天和・一発、一目惚れ!


 拝啓、一時間前に私を振った元カレ様へ。
 
 先日のクリスマスにはディズニーに行こうなんてチケットをくれたくせに、年越しを控えた今、突然お前は重たい、新しい彼女ができた、なんて言って家から追い出すなんて、私は夢にも思いませんでした。

 もう終電があるかないかという時間のこの街で、年末で、着替えが入ったボストンバッグを抱えて入れるお店なんてないんですよ。

 でも神様って不思議なもので、冷たいあなたに追い出された私は今、温かいお蕎麦を涙と一緒に啜っています。
 砂漠に水たまりを見つけた人ってこんな気分なんでしょうか。
 シャッターだらけの駅前から少し離れた場所、あなたとよく待ち合わせをしていた広場に、ぽつんとひとつあった屋台を見つけたその途端の嬉しさといったら。

 メニューを聞くでも見るでもなく、ぐずぐずと情けなく泣いている前に置かれたお蕎麦に驚くと、お店の人は野良猫を追い払う手付きで言うのです。

「お前みたいなガキが店で泣かれると迷惑だ、それ食ってさっさと消えろ」

 お店の人はなんだか侍みたいな格好のおじさんで、目付きも、言い方もきつくてぱっと見は怖い人です。
 でも、さっさと消えろと言う割にはきっちり一人前盛られたお蕎麦とお出汁の香りが優しくて、今はそれをありがたく頂いています。

 よくよく見れば本当に不思議な人。
 長い髪も、着物も、雰囲気も、まるで時代劇の映画から出てきた剣客みたいな人。
 不機嫌そうに一言も喋ってくれないのも怖いけど、どうしてもふたつだけ訊きたいことを言ってみる。

「あの、これのお代っていくらですか?」

 財布、財布、たしか追い出された時にちゃんとバッグに入れたはず。
 それでももし忘れてたらどうしよう、なんて急に冷静になって訊くと、おじさんは本当にこっちを馬鹿にしたようひとつ笑って答えてくれた。

「はっ……お前は残り物を野良猫に撒くのに金を取るのか?」

 なんて嫌な言い回し。でも、良い格好しようと背伸びして、無理に甘い言葉と嘘を吐く男よりも優しい気がする。

 お蕎麦なんて食べるのはいつぶりだろう。
 元カレ様。あなたは随分わがままで、いつどこに行ってもハンバーガーや唐揚げとか、まるでお子様ランチのようなものしか食べませんでしたね。

 そんなあなたに付き合ってた私にとって久しく口にするこの琥珀の汁と、啜るたびに分かる蕎麦粉の香りはなによりも幸福に感じました。

 口に、冷えた心と身体に広がる一杯限りの幸福感。

「このお蕎麦、なんて名前なんですか?」

 もうひとつどうしても訊きたかったことを言ってみる。
 汁に馴染んだ肉団子や具が入ったこの一杯の名前を、この夜を忘れたくないと思ったのです。

 ずっと自分に背を向けていたおじさんが面倒そうにこっちを向く。
 まだ帰ってなかったのか、と言いたげなその人相は、きっと映画の中なら悪役で決まりでしょう。

「……村正蕎麦だ」

「むらまさ……?」

 おじさんはそれ以上語るわけではなく、また黙って私がさっさと帰るのを待っているようです。

 本当に冷たいお人。でも、なんだかその飾らない態度が格好良く見えて仕方ないのは、ついさっきこっ酷く失恋したからでしょうか?
 それともこの人が出してくれた一杯のお蕎麦、村正蕎麦とやらに、この人の不器用な親切心を勝手に感じているからでしょうか?

「村正、って……おじさんの名前?」

「ああ」

 思わずもうひとつ訊いてしまった質問。
 口にしてから、ああ、無視されるだろう、となんとなく思ったそれに、たった一言だけ返ってきたことに驚いてしまう。

 多くを語らず、着飾らず、突き放すような物言いが怖いけれど、なによりも心に沁みる優しい味が作れるお人――そうか、私があんな子供じみた奴から振られて追い出されたのは、この人に出会う運命だったからかもしれない!

 汁まで綺麗に飲み干した器を置き、おじさん――否、運命の人に、恋多きうら若き乙女、宝燈リコはさっきまで情けなく泣いていた顔を輝かせた。

「村正さん、……いえ、私のダーリン、ごちそうさまでした!」

 あなたが私の運命の人だったんですね! なんて急に斜め上すぎることを言われ、その瞬時になにひとつ戸惑うことなく適応できる人間なんかいないだろう。
 それはこの蕎麦職人、武智村正も同様であり、普段は冷淡な態度を変えぬ彼でも流石に「は?」というありふれた戸惑いを口にしていた。

 己が進む料理道への修行をし直すために屋台を引く道中、今夜はもうそろそろ店仕舞にしようかと思った時に転がり込んできた小娘に、気紛れで余り物を食わせてやったのが村正の運の尽きだった。

「ねぇダーリン、村ぴーって呼んでいい?」

 そう言って笑う小娘の様子は冗談やからかいなどではない。本気だ。
 本気でそんな寝言をほざく彼女を前に、村正は腰に下げた自慢の日本刀(蕎麦用)に思わず手を掛けたが、こんな子供の血で汚したくはない。なんとか理性でぎりぎり抜くのを抑えた。

 ダーリンのお蕎麦美味しかったよ、なんて構わず抜かす小娘の襟元を掴み、屋台から引きずり出しては放り投げる。「ふざけやがって、」

「ガキに付き合ってられるか!」

 そんな真っ当な感想、捨て台詞と共に蕎麦屋台、「村正庵」はこの夜、この街から出ていった。
 が、一度燃え始めた恋というものの勢いたるや恐ろしいもので、特に宝燈リコ、というこの女のそれはすさまじく、今まで付き合ってきた歴代彼氏は全てその熱烈な火力に耐えきれなかったのだ。

 昨夜の静けさが嘘だったかのように賑わう駅前広場。長旅に必要になる着替えや私物をボストンバッグとキャリーケースに詰め込み、地図を握ったリコはひとつ呟いた。

「――待っててね、ダーリン」

 至高の蕎麦道を追い求め旅をする蕎麦職人、武智村正と、そんな彼に運命を感じ、どこまででも追いかけんとする恋愛体質な宝燈リコ――村正はまだ知らないが、彼にはこれから末永く騒々しい受難が付きまとうであろう。

 しかしこれもまた一興、と、どこぞの味にうるさい老人は笑うかもしれないが。
1/7ページ
スキ