斜堂先生とオカルトくノ一女生徒


――初めて覚えた日本語は、「お嬢」だった。

 陰鬱で暗く、人どころか蛇すら寄り付かない寂れ荒れた墓場で、みんなにそう呼ばれて育った。
 「みんな」には男も女も、子供も、遠い国から船で来たと話す南蛮人のおじさんだっていた。
 そんな愉快な「みんな」――自分の家族は、どうやら他の人間には見えない「幽霊」だということに、物心つくまで気づかなかった。

 一応両親らしき人間もいた。
 お世辞にも寺とは呼べない朽ち古びた家に、枯れ木に手足とボロ布をくっつけたような人間がふたりいたが、そのどちらもあまり口を利かなかったのだ。
 日がな一日中、死んでいるのか、生きているのか分からない黒い目でじっと床板のシミを見つめているだけの人形かと思えば、時たまどちらも口汚い言葉をしゃがれた声で叫び合っていた。今思えば、あれは彼らなりの夫婦喧嘩というやつだったのだろう。
 それにどんな意味があったにせよ、子供からすれば退屈なことに変わりはない。いつしか自然に、家の裏手にある苔だらけ、雑草と蔓だらけの墓場を遊び場にしていた。

「お嬢、おはよう。今日はなにして遊ぶ?」

「ねぇ、そこの道端に千切れた縄が転がってたよ、縄跳びにでも使ったら?」

「お嬢! 今日はツイてるぞ! お供え物のまんじゅうがある! ほら、カビねぇうちに食べな!」

 そう、家には「よく分からない両親らしきなにか」しかいないが、墓場にはいつも楽しく、優しくしてくれる「みんな」がいたのだ。
 自分が生まれ育った村のお祭りの話、美味しいお菓子の話、桃太郎が鬼退治に行く話、「海」というものの向こうにある国の話――みんなそれぞれ、毎日毎日面白おかしく聞かせてくれたあの日々を、今だって夢に見てしまうぐらいに恋しくてしょうがない。

 他人から見れば、あの墓場には自分ひとりしかいないのだろう。
 しかし自分からすれば、どこよりも賑やかで、楽しくて、いつしか両親らしきなにかの片割れがどこか行ったっきり帰ってこなくなったことにも気づかないほど、孤独とは無縁の場所だった。
 そしてしばらくしない内に、残った片割れもどこかへ行ってそれっきりになってしまった。
が、大して気にならなかった――というより、世話焼きおばちゃんの幽霊に訊かれるまで気づかなかった。

「お嬢、そういやアンタのかかあどこに行ったね?」

「いいよいいよ、あんな干物、放っておけよ。いたってお嬢になーんもしてやらねぇだろ、あいつ。死体みたいに気味悪かったしよぉ」

「そうそう、死んでるオレらのほうがよーっぽどいきいきしてるよなぁ!」
 
 その言葉にみんなで笑ったのをよく覚えている。
 その頃には墓場のお供え物の他に、簡単な仕掛け罠で雀を狩り、木を擦って出た火で焼いて食べ、怪我をすれば薬草を選んで使ったりと、なかなか人間に近い生活をひとりで送れるようになっていた。
 が、それは全てこの墓場の幽霊たちが一生懸命に教えてくれた知恵であり、幽霊よりも死人らしい親なんていらなかったのだ。

 親だから、人間だからと無条件に愛されるわけなんてないのだ。
 物理に触れられぬ魂だけのか細い存在でも、自分のことを想って泣いて、笑い、心の支えになろうとしてくれる幽霊たちを、家族と呼ばずになんて呼ぶものか――みんなに恩返しがしたい。

 自分という人間が今、最低限食うに困らず生きているのはみんなのおかげなのだ。
 幽霊とは違い、物にも触れるし、その気になればどこまでだって遠くへ行ける。そんな自分だからこそできる恩返しとは――一晩、二晩、ずっと寝ずに考えた。

――その時、南蛮人のおじさんが話していた「女の忍者」という話を思い出し、月が曇り空で霞む夜、ボロボロとヒビ割れが走る墓石――いつも自分が椅子代わりに腰掛けていたそれを見てはそこに立ち、迷わずに声をかけた「――みんな、」

「聞いて欲しい話があるんだ」

「ようお嬢。どうしたんだい、こんな夜更けに話なんて」

「怖い夢でも見たか?」

「お嬢、アンタ明日街に薬草売りに行くんだろ? 早く寝なくていいのかい?」

 心配そうに寄ってくるその顔を見ていると、いや、なんでもない、と言ってしまいたくなるほど決心が揺らぐ。
 しかし、自分が彼らにしてやれる恩返しを果たすには、もうこの道しかないと決意した心をきっぱりと告げる。

「――私はこの墓から出て、女の忍者というやつになって、うんとお金を稼いで、いつかきっと……いや、絶対にこの墓場を綺麗にしたい。そうしたらもっと墓参りに来る人が増えて、みんなも寂しくなくなると思うんだ!」

 幽霊たちはみな、驚いた顔でざわついていたが、中でも一番驚いていたのは南蛮人のおじさん――この人は昔、うんと遠い国からやってきたガクシャさん、という人だった。
 特に、この国にしかない言葉や文字、色々なことを知りたくてやってきたらしく、それでも病気になって死んでしまい、無縁仏としてこの墓地に住みついている。
 そのガクシャさんはここにいる誰よりも物知りで、「女の忍者」というものの存在を教えてくれたのも彼だった。

 夜に紛れ、溶け込み、時には相手を騙し、戦い、雇い主人のために暗躍する者には、男だけではなく女もいるのだと聞いた。
 その時はあまり実感できないお伽話のようなものだったが、今は違う。
 それだけ専門的かつ、高度な技術が必要となるなら、きっとその分得られる報酬も大きいのではないかと、夜更けの寒さも忘れるぐらい真剣に自分の考えを説明してみる。

 大きなことを成すには人が、金が、それを集め、動かすための実力と信頼が必要なのだ!

 それらを今から集めるために、自分は忍になってより多くの仕事を得ないといけない。

 墓参りというものは、そこで眠り、漂う死者との対話の場だ。
 このままではいつかこの朽ちた墓場は、世の中の人間から忘れられた場所となり、人ひとり来ない墓場でずっと存在する幽霊たちは、死んで意識を断つこともできぬ霊体でずっと現世に縛られるのだろう。そんなこと、あまりにも酷で可哀想じゃないか。

 生きているか、死んでいるか、たったそれだけの違いなのに、誰からも見てもらえず、話せず、触れられず、自分の存在なんて最初からなかったように現世が進むのを見つめるだけしかできないならば、せめて場所ぐらいは心を込めて綺麗にしてやりたい。この墓場を綺麗に再建することが恩返しになると信じている――そう言い終えた時、誰よりも泣き虫な少年の霊が首を横に振った。「ボクは嫌だ、」

「お嬢、そんなこと言わないでよ……今までみたいにお嬢がいれば、ボクたち寂しくなんかないよ」

「そ……そうだよ! こんな場所のために、わざわざお嬢がそんなことする必要ないんだぜ? 第一、忍者になるって言うけどどうやってなるんだよ」

「……場所はまだ知らないけど、忍者になるための寺子屋があるって聞いたことがあるんだ。私はそこに行くよ。そこで人間と一緒に特訓して、誰よりも凄い忍者になる」

――生きている内にしかできない恩返しをするために、必要なことがたくさんある。
 だから待たないし、止めない。
 正直私も怖いけれど、それでもやらなきゃいけないことだと思う。

 もう賛成とも、反対とも言われなかった。
 みんな困ったように顔を見合わせて、弟、妹のように可愛がっていた子供の霊たちは泣いていた。

「――……お嬢、人間の寺子屋に行くなら、人間の名前がいるだろう?」

 この墓場一番のじいさん、みんなで長老と呼んでいた彼に言われ、そういえば、と思い出す。
 今までずっとお嬢、と呼ばれていたから、新たに名前が必要だなんて気が付かなかった。

「おい長老、本当にお嬢をよそに行かせる気かよ」

「……考えてもみろ、お嬢はワシらと違って生きているんだ。ここままずっと墓場でひとりでいたら、お嬢は人間なのに、いつか誰からも人間扱いされなくなるだろう。……あんな親しか人間を知らないなんて可哀想だろう……だから、もっと外の世界で人間とお話してこい、お嬢。どうやって恩を返していくかなんて、後で考えても罰は当たらん」

「……長老、ありがとう。私、みんなからもらった名前を背負って、必ず一人前の忍者になるよ」

 よし、みんな、お嬢のために人間の名前を考えてやろうじゃないか――長老のその一言で、さっきまで別れの辛さを飲み込んでいたような顔をしていたみんなが、わいのわいのと楽しそうに名付けの相談を始めた。
 その中、ひとりそばに寄ってきたのは南蛮人のガクシャさんだった。彼は言いにくそうに、それでも落ち着いた口調で話す。

「お嬢サン、寺子屋に行くなら、もっと読み書きを覚えないと大変ですヨ」

「読み書き?」

「そう、それにこの国の言葉はとっても難しくて、自分より偉い人……えーっと……例えば、勉強を教えてくれる人には、『ケイゴ』でお話しないといけませんヨ」

「けいご?」

「人間で大事なのは話し合いデス。もっと読み書きやお話の仕方を勉強したら、きっと寺子屋に行っても大丈夫デス! お嬢サンならきっとすぐに仲良しになれると思いマス!」

「そっか……なら、ガクシャさん、私に読み書きを教えてくれ! ガクシャさんは本読んだり、文字書けるよな? 寺子屋に行っても困らないようにしたいんだ!」

「そうですネ……なら、少しここに残って勉強して、それから寺子屋に行ったほうが良いと思いますヨ。それに、この国の文字はとっても不思議で、それぞれにちゃんと意味があるんデス。……お嬢サンが勉強したら、きっと、今みんなが話合って決めている名前の意味も分かると思いますヨ」

「文字と……名前の意味、かぁ……」

――その日から、人間として困らないようにと言葉の勉強が始まった。

 皮肉なことに、その墓場で一番日本語の読み書きができるのは南蛮人のガクシャさんだけだったのだ。
 その他のみんなは、そもそも読み書きの手習いをやったことがないという者ばかりだった。

 その代わり、みんなは自分から隠れて名付けの相談をまだしていたようだ。
 なんでも、自分がこの墓場から寺子屋へ出発するその日にお披露目したいらしく、普段は気まぐれで通りかかった旅人を驚かせて遊ぶような彼らが、自分と目が合うとコソコソと墓石に身を隠す姿は可愛らしく、寂しくてどうしようもない夜はいつも思い出してしまう。



――その日は、とても良い夜だった。

 雲がかからぬ満月の真っ直ぐな光が、鬱蒼とした墓場さえも綺麗に照らしていた。

 風呂敷包に薬草、保存食にと街で買った味噌と漬物、それと着替え――といっても、ボロの端切れを合わせたようなものだが、ないよりはマシだろう。それに合わせて、薬草や狩った雀などを売って集めたなけなしの金を大事にしまう。
 ついでになにか売れるようなものはないだろうか、と、今にも崩れそうなぐらい床板や柱が腐っている家の中を改めて見ていく。
 雨風に吹きさらしだったこの家に、壁なんてあるようでないようなものだ。蝋燭ひとつ使わずとも部屋を歩ける明かりをもたらす月をありがたく思う。
 裏手に墓場があるのだから、この家は多分寺なのだろう。が、仏像どころか線香の欠片すら落ちていない。
 落ちているのは雨漏りした水と埃、あとは虫の死骸ぐらいか――今まで寝床にしてきたが、まぁ我ながら酷い家だと呆れていると、雨漏りで腐った畳を踏み抜いてしまった。
 そんなに深く踏み抜いたわけではないが、その湿った感覚が気持ち悪くてすぐに足を引き抜く。

 これから出発だというのに、なんて幸先の悪い――ため息をつき、その穴を見てみる。気のせいでなければ、土に埋もれたなにかがきらりと光ったように見えた。
 なんだろう。小判とかならありがたいが、こんなボロ屋にあるわけがない。大方割れた皿の欠片だろう――そう思いつつも気になるものは気になる。
 指先で土をかき分け、その「なにか」を掘り出した時、再度ため息をついていた。しかしそのため息は、人間が美しいものを見た時のそれだった。

――なんて綺麗な数珠なんだ。

 今さっきまで土に、腐った畳の底で埋もれていたのに、その珠ひとつひとつが月明かりに共鳴するように輝いていた。

 なぜこんなものが、こんな家の床にあるのか――不思議だとは思うが、そんなことどうでもよかった。
 旅の荷物とその数珠を手に、出発の別れを告げるために墓場へ戻った。数珠のひんやりした感覚と、旅への不安、みんなとの暫しの別れに熱くなる自身の身体の熱を感じる。「――みんな、」

「集まってくれてありがとうございますネ」

 そう言っていつもの墓石に立ち、それぞれの顔を見ていく。
 南蛮人のガクシャさんから読み書き、敬語の話し方を教わる内、彼と同じように少し変わった話し方になってしまったが、それでも幽霊たちはからかったりなんかせず、いつもは明るく賑やかなその口を閉じていた。

「――私はこれから、忍者になるためにここから遠い寺子屋で修行してきます。いつここに帰るかは……今は分からない。でも安心してくださいヨ! 私は絶対にここに戻ってきて、忍者になって稼いだお金で、この墓場をうんと綺麗にするから……! だから……だからみんな、私のこと、信じて待っていてほしい」

 泣くまいと心に決めていた。

 これから修行を積んで立派な忍者になろうという者が、生まれの場所を離れるからと泣くのは甘いじゃないかと思っていた――が、本当は不安でしょうがない。
 今までずっと、心と人生の支えは彼ら幽霊たちのみんなだった。その代わり、人間というものがよく分からないまま生きてしまった。
 たまに薬草を売りに街に降りる時もあったが、その時に見かける人々の存在は、自分の中で「よく分からないもの」になっていたのだろう。あの両親であろうなにか、しか、身近な人間がいなかったから。

 しかし、今から自分はその人間として溶け込み、生きていくのだ。
 不安だと泣いてもしょうがない――気がつけば、先程見つけたばかりの数珠を固く握りしめていた。「――お嬢、」

「その数珠どうしたんだい?」

「あら、凄く綺麗ねぇ! 生きてたら私が使いたかったわ!」

「お前が使っても豚に真珠ってやつだろう?」

「まぁ失礼しちゃうわ! お嬢、間違ってもこんなこと言うような男とは付き合わないでね!」

「そうそう! お嬢、人間に泣かされたらいつでも帰ってきな! オレたちみーんな、お嬢の家族なんだから!」

 家族、という言葉にうなずく。
 そうだ、今から私は家族のために頑張るのだ。
 胸を張れ、元気に行け、家族に恩を返すという人間らしい感情を、自分が自分でくじいてどうする――!

「この数珠、さっき家の床下から見つけたんです。なんでそんな所にあったのか分かんないけど……でも、お守りとして持っていきますネ」

「そうかい……お嬢、数珠もいいが、ワシらからの最後の贈り物……受けっ取ってくれ」

 みんなが目を見合わせ、息を飲み、長老が言う最後の贈り物――そう、名前だ。
 これから先、自分が人間として背負っていく名前――「お嬢……いや、お前さんの名前は、」

――墓乃上みつよ。



 立派な女の忍者――くノ一になるために、忍術学園の扉を叩いたところまではよかった。
 それこそ最初のほうは、この中の誰よりも一番優秀になってやるのだと自信に溢れていたが、それは思っていたよりも早く崩れてしまった。

 人間――特に同世代の同性と関わったことがないため、そもそもクラスに打ち解けることができなかったのだ。
 修行と言っても全てひとりで行うものではなく、むしろ円滑に課題をこなしていくことに必要不可欠なものは他人との対話。
 幽霊相手にいくら話せても、今目の前にいる同級生相手に話せないならなんの意味もないのだと思い知るのに、大した時間はかからなかった。
 同級生たちが好きなもの、嫌いなもの、面白いもの、家族の話――その内なにかしら気が合えばよかったのだが、墓場生まれ、墓場育ち、家族は幽霊、という自分を話せる相手など、いるわけがなかったのだ。

 おまけに、読み書き敬語を熱心に教えてくれたガクシャさんの癖が移り、それは他人から見ると「南蛮訛り」という変わった話し方らしい。
 彼女ら本人に悪気はなくとも、口を開く度に集まる視線に耐えられず、気がつけば学園内で喋ることは減っていった。

 人間だから、同級生だからと無条件に仲良くできるわけがないのだ。
 もしかしたら、自分はそもそも人間じゃないかもしれない。
 猿に育てられた赤子が大きくなり、木ノ実を手掴みで食べ、風呂には入らず毛づくろいをして、木に登って過ごし、四足で歩いたり走ったりしていたら、それはもう人間とは呼べないのではないだろうか?
 幽霊に育てられた自分は、人間の肉体をかろうじて持っているだけの幽霊で、本当は人間と関わっていい者じゃなかったかもしれない。

 真夏の尖った日差しは、弱った心に刺さるにはあまりにも痛すぎる。
 賑やかな放課後、それぞれが思い思いに課題へ向かったり、お喋りに花が咲く中、気がつけばそれらから逃げるようにひとり、敷地の隅に見つけた洞穴に籠もって膝を抱えていた。

 岩壁を横に削ったようなその穴は、どこかの学年が訓練かなにかで作ったものなのだろうか。
 よくは分からないが今は特に使っている様子もなく、ありがたく入らせて頂いたのだ。

 夏の日差しも、校庭での楽しそうな声も遮ってくれるその場所で声を押し殺して泣いた。
 泣いたところで、誰が今までの境遇を聞いて、理解してくれるものか――無駄だとは思いながらも、泣かずにはいられなかった。

 そうやってしばらくすると、小さな声が聞こえた気がして顔を上げた。「あの……」

「大丈夫ですか……?」

 気のせいかと思えば、いつの間にか隣に同じく膝を抱えた男がいた。
 小さく背を丸め、色白、というには死人に近い青白い肌、ひとつに結った長い黒髪は、この薄暗い洞穴にこの上なくお似合いだった。
 泣くことに夢中で気配に気づかず驚いてしまったが、その姿に安心感を覚えた。「えっと……」

「この学園にも幽霊っていたんですネ……初めて見つけましたヨ」

「え、いや……」

「幽霊って活気溢れる場所が苦手なので、この学校にはいないんだなーってがっかりしてたんですヨ」

「……幽霊がいたほうがいいなんて、珍しいですね……」

「……むしろ、会えなくて寂しいぐらいですネ」

 あの夜、お守り代わりに持ってきた数珠を手に、その一粒一粒に涙を降らせるように泣いてしまった。
 迷子になってしまった子供が母親を見つけた瞬間に大泣きするように、久しぶりに幽霊という存在に会えた嬉しさと安心感に、もうどうしていいか分からなかったのだ。

「……今日は天気が良すぎて……あまり外にいたくないんです。あの……私で良ければ話聞きますよ……」



――生まれの墓の話、両親の話、あそこにいたたくさんの「家族」の話、彼らへ恩返しをしたい気持ち、彼らがくれた自分の名前の意味、同級生たちとどう接していいか分からない話……隣りにいる彼は、黙ってそれらを聞いてくれた。

 墓の上に立つ、丑三つ時の女王――という大層な名前をもらったが、暗い穴の中で丸くなる情けない姿は、女王というよりダンゴムシに近い。 
 正直もう限界だったのだ。
 人間の同級生たちには到底話せない過去を聞いてくれる――今ここにいる幽霊にしか言えない感情を一通り語ると、少し胸が楽になったようで、それと同時に彼への申し訳無さを感じた。「……すみません、」

「ずっとこんな話して……私、情けないですネ」

「いえ……墓乃上さんのご家族への気持ち、素敵だと思います」

「ふふ、そう言ってもらえると、なんだかもっと頑張れそうな気がしますネ……幽霊さんは、もうずっとここにいるんですカ?」

 ここにずっとひとりだと寂しくないかと聞くと、彼は困ったように首をかしげる。「いえ、その……」

「すみません……私まだ生きてるんです……」

 元々気弱そうな顔がうつむき、申し訳無さそうにそう呟く――が、驚きはしなかった。
 「自分が死んだ」という事実を認識できないまま幽霊に成る者もいる。自分はまだ生きているのだと信じてはいるが、遅かれ早かれ自分の死を認識しないと成仏などできないのだ。

 長く居座っていた太陽も暮れ、暑さもようやく落ち着いた外へ穴から一緒に出てみるも、やはり生気が薄いその顔に、姿に、思わず「可哀想に」と呟いた。

「自分の死を自覚できてない霊っているんですヨ……みんなそうやって、自分は生きているって言うんですけどねェ……」
 
「すみません……あの、私ここの教師なので……本当に生きているんです……これでも……」

「ああ、せんせーの幽霊だったんですネ……なるほど、道理で学園内にいるわけですネ」

「まぁ……よく言われますけど……」

 身の上話を聞いてくれた彼へできるお礼――それは、自分の死を自覚させること。
 いつまでも自分を人間だと思い込みながら現世にいると、稀に人を呪う悪霊になってしまう。
 そうなる前に、自我がまだしっかりある内に自覚させる方法を、自分はもちろん知っていた。

「本当にすみません……でも、ほら、私の手が身体をすり抜け――」

 長身の彼の目の前に立ち、少し背伸びをし、自身の右手を軽くその肩へ振り下ろす。
 鍋から上がる湯気を掴むようにすり抜けるはずの右手は、そのまま肩に触れ、そこで止まった。

「――え?」

 意味が分からなかった。

 どう見たって幽霊だと思ったのに、振り下ろした右手にはしっかりと人間の身体の感覚がある――そう、霊にあるはずがないもの、肉体が!

「じっ……実体がある……!? えっ……なんで……!?」

 混乱して固まる自分の姿に、彼は安心したように少し笑った。「ようやく分かって頂けたようでなによりです……」

「挨拶が遅れてすみません……私、一年ろ組の教科を担当してる、斜堂影麿といいます……」

「え、本当にここのせんせー……? いや、でも服装が……」

「ああ、出張帰りだったので……これは私服です」

 もう言葉にならなかった。
 今目の前にいるのは紛れもなく人間、という事実に頭がやっと追いついた時、一瞬にして顔は青ざめ、頭を下げていた。

「もっ……申し訳ありません! せんせーの方に失礼なこと言ってしまって……!」

「別に構いませんよ、慣れてますし……さて、日も暮れましたし帰りましょうか」

 暗いですし、足元気をつけてくださいね、と気遣う教師に、思わず問いかけていた。「気持ち悪いとか思わないんですカ?」

「縁起が悪い、気味が悪いって……」

「さぁ、特には……なぜです?」

「……人間って、お墓とか幽霊とか、そういうの嫌うじゃないですカ」

「まぁそういう方もいるとは思いますが……先生は特にそう思いません」

 私が嫌いなものは、日差しとか汚れとか……虫とかも嫌ですね……それに比べれば幽霊って、部屋汚したりしないからいいですよね。

 か細い声で呟かれるその言葉に、幽霊に支えられたこの人生で初めての理解者を得たのだと、胸を射抜かれたような衝撃を感じた。

 人間というものは死を嫌う。
 それ故、縁起とかなんとか、そういった曖昧なものを信じ、墓場や幽霊を忌み嫌い、まるで元から存在していなかったかのように己の生活から排除するのだ。
 これからこの学園で人間として生きる以上、そういった話――つまり、自分に関することはほぼなにも話せないのだと寂しく、辛く思っていたが、そんな自分の話を聞いて、なおかつ否定も排除もしない人間に巡り会えるなんて!

――ねぇガクシャさん、この文字はなに?

――それは「こい」……つまり「ラブ」ですヨ。

――「らぶ」って?

――そうですねェ……お嬢サンが、誰か男の人を好きになったら、それは「ラブ」ですヨ。日本語では「こいをする」とか言いますネ。

 ふたりで校舎へ戻る道、日暮れの風が草木を揺らし、彼の長い髪も揺れる景色を前に、ドキドキと忙しない胸と、かつて教わった文字と意味が頭の中で弾け、無意識に声に出していた。

これが『らぶ』……!!

――お墓生まれ、お墓育ちの墓乃上みつよ。

 幽霊のために生きてきた人生の中で、この世でもっとも人間らしい「恋」という感情を知った彼女から、この教師はこれから不器用な愛情表現を受けるようになるなんて、この時は誰も――幽霊も、人間も、本人すらも、まだ知らないことだった。

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