斜堂先生とオカルトくノ一女生徒


「――どうですか、新野先生、」

 昨日までの地を焼くような晴天から一転、今度は岩をも穿つが如く叩きつける雨の日――暗いのは天気だけではない。

 放課後の斜堂が保健室の戸を開け、一言そう訊くと、今の空模様より暗く、重い表情で首を横に振られる。

「どう診てもこれはただの風邪なんかじゃなく……もしやと思って解毒に効くものも飲ませてみましたが……」

 その言葉の続きは聞かなくても分かった。
 未だ熟した林檎と等しく顔を真っ赤にしては布団で眠る生徒、墓乃上の様子に快調の気配は微塵もない。

 事の始まりは昨日の今朝である。
 野外訓練への準備体操として校庭を駆ける中、なんの前触れもなく突然倒れた、と、くノ一教室担当の山本シナが血相を変えて墓乃上を抱えて保健室に飛んできた。
 最初は貧血か、朝とはいえまだ蒸し暑い中での熱中症か、と思ったが、それにしてはどうにも様子がおかしいのである。

 汗に濡れた真っ赤な顔と比例するよう、その額に触ればかなりの熱にうなされているようだ。
 しかしそんな彼女の指先に触れれば、それは押し固めた雪に埋めたように冷え切っている――そうして一番奇妙なのは、時間が少し経てばその温度が逆転しているのだ。
 まるで湯上がりのように熱を持つ指先に、冬空に晒された石に似て温度を失くした額――触る度にがらりと変わるその様子に、新野は頭を抱える。

「……こんな病も、毒も診たことがありません。解熱に効く薬も、この様子じゃ効いているようには……」

「……そうですか」

 倒れたと運び込まれた昨日から付きっきりで面倒を見てくれていた医師の言葉に、もっと他に手はないのか、という焦りをぶつける気なんぞ起きなかった。

 普段は誰よりも明るく、無邪気に饒舌だった彼女のなんて痛ましい姿よ。
 もう自力で起き上がる気力もないのか、眠ったまま苦しげな呼吸をするのに精一杯なようだ。
 時折思い出したかのように指先が僅かに動き、あつい、さむい、と矛盾するうわ言を呟いてはまた眠ってしまう。
 そうしてなによりも恐ろしかったのは、昨日の晩に斜堂が様子を見に来たその時よりも、明らかに呼吸が浅く、弱々しくなっているように見えること――これはいったいなんだ、なにが彼女を苦しめている?

 元より色白だったが、さらに青白く温度が死んだその手を握ってやる。が、とてもじゃないが、人間の手を握っているとは思えない。
 生者より死人に近いそれにもう言葉が出なかった。

 もしかしたら本当にこのまま緩やかに、この子は誰にも分からぬその苦しみで死んでしまうのではないか、という最悪な想像から来る動悸に吐き気を感じていると、この保健室の戸が勢いよく開かれた。「――よぉ、」

「邪魔するぜ、斜堂先生さんよ」

 雨除けの笠を取り、そう言う四十路の浪人――左目に走る縦一文字の傷と、鮮やかな数珠が人目を惹く刀を持つ男――墓乃上と同じ霊媒師、六道輪廻の登場に、彼を知らない新野は当然、彼を知る斜堂も驚いた。

「六道さん……!? どうしてここに……」

 普段はそう斜堂が訊けば、「門の所にいる若い兄ちゃんがね、サインしなきゃ入れませんよっていうからサインしてきたんですよ」なんて軽薄な答えを返す六道だか、今回は斜堂からの問いかけは聞き流し、布団で眠る墓乃上を暫しじっと見ては困ったように呟く。「あーあ、」

「やっぱりなぁ、こりゃ酷くつかれてんな……」

「疲れ、って……どう見たってそういう話じゃないでしょう、」

 危機感の薄い六道の発言に斜堂が噛み付くと、彼は自身が持つ刀の数珠を手首に絡ませるよう、その柄に手をかける。

「いやいや、憑かれてる、って意味ですよ……ちょいとどいてな先生さんよ、」

「ちょっ……あなた、ここは保健室ですよ! 刀なんて……!」

 突然部屋に入ってきた部外者が、こともあろうか寝込んでいる生徒に対し抜刀しようとしているのだ。
 誰だって止めようとするのが当たり前だ。
 出ていきなさい、と制止の言葉を強く言う新野に対し、六道は普段から変わらぬ飄々とした態度でひとつ笑う。「そりゃあ良い、」

「怪我したらすぐ診てもらえるってことでしょう? まぁ大丈夫ですよ、ちょいと一刀して道を……あ?」

 なにが大丈夫なのか、そもそもなにをしようとしていたのか、まったく説明になっていないが、六道は己の手元を見るなりそんな説明すら止めてしまった。

「あらら……もう手遅れか……まぁだいぶ食い込んじまってるし……しゃあねぇ、」

 とりあえず応急処置だ、と、この状況に呆気に取られている新野へ六道は腰に下げてた水筒をひとつ投げ渡す。

「あんた、ここのお医者さんでしょう? 悪いが今のこいつにはなんの薬も効きませんのでね……その水筒に入ってる酒を、空になるまで少しずつ飲ましてやってください」

 詳しいことは語らずそれだけ言い残し、保健室を後にしようとする彼が斜堂の肩をひとつ叩く。

 持ち主へ霊感を授けるという妖刀に手をかけた霊媒師、六道輪廻――今ここで見せた行動の意図は斜堂には分からない。
 が、今なお苦しんだまま起きぬ墓乃上に対し、なにかしらの事情と打開策を知っているのはこの男だけだろう。

 仕方ない。斜堂は、あの男の身元は自分が保証する、彼に言われた通りにしてほしい、とだけ新野へ伝え、六道を空き教室へ案内した。

「――墓乃上さんが幽霊に取り憑かれてる?」

 降りしきる雨音が満ちる空き教室。
 そこで話し始めた六道の言葉に思わず驚き聞き返してしまう。

「そんな……ありえるんですか? だってあの子は誰よりも……」

「霊感が強いって? ……まぁ他人と比べりゃ十分強いですが、前に俺が会った時にはもうだいぶ弱っちまってましたよ。だから今みたいに取り憑かれてるんです」

「弱く……?」

 そう言われても斜堂には理解し難い。
 斜堂が知る霊媒師としての墓乃上は、彼女自身が自称するように唯一無二、誰よりも輝く生まれ持っての才としてその強大な霊感を使いこなしていた。
 取り憑かれた人間から霊を切り離し、冥途へ送ってやる除霊をしていたのは他でもない、墓乃上という霊媒師であり、まさかそんな彼女が弱ったからと取り憑かれ、あんなにも苦しんでいるとは――「ざっくり言うと質の悪い風邪みたいなもんですよ、」

「あいつに引き寄せられる悪霊は病気の元、あいつが持ってた霊感は抵抗力、って感じですかねぇ……今までは霊感が強かったからなんにもありませんでしたが、ちょいと弱るとあっという間に病気の元……つまり悪霊が寄ってたかって身体に食い込んで悪さしやがる」

 だから気をつけろ、って言いたくて何度かここ来てたんですけどねぇ。

 喧しい雨音に混ざる六道の呆れた台詞に、普段からある軽薄な色はひとつもなかった。ただただ手遅れになってしまったことを悔やむような、そういった重い溜息混じりの言葉が途切れる。
 そうだ。そういえば墓乃上が不機嫌に愚痴をこぼしていたのはつい先日のことだ。
 先々週はテスト前だから追い返した、先週は仕事で忙しいから追い返した、何度もしつこい奴め、金でも借りたいのだろうか、と話すその姿に、斜堂も内心、暇なお人だ、と思ったばかりだ。

 しかしまさか、こうなってしまうことを予想していたかのように警告しに来ていただなんて――「まぁ焦っても今日はなんにもできないんで、」

「とりあえずあの酒飲ませときゃこの一晩ぐらいは持ちますよ。それよか先生もちゃんと食って寝ないと身体持ちませんぜ」

「今日はなにもできない、って……なにか手があるんです? その刀でどうにかできないんですか? それにさっき言ってた『道』っていったい……」

「まぁまぁ、そういっぺんに食いつかんでくださいよ。斜堂先生には悪いが、明日一日付き合ってもらわんといけないことありますし、追々順番に説明しますって」

 保健室で未だ眠る墓乃上の呼吸は、今聞こえる雨の音よりもとうに小さく、弱々しくなってしまった。
 ころころ変わる喜怒哀楽に跳ねる、斜堂が日々見守ってきた健気な姿など見る影も失くなってしまったのだ。
 あの死人に等しく冷たくなってしまった身を治してやれるなら、どんなことでも――「分かりました、」

「……でも、これだけは今答えてください」

「なんでしょう」

「あの子が……墓乃上さんが死ぬようなこと、ないですよね?」

「……先生が来てくれりゃ大丈夫ですよ」

 どんな薬も、看病も効かぬ今――妖刀頼りの霊媒師もどき、六道だけが彼女を救う光だ。

「俺だってあんな可愛げのねぇガキでも、死なれちゃいろいろ困るんでね……大丈夫、どうにかしますよ」



「……あの、六道さん、」

「なんです?」

「本当にこんなこと、してる場合なんでしょうか……?」

 幸い雨雲は一晩で通り過ぎてくれたらしく、後に残ったのはぬかるんだ地面と、力強く夏の陽に伸びる草木への露だけだった。
 そうした今朝、学園に一泊泊めた六道と共に学園を後にしたのだが、六道がまず向かったのは学園から近い街――しかし、薬屋に入るわけではない。

「よぉ、そこの姉ちゃんや、この街で一番うまい大福売ってる店知らない? ……え? 嘘、子持ち? まさかねぇ……いや、でもよく考えたらそうかもな。そんなに綺麗で独り身だなんて罪もいいとこだよ。俺が奉行じゃなくてよかったな、お姉さん」

 斜堂からすれば砂糖と軽蔑を吐いてしまいたくなるほどの口説き、お世辞をつらつらと並べているのだが、これが六道の才なのか、単に街の商店に立つ婦人方がお世辞にめっぽう弱いだけなのか――(婦人たちの名誉のため、一応前者、六道の口が上手いということにしよう。)あれよあれよという間に、六道はほぼタダ、払っても驚くほど安い値で上等な菓子を貰いながら街を歩く。

 そうしてなぜか菓子だけ集まるその荷物持ちをさせられている斜堂からすれば、正直今は不信感しか抱けない。
 今朝保健室を覗き、少し墓乃上の様子を見てきたが――まだ目覚める気配はない。
 六道が渡してきた酒を少しずつ飲ませてみたところ、焼けるような熱は段々と引いてくれたと新野は話してくれた。
 だからといって安心しきるわけにはいかないのだが――「はは、そんな睨まんでくださいよ、」

「これから会いに行くジジイ……いや、あー……じいさんは気難しいんですが、甘いもの好きでしてね。俺はこういうしょっぱいほうが好きなんですが……」

 ま、手土産いっぱい持ってかないと、と笑いながら口にする醤油を塗った煎餅も、先程八百屋の婦人に菓子屋の場所を訊いた時にお世辞を並べ、機嫌を良くした婦人から受け取ったものだ。

「特別な数珠を作ってくださる方、でしたっけ……今さら疑うわけじゃありませんが、本当に数珠で墓乃上さんの体調が良くなるんでしょうか……」

「なる、というより、もうそれしか方法がないからこうやって土産を集めてるんですよ、っと……はは、そんな怖い顔せんでくださいよ、先生」

「……してませんけど、」

「ふふ、そりゃ失敬、……おっと、そこの渋い旦那、やたら良い匂いするけどここはなんの店だい? ……へぇ、蕎麦か!」

 南蛮渡来の薬、漢方を扱っていると暖簾に書かれた店は素通りし、その斜向かいにある屋台に寄った六道はまたなにか上手い言葉を並べているらしい。
 街が賑わう夏日、菓子を抱え、笠で日除けた影から内心呆れながらその姿を見ていると、六道が振り返って手を振ってきた。「斜堂先生さんよぉ、」

「ここの旦那が余った蕎麦食わしてくださるってよ、とりあえず飯にしましょうや。……はは、恩に着ますぜ旦那。大丈夫、ここの蕎麦は美味かったって遺言にも書いときますよ」
 
 どうやら交渉……というより、店の主人の心を掴み、都合よくタダ飯を頂けることになったらしい。

 若くて綺麗だ、という婦人なら誰にでも効く口説きだけが上手いのかと思えば、ああいう蕎麦屋の主人のような、頑固そうな壮年の男すらもあっという間に調子よく六道の口車に転がっていくのか……墓乃上は六道のことを霊媒師もどき、と呼んで軽蔑するが、斜堂の感想はまた違ったものだった。

 ……この人のほうが悪霊なのでは、と。

 六道どころか斜堂の分までタダで蕎麦を出してくれた主人の機嫌は見るからに良いもので、うまいうまいとおだて、褒め、まるで旧知の仲だったかのように親しく話す六道へすっかり打ち解けている。

 斜堂が彼らの話に割り入る隙きなんぞない。
 黙って大人しく、好意で頂いた蕎麦を美味しく食べきった頃には、六道と主人は今度花街へ飲みに行くことを約束していた。

「――……そんじゃご馳走さんよ、旦那。いやぁ、今生で一番良いダシ出てましたぜ」

 もう行っちまうのかい、と惜しむ主人へ礼とこれまた適当なお世辞を口にし別れ、ようやくこの遠出の目的である人物のところへ進む。「あーあ……」

「面倒くせぇな、まったく……なんで俺がわざわざあのジジイのところなんざ……」

「なんで、って……墓乃上さんのためでしょう?」

 六道の人並み外れた人心掌握の才を目の当たりにし、斜堂は内心、少し感心していたのだが、その無責任な呟きを聞き流すわけにはいかない。
 昨日の曇天をまっさらに塗り替えたような晴れ模様の日差しの中、未だ大した説明も理由もなく自身を連れ回している彼に聞き返す。

「今の墓乃上さんを治せるのは特別な数珠だけで……それを作ってくださる方のところに行く、って言ったのは六道さんですよね?」

「分かってます、分かってますってば……いや、なんていうかその……そのジジイとはちょいと仲が悪いもんでしてね、つい……」

「だから私を連れて行くんですか?」

「えっ、いや、そういうわけじゃないですって、」

「ではどういう意味なんです?」

「あー……斜堂先生さんよ、ぶっちゃけ俺のこと信用しとらんでしょう?」

 降参しましたとばかりに両手を上げ、分かりますって、と困ったように笑うその顔にひとつ頷く。「……ええ、」

「生徒に危険な火種を持ってくるような方は特に」

「ああ、刀の件です? あの時の先生、怖い顔してましたもんなぁ」

 今丁度六道が腰から下げている、数珠飾りが巻き付いたこの刀のことを墓乃上は「妖刀」「大事な刀」と呼んだ。
 それをくだらない賭けに出し、負け、その負けを取り返そうと墓乃上から金を借りに来た前科を知る斜堂は、前々から不思議に思っていたことがある。

 なんでこんないい加減な男が、墓乃上という無垢な子供に関わっているのだろう、と。

 かつて墓場に住み、人間を嫌っていたという墓乃上はなんで六道との関わりを切らなかったのだろうか。

 以前のこと、忍として「どう生き残るか」という思想ではなく、「どう死ぬのが理想か」と語った墓乃上へきつく注意したことがある。
 彼女は一度決めた理想に全力で突き進める、意志が強い生徒だ。そんな彼女がどう考え直すのか気になっていたが、彼女はあの時なんと六道へ相談しに行っていたのだ。

 あの時は結果的には良い方向へ、彼女の大きな成長に繋がったが――「正直よく分かりません」

「……墓乃上さんみたいな良い子が、なぜあなたに懐いているのか。……でも、」

「でも?」

「今の墓乃上さんを救えるのは私ではなくあなたです、六道さん。……あの子のためにあなたを信じます」

「……それが聞けりゃ十分です」

 そう答えるとどこか安心したかのように、六道はようやく今もなお寝込んだままの墓乃上を唯一救う手立てと、それを知る人物について語りだした。

「今から会いに行くジジイが作る数珠は変わってましてね、持ち主の霊感を高めたり、危険を知らせてくれるんですよ。……だから、ほら、」

 そういって刀に巻いた飾りを見せてくれたが、それを前に斜堂は違和感を覚えた。
 たしか記憶が正しければ、この飾りはなりよりも碧く深い色に輝く瑠璃色だったと思うが、今目の前にある飾りは反対に、地の底で燃える紅蓮のような色になっているのだ。

「色が違う……?」

「そ、怪異に今取り憑いてる悪霊は洒落にならねぇ、ってこの数珠が警告してんですよ」

 こうなったら俺にはもうお手上げですなぁ、と言葉を続ける六道に対し、未だ内心は半信半疑のままだ。
 しかし今この道中で問い詰め、どこまでが真実なのかと無理に聞き出すことは無意味かもしれない。
 それによく思い出せば彼だって、墓乃上の異変に気づいてわざわざ学園まで何度か忠告しようと通っていたのだ。
 そう簡単に信じることはできない話でも、それが墓乃上のためになるならどこまででも付き合ってやる。

「……だからあの時、刀を振らなかったんですか?」

 昨日保健室に乗り込んできた六道は、たしかにその刀を抜き墓乃上へ向けようと構えた。
 が、その刀身を見せることなく、お手上げだと早々に諦め酒を渡していた。
 あの時六道が口にしていた「道」という言葉も気になる。

 街からもう結構離れ、徐々に山道の奥へ進んで行く中、そう問いかければ「さすが先生、」と危機感が薄いような軽い返事が返ってくる。

「俺のこの刀は冥途に続く道を斬って作るんですよ。大抵の下級霊なら大人しく入ってくれるんですがね、」

「墓乃上さんに憑いている霊には無駄、と……」

「……そうですなぁ。ま、だからこそいけ好かねぇジジイに頼るしかないんですが……先生、頑張ってくださいね」

「えっ、」

 なぜか急に、なぜか心の底から心配するような言葉とともに励まされ驚いてしまう。
 なにがですか、と聞き返すも、会えば分かりますよ、なんて曖昧な言葉で濁され終わってしまった。

 本当にこの人のこと、信用していいのだろうか……。

 再度芽生える強い疑心を抱える内、山道を進んだ先に茂る竹林の中に、ぽつりと建てられた一軒の平屋に着いた。

「そんじゃ、まぁ……精々殺されんでくださいよ、先生」

「は?」

「……ああ、でも斜堂先生さんもプロの忍だし……まぁ大丈夫か」

「待っ……なんのことですか、」

 さらに不穏、物騒な独り言だけ言い残し、その平屋の戸を叩きに行った六道の背に置いていかれた斜堂は、ただただ戸惑うことしかできなかった。

「おーい、くそジジイ、生きてるかー?」

 無遠慮に戸を勝手に開け、中へ呼びかける六道の声に返事が返ってきたのは平屋の中からではなく、ここを囲む竹林の中から突然飛び出してきたひとりの老人からだった。「六道……」

「六道貴様ぁ!!」

 小柄で細身の老体、しかしそう叫ぶ気迫は鋭いもので、一派の武道を極めた達人かのようだ。
 長く結いまとめられた髪も白いが、そこにある艶は若々しいもの。
 そして老いている身とは思えぬ勢いで彼が六道へ振り投げたそれは――無慈悲に研がれた鎌。

 殺意を込められ飛んできた鎌を既のところで躱した六道の顔は青ざめ、ついでにそれを目の前にしている斜堂も手土産の菓子を抱えながら絶句してしまう。
  竹に深々突き刺さった鎌のなんと恐ろしいことか!

「あっ……あっぶねぇなぁくそジジイ! ボケて客の歓迎の仕方も忘れたか!?」

「なーにが客だ! この人たらしの悪霊風情が! お嬢はどうした、お嬢は! なんでお前からお嬢の色がしない!」

「なんで、って……」

 熊をも怯むのではないか、と思えるほどの気迫に掴みかかられた六道は、その指を言葉を失い目の前の展開を傍観することしかできなかった斜堂へ向けた。

「お嬢があのお方にぞっこんだからだよ」

 六道の指先の相手、斜堂へ老人の顔が向く。
 その表情は積年の恨みを募らせる相手を見つけた修羅の如く――「お前が……」

「お前がお嬢をたぶらかしたのかぁ!」

 勘違いと殺意と過保護な暴走に突っ走る怒りを向けられ、この状況についていけてない斜堂はひたすら違います、誤解です、と必死に繰り返すことしかできなかった。



「――忍術学園だと?」

「そうそう、なんでもくノ一になって金稼いであの墓場綺麗にしたいんだと」

「六道お前っ……お前がついていながらなんで止めなかった! なんのために貴様のような根なし草生かしてお嬢の傍にやったと思ってるんだ!」

「しょうがねぇだろくそジジイ! 俺が行った時にゃあいつはもうとっくに墓場にいなかったんだからよ! な、斜堂先生?」

「えっ、」

 頭に血が上り、まさに子供の敵を取らんとばかりに殺気立つ老人をなんだかんだと一旦なだめた六道に連れられ、この老人――墓乃上の身を助けてやれる数珠を作る者、瑪瑙天珠が工房とする平屋に入り、その激しい言い合いを前に黙って正座していた斜堂は、六道にいきなりそう訊かれてもうまく言えない。というより知らない。

 墓乃上がくノ一になって成したい目標、生まれの墓場の再建を目指していることは知っているが、彼女がその墓場から旅立つ時の詳しい事情は知らないのだ。

「えっと、その……」

「今の怪異のことは俺じゃなくてこのお方がよーく知ってんだよ、なんてったってお嬢が惚れた忍術学園の先生さんなんだからよ」

 ……ってことで先生、あとはそのジジイと話し合って数珠作ってもらってください!
 俺ぁちょっとこの辺の薬屋にでも行ってくるんで!

 そんじゃ、と明るい笑顔で止める間もなく勝手にどこかへ出ていってしまった六道に対し、墓乃上だったら「あのクズが!」と吐き捨てていただろうか。

 それは瑪瑙も同じだったようで、あの野郎、と怒りで拳を固めていた。

「……まったく、あのクズめが……して、斜堂先生、でしたかな……今はあのクズが言う通り、あんたにはお嬢の色がついている」

「色……?」

 斜堂の対面に座り、六道が斜堂に運ばせた菓子の包みを開けながらそう語りだす。
 しかし相変わらず渋い表情を変えず、もっと言えば殺気立った視線が斜堂へ向いたままであることは変わらない。

「人間には様々な色がある。個性、感情、……その人間だけが持つ情のようなものが、他人と関わる中で交じり合わさっていく……お嬢から懐かれてる先生には、お嬢の気配がついているんです」

「なるほど……」

「その人間ごとに合った色で作った数珠は意志を持ち……まぁ、ここら辺の話は一般人には分からんでしょう」

 小柄な身だというのに、この短い話の間でもう一箱まんじゅうを食べきり空にしてしまうその姿に内心感心してしまうが、今はそんな場合ではない。
 今こうしている間にも彼女は保健室の床に寝込み、苦しい時を耐えているのだ。「……あの、」

「今の墓乃上さんは酷く体調を崩されてまして……それが治せると聞いて来たのですが、」

「はかのうえ?」

「彼女が今名乗っている、人間としての名です」

「……そうか、人間の名を……」

 馬鹿なことを、とその口が呟いたのは気のせいだろうか。聞き返す前に彼は半紙の束と筆を前に用意し、斜堂へ向き直る。

「……お嬢が名乗っている名は?」

「墓乃上……墓乃上みつよです」

「字は?」

 怒りに任せて人へ鎌を投げた人間とは思えぬほど冷たく、それでいて張り詰めた気で問われる。
 その問いに合わし答え、彼は半紙へ筆を走らせ、それは経のようなものを連ねていくが、これにいったいどういう意味があるのか斜堂には分からない。

 だが、これが墓乃上のためになるならとここまで来たのだ。
 苛立ったように菓子を口にしながら筆を握る瑪瑙からの問いに答えること、それが今の自分にできる助けだと思うが――「斜堂先生、」

「あなたの歳は?」

「歳……二十九になります」

「二十九……二十九? ……若造が、」

 低く唸るように睨まれる。
 たしかに彼から見れば自分なんぞまだまだ青いものだろう、と思った斜堂に対し、彼は斜堂の想像の遥か斜め上の怒りをぶつける。

「お嬢には京の醍護六山の山神さまへ嫁がせるつもりだったのに……なんで、なんでこんな人間の若造に……」

 あの子は可哀想な孤児なんかじゃない、神聖な子なんです。
 人間の才から外れ、霊力に恵まれた神の子……その尊さを分からぬ下賤な輩があの子に石を投げつける。
 犬には犬を、人には人を、神には神を、あの子はそうあるべきだったのに……!

「神というものは人間と戯れます、それはあの子も同じ……人間の名を名乗り、人間に懐きおって、……そんな人間ごっこを続けてたら霊感が減るのも当然。馬鹿なことを……可哀想なお嬢、」

「……いえ、あの子は可哀想じゃありません」

 自身を気に入らぬと睨む目より、墓乃上を賛美し神格化する語りに呆れ言い返す。
 六道とのやり取りを聞いている限りでは、瑪瑙天珠、彼も墓乃上のことを溺愛し、心配してやっているというのは分かる。
 しかし黙って聞いていれば、随分と好き勝手いい加減なことを――「あの子は神様ではありません」

「よく笑い、食べて、泣いて、一生懸命日々学んで……ほんの僅かに伸びた背に喜ぶ、普通の子供です。普通の子供として生きているんです」

「違う、お嬢は」

「人間として生きてやる、って頑張っているあの子を否定することをまだ言うんですか?」

 強くなびく風が笹を揺らし、窓から差す陽が傾く中で言い返した斜堂に、恐れも、躊躇いも、ひとつもない。
 あるのは墓乃上が自ら選んだ生き方を否定する者への静かな怒りだけだ。

 初めて彼女に出会った時、彼女は人間にうまく馴染めない、自分は本当は本当に幽霊かもしれない、と泣いて心が折れかかっていたのだ。
 そしてその折れかかったヒビを根性で繋ぎ止め、学園に残って成長することを選んだのは彼女自身なのだ。

 斜堂は初めて出会った彼女の涙を前に内心、この子はじきに退学してしまうかもしれない、と思った。
 話を聞けば、なにも無理にくノ一にならずとも生きていける才――霊能力があるというのだから。
 その才の真偽については斜堂には分からない。
 しかし、彼女が今までそれを支えに生きてきたというなら、今ここでくノ一になる道を諦めても先はあるだろう――そう思っていたのに。

 見違えるほど自信に溢れ、あっという間に芽生えては咲き誇るくノ一としての才覚――大人の想像を簡単に飛び越えていくその努力を、単なる「人間ごっこ」と言われることは許せない。「――……瑪瑙さん、大人ができることなんて、所詮限られていると思いませんか?」

「私は知っている知識を教え、あなたはあの子を救う物が作れる……ただそれだけなんです。神様だとか、人間だとか……どうなりたいかなんて、大人があれこれいうものじゃないと思いませんか?」

「……あなたがお嬢のなにを知ってるというんですか、斜堂先生。あの子が今までどんだけ人間に泣かされてきたか……」

「……今のあの子は、墓乃上さんは、過去に泣かされた思い出よりも、今は成したい未来のことを語ります」

 墓場のお嬢様の過去を知るが故に人間とはかけ離れた将来を用意してやる瑪瑙と、人間として生きたいと前向きに努力する墓乃上の背を押してやる斜堂――保護者として相反するふたりの間に、暫し沈黙が流れた。

 そしてその沈黙を破り、ため息とともに席を立ったのは瑪瑙のほうだった。

「――……もういい。もう十分と色は見えました」

 走り書きに染まった半紙をまとめ、菓子の包みを抱え、工房の奥へと入っていくその背が振り返り、斜堂へ呼びかける。

「……お嬢のためだ、すぐ作りますよ」

 そういって奥へ引っ込んだ瑪瑙の言葉に、彼と同じく墓乃上という少女を見守る保護者、斜堂は心からの礼とともに頭を下げた。



「――えっ、瑪瑙おじいちゃんのところに行ったんですカ!?」

 そう驚き保健室の布団から身を起こした墓乃上の熱はたった今下がったばかりだ。
 まだ大人しくしててください、と慌てて止める斜堂から渡された数珠――瑪瑙が墓乃上のために作ったそれが、墓乃上に憑いていた悪いものをすぐに取り祓ってくれたらしい。

「そーだよ、わざわざあのくそジジイのところ行ってさぁ……お前が学園にいるって言ったら殺されそうになったよ」

「誰がです?」

「俺が」

「六道さんですカ。じゃあいいや」

 斜堂せんせーがご無事なら、と猫に似た八重歯を見せて笑うその調子は、普段となにひとつ変わらない元気な墓乃上そのものだ。

 あれだけ酷くうなされ、瀕死とも言える状態がまさか本当に数珠を渡すだけで治るとは……墓乃上と一緒にいる内に慣れたとは思っていたが、まだまだ難解不思議な霊媒師事情にはついていけない。
 
 だが、苦しむ生徒が救われればそれでいい。どうでもいい。

「あーあ、ったく……面倒見てやってこれかよ。六道さんは付き合いきれねぇや」

 あばよクソガキ、なんて軽口とともに保健室の襖を閉め出ていった六道にさっきまで同じく嫌味で言い返していた墓乃上だが、その大きな瞳は床に置き忘れられたものを見つけた。「それ……」

「それ、なんです?」

「え? ……あ、金平糖ですね、これ」

 墓乃上に指された小さな包み、斜堂がそれを開き見せると、墓乃上は「あの野郎、」と素の口調で応えた。

「これ、六道さんの忘れ物ですかね……? ……あ、」

 包みを手に首を傾げたその時、瑪瑙のところへ行く道中、六道が貰い物の煎餅をかじりながら言っていた何気ない台詞を思い出した。

――これから会いに行くジジイ……いや、あー……じいさんは気難しいんですが、甘いもの好きでしてね。俺はこういうしょっぱいほうが好きなんですが……。

「墓乃上さん、これって……」

「……それ、瑪瑙おじいちゃんの家の近くの街でしか売ってないんですヨ」

「あら、」

 なぜか心底悔しそうに床を一回叩き、照れ隠しだろうか、再度その口から「あの野郎、」という荒い言葉が出る。

 ……そうか。だからあの時、瑪瑙さんから逃げるようにどこか行ってたわけだ。

 帰る時に「六道さんどこ行ってたんですか」と訊いた時、「適当に飲んでた」と酒に赤らんだ顔で言われた時は正直一発手が出るかと思ったが……なるほど、悪霊じみた人たらしも素直になれない時があるらしい。

「……六道さんには借り、もう作りたくないのに……」

「もう、って?」

 渋い顔して呟く生徒に訊くと、彼女はその指で自身の左目を一筋なぞった。

「……いろいろあるんですヨ、悔しいですけどネ」

 こちらもどうやら捻くれ者らしく、むかつく、と金平糖から顔をそむけるその姿に斜堂は思わず少し笑っていた。「……墓乃上さん、」

「素直になれないところ、六道さんにちょっと似てますよ」

「えっ!? えっ……そ、それは嫌です! ありえませんヨ!」

「ふふ、すみません、つい……」

 怒ったり笑ったり、絶えずころころと変わる幼い表情に、熱にうなされ虫の息に等しかった姿の面影ひとつ存在しない。

 素直になれない六道、心配性と過保護を拗らせた瑪瑙、そのふたりの保護者の心配を受け、今斜堂の目の前にいるこの子はこんなにも生き生きとしている。

 ああ、本当に良かった――と、墓乃上の回復を喜んでいた斜堂の微笑ましい気分をぶち壊したのは、先程帰ったはずの六道が勢いよく保健室の襖を開けた音だった。「――やべぇぞ怪異!」

「瑪瑙のジジイ、学園まで来やがったよ!」

「えっ、おじいちゃんが!?」

「お前連れてこいってそこの門まで来てるぞ!」

「なんと……!」

 いきなり来ても困るって言ってきてくださいヨ! 馬鹿、俺がそんなの言ったら殺されるわ! なんて慌てふためく霊媒師ふたりの言い合いに加え、よりにもよってこんな時だけやたらと仕事ができる名物事務員から「斜堂先生、先生に懐いてる幽霊が見えるっていう子いたじゃないですか? あの子連れてきてくれって今来てる人に言われまして」なんて言われ波乱が一気に加速していく。

 気のせいだろうか。
 先日会ったばかりの数珠職人が「お嬢ー! おじいちゃんが来たぞー!」と明るく叫ぶ声が外から聞こえるのは。

 ……教師と保護者、子供を育てていくのに協力し合うべきだというのは分かっている。

 しかしこの大騒ぎに不運にも巻き込まれてしまった教師、斜堂は思う。

 ……ひとりで落ち着く場所に籠もっていたい、と。

 難儀な保護者たちが巻き起こす騒ぎの中でひとつついた斜堂のため息は、「お嬢! おじいちゃんお嬢が好きなお土産持ってきたぞ!」という孫(仮)を溺愛し暴走する瑪瑙の声でかき消された。
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