【完結】斜堂先生とトリップ中学生


 世の中には不思議なものが溢れている。

 人類の起源は神様の気まぐれで、宇宙には数多の生物がいるかもしれない。
 天国と地獄とやらも実在するかもしれないし、空から魚が降ってくるのは宇宙人の悪戯かもしれない。
 生き写しのようなドッペルゲンガーだって、本当は出会ったところで片方が死ぬわけないかもしれない。

 江戸の古文書に書かれた「うつろ舟」はUFOのことかもしれないし、聖徳太子はムー大陸がある地球儀を大事にしていたかもしれない。

 そんな不思議なものが溢れた世界の中で、これだけは声を大にして断言しよう。

 この世に幽霊というものは実在する、と。

「――そんなに死んでなんになる!」

 ゴミを食うネズミと混ざって歩く街、東京の片隅で死んだビル――埃と蜘蛛の巣をくぐって無理やり侵入し、ネット通販で買ってからもうすっかり手に馴染んだ特殊警棒を思い切り叩きつけては鍵ごと壊した屋上へのドア。

 ようやく突破したそのドアを蹴破り、誰もいない空の元に辿り着く。
 真っ黒なセーラー服に切り揃えた短い黒髪――墓乃上みつよは、地上から五階上がったそこに吹く強い風にスカートが揺れるのも構わず声をかけた。

「死ぬだけお前が苦しくなるんだ、もう諦めろ!」

 そう声を投げる先には誰もいない。
 ただただ墓乃上ひとりが立つ屋上だが、それでも彼女は呼びかけるのだ。

 雨風に錆びたフェンスに寄り掛かる、異形の怪異に向けて。

 西瓜のように砕けた頭、それはもうほぼ原型を留めていない。子供に壊された針金人形のようにねじ曲がった手脚――こんな彼でも元は普通の人間だったのに。

 飛び降り自殺を繰り返す幽霊が出るビルがある。

 この噂を教室でたまたま聞いたのは先月のことだった。何度も、何度も、何度も繰返し屋上から身を投げる幽霊がいる、と面白がりながら話すクラスメイトたちの輪に、墓乃上は最初から存在しない。
 教室の中では墓乃上こそが幽霊のようなもの――否、むしろそのほうが良いのに、と思う。

「――ねぇ、幽霊の話ならサギシにしてきなよ」

 その輪の内の誰かが一言そう言った。
 手元の本から視線を上げた墓乃上と彼女、彼らは目が合うなりくすくすと笑ってはまた視線を逸らされた。「嫌だよ、」

「いくらぼったくられるか分かんねぇじゃん」

 サギシ、詐欺師……いんちき霊能力者。

 墓乃上という中学生が短い人生で得た名声と汚名は、どちらも世間に大きなインパクトを残してしまったらしい。

 偶然生まれ持った霊能力をメディアに取り上げられ、毎日のようにテレビカメラの前で霊視をしていた「奇跡の少女」に対し、世間は最初とびきり甘かった。
 幼稚園にすらろくに通えぬ内、派手好きの母親が勝手に出したエッセイはその年一番の売上を成したらしい。
 しかし世間というものはころころ変わるもので、歓楽街でホストを侍らせてはシャンパンタワーに埋もれる母親に、それに愛想を尽かした親父の不倫――最低最悪の組み合わせ。エッセイ本が古本屋でも買取十円になる頃には、墓乃上本人も「家族ぐるみのいんちき霊媒師」「史上最年少の詐欺師」なんていう汚名を勝手につけられていた。

 その汚名を着こなしたままもう何年になるか――それでも墓乃上は「霊媒師」を辞めたつもりではない。

 言い残した無念に苦しむ幽霊たちの話を聞き、応えてやること……それこそが自分ができる、唯一のことだと信じて。

 噂になっていたビルを調べ、関連しそうな事案、事件事故を調べ、ネット上での不確定な噂にも振り回され、ようやく辿り着いた執念のご対面。

 墓乃上の登場に驚いたのか、「彼」は動かず止まったままだ。
 砕けた頭にかろうじて残った口から聞こえる声、言葉を聞くが、そこにもう人格はなかった。
 ……死ぬ、死ぬ、飛ぶ、とだけ繰り返す姿に、墓乃上は己の右手を差し出してやる。「――遅くなってすまん、」

「もう大丈夫だから……お前の無念、私が聞いてやるから……もう現世のことは諦めろ、これ以上お前が重ねて死ぬことはないんだ」

 敵意、悪意がないことを伝えるため、手にしていた警棒は左腰につけたホルスターへ収め、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ歩み寄っていく。
 右手首に巻いた瑠璃色の数珠が曇天の夜の下で鈍く光る。
 世間は、クラスメイトは未だに自分のことを詐欺師だと後ろ指を指すが、そんなことはもうどうでもいい。
 少なくとも自分のこの手に触れたその時、今ここにいる怪異を無念に縛られた現世から切り離してやれるのだ。

 さぁ、その恨みを私に預けろ――。

 「彼」は目の前に寄ってきた墓乃上の手を暫し見つめた。もう眼球など潰れてしまった頭に埋もれた口から流れていた自殺願望も止んだ。

「……お疲れ様。今まで独りで寂しかったよな……大丈夫、安心しろ。私なら綺麗に送ってやれ」

 る。――と、墓乃上が言い切るその刹那に言葉が被る。

 ありがと。

 実体を持たぬ怪異の身が錆びついたフェンスの向こうにすり抜ける。
 差し出した己の手を背け、再度虚しい身投げをせんとするその姿――思わず引き留めようと駆け出した墓乃上の体を、脆いフェンスは受け止めきれなかった。

 ばぎっ、なんて、固くてまずいビスケットを砕いたような、なんとも滑稽な音がした。

「――……えっ、」

 ふらりと傾く視界、背負っていたリュックの重さはふっと消え、悲鳴を上げることすら忘れた口、地から離れてしまった両足――落ちてる?

 落ちてる!

 さぁっ、と引いた血は、この後アスファルトへ汚い花を咲かせるのだろう。

――そんな!
 まさか、まさかこんなことで――!

――世の中には不思議なものが溢れている。

 江戸の古文書に書かれた「うつろ舟」はUFOのことかもしれないし、聖徳太子はムー大陸がある地球儀を大事にしていたかもしれない。

 この世界のどこかには、幽霊を助けようと飛び降り死んだ間抜けな中学生がいるかもしれないし、天国と地獄なんて最初からないかもしれない。

 眩む視界で最期に見たもの。
 それは汚い東京の夜でも光る、右手首に巻いた数珠の鮮やかさ――ただそれだけ。



「――墓乃上さんは、たしか……幽霊が見えるんですよね?」

 ……別に。好きなように決めてください。

「そう言われましても……墓乃上さんの才の有無を決めるのは私じゃないと思いますが……」

 世間が「有る」といえば有ることに成りますし、「無い」って言ったら無いんですよ。

「……そうですか。じゃあ先生は墓乃上さんを信じますので、幽霊は見える、という前提で聞きたいことがありまして……」

 ……なんでしょうか。

「日本には様々な城が残ってますが……そういう所に行った時って、その城の城主が幽霊で残ってたりするんでしょうか?」

 ……はぁ?

「えーっと……墓乃上さんに分かりやすい例え……そうですねぇ、若松城だったら伊達政宗とか、江戸城だったら徳川家とか……」

 そんな昔の幽霊、いませんよ……。

「そうですか……それは残念です」

 ……もし会えたらなんて言うんです?

「んー……お噂はかねがね、とか……」

 なんですかそれ……取引先に行くリーマンじゃないんですから……。

 先生、私の話なんか真に受けちゃってバカですね。
 そんなんだから変わり者って言われるんですよ。
 
 ……でも、まぁ、今回の質問はちょっと面白かったですよ。

「――……いっ、」

 痛ってぇなぁ、という柄の悪い一言も言い切れぬほどの強烈な頭痛。それでようやく目が開いた。
 意識が目覚めきっていないのか、薄らぼんやりとピントが合わぬ視界を直すのに目元をこすりたかったが、動かそうとした右腕は肩から全て痛む上、仲良く左腕も痛みに押し負けていた。

 仕方なく呆然とただただ天井を見上げる形になるのだが――天井?

 ……どこの?

 指先少し動かすだけでも苦難する身体を起こし、やっとピントが合った目で周りを見る。

 ……布団? じゃあ……病院……?
 ……まさか……だってあの時、怪異と一緒に屋上から……「――ああ!」

「良かった、目が覚めたんですね!」

 そう飛んできたのは子供の声だった。
 驚いて固まる墓乃上の側に、眼鏡をした子供がそういって寄ってくる。「大丈夫ですか?」

「凄い怪我でしたけど……あっ、まだ起きちゃダメですよ。傷が開いちゃいますから……!」

 なぜ、子供が……? 凄い怪我……で、済んだのか?

 屋上五階から飛び降りて!?

 おいおい嘘だろ!? この墓乃上、霊能力者として霊視はできても、空中浮遊なんざ……さっ、と冷静になれた理性は再度この部屋を、自分に優しくかけられた布団を見渡しては首を傾げた。「……あの、」

「ここは……」

 ようやくひとつ言えたのだが、丁度間が悪く、心配した顔で側にいた眼鏡の少年は「待っててください、先生たち呼んできますので」と襖を閉めて出ていってしまった。

 ……襖に、畳……変わった入院部屋だな……?
 霊は……ダメだ、頭が痛すぎてなんも視えん……というか全身痛い……。

 痛む頭を押さえようと手を当てると、そこにあったのは包帯の感覚――よく見ればセーラー服から覗く腕や脚にも巻かれている。
 まさか……まさか本当に生き延びたのか……!?

「――どうですか、お加減は」

 部屋に入ってきた声に顔を上げると、温和な顔をした中老の男が入ってきた。
 白衣――ではなく、白い和装に頭巾という奇妙な組み合わせだが、直感的にああ、この人が医者なのか、と理解し、その途端に墓乃上の緊張が解けた。「……ええ、」

「まだめちゃくちゃ痛いですけど……まぁ、なんとか……」

「そうですか、それなら良かった……でもまだ傷が多いので、暫く安静にしないと……」

 側に来た医者はそういって墓乃上の頭や、もう既にじんわりと血が滲んで仄かに染まった包帯が巻かれた腕を前に、「こりゃ酷い」と一言呟く。

「あの、安静って……それじゃあ入院、ってことですかね?」

「にゅういん?」

「親は多分連絡つかんでしょうが……入院手続きとかなら、千葉にいる親戚が来てくれるかもしれません。……ああ、そうだ、保険証……保険証は今持ってるんです。今出しますので……あの、すみません、私の鞄ってここに届いてます……?」

 廃ビルの屋上から落ちたばかりの人間にしては喋りすぎたのかもしれない。怪訝な顔のままなにも言わぬ医者にも困ったが、それでも部屋の隅に見慣れた自分の黒いリュックサックを見つけたのは幸いだ。

 全身打撲、という言葉は今、まさにこんな痛みの状態のことを言うのだろう、と実感しながらなんとかリュックを手元に寄せ、財布を取り出す。
 手持ちは四千とちょっとだけ――いくら保険証があるといえど、救急で、しかも全身大怪我の手当をしてもらった分には到底足りない。
 しかも入院となると、これはもう墓乃上ひとりで対応できる手続きと金額ではない。
 しかしここは病院なのだ。まずは保険証を出さねば――「はい、」

「これ、私の保険証です。どうぞ」

「は、はぁ……」

 差し出した保険証を持った医者はこれまた困ったような顔をしていた。ああ、しまった、保険証って普通は受付で渡すから、今この場で直接渡されても迷惑だったのか――後で自分で受付に行ったほうがいいのだろうか? ……受付?

「……あの、私ここ来た時なんも覚えてなくて……すみません、ここってどこの病院です?」

「病院? ……いえ、違いますよ。ここは忍術学園です」

「にんじゅつ……?」

 学園?
 なんとか医院……とかではなく?
 今度は墓乃上がぽかんと口を開ける番になってしまった。――そうだ、思い出した。

 左腕に巻いたスマートウォッチ!
 これならGPSで今いるこの場所が分かるじゃないか――墓乃上の目に映ったそれは、蜘蛛の巣のようにひび割れ死んだ画面付きのブレスレットとなっていた。
 ――まさか!
 悪い予感に急かされるよう、リュックのポケット――一番取り出しやすい外ポケットに入れていたスマホを恐る恐る取り出してみる。
 無情にも画面にはひびが全面を覆い、どのボタンを押そうがただた沈黙するだけ……まずい、非常にまずい。

 親戚への連絡先は全部このスマホに入っていたのだ。ウォッチかスマホ、どちらかが生きてくれていればまだなんとかなったが、両方死んでしまうとは……否、その中に本来は自分も入って死んでいたはずなのに……。

「お嬢さん、あなたはどこから来たんですか?」

「と……東京ですが……」

「とうきょう?」

 もはやただの不燃ごみになってしまったスマホとウォッチを手に呆然としていると、医者が保険証を返してくる。「すみません、」

「ほけんしょう、でしたかな……これは一旦お返ししますね」

 医者のくせにそう不思議そうに言って返してくる状況に、墓乃上の中に這う違和感が不穏な色を帯び始める。
 白衣ではなく和装の、保険証も知らぬ医者――医者?
 本当にこの人は医者なのか?
 そもそも襖に畳なんていう病室なんて……ここは病院じゃない?

 ここは忍術学園です。

 学園? 屋上から身投げした奴が……なぜ?

 渦巻く不安と違和感に黙っていると、傷が痛んだのか、まだ寝てたほうがいい、と真っ当な心配と気遣いを向けられた。
 しかし今はその心配すら不気味なのだ。どこかも分からぬ奇っ怪な和室で安静にしろ、と言われて落ち着いてられるものか――単純な外傷ではなく、不安と不信感から来る警戒心に頭痛を感じていると、再び襖がすとんと開き――そこにいたのはさっきの子供と――「斜堂先生……!!」

 くるくるうねった長い黒髪をひとつにくくり、青白い肌と猫背な痩身長躯――なぜか着物を着ているのは不思議だが、日々学校で眺めていたその姿を前に、押し潰されてしまいそうなほど重苦しかった全身の痛みが一瞬でなくなった。

 全身包帯だらけ、傷だらけの人間とは思えぬ勢いでその姿の前に寄る。「先生……!」

「な、なぜ先生がこんなところに……はっ、もしかしてこの墓乃上、なにか先生にご迷惑おかけしたんじゃ……すみません先生、でも別に自殺……とかじゃなくて、怪異を追っている内の事故でして、……まぁ、その、親が来ないのはいつものことですが、まさか先生がわざわざ来てくださるなんて……!」

 この墓乃上、生き延びてよかったと心から思えました!

 正座し両手を合わせ、その血色の悪い顔へ思い切りの感謝を口にする。
 ああ、ああ! 本当に……本当になんたる幸福!
 傷の痛みなんぞ些末なこと!
 今の墓乃上にあるもの、それはなによりもの多幸感――しかしそれを砕いたのは、墓乃上からの感謝を向けられた本人だ。

「えっと……すみません、どこかでお会いしましたか……?」

 蚊の鳴くような、細く小さい声が――忘れることなどできない、毎日学校で眺めていた姿がそう問うてくる。

「へ……?」

 思わず気の抜けた、なんとも間抜けな声が出たが――人間、あまりにも混乱やショックが大きいと、脳は自動的に都合のいい解釈を提出してくれるらしい。

「はっ、……はは、先生、なんです、そのお姿……着物だなんて……いや、よく似合ってますが……だからって別人みたいになりきらなくても……ふふ、先生もこういう冗談言うんですねぇ」

 しかしこの私には通じませんよ、と立ち上がろうとした肩を掴んで制止したのは医者のような彼だった。
 いたたまれない、といった顔で彼が言う言葉――「お嬢さん、」

「斜堂先生をご存知なんですか?」

「ご存知? 知ってるもなにも……うちの学校の先生ですよ、よくお世話になってまして……」

「その学校というのは……」

「え? 普通の都立中ですよ」

「……人違いだと思いますが、」――意図が分からぬ医者とのやりとりに苛立っていると、墓乃上が「先生」と敬愛を込めて呼んだ彼から言われてしまう。

「ま、まだ頭の傷が痛くて混乱してるんですよ」

 もう少し休みましょう、と墓乃上の右手を引いたのは頭巾を被った眼鏡の子供――右手首に巻いた瑠璃色の輝き、なによりも大事な数珠。あの人が、「先生」がくれた唯一の数珠――ちょっとごめんね、と子供の手を軽く払うと、そんな自分の様子を困ったように見る医者が言うのだ。

「お嬢さん、いいですか? あなたが言う先生と、こちらにいる斜堂先生は、多分そっくりの別人かと……」

「はぁ? バカ言わんでくださいよ、こんな顔色悪くて、神経質そうな顔してて、こんなに猫背な教師がそうそういるわけないじゃないですか」

 冗談でしょう? とひとつ鼻で笑ってやりたかったが、医者も、子供も、「先生」も、みな揃って墓乃上を奇異の目で見て――今までの人生で飽きるほど味わったその目に思わず、墓乃上は自然と腰に着けた特殊警棒のホルスターに手をかけ、ロックを解除していた。

 私の救いは「先生」だけ――でも「先生」が自分を知らないと言い出して側にいないなら?

 さぁ愛しの相棒、カーボンスチール警棒よ、全てを壊して「先生」を取り戻そう。



「――……バカにしてるんです?」

 ようやく言えた一言はなんともシンプルな一言だった。

 保健室、という名がついているこの和室の中で、保健医だと名乗った新野と「先生」が並んで座り、墓乃上はその対面で頭を抱えていた。
 墓乃上の殺気か、敵意を感じたのか、あの眼鏡の子供はこの「学園」とやらの寮に新野が帰したらしい。

 そうして三人での話し合いが始まったのだが――話し合い、ではないかもしれない。新野から丁寧に説明される話を素直に信じろ、というには無理だ。

 今ここにいる「和装の先生」がたまたまこの近くの山奥で倒れていた上に、全身怪我だらけの自分を見つけてはここの保健室に運び込んできたらしい。

 墓乃上が自身の記憶と正気を信じるなら、自分は東京の濁った夜空の元で死んだつもりだったのだが――しかしそんなことは些末なものよ。

 この学園とやらは忍術――忍者に成るための専門学校らしく、今目の前にいる「先生」はこの学園に務める教師らしい。
 名前を訊けば斜堂影麿、と何度も何度も聞き慣れた名前が返ってきたのだから思わず笑ってしまう。「……斜堂先生、」

「あんたいくら現実が嫌だからって……いや、前々から現実逃避する癖があるのは知ってましたが……こんなところで忍者ごっこに教師ごっこなんて拗らせすぎでしょう。そりゃ先生は日本史大好きですし、こんな……映画村? みたいな場所、最高に面白いのかもしれませんが……さっさと東京に帰りますよ」

 すみません、触りますよ、と潔癖症の彼に一言断り、その白い腕を掴もうと寄ったが避けられた。「いけません、」

「そんな怪我で帰せるわけないでしょう」

「……安心してください、先生。こんな訳の分からん場所から出たら適当に普通の病院行きますよ。……だからほら、先生も帰りましょう」

「お嬢さん、だからその先生はあなたが知っている先生じゃ……」

「はぁ……まだガキみてぇなごっこ遊びにこの墓乃上と先生を付き合わせるんです?」

 まだホルスターに収めたままだが、もう既に警棒のグリップを握る左手に苛立ちと力が入る。
 なにも別に殴り殺そうなんて微塵も思っちゃいない。そんなことしたら先生が困るに決まっている。
 威嚇手段として持ち、邪魔な障害物があれば叩き壊して、すっかり現実逃避に夢中になりすぎている先生を連れて帰るだけ――帰る? どこに?

 ふと湧いた疑問と不安に言葉が詰まる。
 そうして絶対唯一の救いである「先生」の存在すら危うくなったこの現状に、身体は傷ついた怪我の痛みを被せて墓乃上を苦しめる。「――はかのうえさん、でしたかな」

「とりあえず今夜は大人しくしとかないと傷が開いて……」

「や……やかましい! なんなんだ、どいつもこいつも……! この人は私のっ……私の先生なんだ! 先生は優しいからお前たちに付き合ってやってるだけなんだ!」

 ねぇ、そうでしょう先生? さぁ、この墓乃上と帰りましょう? 大丈夫、嫌なことがあっても私が聞きますから……傷口から血が滲む、混乱に涙が滲む。
 唯一の救いに縋り寄り、その綺麗な手を両手で握ると、今度は拒絶されなかった。
 それでも見慣れた、毎日学校で眺めていたその穏やかな顔が首を横に振る。

「……すみません。私はここの一年ろ組、教科担当の者ですので……」

「まだ……まだ言いやがるか……!」

――世の中には不思議なことが溢れている。

 この世界のどこかには、幽霊を助けようと飛び降り死んだ間抜けな中学生がいるかもしれないし、天国と地獄なんて最初からないかもしれない。

 天国と地獄なんて信仰上の産物であって、存在しないと思ってたのに――紛れもない、今いるここが地獄だ!

 最愛の教師が、なによりも、誰よりも見つめてきたその姿で自分を知らない、と否定する地獄――こんな人、斜堂先生じゃない!
 先生の形をした地獄なんだ!
 奇異も、偏見もなく、自分をひとりの生徒として信じてくれたその人の姿で――「いい加減にしろ!」

「よく分かったよ! お前が先生の偽者なら叩き壊して……あれ、えっ、」

 かっと巡り昇る血に合わせて警棒を振り抜き、無情なカーボンで成された破壊力を向けようとホルスターへ手をかけたその時だった。

 あるべきグリップが……警棒がない!

 なぜ? さっきまで……ついさっきまであったはずなのに……たしかにホルスターのロックは解除した。が、だからといってそう簡単に落ちるものではないのに――!

「――……これですか?」

 腰回り、足元を見ては困る墓乃上へ一言聞かれた。
 その声に見上げると、「偽者」の手が、まだ折りたたまれた状態の警棒を持っていた。――「あっ……!」

「すっ……スリやがったな! いつの間に……! てかなんで分かったんだよ!」

「あんなに殺気立って構えようとしてたら分かりますよ……これ、見たことありませんが武器ですよね?」

「返せよ偽者! 仮にも教師がスリなんていいのかよ!」

「子供が危ないものを持ってたら取り上げるのも教師の役目です。……そろそろ虚勢を張るものお止めなさい」

 ……虚勢? 虚勢だって?
 警棒を取り返そうと手を伸ばすが、大人しい顔をしてその着物の懐へ没収されてしまった。
 勢い余って転んだ上に、身体中あちこちにある傷に響いてはその痛みに立ち上がるのも難儀する。

「ほら、言わんこっちゃない……薬を塗るから、一旦包帯を……」

 忙しく寄ってきた新野の手を払う。
 呆れたように、困ったように、……心配するように見下ろしてくる偽者の言葉に、もうほぼ折れかけている心が言い返す。「……しょうがないだろ、」

「独りなんだから……」

 墓乃上からすれば、今いるこの世界だって訳の分からぬ孤独な地なのだ。
 だからといって怪異を追ってはその恨みを引き受けんと翻弄していた東京だって、ずっと独りでいたようなものだ。

 詐欺師、いんちき霊媒師……どうしようもなくくだらないレッテルがべたべた貼られた汚い道。

 そんな道を独りで歩いていた時に出会えた理解者を唯一の救いにしてなにが悪い?

 日本史担当、一年二組担任教師の斜堂先生――「世の中には不思議なことが溢れてるんですよ」

 日本史というものは事実の積み上げだけで構成されたものではなく……結構オカルトな部分もあるんですよ。
 「うつろ舟」とか、「聖徳太子の地球儀」とか……まぁ、たしかに後世に作られたイタズラの可能性だってありますが、それでも「あったらいいな」とロマンを感じることも結構楽しくて……。

 私には霊感、というものがないので、墓乃上さんの能力の有無を正確に知ることはできませんが……それでも、私は墓乃上さんに霊感が「あったらいいな」とも思いますよ。
 墓乃上さんなら、その力で困っている人や幽霊を助けられる……そう思ってますから。

 そう信じてくれたあの人がいない教室に、世界に意味なんてない。
 どこに行ったって独りなら、東京にいようが、この訳の分からない世界にいようが、大した違いはないのかもしれない。「……独りにはしませんよ、」

「その怪我は新野先生がちゃんと見てくれますし……それに、ほら、」

 彼はそういって襖を少し開けた。
 するとずっと覗き見していたのか、先程この部屋で目覚めた時に出会った、眼鏡をかけた男の子が出てきた。

「ご、ごめんなさい、つい心配で……」

「……この子は保健委員の子なんです。はかのうえさん、でしたっけ……あなたのこと、ずっと気にしてましたよ」

 ふらつく頭でなんとか身を起こし、さっきまでは荒んだ言葉しか言えなかったが、その子に向けてはなによりも素直に礼を言えた。「……ありがとう、」

「助かったよ」

「いえいえ! 怪我してる人は放っておけませんから……!」

「……これで分かったでしょう? これでもまだお独りになるつもりですか?」

 新野から丁寧に巻かれる包帯、身を案じずっと隠れ見てた少年に、心の底からなによりもの救いだと信じ、敬愛していた恩人と同じ名と姿、か細くも落ち着いた声で聞いてくる教師――ダメだ。勝てない。

「……私はあんたを『先生』だと思っていません。私の『先生』はあの人だけ。……でも……」

「でも?」

「あんたと一緒にいたら……まぁ、怪我が治るまでぐらいなら、大人しくしてやってもって思える……気がします」

「……そうですか」

――世の中には不思議なことが溢れている。

 この世界のどこかには、幽霊を助けようと廃ビルの屋上から飛び降りた間抜けな中学生がいるかもしれないし、飛び降りた先ではなぜか忍者の専門学校で怪我を診てもらってるかもしれない。

 そして、そこで出会った教師は自分が憧れた愛しの教師の生き写しみたいな奴かもしれない。

 そもそもここは東京でも令和でもなく、日本史の教科書には「室町」と書かれている時代だったりするかもしれない。

 霊能力者、墓乃上みつよ――彼女は不思議なものだらけの世の中で、無事に東京へ帰ることができるのだろうか。

 (おまけに没収された愛用の警棒を取り戻すことができるのだろうか?)

「……もう使おうとしないからそれ、返して」

「さっきの武器ですか? ダメです、暫く預かりますので」

「……けち」

 「先生」によく似て大人しく、臆病に見える「偽者」は、そういってはっきり墓乃上の言葉を一蹴した。

 あーあ、やってらんない……半分諦め、半分投げやりになった墓乃上は、今まで己の虚勢と警棒を収めていたホルスターのベルトを外し、もう用済みだと自分のリュックに向けて放り投げた。
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