斜堂先生とオカルトくノ一女生徒


「――意味が分からん」

 ほんの少し肌寒い風が緩やかに吹く夜。
 もう見慣れた焚き火と、それを前に握り飯を口にする彼女がひとつ呟く。

 人に触られるのを嫌がる彼女をなんとか宥め、頭の傷を覆う包帯を真新しくしたその小さな頭が少し首を傾げる。「お前はなにがしたいんだ?」

「正直、幽霊よりお前のほうが怖い」

 揺らめく火を挟んで向かい合う墓乃上――ではなく、墓場のお嬢さまが呆れた視線を向けてくるものだから、斜堂は彼女に憧れる信者、「カゲマロ」としてその問いに答えてやる。

「簡単な話ですよ。子供が強い剣豪に憧れるように、私は人とは違うあなたに憧れた……ただそれだけの話です」

「だからっていきなり刃物渡してきて『信用できないと思ったら刺せ』なんて言うか?」

「私なりに考えた忠誠心の示し方、ってやつです」

「……アホらし」

 付き合いきれない、と言葉で言わずとも、ひとつ吐いたため息がそう言っていた。
 そしてその白い指を二本立て、小馬鹿にするようにひらひらと振ってみせる。

「人間は二種類しかしない。私を嫌う奴か、利用したいだけの奴だ。お前だって本当はどっちかのくせに、見かけによらず口だけはうまいもんだな」

「そんな……でもあなたから私を子分にしてくれるって言ったんじゃないですか」

「人間が私を利用するように、私も都合のいい人間の駒が欲しかっただけだ。あんまり自惚れんなよ」

 「お嬢さま」に成ってからというもの、相変わらずの警戒心と突き放すようなそっけない言葉。
 姿は「墓乃上さん」のままなのに、言葉、態度、苛立っている瞳は未だ別人のようだ。

 普段は誰よりも素直な気持ちを口にし、誰よりも明るい笑顔が常にあったというのに、今目の前にいるお嬢さまにはそんなものの欠片すらない。

 しかし全くの別人、というわけではなく、今ここにいる「お嬢さま」は「墓乃上」に通じる過去の記憶――なにかしらのきっかけで再度彼女の中でそれが繋がれば、「墓乃上」に戻る可能性だってゼロではないのだ。

 確証はないが、僅かばかり残っているその希望を捨てず、まずは「お嬢さま」との対話に向き合う。
 人間の記憶とは繊細かつ難解なもので、なにがきっかけで、なにが引き金となって記憶を呼び戻すか分からない。
 「墓乃上」の記憶、人格に繋がる糸を探るため、斜堂は彼女の話に問いかけてみる。「――利用?」

「そんな人もいるんですか?」

「ああ、呪いの代行をしてくれとか、死んだ奴に言いたいことがあるから霊を呼んで伝えてくれ、とか……無理難題、好き勝手言いやがる。そのくせできない、って断ると役立たずだってよ」

「それは……酷いですね」

「別に。よくあることだ。……で、お前は私になにを望んでる?」

「え、いや、私はそんな……」

「嘘つけ。いっつも誰か探してるくせに」

 綺麗に切り揃えた前髪。俯き加減で表情自体はよく見えないが、そこから僅かに覗く猫のような瞳には確信を持つ鋭い色があった。
 責めるでも、怒鳴るでもない。落ち着いた口調で突きつけられた言葉はあまりにも予想外で、「カゲマロ」という信者の役としてではなく、思わず心から聞き返していた。

「……どうしてそんなことが分かるんです?」

「……分かるよ。私を縁起が悪いと心底嫌って塩をぶつけてくる奴、私が取って来た薬草なんか使いたくないって買わない奴……私を悪霊だと言い張るくせに斬る覚悟もない見栄っ張りな霊媒師もどき、私が売るものを良い人ぶって全部買うくせに、腹の中では私を勝手に同情して見下してる奴……嫌でも分かるようになる。人間扱いされないとな、他の人間がなにを見ているのかよく分かるようになるんだ」

 今まで飽くほど食してきた人間の悪意、醜い同情心、それら全てが、「お嬢さま」を人間離れした存在へと追いやる。
 だからこそある意味他人事、達観した目線で人間の情を見れるようになってしまったのだろう。

 そんな「幽霊たちのお嬢さま」相手に、彼女を前にしつつも「墓乃上」を探して焦る斜堂の心情など、見破るにはあまりにも簡単すぎたのか――「……すみません、」

「……たしかにお嬢さまの言う通りです。私は……私には探している人がいて、どうしてもその人とあなたを重ねて見てしまうんです」

「はかのうえ、って奴か? 起きた時お前と……白い服のおっさんと、あとなんか綺麗な姉さんが私のこと、そう呼んでたもんな」

 ああ、彼女が怪我をして、手当して、ようやく起き上がった時、新野先生と山本シナ先生、そして私で彼女をそう呼びかけたことを忘れていなかったのか。

 はかのうえ、って誰だよ。

 そう困ったように訊く苛立った彼女の表情、声が、今でも鮮明に思い出せてしまう。

「そんなに似てるのか、そいつと私は」

 別人のように変わってしまった彼女への戸惑い、未だ解けず向けられる警戒心、見透かされた己の内心――胸の内をかき乱す焦り、不安。
 しかしそれとは反対に、そう訊くお嬢さまの声に敵意の棘がないことに少し遅れて気づく。

「え、ええ……色々訳あって、村のみんなで探してる子なんです。あなたによく似た綺麗な黒髪の子で……だからつい私も、あの時いたふたりも、あなたと間違えてしまったんです」

「ふーん、」

 風の元に揺れる焚き火が少し弱まる。
 そこへ彼女は手元の枝を少し投げ入れ、再度勢いを取り戻した灯りに、視線を落とす。

「そいつは生きているのか?」

「えっと……そうですね、そう信じています」

「ふん、信じるなんて無駄だ。人間、死ぬ時は死ぬ。人間の器なんか弱いもんだ」

 まだ幼い身から出る言葉だとは到底思えない非情さ――小枝の僅かな棘ですら指先を切るには十分なほど弱い肉体、という名の器に縛られている人間と、器を持たず自由に漂う幽霊では格が違う、と話が続く。

「だから器が割れる死が人間には絶対にあるんだ。いくら縁起が悪いとか、不謹慎だとか言って隠しても、絶対にあるものはしょうがないのに」

 皮肉にも「墓乃上さん」という人格の器が割れた彼女がそう言う。

 もしそうだとしたら、「墓乃上さん」は彼女の中でもう死んだのかもしれない。

 自分の目標のために必死で覚えた人間社会での身の振り方、という付け焼刃、ひとりで抱えるにはあまりにも重すぎた他人からの期待、求められる救いで溢れ壊れてしまった器――いくら強く手を握って呼びかけようと、一度壊れてしまった死者はもう戻らない。

 「お嬢さま」の中に「墓乃上さん」に繋がる記憶の糸を探そうともがいていた自分の手が、その言葉を聞いて止まったのを感じていた。

「……だからなカゲマロ、死んだのは自分たちのせいだって思ったりするのは意味がないんだ。いつか壊れるものが壊れた……そう思うだけだ」

 だからって墓乃上さんが傷ついて、それを止めきれなくて、記憶がなくなったこともそう割り切れと?

 思わず喉まで出かかった言葉を抑え込む。
 これらは今ここにいる「幽霊たちのお嬢さま」なりの励まし……のようなものだろう。
 頭では分かっていても、あまりにも人間としての情から浮いた彼女の持論にはついていけない。

「まぁ安心しろ。不本意だがお前にはこうやって飯も食わせてもらったし、怪我まで診てもらったわけだ。いくら気に食わんからとこのまま帰るつもりはない。私なりの恩返しってやつをしてやる」

「恩返し……?」

「ああ、私が幽霊と話せるのは知っているだろう? だからな、もしその『はかのうえ』って奴が死んでて……幽霊になってたら、お前が言いたいこと、伝えてやるよ」

 ああ、なんて皮肉なんだろう。
 なんて哀れで、不謹慎で、それでいて救いがない恩返しなんだろう。

「まぁ今はちょっと無理だな……大きな怪我、特に頭に怪我してると、なんだか調子が悪くて幽霊が見えにくくなるんでな」

 「墓乃上さん」を壊した怪我が治っても、割れた器はもう二度と戻らない。
 もしそうだとすれば、今ここに「お嬢さま」の彼女がいる限り、絶対に成り立つことのない哀れな恩返し――「……じゃあ、」

「もしあなたによく似た黒髪の……大きな瞳で、ちょっと変わった南蛮訛りで話す娘にあったら、伝えてもらえますか?」

「ああ、構わん」

「……もしあなたがこのまま戻らなくても、なにも変わらなくても、私の中にいるあなたは死にません。だからあなたはずっと『生徒』で、私はあなたの『先生』であり続けます」

「……それがお前の言いたいことか?」

 立ち上がった彼女は焚き火を踏み消し、大きな灯りを失った夜空の下、「もう寝る」と一言だけ呟く。

 その落ち着ききった顔に、どうしても訊きたかった問いを投げかける。「どうしてです?」

「人間は信用できない、嫌いって言ってたあなたが……なんでこんなこと、聞いてくれるんですか?」

「あー……なんでだろうなぁ、」

 首を傾げ、その視線は星空を見上げるように泳ぐ。
 「墓乃上さん」と同じ癖だ。彼女もなにかを思案する時よく上を見上げていた。
 人格が、記憶が変わろうと、そうやって変わりきれない仕草や表情を前にすると胸が痛くなる。

「まぁ飯も食わせてもらったし、手当てとかも……でもなんでだろうなぁ、」

 なんだかお前泣きそうだったから、放っておけなかったんだよ。



 ざぁっ、と地面を叩くように強く降りしきる雨の音が、今の斜堂には丁度良かった。

 「墓乃上」は死んだ、戻らない、とある意味本人の口から言われたような昨夜、当然ろくに眠ることができず、普段から血色の悪い顔色はより酷いものだった。

 人間の情から浮いたような達観しすぎた生死観、倫理観、なんとも哀れで皮肉、そして無邪気な恩返し――どう考えても救いがない。
 錆びついた鉤爪で精神を引っ掻き苦しめるような昨夜の言葉を思い出してしまう脳に、なにをしなくともずっと聞こえる豪雨の音が心地よかった。

 しかしずっとそうやって傷心しているわけにもいかない。

 今の彼女は持ち前の知識と経験で難なく野営しているが、この激しい雨が降っている今は心配になってしまう。

 足元の悪い中の山道をなんとか進み、彼女が普段焚き火をしていた地点まで着いたが、当然こんな天気では焚き火どころではない。
 そこからもう少し進み、彼女が寝床として籠もっている洞穴まで行く。
 随分前にどこかの学年が訓練で開けたようだが、雨風をしのぎ、子供ひとり寝るには十分な大きさのそこの前に立ち、一言呼びかけてみる。

「お嬢さま、お嬢さま、いませんか?」

 降りしきる豪雨、それが草木の葉と地面を激しく打つ音に紛れ聞こえなかったのか、特に返事は無かった。

 まさかこんな天気の中で外にいる訳がないだろう。心配で胸騒ぎがする中、穴に立ち入っては少し奥へ進む。「――お嬢さま、」

「私です、カゲマロですよ、お嬢さ」

 ま、と言い終えるか否かの瞬間だった。

 隙を逃さず、一瞬にして獲物を絞め上げ飛びかかるヘビの如く、彼に呼ばれた「お嬢さま」は勢い良く彼の胸ぐらを掴みかかっては押し倒した。

「お前、お前っ……私を騙してたな!?」

 あまりにも予想外、その上受け身も取れずに強く倒された痛みに混乱しながら怒鳴り声を見上げると、馬乗りになった彼女が泣き腫らした目でより強く襟元を掴んでくる。「なっ……」

「なんのことですか、」

「とぼけるな偽善野郎! お前、よくもまぁあんな綺麗に嘘吐きやがって!」

 敵意のみだけで叫ばれる言葉に遠慮なんてない。
 そこにあるには彼女の怒りと、混乱。
 何事かと聞き返そうとする斜堂の言葉に被さるよう、彼女は泣き声混じりの怒りを吐き出す。

「私がっ……私が『はかのうえ』って奴だったのか!? 答えろカゲマロ!」

 その言葉に喧しいほどの雨音も、心音も、全てが止まったかのように思えた。まるでどこか遠くへ行ってしまったかのように。

 見上げる彼女の荒い呼吸と共に、自ら彼女へ渡した小刀の無機質な切っ先が喉元へ向けられる。
 そんな彼女の、刀を持っては人に向けることに不慣れな細い手首を掴み、自身に乗っている身体ごと退かすことなど斜堂にとっては容易いことだ。

 しかしそんなことしても意味がない。
 それは彼女への答えにならない。

 信用できなくなったらいつでも刺せ、と言ったのは紛れもなく自分なのだ。
 その向けられた刃と言葉に向き合わずにどうするものか――「……どうして、」

「どうしてそれを知ったんです?」

「たまたまここにいた幽霊が教えてくれたんだよ! 頭の怪我が治りかけて……ちゃんと幽霊が見えてくるようになって喜んでたら、私を『はかのうえ』って呼ぶ幽霊がいて……」

 ああ、なるほど、どうりで。
 いくら教師や生徒たちに口止めしようが、幽霊相手ではどうしようもない。

 前に彼女が話していた通りなら、怪我の治癒と並行して幽霊がより鮮明に見えるようになり、普段から「墓乃上さん」と仲良くしていた幽霊に出会ってもおかしくはなかったのだ。

「なぁ、私は……私は本当に『はかのうえ』なのか? 人間に混じって生活してるって本当なのか? この私が……墓場を置いて……?」

「……本当ですよ。あなたは『墓乃上みつよ』という人間の生徒としてこの学園にいますし、ここに来たのはあなた自身の決意です」

「ち、違うだろ! 私は墓場のお嬢だ! そんな名前は知らん! 私が墓場を捨てる訳がない!」

「別にあなたは捨ててませんよ、墓場も、家族も、」

「うるさい! なんでお前がそんなこと知ってんだ!」

「なんでって……それを今ここで話したとして、刀を突きつけるほど信用できなくなった子分から聞いた話なんて、今のあなたをますます混乱させるだけですよ」

 雨風は防げる薄暗い洞穴の中、そこに降るのは現実を受け入れられず混乱する「幽霊たちのお嬢さま」の幼い涙だった。

 人間への敵意、嫌悪、それよりも深い幽霊たちへの家族愛――「お嬢さま」が持つ感情と、「墓乃上」は真逆なのだ。

 人間の名を持ち、人間たちに紛れ、人間らしくあろうと振る舞い、生活し、愛する家族がいる墓場は遠い地に……真逆の人生を歩んでいたなんていきなり言われ、受け入れろというほうが難しいだろう。

「……たしかに私はあなたに嘘をついていました。私はあなたに憧れる信者じゃありません。あなたの……『墓乃上さん』に勉強を教えてる教師です」

「じゃあ私のこと、馬鹿なやつだ、哀れなやつだって思ってたんだろう? 本当は見下して、可哀想って思いながら飯なんて持ってきてたんだろう?」

 偽善野郎め、と、今度は涙で弱々しくなった罵倒が再度吐かれる。

「それは違いますよ。私から見れば、あなたも、『墓乃上さん』も、どちらも怪我してたら心配になります」

 分からない、なんでだ、人間なんて、そう呟きながら手荒に髪を乱す彼女の姿に一言止める。

「包帯、取れちゃいますよ」

 その言葉に止まる手と、怒りという勢いを失ってしおれるように力なく刀から離れた手。

 どうしていいか、なにを聞けばいいのか、なんと怒ればいいのか、その全てが分からないと涙だけを落とすその顔に、子供をあやすよう優しくひとつ問うてみる。「……ねぇお嬢さま、」

「先生の話、聞いてくれますか?」



「――……分からんな、」

 飛びかかった時の勢いが嘘かのように、牙と爪を引っこ抜かれた猫のように、「お嬢さま」は背を丸めては膝を抱えて座っていた。

 隣で同じように座り、止む様子のない雨を見ながら斜堂は聞き返す。

「なにがです?」

「……色々」

 彼女がなぜ学園来たか、学園生活での様子、「墓乃上」としてどんな振る舞いをしていたか――そのひとつひとつを、斜堂は自身が知りうる限りを彼女へ教えた。

 墓場の幽霊たちへの家族愛。
 彼らのために墓場の再建を目標にしたこと。
 その目標を成すため、くノ一になって稼げる仕事をしよう。
 そのためには人間としての名前も、礼儀も必要だから備えよう――それら全ては墓場にいる家族のためであって、なにも故郷を捨てて裏切ったわけじゃない。

 「墓乃上さん」は、その決意と覚悟をした上で成り立っていた人格であって、怪我のせいでそれを忘れている今、ここにいるあなたが覚えていなくても不思議じゃない……とは説明したものの、やはりそうすんなりと全てが理解できるわけじゃないだろう。

「カゲマ……いや、せんせーか。せんせーはさぁ、なんであの時あんなこと言ったんだよ」

「あの時?」

「『はかのうえ』っていうやつの幽霊をもし見かけたら、お前の言いたいこと伝えてやるよ……って言った時」

「ああ、あの時ですか」

「せんせーにとっては『墓乃上』のほうがいいだろ? それをさ、『もしあなたがこのまま戻らなくても、なにも変わらなくても』って……なんかおかしくないか? 変わんなきゃずっと『墓乃上』じゃなくて私のまんまだぞ」

「……そうですね。でもそれでもいいと思います」

「はぁ?」

 意味が分からん、と呆れた様子で訊いてくるその表情も、柄の悪い態度も、「墓乃上さん」とは真逆のものだ。
 そしてその中から無理やり「墓乃上さん」に通じるものはないか、とむやみに探そうと足掻くから辛くなってしまうのだろう。

「先生も最初はなんとか『墓乃上さん』に戻らないかなって考えてました。……でも、『お嬢さま』と少し過ごして思ったんですけど、どちらの性格でもあなたであることは変わらないんですよね」

「……?」

「まぁ簡単に言うと、『墓乃上さん』でも、今ここにいる『お嬢さま』でも、私は生徒として好きです。それにあなたほどハッキリはしていませんが、人間ってみんな色んな性格が混ざってると思うんです」

 私だって神経質って言われてますけど、個人的にやりたくないなって思ったら勝手に授業止めたりしますし……そう考えると、「神経質」とは真反対の性格が混じっていることになりません?

 そう訊くと彼女は、ダメじゃん、とようやくほんの少し笑った。

「ちゃんと授業しろよ、せんせー」

「そうですねぇ……雨も止みましたし、授業しに帰りますか」

 いつの間にか外から聞こえていた喧しい雨音が嘘のように止んでいた。
 晴れた雲の合間から差す陽は明るく、雨に濡れた草木を鮮やかに魅せる。

「さて……お嬢さまはこれからどうします? 私としては、傷の具合が気になるので保健室でまた手当てしてほしいのですが……」

「保健室……あ、あの白い服のおっさんがいた部屋か?」

「ええ、私も付き添いますから」

「……しょうがねぇな。おいせんせー、学園ってどっちの方向にあんだ」

 よ、と言い切る前の口から短い悲鳴が飛び出た。
 それと同時にがらがらと木や石が転がる音に合わせ、斜堂に背を向け少し歩いた彼女は消えたのだ。

「えっ、墓乃上さん!?」

 思わず呼び慣れた名で慌てて駆け寄ると、「墓乃上」兼「幽霊たちのお嬢さま」は、深く掘られた落とし穴の底で情けなく目を回していた。



「まったく……今回は先生が側にいたから良かったものの、一歩間違えば大事故になってたんですよ?」

 雨上がりのぬかるんだ土を相手になんとか彼女を救出して保健室に運んだ斜堂は、だいぶ泥で汚れてしまった自身をできる限り手ぬぐいで拭きつつ、保健室の外で落とし穴の名人、綾部喜八郎相手に注意する山本シナの声を聞いていた。

 まぁ彼に悪気があったわけじゃないのは分かるが……。

 白い肌が、綺麗な黒髪が、それも自分と同様に泥だらけになっているのも心配だが、それよりも心配なのは頭の傷のことだった。

「どうですか、新野先生」

「うーん……まぁ見た限りでは順当に治っていますね、幸い傷も開いていませんし……」

「そうですか……それならよかったです」

 そう言われて見れば確かに安らかな寝顔をしている。
 ここしばらくは「お嬢さま」として野営してばかりだったから、このままゆっくり布団で寝かせてやりたいものだ。

「私、お水汲んできますね。私もですが……墓乃上さんも綺麗にしてあげないと」

「ああ、すみません斜堂先生、お願いしますね」

 と、保健医の彼が斜堂の名を呼んだ時だった。

 人形のように静かな寝顔で眠っていたはずの彼女が、まるで悪夢から飛び起きるような勢いで上体を起こしたのだ。

「せんせー……?」

 起きたばかりの寝ぼけ半分の声と目でしばらくきょろきょろするその姿に驚き、暫し固まっていると斜堂と彼女は目が合った。「――あ、」

「斜堂せんせー! どうしたんですカその泥……! なにかあったんですカ?」

 さっきまで気絶していたとは思えぬほど、自分を見るなりきらきらとした笑顔と共に明るい声、しかも南蛮訛りで話しかけてくる彼女は――もしかして。

「は……墓乃上さん?」

「はい!」

 その元気の良い返事に斜堂はもちろん、新野も、綾部喜八郎に注意していた山本シナも一斉に「墓乃上」に戻った彼女の顔を見る。「いやァ、」

「だいぶ疲れてたみたいで……随分寝ちゃったらしいですねェ。申し訳ないです」

 気ままな猫が昼寝から起きるように身体を伸ばす。
 その様子から察するに、「お嬢さま」として過ごしていたここ暫くの記憶はないのだろう。

 頭に怪我を負って「墓乃上さん」の記憶を忘れたように、今度は綾部喜八郎の落とし穴に落ちた衝撃で「お嬢さま」の記憶をなくしたらしい。

 「墓乃上」に戻ったことに喜ぶ教師たちを前に、墓乃上本人はのんきにあくびをひとつする。

「墓乃上さん、」

「なんでしょう、斜堂せんせー」

 思わず呼びかけた声に振り向き、笑いかけるその明るい表情――ああ、見慣れていた彼女だ。

「おかえりなさい、墓乃上さん」

 斜堂のその言葉に心覚えのない彼女はしばらくぽかんとしていたが、それでも親愛している教師からそう言われて答えない生徒などいないだろう。「――はい!」

「ただいまです、斜堂せんせー!」

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