天和・一発、一目惚れ!
人はなにかを食さねば生きていけない。
身体を作り、動かすための栄養と成る食事をしないと死んでしまう。その死から遠ざかるためにそれぞれ仕事に励み、その対価で一食を、命を買う。
つまりその仕事をどうするのか、という人生を賭けた選択肢に直面することは、この世で生きていく上で当然のことである。
夕食時、帰宅ラッシュで混み合う客数がようやく一段落落ち着いた厨房の中にて自慢の刀を研ぐ蕎麦職人、武智村正は料理人として生きることを選択した人間だ。
決して楽な道ではない。彼の近寄り難き雰囲気と顔に走る傷からは、今まで様々な修羅場を通ってきたのだろう、と誰が見ても分かるはずだ。
が、そんな彼へなんの躊躇いもなく呑気に話しかける女――リコ、と名乗った女はカウンター席にて手元の器を抱え、見ているだけでも良い気分になるほどの食べっぷりで蕎麦を啜り、その満足げな機嫌で村正へ声をかける。「ダーリンさぁ、」
「マジでお蕎麦の天才だよね、いつ食べても飽きないもん」
そういって彼女が食すのはこの店の看板メニュー、村正蕎麦である。
村正の自信とこだわりを詰めた一杯なのだが、リコがこの村正蕎麦以外の注文を口にしたことはない。
身勝手な彼氏に無理やり放り出された寒空の中、たまたま出会った村正が気紛れな情けでその一杯だけを恵んでやったことを、彼女は運命、という名前をつけて呼んでいる。
村正からすれば、そんなことをきっかけにわざわざ自分を追いかけて旅をしてきた、と語る彼女の執着心に火を付けてしまったことは事故と呪いに近いように感じるが――もうすっかりこの店の常連になった彼女が言うその感想自体は正直、なかなか悪くない。
悔しいことに「ダーリン」という浮ついた呼び名も、利口さの欠片も感じられない口調にももうすっかり慣れてしまった。
つまりはもういちいち注意し、怒ることが面倒になったのだ。
そうか、と無難な一言だけで済ましてやれば、返ってきたのは返事ではなく景気よく蕎麦を啜る音。
リスのように口いっぱいにするその様子に、小柄な割にはよく食うもんだ、なんて思ったその時に店の戸が開く音がしたが――その音は荒々しいものだった。
その音と共にずかずかと店に入り込んで来た男の風体は見るからにカタギのものではない。
壁にかかったメニューの札どころか空いている席にすら目もくれず、彼らが飛びつくように駆け寄ってきたのは――リコ。彼女だった。
「おい金髪女、こんなところで呑気に飯だなんて随分余裕じゃねぇかよ」
「なぁ、イカサマかまして勝った金で食う飯はうまいか?」
煙草と安酒の匂いと共に詰め寄ってくるその様は、まるで任侠映画の鉄砲玉か下っ端だ。
いきなりなだれ込んできた(村正には訳の分からぬ)揉め事に対し、村正が制止と刀を向けるよりも早く、呆れた一言を言い返したのはリコ本人だ。「――うるさいわねぇ、」
「今ご飯食べてるの。ちょっと待っててくれない?」
二十歳であると自称した女がこの状況にて返すには、異様なほど落ち着いたその一言。態度。
事情はまったく分からないが、それでも少しぐらいは怯え、怖がり、自分に泣きついてきても当然だと思えるこの状況下での彼女は、今この場にいる誰よりも冷静に、平然と食事を続ける。
そんな態度、今彼女へ文句と鬱憤と、なにかしらの言いがかりをぶつけたい下っ端ふたりが良いように思うわけがない。
ちょっと下手に出てりゃ良い気になりやがって!
昨日の金は返してもらうからな!
なんて、まるで映画の台本をなぞったようにお約束の脅しに痺れを切らし、手にしていた箸ごと机を強く叩きつけてはその勢いのまま一喝したのは――これもリコ。この騒ぎにて一番臆病になるべき女だった。
「うっさいわねぇ! たかが一晩負けたぐらいでごちゃごちゃ言わないでくれる!?」
だいたいねぇ、キャタピラなんてしょぼい真似しなきゃ勝てないようなアンタたちと一緒にしないで!
アンタたちも雀ゴロ気取ってるんだったら文句は卓で、牌で言ってよね!
麻雀で持ってかれたお金は麻雀で取り返すのが筋ってもんよ!
「振聴なんて凡ミスするような奴がリコに文句つけようなんざ千年早いわよ!」
この大間抜けが! と強気な台詞と人差し指をびしっと突きつけたその先に、リコが今相手にしていたと思っていた下っ端ふたりの姿はもうなかった。
その代わりに脅しの刀片手にぴしゃりと店の戸を乱雑に閉める村正のみがいて、リコは思わず「あれ?」と気の抜けた声を出したが、ああそうか、とすぐに状況を理解した。
「あ、もしかしてダーリンが追い出してくれたの?」
ありがと、マジ助かったよ、と相変わらず浮かれた言葉を続ける前に、今度はそんな村正から詰め寄られる。「――お前、」
「もしかして賭けでもやってるのか?」
「え? うん、そうだよ?」
「女が賭け事なんざ……雀荘の手伝いってまさか、」
「いや、お手伝いもしてるよ? でもさぁ、まかない料理作ったりお掃除してるだけじゃ十分に稼げないし、」
しょうがないじゃん? と軽く答えるその様子を前に、馬鹿が、なんて一言が出た。
――なんなんだこの女は。
あの様子からするに、こんな騒ぎにはもう随分と慣れているように見えた。
自称二十歳。自称「リコ」
そういえば本名も知らないこの女は一体なんなんだ。
手伝いだけでは十分に稼げない、と語るその身は、毎晩あんな輩を相手に金を、命を賭けて、麻雀で向き合って稼いでいるというのか?
ただただ嬉しそうに「ダーリンのお蕎麦、めっちゃ美味しいよ」と席で笑う無邪気な顔には似合わぬ、己の麻雀に文句を押し付ける輩に堂々と啖呵を切った時の鋭い視線――なんでこいつはそんな険しい道を、夜の世界を渡り歩くのか。
「――……ダーリンはなんでお蕎麦を極めよう、って思ったの?」
女が、お前みたいなガキは賭け事なんざ止めろ。
もっといくらでも真っ当な仕事がいくらでもあるだろう、ついそんな説教が出るその時、まず先手そう聞いてきたのはリコのほうだ。
「お料理ってたくさんあるじゃん。でもお蕎麦にしたのはさ、ダーリンにはダーリンなりの考えがあったんでしょ? それを今更『他の選択肢もあったのに』って他人から言われても困るじゃん?」
「料理と賭け事は……」
「一緒だと思うよ、私はね」
あーあ、冷めちゃった、と残念がるため息とともに、器から残った汁を飲むその細い背。「ねぇダーリン、」
「なにかを賭けないで生きてる人なんていないのよ」
ダーリンみたいな料理人は自分の人生と技術を賭けて商売して……私は命を手元のお金に、点棒に置き換えて、そうやって稼いだお金でご飯を食べなきゃ、誰も生きていけないでしょ?
なにかを賭けて命を買ってるんじゃないかな、って思うの。
……リコ、そうやって頑張って勝てたお金でダーリンのお蕎麦を食べてる時が、今は一番幸せなの。
*
「――やばい、寝坊した!」
夕暮れに夜が染み出てくる刻――ばたばたと忙しない様子に合わせて店に駆け込んできたリコはカウンター席に座るなり、厨房へいつも馴染みの台詞を呼びかける。
「ダーリン! 村正蕎麦、」
大盛りで! と言い切るか否か、一息茶を飲む間もなく目の前に出された器には、今彼女が欲した一杯そのものが綺麗に入っていた。「うわ、」
「めっちゃ早いじゃん。なに? もしかして私のこと待っててくれた感じ?」
「……遅刻するんじゃないのか?」
リコという乙女の自惚れを適当に受け流すことに慣れた村正に訊かれ、ぱちんと割り箸を割った彼女はそうだそうだと頷いた。
結局リコはあの揉め事の後の夜、懲りもせず無茶な賭けを挑んできた下っ端ふたりからの勝負を受けてやったのだという。
そのついでに格の違いを見せつけながら、ありがたく財布の隅から隅まできっちり頂いたらしい。
そして今度は――「そうそう、」
「なんかこの前の奴の……上司? いや、兄貴? みたいな人とこれから対局なんだけどさ、まさかの寝坊なんてもう最悪よ。よりにもよってこんな日に目覚まし壊れなくってもいいじゃんね」
最悪だと嘆く部分はそこでいいのか? なんて思うが、勝負に向けて一心に自分が出してやった蕎麦を啜る「雀士」に言うには野暮な台詞だろう。
――なにかを賭けないで生きてる人なんていないのよ。
ちゃらちゃらと着飾った小娘、リコ。
村正は未だにその本名すら知らないが、彼女が麻雀という賭け事に生きることを選んだ、というのは先日の一件で少し理解できたような気がする。
村正だってまったくの無情、というわけではない。
(一応常連であり、)年頃の娘がやれ麻雀だ、賭けだ、勝負だ、と危うい夜を生きていると知れば、それを咎める小言のひとつやふたつ言いたくなるもの。
しかし、村正が料理人として蕎麦を極めんと今の道を選んだように、今ここで勝負前にと蕎麦を啜るこの小娘にも、雀士として危うい綱を渡ってやろうと腹をくくった決意と過去があるのだろう。
料理人というのは一種の勝負師でもある。
その相手は同じく料理人でもあり、店の客でもある。
いうなれば、自身の店を持つ村正にとっては毎日が、一杯、また一杯と出す器ひとつひとつが勝負なのだ。
料理に麻雀。生きる道そのものは全く異なるが、同じく勝負に人生を賭けている者として、村正は「雀士・リコ」へつまらない小言を投げるのをやめた。
「――ごちそうさま、ダーリン!」
時間に追われ、慌てた様子でコートを羽織り、マフラーを巻くその金髪頭――いつもは綺麗に整えた団子がふたつ並んでいるのだが、今日はなんだかほつれているように見え、それは彼女が本当に寝坊したことを物語っているように見えた。
今から金を賭け、明らかにカタギではない奴らと対するというのに寝坊――見た目によらず肝が据わった変な女だ。
「今日も美味しかったよ! あっ、これ、お金! ここ置いとくからね!」
汁まで綺麗に飲み干され空になった器と、その隣に釣り銭いらず、きっちりと揃えて置かれた代金を残しては戸を開けようとするその小さな背に一言、村正は説教でも、文句でもなく、なんとなく他愛のない一言をかけていた。「――……ああ、」
「勝ってこい、リコ」
思いもしなかったその言葉に、不器用な応援に、今から戦地へ駆けていこうとしていた彼女は彼へ振り向き、その大きな瞳を細めては明るく頷き返す。「――うん!」
「私が……リコが最強、って教えてやるんだから!」
じゃあね、ダーリン! と元気よく走り去る勝負師を見送った村正の口元が僅かに機嫌良く緩んでいたことを、賭けに生きる雀士、リコは知らない。