斜堂先生とオカルトくノ一女生徒
「斜堂せーんせっ、お水汲んできましたヨ!」
重たかったぁ、と用具倉庫の床に桶を置いたくノ一教室の生徒、墓乃上はそう機嫌よく声をかけた。
「……ありがとうございます、墓乃上さん」
「いえ、せんせーのお手伝いでしたらいくらでも!」
どうにも蒸し暑い今日この頃、日差しが鬱陶しいこの放課後に日除けを兼ねて用具倉庫の手入れをしようか、と掃除道具を持ち込んだ斜堂に対し、彼をなによりも親愛する墓乃上がくっついてくることは必然のようなものだった。
だいぶ湿気が酷く、換気のために開けた入り口からは眩しい陽が入る。
お互いそこを避けるよう、ふたり並んで座ってはひとつひとつ手裏剣を、苦無を拭き上げては磨いていく。「しかし斜堂せんせぇ、」
「こんなにたくさん武器とか道具があると、どうやってお手入れすればいいのか分かんなくなっちゃいますねェ……あの首の模型なんか凄く手間掛かりそうですし……」
「そういうのを覚えるのも忍に必要なものですよ。……今日は少し時間が足りませんので、今度教えましょう」
「やった、ありがとうございます!」
他人から見れば問題児に絡まれている、なんて思われるかもしれないが、理由がなんであれ、意欲的に学ぼうという向上心が強い生徒というのは輝いて見えるのだ。
この隣にいる墓乃上だって例外ではない。
初めに教えた通りの手順を守り、丁寧に手裏剣を磨き上げていくその横顔には期待できるものがある。
初めて彼女と出会った時には見えなかった自信が芽生え、そう前向きにさせるのだろう――「……そういえば、」
「そういえばあの生首の模型、よく見ると綺麗ですよねェ、しっかりお手入れされてる、って感じで……」
「ええ、粗雑に扱っていいものじゃありませんからね……」
「いいなぁ、羨ましい」
「……いい?」
今まで散々怖い、不気味、とは言われてきたものだが、墓乃上が口にした「羨ましい」という言葉は理解できなかった。
なにがですか、と彼女を見れば、明るい声と屈託のない、なによりも純粋な笑顔で答えが返ってきた。「――ええ!」
「だってあんなに綺麗に首が残る死に方、素敵じゃないですカ! しかも大事にされるなんて……ふふ、それが羨ましくって……どうせだったら私もああなりたいもんですねェ」
恐ろしいまでに無邪気な調子に弾む声――言葉が出なかった。
「……あれ? 斜堂せんせー?」
唖然と言葉が詰まっている彼の様子に首を傾げ、彼女は心配そうに尋ねた。
「どうかされましたカ?」
「……墓乃上さんには……」
「はい、」
「……先生、墓乃上さんには失望しました」
「はぁ!?」
常に礼儀正しくあろう、と心がけ、慣れない敬語を必死に話す墓乃上の口から、思わずなんの遠慮もない驚きが飛び出た。「えっ……、」
「なんでです、そんな急に……!」
慌てふためき、困惑した表情で聞き返す。しかし返ってくるのは先程と同じ突き放す言葉だ。
怒鳴るわけでも、声を荒げるでもない、いつもと変わらぬ穏やかな声で、それでも冷たく返されるのだ。
「……今の墓乃上さんには、忍は向いていないと思います」
「えっ、なんで……そんな……せんせー?」
「もう少しご自分のこと、考え直したほうがいいですよ」
「なんのことです……?」
「……お手伝い、ありがとうございました」
もう結構ですよ、と、開け放したままの入り口を指された。
訊きたいこと、言いたいこともたくさんあるが、なにより今まで誰よりも親身になってくれていた教師からの突然の否定に、墓乃上は血の気が引いてうまく話せない。
どうして、とせめて一言言いたかったが、暗に出て行けと指されたままの手の前には無理だった。
それすらも諦め、現状を理解できないまま混乱した頭で一礼し、大人しく倉庫を出るしかなかった。
日差しばかりが眩しくて、目の前は真っ暗だ。
この人生、今まで他人から罵倒され、笑われ、理不尽なことなんぞ数え切れないほど言われてきた。
が、そんなことはどうでもよかった。他人にどう思われて散々言われようが、興味がない人間から言われることなんて夏に喧しく鳴く蝉のようなものだ。
――でもせんせーに言われるなんて!
侮蔑でも罵倒でもない、なによりも静かな忠告と批難だ。
引いた血の気に鳴る動悸――あまりの混乱にふらつく足は、自然と人目のない校舎裏に来ていた。
壁に寄りかかり、そのまま情けなく座り込んでしまう。
墓乃上は愕然としていた。放心していた。
心から懐いていた斜堂から急に否定されたことではなく――なぜ斜堂からそんな言葉を言わせてしまったのか、なにがいけなかったのかを、未だなにひとつ分っていない自分に。
――もう少しご自分のこと、考え直したほうがいいですよ。
真っ直ぐ目を見て鋭く刺された忠告に胸が痛い。
そしてどうしようもなく物分りの悪い自分が最低で、膝を抱えてぼろぼろ泣くぐらいしかできなかった。
――……ああ、そんな自分も最低だ。
*
「――……おいおい、お前から来るなんていったいどうしたってんだよ」
鬱蒼とした山奥の夜は早い。
日も暮れて僅か、それでも灯りが欲しくなる薄暗い夜に、墓乃上はとある寺の戸を叩いた。
「俺、お前に金とかなんか借りてたっけ?」
叩いた戸に応じ出てきたのは六道輪廻――唯一墓乃上の過去を知る霊媒師だ。
ひとつにくくった髪に左目には縦一文字の傷、だらしなく着流しを着た四十路の男は、普段の気だるげな目を丸くして驚いていた。
「てか怪異、お前なんでここが分かったんだよ」
「……幽霊と人に訊いて歩いてりゃ着くよ」
斜堂から失望したと言われたあの日から、墓乃上は泣くか、悩むか、また泣くか、という眠れぬ夜を過ごした。
当然授業や訓練に身が入るわけもなく、担当の山本シナからは注意と心配を受けるが――墓乃上自身も、今の自分が訓練に加わっていい状態じゃないというのは理解していた。
――もう少しご自分のこと、考え直したほうがいいですよ。
あれから斜堂の言葉を何度も何度も考えたが、哀れになるほどなにひとつ反省するものが分からず、気がつけば墓乃上は暫しの休みと、外泊の願いを山本シナへ頼み込んだ。
そうして学園から歩き出した墓乃上は、まずは近場の街に降り、六道という名の男を探していると人間に、幽霊に訊き回り――ああ、傷がある奴? そいつならこの前ここで飲んだよ。ああ、その人なら飯の恩に、ってうちのじいさんがいる寺の手伝いしてくれるって、と集まる話を辿り、大した難なく六道の前に今立っているのだ。
六道に霊媒師としての才はほぼ無い。
持ち主に霊感を与え、悪霊を斬り祓う妖刀だけが頼りで、それがなければただの素人だ。生まれながらの霊能力者である墓乃上からすれば、霊媒師を名乗る資格すらないと言っていい程だ。
しかし墓乃上には無く、六道だけが持つ天性の才がひとつだけある――人たらしの才だ。
どこへ行こうと誰彼かまわず打ち解け、その懐に入り、しばらくは飯や宿の心配をすることなく気ままに旅をする霊媒師――それが六道輪廻。
今いる寺だって、六道とはなんの縁もない古い寺だ。
しかしこの寺の息子とは街の飲み屋で意気投合したらしく、飯を奢ってくれた礼にと、しばらくここの寺の手伝いを住み込みでやるらしい。
――そんな奴だからこそ、わざわざここまで会いに来たんだ。
「……これ、手土産の酒。部屋上がっていいです?」
「手土産、って……俺に? おい怪異、お前本当にどうしちまったんだ?」
お互いに口は悪いが、なんだかんだと長い付き合いになる。が、今まで一度たりともこんなふうに墓乃上の方から六道を訪ね、なにかを渡してくるなんてなかった。
墓乃上から渡された酒が入った壺を抱え、家主から好きにしていい、と言われた一間の座敷に墓乃上を座らせる。
普段は顔を合わせる度に「ダメ親父」「霊媒師の恥晒し」と悪態をつく口が大人しいままだ。
よくよく見れば、目元には泣き腫らした跡だってある――彼女の対面に座り、その顔に訊いてみる。
「こんな夜に……お前、学園はどうしたんだよ」
「え? ああ……少しの休みと……外泊の願いを出してきた」
「で、わざわざ俺のところに?」
「……私のことよく知ってる他人って、お前だけだろ」
「まぁ、それはそうなんだけどよ……」
忍術学園に入り、人間と一緒に修行を積んで立派なくノ一になる! と決心してから身につけた拙い敬語は、「墓乃上」にとっては理性を表すものだ。
その理性を整える余裕もなく、彼へ昔の口調のまま話す様子に、六道はいったい何事かと狼狽えてしまう。
「――……斜堂せんせーに……」
「先生に?」
「……墓乃上さんには失望しました。今の墓乃上さんには、忍は向いていないと思います。……もう少しご自分のこと、考え直したほうがいいですよ、って言われて……」
「おお、斜堂先生さんも意外とはっきり言うねぇ」
でもまぁあの人も教師なんだし当たり前か、とひとりで納得している六道へ、墓乃上はなぜ斜堂からそんな言葉を言わせてしまったのか……正直、反省点は未だ掴めていないが、それでもきっかけになってしまったのであろう事の顛末を、ぽつりぽつりと話しだした。
最初こそは「お前はなんだかんだ派手好きだから忍に向いてねぇよ」と茶化していた六道だが、彼女の話が進むにつれ表情が曇り、呆れたかのように首を横に振った。「お前さぁ、」
「それは先生が正しいよ。先生も可哀想になぁ」
「可哀想……?」
「本気で分かんねぇのか……まぁしょうがない、っちゃあしょうがねぇのかな……でもなぁ……」
ここ数日ろくに眠れず、泣くことが多くて憔悴しきった墓乃上の顔には、斜堂の言いたいことがすぐに理解できたのであろう六道への疑問が満ちていた。
なんで六道という第三者がすぐに理解できて、直接斜堂から忠告された自分は未だなにひとつ意味が分からないのか――「なぁ怪異、」
「お前さぁ、わざわざ人間の振る舞い覚えてまで入った忍術学園でなにやってんだよ」
「なにって……忍になる訓練だけど……」
「ああそう、じゃあなんでその訓練やってんの?」
「え? だからそれは忍になるための……」
質問の意図が分からない。
訓練無くして立派な忍にはなれない。だから日頃訓練を積み、一流の忍を目指すために学園にいるのだ。
間違った答えは言っていないはずなのに、それでも六道は呆れたままだ。
「お前さ、昔墓場で人間にいじめられてた時、俺になんて言ったか覚えてるか?」
「あ? 別にいじめられてなんかいないし」
「はいはい、……で、覚えてんの?」
「さぁ……いつのことなのか分からん」
「えーっと……『生きるということは、死から遠ざかるための行為の積み重ねでしかない』なーんてガキのくせに擦れたこと言ってただろ」
「……ああ、あれか」
そう言われようやく思い出した。
それはたしかまだ、墓乃上の背丈が長身の六道の腰を超えるか、超えないかぐらいの過去のことだ。
その頃はだいぶ墓乃上も六道に慣れ、清めに使う酒を買いに行く、という名目でふたりで街に行った時の話。
普段は気味が悪い、不吉だ、とすぐにでも追い出される墓乃上だったが、さすがに帯刀した大人、六道が一緒にいたその時はそういった理不尽な拒絶はされなかった。
が、六道が買い物の勘定をするのに少しばかり目を離した間、外で待たせていた墓乃上は誰かに頭から塩をぶつけられたのか、泣くことも、怒るでもなく、淡々と身についた塩を手で払い落としていたのだ。
「おいおい……こりゃ酷ぇな、」
「別に……しょうがないだろう」
「しょうがない?」
「私にはよく分からんが……人間は絶対に付きまとう死が怖いから、それから遠ざかるために色々するんだろう? 死なないために飯を食い、飯を買うため仕事して、仕事ができるよう休んで寝る……生きるっていうのは、死から遠ざかるための行為の積み重ねでしかない。そうやって必死になっている時に、私みたいな縁起が悪いもの、見たくないのは当然だ」
「うわぁ、拗らせてんなぁ……可愛げのねぇガキ」
「真理だ。みんな絶対死ぬんだ。それは変わらん」
「塩まみれのガキがなに言ってんだか……」
ああ、思い出した。たしかそんなこと言った覚えがある……というか、今でもその考えは変わらない。
「死は絶対あるんだから……そこにほんの僅かでも希望というか……こう死ねたらいいのに、という考えのなにが悪いのかよく分からん」
「ああ、よく言うよな。布団の上で死にたいとか、女の腹の上で死にたいとか」
「女の……?」
「あー……すまん、そこは忘れろ。お前にはまだ早かった」
「はぁ……?」
長い付き合い故にうっかり口を滑らせてしまったが、墓乃上はまだ子供なのだ。
気まずく、誤魔化すために半ば無理やり話を戻す。
昼間の蒸し暑さが嘘だったかのように、この古びた寺の隙間から涼しい風が丁度良く入ってくる。
酒を飲むには良い空気だ。本当ならば墓乃上が手土産にと持ってきた酒に手を伸ばしたいが、今回ばかりは止めておこう。
経緯はどうであれ、初めて彼女のほうから相談事を受けているのだ――自分ひとりでは抱えきれない疑問を他人へ話す。訊く。
なんて人間らしいことだろう。
敬語を覚え、礼儀作法を覚え……しかし、それはあくまで人間になりきるための演技でしかない。
「人間ごっこ」でしかなかった行為の中で出会った斜堂により、墓乃上は怪異でも、幽霊たちのお嬢さまでもなく、人間として忍を目指す生徒――に、なっていたはずなのに。
「……お前が学園でどういう訓練や勉強してるのかなんて俺は知らねぇよ? でもさぁ、斜堂先生とかが教えてくれる知識ってさ、お前が言う『死から遠ざかるための行為』なんじゃねぇの? 忍として生き延びるためのよ」
「忍として……」
「そう、お前は命知らずで、死を知りすぎてんだよ」
「……? それのなにが悪いのか……」
「分からん、って? 怪異、そんなんじゃ斜堂先生は、お前のことをこれから先も見てくれねぇだろうよ」
――もう少しご自分のこと、考え直したほうがいいですよ。
その言葉を受取り、考え、……それでも答えは出ず、自身のことを知る他人、六道へ話してみたが、答えが分かるどころか、さらに複雑に、難題になってしまった。
死は絶対だ。なにも変わらない。ならばせめてその死に方にある意味では夢を抱くことのなにがおかしい?
砲弾で頭をふっとばされ、顔の原型が無くなり、もはや誰なのか分からないような無残な死を望む奴はいないだろう?
せめて首だけでも綺麗に、と望んだことのなにが間違っていた?
「――お前さ、いつまで幽霊気取ってんの?」
「え……」
怒鳴るでも、声を荒げるでもない、あの時突き放してきた斜堂と同じく、静かな批難が六道からも向けられ、ただえさえ不安定な心情だった墓乃上の顔は青ざめ、引きつる。「――たしかによ、」
「お前はあの墓場に帰りゃあ幽霊たちのお嬢さまだよ。……で、そんな怪異を斬ろうとするのが俺。……でも斜堂先生は違うだろ。お前、散々あれだけ『自分を人間扱いしてくれるお人だ』って喜んでたくせに、お前自身が人間として生きなきゃどうすんだよ」
「なっ……私は人間として、」
「敬語や礼儀を身につけた、だぁ? そうじゃなくて! 人間ってのはなぁ、みーんな死にたくねぇんだよ!」
人間として全力で生きてみろ!
死から遠ざかってみろ!
死ぬことは絶対だ、なんて達観して気取ってねぇで、人間として限界ぎりぎりまで死ぬことから全力で逃げて足掻いてみろ!
そうやって生き延びるための知識を精一杯もらってるくせに、早々に死ぬこと前提で話されちゃあ先生だって失望するだろうよ!
――忍として、人間として生き延びてほしい、って一生懸命教えてる先生の思いを蹴ったのはお前だよ、墓乃上!
痺れを切らした六道から突きつけられた強い言葉に、墓乃上はずっと胸に突き刺さったまま痛くて辛くて、泣くほどたまらなかった斜堂の言葉を思い出していた。
――……今の墓乃上さんには、忍は向いていないと思います。
そうだ、なんで忘れていたんだろう。
どんな手を使おうが、ズルくなろうが、忍というのは生き残ってこその者――斜堂先生はこう教えてくれたはずなのに!
いつか絶対に死ぬんだからしょうがない、なんて最初から諦めているような忍が生き残れるはずもない!
後ろ向きに死の方向ばかり見つめていたら、生き残る道へ進むなんてこと、できるわけがない。
私に足りなかったもの――それは、忍として己の生を、命を、人生を死にものぐるいで守らんとする「人間」としての生存本能!
「……そうか、私は……私は、生きなきゃいけないんだ……」
ところどころ破け、裂け、綺麗とは言い難い障子の傷の合間から、いつの間にか朝日に近い明かりがぼんやりと差してくる。
ここ数日の憔悴に加え、この晩は寝ずに夜通し六道と話していたはずなのに、自分が心から理解すべき大事なことを思い知った墓乃上の顔には微塵の疲れもなく、むしろ清々しく瞳には強い光が宿った。
「……六道さん、私……」
「……もう帰るんだろ? 送ってやろうか」
「……いえ、少し風と陽に当たって……頭冷やしながら帰ります」
「ああそう、」
ここに来た時はだいぶ精神が参っていたのか、昔のままの荒い口調で投げやりに頭を抱えていたその口からは、「墓乃上」としての冷静さと落ち着きを取り戻したものがあった。「――お前さぁ、」
「……少し背、伸びたよな」
旅の荷物を背負い込み、寺の戸を開けてはここから歩き出そうとする彼女の背にひとつ呟いた。
「――ええ、だって私、人間ですから!」
*
……とまぁ、帰ってきたはいいけど……。
六道がいた山奥の寺から学園へ戻った時、もう既にどこのクラスも授業が終わった夕方になっていた。
つまり教師は職員室にいるか、補習でどこかの教室にいるか、委員会活動でもしているか……これでも一応くノ一見習い。
そっと物音立てずに職員室前に来たはいいが、問題はその先――斜堂に会えるかどうかだ。
帰りの道中は気分が上がり、帰ったら即職員室に乗り込む! なんて考えていたが、実際帰ってみればなかなか勇気が出ず、そわそわ、こそこそと右往左往してばかりだ。
そもそも最初になんて言えばいい?
当然色々と謝りたいことはたくさんあるが、今回はそれだけではいけない。
自分なりに考え直した気持ちを、覚悟を、なんて説明すればいいのか――どうしよう、頭の中がぐちゃぐちゃで、正直もう逃げたくなってしまう。
「――墓乃上さん、」
「ほびょっ……!!」
なかなか職員室の戸を開ける勇気が無く、柱の影に隠れては座り込んでいた墓乃上の頭上から呼びかけられ、彼女は思わず尻尾を踏まれたネコに似た声を出してしまった。「……しゃ、……」
「斜堂せんせー……」
「……外泊から戻ったんですね」
「え、ええ……ろ、六道さんのところに行ってまして……」
待って! せんせー! 私、色々お話したいことがあるんです!
そう言って引き止めたいのに、いざ本人に会ったら頭が真っ白になってしまった。
きちんと考えを伝えようとなんとか立ったのはいいが、それだけでもう精一杯だ。
餌をねだる鯉のように情けなく、なんの言葉も出せない口がぎこちなく動くだけだ。
「……珍しいですね、」
「え……、」
「墓乃上さんのほうから彼に会いに行くなんて」
「……い、色々と……聞きたいこととか、話したいことがありまして……えっと……その、私は……私は、自分の考えとか、価値観とか……そういうものを、客観的に見ることができないんだ、って気づいて……それで……」
「……なるほど、それで六道さんに……で、どうでしたか?」
「……せんせー、あの……このあとお時間、頂いていいですカ……?」
震える口元から出る言葉なんて、聞こえるかすら危うい微かなものだ。
それでも涙をこらえ、ひとつ頭を下げる彼女の様子に、ええ、もちろん、と斜堂は頷いた。
「――……せんせーが仰る通り、たしかに私は忍に向いていませんでした」
最近じりじりと鳴きだしてきた蝉の音すらほぼ入らぬ、薄暗い用具倉庫の中で墓乃上は膝を抱えて話し始めた。
考えがうまくまとまらず、分かりにくいことがたくさんあると思います、と先に断っていた彼女の話を、斜堂はそれこそ彼女につく影のように隣で静かに聞いてやる。
「生い立ちを言い訳にするわけじゃありませんが……私にとって死というものは、怖いものではないんです。むしろ、死こそ救いになる……という例も、たくさん見てきました」
どんなに願っても、祈っても、人はいつか必ず死ぬという事実に対し……私は生きることを半ば諦めていたんだと思います。
どうせなにをやっても死ぬ、という考えを私は絶対的な真理だと思っていましたが……よくよく考えたら、これってとても投げやりで、開き直りですよネ。
そうやってあっさりと命を手放しても惜しくない、自分の命を軽んじている人間がまともに任務をこなせるわけ、ないですよネ……せんせーたちは日頃、私達に忍として、人間として生き延びる術を教えてくれているのに……。
私は「どうやったら生き延びるか」ではなく、「どうやって死ぬか」という後ろ向きな考えと希望しか持っていなかったんだと気づきました。
「――斜堂せんせー……! せんせーたちから教えて頂いている知識を、お気持ちを無碍にするような振る舞い、本当に……本当に申し訳ありませんでした……!」
床に手を付き、深々と頭を下げる墓乃上の手元にはぼろぼろと涙が落ちる。
こんな当たり前のことを心から好いている教師に言われても理解できず、六道という第三者に相談し、そうしてようやく、やっと理解できた残念な自分の頭が、心がけが本当にどうしようもなく出来が悪くて情けない――どんなに後悔したって、あまりにも自分が情けない。まともに顔も見れない。「――……墓乃上さん、顔、上げてください」
「墓乃上さんなりによく考えてきたんですね」
涙で濡れる目元を強引に手で拭い、恐る恐る斜堂の顔を見る。なにも知らない他人から見れば分からないかもしれないが、墓乃上から見たその表情は穏やかなものだった。
「墓乃上さんの独特な生死観ですが……個人的には嫌いではないです。むしろ興味深いですが……でも、忍としてこれから先生きていくなら、そういう命知らずで、軽率な部分は見直してほしかったんです。……忍はどんな手を使ってでも、まずは生き延びなくては話になりません」
「……忍として、人間として生き延びてほしい、って一生懸命教えてる先生の思いを蹴ったのはお前だ、人間として……人間として、限界ぎりぎりまで死ぬことから全力で逃げて足掻いてみろ! って……言われまして……本当にどうしようもなく情けないんですけど、私、それでようやく気づいて……」
「六道さんに言われたんです?」
「ええ、お恥ずかしながら……私ひとりではどうにも分からなくて、相談に……」
「……そうですか」
自分に向けられた忠告に対し、他人の手を借りたというのが彼女の中では後ろめたいのだろう。
しかし斜堂はその言葉を聞き、彼女は自分が想定していた以上に成長を遂げていたのかと内心驚いていた。
自分ひとりでは対処できない問題に対し、仲が悪かろうが素直に相談しに行き、話を聞き、自分の中で結論をまとめる――彼女の中で「真理」として固まり、揺るぎなかった価値観が変化したことも喜ばしいが、それ以上に「他人へ助けを求める」ということができるようになったのか、と衝撃だった。
墓乃上という生徒は、生まれながらにして恵まれた霊能力、という非凡な才能を持っているからか、プライドが高く、なんでも自分ひとりでこなしてみせよう、というある意味傲慢な面もある。
そんな彼女が犬猿の仲である六道の元へ自ら行き、己の弱さと間違い故に頭を悩ませることとなった難題の相談を持ち込むなんて……さぞや六道も驚いたことだろう。
「……斜堂せんせー、」
脚に付いた土埃を払い、彼の目の前に立った彼女は泣き顔を拭い、斜堂へ真っ直ぐ視線と宣言を向ける。
「――私は……私は、今後なにがあろうが、意地でも生き延びてみせます。忍として、人間として……なにがなんでも死ぬなんてこと、蹴飛ばしてみせます」
私は人間として、これから先、綺麗な死より醜く足掻いた生を選びます。
……だからせんせー、これからも私に生きる道を教えてくれませんカ?
普段は「せんせーは潔癖症だから、」と指一本触れてこなかったその手が目の前へ差し出される。
不安に縋る手ではない。
自らへ向けられる揺るぎない信頼と、彼女が抱える「生まれの墓場の再建」という夢を成し遂げんとする信念に満ちた手だ。
綺麗な死より醜く足掻いた生――ああ、この子からそんな言葉が出てくるなんて!
「――ええ、一緒に頑張りましょう、墓乃上さん」
大きな夢と希望を生きてこそ掴もう、と差し出された手に、誰よりも「墓乃上」という人間を応援する者として、斜堂はその白い手を強く握った。