作っていた彼女も足腰を悪くし、また、夜を舞台にする雀荘に居続けることに身体が悲鳴を上げだしたのだ。
そしてこれこそ巡り合わせ、というやつだろう。
「運命の人だ」と一目惚れした男を追い求め、その道を進むための金を得るため飛び込んできた所謂「雀ゴロ」である宝燈リコ――彼女がこの店へやってきたことは。
今まで数多の雀荘にて手伝いをこなしてきたリコにとって、人数合わせの打ち子も、まかない料理を振る舞うことも、店の掃除だってできて当然のこと。
見た目こそ派手に着飾った軽薄な小娘にしか見えないが、それでもそんな彼女の奥にある真面目で、几帳面で、それでいて麻雀を愛しているという面を信頼した女主人は、渡り鳥の如く巣を持たずにいたリコへ、持て余していた空き部屋ひとつと仕事を譲ってやったのだ。
リコにとっては一切頭の上がらぬ聖女、否、女神といっても過言ではない。
「リコちゃんにね、ぜひ会ってみたいっていう人が来ててね……」
「ああ、対局ですか? それだったら、今ちょうど卓がひとつ空いてますし……」
金髪頭の小娘雀士、リコ。
その見た目と雀力のインパクトは強く、時折彼女と手合わせしたいと勝負を挑んでくる者もいた。
なにも珍しい話ではない。今回もそういった話かと思えば、女主人は少しばかり、言いにくそうに表情を曇らせては首を横に振った。「――ううん、今日は違うの」
「リコちゃんはちょっとびっくりしちゃうかもしれないけど……それでも、少しお話聞いてみてほしいの」
「は、はぁ……」
想定外の返し、反応に戸惑っては首を傾げていると、店の戸を開けて入ってきたひとりの客――自分に話がある、と訪ねてきた男から一言、こんばんは、宝燈リコさん、なんてキザったらしい声で挨拶が向けられた。
*
「――……ダーリン、ちょっといい?」
日の照る合間はいくばくか暖かくなったものの、そのぬくもりは夕から夜に落ちるその間にまた死んでしまう。
吐いた吐息が自然に白く色づく夜、店の暖簾を下げようとした店主、武智村正を一言呼び止めたのはリコの弱気な声だった。
たった一回限りの気紛れを勝手に「運命」と名付け、いつも浮ついたその呼び名で呼んでくる彼女を疎ましく思ってはいるが、彼も一応は商売人。
ほぼ毎日店に来ては看板メニューを食していく常連客であるリコへ、その呼びかけへ振り返ってみる。「……どうした、」
「……酷い顔だな」
普段は気味が悪いほど活気に輝く青い瞳、いつだって明るい笑みを描いていた桜色の唇――そのどれもに生気がない。
通夜に参列している人間のほうがまだマシなほうかもしれない。
目元に光るアイシャドウのラメだけが光を得ているが、そんなものは霞むほどリコ本人の表情はなんとも浮かない表情だ。
いつもならこちらがなにも言わずとも勝手に話を進めるくせに、今目の前にいる彼女はその口を閉ざしては俯き加減に困った表情をするだけだ。
――こんな寒い中、外でこんな奴に付き合ってられるか。
村正は暖簾とともにリコの腕を掴み、仕方なく店の中に引っ張り込んでやった。
ああ、まったく。いつまた雪が降るかも分からん夜に、こんな女に外で足止めを食らうなんざツイてない――そんな不機嫌な舌打ち混じりだが、湯呑に蕎麦茶を淹れ、適当に席へ座らせた彼女の目の前に置いてやる。そうしてやってようやくその大きな瞳を細め、ほんの僅かに笑ってくれた。「……ありがと、」
「ごめんね、もうお店閉まってる時間だったのに……なんかさ、つい来たくなっちゃって……」
「……言いたいことはそんなことか?」
「……いや、」
指先まで冷え切った手を慰めるよう、村正が淹れてやった温かな蕎麦茶の湯呑を大事そうに両手で包んだ彼女は、ようやく重苦しい心中を一滴、一滴と零すように話しだした。「――ねぇダーリン、」
「あのさ、『味将軍グループ』って知ってる?」
「…………は?」
辛気臭い顔と対面するよう腰掛け、さっさとこの厄介事が過ぎ去らないかとため息混じりに酒を煽っていた手が――味将軍グループの「七包丁」のひとり、蕎麦職人、武智村正の手がその言葉にぴたりと止まる。
「なんかさぁ、リコが雀荘で出してる夜食……所謂『雀荘飯』が評判でさ、それを食べに来てくれるお客さんもいるの。それはそれで嬉しいし別にいいんだけど……それで、そのグループ? に入って正式な料理人にならないか、なんて言われちゃって……」
そういってリコは肩から掛けていたポシェットから一枚の名刺を出し、机の上にそれを村正へ見せるよう置いたが――間違いない。見慣れたマークと、毛利、と知っている名が書かれているそれを前に、思わず険しい表情で眉間を押さえていた。
嫌味な高笑いとあの狡賢い顔が思い浮かぶ。
あいつが度々目のある料理人に声をかけ、グループに入ってみないかとスカウトしていること自体は知っていたが……毛利の奴め、なんでよりにもよってこの女に声をかけたのか。
この厄介者に普段から付きまとわれている身からすれば迷惑な話だ。
リコに料理の才があろうがなかろうが関係ない。
これ以上自分との腐れ縁を増やしてたまるものか――!「――ダーリン?」
「どうしたの?」
「……いや、気にせんでいい。というかリコ、お前には麻雀があるだろう? こんな話になにを迷うことがある?」
「まぁそうなんだけど……今お世話になってる雀荘の女将さんがね、悪い話じゃないんじゃないかって言うの」
――リコちゃんがお店を手伝ってくれるようになって、私、本当に感謝してるわ。
……でもね、あなたはまだ若いの。
リコちゃんがどういう事情で親御さんのところを離れて、悪く言えば……日陰者として一か八かの賭けで稼いでるのかなんて、私があれこれ聞くものじゃないのは分かってるわ。
でも、せっかくこうやって日向を歩ける道に誘われたんですもの。
麻雀は遊びでもできるわ。……だからこのお話、少し考えてみるのもいいんじゃないかな、って思うのよ。
若い、っていうのはね、色んな選択肢に悩める特権よ、リコちゃん。
網戸越しに流れ込む冬の風。それが日暮れの刹那に赤く落ちゆく夕日が差す部屋の中、仏壇に灯された線香が静かに灰を落とす、そんなか細い煙と混じり合わさっていく。
リコが夜な夜な手伝いに走る雀荘と、寝床として譲ってもらった四畳半のかつての主人、持ち主――自分を救い上げてくれた女将がかつて失った、最愛の人間ふたりの写真が並ぶ仏壇に彼女は手を合わせ、そう語った。
写真の中にいるのは彼女の旦那と、高校生という若さで病に死した娘の姿だ。
この家に世話になったその日から、リコも毎日欠かさず線香を差すその仏壇の中で微笑む彼ら――特に娘には、リコがいくら賭け、勝ちを重ねて大金を積もうとも、一生手に入らない純粋さ――親からの愛を受け、それを元に将来を選べたであろう優しい笑みと瞳があった。
そう、こんな自分にも慈悲を語ってくれる女将の優しさは、本来自分なんかが受け取るべきものではない。
所詮自分は流れ者の博徒だ。褒められる存在でもないし、世間から見れば落ちぶれた人種なのだ。
自分はそれを弁えている、弁えているはずだ、ときっちり線引していたはずなのに――「――……私は、」
「……私は、今までこんな風に自分の進路を……将来性、ってやつを考えてくれる人に出会ったことがないの。それが当たり前だったからさ、女将さんにそう言われて今更それに気づいたんだけどね」
――派手な金髪に化粧、耳元に輝くピアスの列、わざわざ青くするようコンタクトを乗せた瞳に、光を纏うラメが塗られたネイル。
利口さの欠片も感じられぬその姿で飛び込むのは金を賭け、命を賭け、知略と運任せで稼げるか否かという賭場、雀荘――一般的な、所謂カタギの世にいる親なら誰しもその姿、生き方を娘が選んだとなれば、きっと右往左往と頭を抱え、必死に止め、説教のひとつやふたつ、否、百ぐらいはするかもしれない。
そういった親からの情を一切感じられない姿で、今は悩ましげにため息をつき、とうに温くなった茶を啜るリコは弱気に続ける。
「……だからね、なんというか……いつもだったら即お断り、って感じなんだけど、本当にそれでいいのかな、って……」
でもリコ、今までお料理に対して真剣に向き合ったことないの。
あくまで雀荘のお手伝いのひとつというか……だから、そんな私が軽々しくグループ? なんかに入ったら、それこそそこで真面目に頑張ってる人に失礼な気もするし……。
いや、お前に声をかけたあいつはそこまで深く考えてないと思うぞ、と、つい出そうになった野暮な呟きはひとつ飲み込み、ようやく悩める彼女へ言うべき言葉が見つかった。「――……俺には娘がいる」
「歳はお前とさほど変わらん」
「はぁ!? えっ、マジ……!? 待って、えっ、予想外すぎるんだけど、」
リコからすれば青天の霹靂、というやつだろう。
あまりにも予想外すぎる話に戸惑うリコに、まぁ聞け、と、村正はなにひとつ変わらぬ、リコとは対象的に落ち着いた調子で話を進める。
「……親として進んでもらいたい道と、本人が選んだ道が違うなんてよくある話だ。気にすることはない」
「で、でも女将さんが……」
「……それはお前が選んだ麻雀を捨てるほどか?」
「えっと、その……」
「なにかを賭けないで生きてる人間はいない、って言ったのはリコ、お前だろう?」
お前が今後人生を賭けるのは麻雀か料理か……俺には関係ないし興味もない。
……ただこれだけは言っておく。
「……お前が本気で選んだ道なら、どっちにしろその恩人とやらも認めてくれるだろうよ」
煮え立つ湯が沸く音も、混む客で賑わう声も、閉店として閉じられた今この空間にはなにひとつない。
ただ真っ直ぐと自分へ向けられた声は、言葉は、将来に重苦しく、それでいて誰にも言えず憂いていたかつての幼い自分が欲しくて欲しくてたまらないものだった。
どんなに熱い勝利でも、金でも、いくら注いだって埋まらなかった大きな傷――そこにようやく満たされる優しさに、リコは迷うことなく今の自分には不要な迷いを、牌を切ることにした。「……ありがと、ダーリン」
「まさかこんなに話聞いてくれるとは思わなかったよ」
「……不本意だが、お前は一応常連客だからな」
「ふふ、常連客にサービスするのは鉄則だもんねぇ」
あんなに重苦しく話していたのが嘘かのよう、帰り支度にコートを羽織り、マフラーを首元に巻く彼女の調子は機嫌が良いように見える。
その様子を前に、いつの間にか彼女の表情が読めるようになっていた村正は、たった今リコが選んだ選択肢、その答えを察した。
「……じゃあね、ダーリン。また来るよ」
そういって戸を開け帰った彼女が今まで座っていた席、テーブルの上には、悩みの発端である名刺が置き去りにしてある。彼女が選んだ道を行くには、こんな薄っぺらいものはもう不要なのだろう。
村正はそれをゴミ箱へ落とす前、店の電話の受話器を持ってはダイヤルを回していた。
*
「――ダーリンさぁ、甘いもの好き?」
先日と同じよう、他の客はもういない閉め際の戸を開けやってきたのは、上等な菓子折りの包を抱えたリコだった。
「いや、なんかさぁ、ほら、この前話した料理人のスカウト? なんだけどさ、最初は結構しつこかったのに、今日いきなり店に来て謝りだしてさ、お菓子めっちゃ置いて帰ってったの」
こんなに食べ切れないし置いとくよ。
娘ちゃんと食べたりお客さんに分けたりすれば?
なんて能天気に話すリコは知らない。
「そうか」と冷めた一言だけで済ますこの男、今は皿を一枚一枚几帳面に磨くこの村正という男が、彼女をしつこく勧誘していた毛利、という嫌味な奴にわざわざ電話をかけ、「あの金髪頭の女には今後一切関わるな」と圧をかけたことなんて。
毛利はなぜいきなり「七包丁」のひとり、村正がこの件に関して口を出してくるのか分からなかったが、上には媚を安売りするのが奴の性分だ。
「七包丁」から直接連絡があったとなれば大人しく手を引くしかないのだ。
なにも事情を知らぬ他人から見れば、それは過保護な保護者の振る舞いそのものかもしれない。
村正自身も、なんで自分がわざわざこんなことを、いや、これ以上あいつと余計な接点を持ちたくないだけだ、と己への言い訳に近いようなことを並べながら電話していたのだが――リコの様子と話からするに、どうやら話は無事に丸く収まったらしく、内心、心の片隅で無自覚に安堵していた。
「色々話聞いてくれてありがとね、ダーリン。そんじゃ私帰るね、」
「ああ、……今から勝負か?」
「うん! リコね、やっぱり麻雀に賭けてくことにしたの! ……女将さんも、私が決めたことなら応援する、って言ってくれたし」
そう笑う青い瞳は勝負に煌めき、自信と度胸に溢れた表情はなんとも前向きに明るいものだ。
――不思議なもんだ。これから命を金に置き換えた勝負をするというのに、なんでこうも楽しそうな顔ができるのか。
「じゃあ行ってきます、ダーリン!」
そう去って行く若き足音のなんと軽やかなものよ。
要らぬ迷いを捨てた勝負師の輝きは、今この夜空に居座っている月すら霞むものかもしれない。
なんとなくふとそう思ったが、馬鹿らしい、と鼻でひとつ笑っては一蹴し、満月と同じく綺麗な円を持つ皿を磨くことにした。