斜堂先生とオカルトくノ一女生徒
「――いらん。カゲマロ、お前が食え」
霊媒師兼くノ一教室の生徒だった墓乃上みつよが頭に傷と衝撃を負い、そして不運、あまりにも不運なのだが、彼女が努力して築き上げた「墓乃上」という素直で温厚な人格が消えてしまったのは昨日のこと。
「墓乃上」を名乗っていた少女は今、生まれ故郷の墓場に君臨していた「幽霊たちのお嬢さま」に戻っている。
そんな彼女を「喜車の術」でうまくおだて、彼女に憧れ尽くす変わった信者、「カゲマロ」になった斜堂は、彼女が怪我を治すまでの間、他の生徒と会わぬようにと案内した裏山のもっと奥、裏々山の隅に訪れた。
元々幽霊たちから教わった知恵だけで生活していた身の上、「墓乃上さん」の時でも彼女はよく好んで野営をしていた。
今ここにいる彼女も変わらず、澄み切った星空の下、大漁に捕れた、と機嫌良さそうに焚き火でヘビの串焼きを作っている。
そこへ事情を知って心配した食堂のおばちゃんが作ってくれた弁当を差し入れたのだが、なんともあっさり断られてしまった。
今の彼女は人間に対する不信感が強い。
当然そのまま渡しても怪しまれるだろうと、「お嬢さまに食べてほしくて私が作ったんです」と信者らしい嘘も添えたのだが、それでも駄目だった。
「お前は顔色が悪すぎる。ちゃんと飯を食え。お前に比べたら私の墓場にいるみんなのほうが元気だ」
「そう言われましても……お嬢さまこそ、ヘビなんかで足りるんですか?」
「ああ、慣れてるからな」
その言葉通り、幼い手が慣れた動きで捌いたヘビの身に小枝を刺していく。
刃物もないのにどう捌いたのか不思議に思ったが、彼女の傍らに先が鋭く尖った石が置いてあった。
おそらくこの森の地面から探して見つけたのだろう。さすが野営経験が豊富なだけある。
今の彼女にとっては全く見知らぬ土地だというのに、もうすっかり順応している。
昼間は教師としての業務があり様子を見に来れなかったが、彼女なりに今の怪我では墓場に帰るのは難しいと理解してくれたのだろう。
もしやいなくなっているんじゃないかと心配し、仕事を終えてすぐここへ来てみたが……その心配はとりあえず不要だったらしい。
早く焼けないかと焚き火を見つめるその横顔に安心する。
「……幽霊は感情の塊だ」
「え?」
「幽霊には肉体がない。だからなにも持てない。持たざる者なんだ。でも感情だけはあるから、みんなで感情を分け与えるんだ。なぁカゲマロ、分かるか?」
一瞬心臓が止まるかと思った。
なぜならその言葉は、つい最近、「墓乃上さん」も言っていた話とまったく同じなのだから。
「墓乃上さん」の人格が戻ってきてくれたのかと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
月と星、そしてぱちぱちと弾ける音と共に燃える焚き火の灯りを前に、彼女は語る。
「嬉しい気持ち、悲しい気持ち、楽しい気持ち……みんなで色んな気持ちを分け合うが、私は人間だ。飯も、水も、体温も持っている。だからその分、より多くのものをみんなに分けてやりたい。子分に飯を食わすのもお嬢さまの役目だ。私はいらん」
ようやく焼き加減に満足したのか、ヘビの串焼きを一本手に取ってはかじりつくお嬢さまにひとつ聞いてみる。
「だったらこれも分け合えばいいじゃないですか」
「あ?」
「幽霊にご飯はいらないでしょうけど……今ここにいる私とあなたは一応人間なんですから、一緒に食べられますよね?」
「……お前さ、」
「はい、」
「……人間の友達、いないだろ。あんまり私に入れ込むとますます嫌われるぞ」
「いいじゃないですか。私、あなたに憧れてるんですから」
「…………」
彼女からの遠慮ない呆れた目と冷たい言葉に内心少し傷つくも、そんな些細なことに構っている時ではない。
彼女も私が引き下がらないと察したのか、仕方ないな、とひとつ握り飯を手に取る。
「……うまい。米なんか久しぶりだ」
「それならよかったです、また明日も持ってきますよ」
「……断る、人間に飯を集る気はない。それになカゲマロ、子分にしてやるとは言ったが、私はお前だって信用してるわけじゃない。お前が私の墓場の場所を調べてくれるって言うからこうして話してやってるんだ、あんまり勘違いするなよ」
少し縮まったかと思った距離感を、彼女は無遠慮に大きく引き離し、拒絶する言葉を口にする。
なぜこうまで頑なに人間との関わりを絶とうとするのか――「墓乃上さん」だった時も、墓場に住んでいるから、という理由だけで人間とあまり馴染めなかった、とは言っていたが、そこから先はあまり語らなかった。
そして今、目の前には「墓乃上さん」が今まで必死に隠してきた敵意がそのまま生きている。
……今はまだ、これ以上踏み込むべきではないだろう。
あまり強引に近寄りすぎると、傷も治らぬ内に無理にでもここから出ていこうとするだろう。
今最優先すべきなのは、頭の傷が癒えるまでこの山奥の中にいてもらうこと――自分たち教師の目が届く範囲にいてもらうことなのだ。
「……分かりました。すみません、出過ぎた真似を」
「ふん、分かってくれればそれでいい。私は寝るぞ。お前は帰れ」
「寝るって……どこにですか?」
「あっちのほうに洞窟……よりは狭いか。岩山の横に穴が空いててな、そこに寝る」
ああ、そういえば随分前に五年生か、六年生あたりが訓練で使っていたような……「それじゃ、」
「墓場の場所が分かったら来い。それ以外は来るなよ」
来たら殺す、と続くような強い言葉を言い残す彼女に、斜堂はそれ以上なんと声を掛けてやればいいのか分からなかった。
*
「――ということで、墓乃上さんはまだ『お嬢さま』のままでして……」
次の日の昼、斜堂が保健室で新野に報告すると、彼は思いつめたように渋い顔をする。
「斜堂先生の話の通り、彼女にとっての素の状態はその『お嬢さま』であって……『墓乃上さん』というものはそれを隠すように頑張って作り上げた人格……なら、もしかすると……」
「もしかすると?」
「……治らないかもしれませんね」
「え、」
常に温厚な新野が静かに言ったその一言に斜堂は固まる。
なんとなく、漠然と、最悪の方向を見ないようにと現実逃避するように、傷さえ治れば「墓乃上さん」も戻るだろう、戻るはずだ、と思い込んでいた脆い考えが砕け散る。
「そもそもなんで彼女が『墓乃上さん』という名前と人格を作り上げたのか、斜堂先生はご存知なんでしょう?」
「え、ええ……生まれ育った墓場を再建するため仕事を得るには、くノ一になって自立しようと思った、と……」
「……つまり、その目標を忘れてる今、わざわざ『墓乃上さん』になる意味がないんですよ」
「ではそれを思い出したら……」
それを思い出したら戻るかもしれませんね、と言いつつ、そんな簡単なものじゃないだろう、と自分の中の理性が内心冷たく呟く。
「人間の記憶っていうものは複雑ですからね……単純に他人が教えても、今の彼女が人間を信用してないのなら、そもそもまともに聞き入れてくれないでしょう」
「……新野先生は、今までこういう患者を診てきたことってあるんですか?」
「……ええ、まぁ」
多くは語らぬが、暗い表情でひとつ頷かれただけで十分に察することができた。
「山本シナ先生には私から言っておきますよ。一年ろ組の子たちも心配してましたし……あの子たちには、金楽寺のほうで療養していると言っておきます」
ああ、そうだ。墓乃上さんが倒れたところを見てしまった一年ろ組の良い子たちは、彼女のことをなによりも心配しているだろう。
彼らは「墓乃上さん」に懐いていたし、反対に彼女もよく面倒を見ていた。
今の「墓乃上さん」――いや、「お嬢さま」の姿を、あの子たちに見せるわけにはいかない。
「……すみません、ご面倒おかけします」
治らないかもしれない、という無情な想定が頭を、胸を傷ませる中、斜堂は包帯を一巻き持っては保健室を後にする。
「斜堂先生、」
保健室の戸を閉めるその時、新野からひとつ呼び止められる。
「……これは誰も悪くない事故なんです。あまり思いつめないように……」
誰にでも優しく気遣う新野の言葉が、今の斜堂にとってはなによりも痛かった。
思わず言葉が詰まるが、どうも、とひとつ頭を下げ、包帯、弁当、水筒を風呂敷に包み、それを手に彼女がまだいるであろう山の奥へ向う。
「誰も悪くない」?
ならなぜ今まで彼女が必死に積み上げてきた「墓乃上さん」という人格が砕けた?
砕いたのは誰だ?
彼女自身が己の持つ能力と使命感に溺れたからか?
まだ幼い彼女には重すぎる期待と救いを求めた一般人か?
――彼女を一番知っているくせに、それらの重責をひとりで抱え込む彼女の限界に気づけなかった教師のせいか?
いや、気づいていた。
だからこそあの日、わざわざ職員室に呼び出してまで彼女と対面したくせに、彼女の気迫に負けて強く注意できなかった自分のせいだ。
いくら後悔しても遅すぎる。
実質、「墓乃上さん」は死んだのかもしれない。
幼い勢いと義務感、使命感でひたすら走り続け、そのまま身投げするような彼女を止められなかったのだ。
彼女を一番知っているなんて、とんだ自惚れだ。
泥のように纏わりつく罪悪感で一歩一歩進む足取りは重く、心臓はこのまま弾けてしまうのではないかと思うぐらい速く刻み、まるで耳元で鳴っているかのような感覚がする。
――それでも「彼女」に会わないと。
*
「……お前さぁ、」
昼過ぎから夕暮れにかかり、少し肌寒くなる元。
倒れた時のままの私服、赤い着物の彼女を見つけるのは容易かった。
昨日と同じく焚き火を燃やし、傍らにある切り株に腰掛けている彼女がこちらを呆れたように見上げる。
脚を開き、頬杖を付き、その柄の悪い態度にはお似合いな目つきをしていた。
「また飯なんか持ってきて……私が昨日言ったこともう忘れたのか?」
「……忘れてませんよ。でも私、あなたに憧れてるんですから。いくら貢いだっていいじゃないですか」
「よくねぇよ。というか墓場の場所は分かったのか?」
「今教えたらお嬢さま、怪我が治る前に帰ろうとしちゃうでしょう? それよりもまず怪我治しましょうよ、包帯持ってきたんで替えますよ」
「いらん、帰れ」
「今のやつ、だいぶ血とかで汚れちゃってるじゃないですか。綺麗なやつに取り替えましょうよ」
そう言って一歩近づいたその時、ひゅっ、と空を切る音が頬をかすめる。
そして背後で石が地面に落ちる音を聞き、彼女が自分に向けて鋭く投げたのだと察した。
「いくら子分でもお前は人間だからな、次は当てる」
左手に石を何個か持ち、それを見せびらかすようにじゃらっ、じゃらっ、と軽く投げては受け止め、軽く投げては受け止め、とするその手を前に、斜堂はひとつ交渉を始める。
「……今のあなたは無防備です。そうやって石を投げるぐらいしかできませんよね」
「だからどうした? カゲマロ、あまり私を舐めるなよ、次は目を狙ったっていいぞ」
「……私はあなたに尽くしたい。でもお嬢さま、あなたは人間を信用できない」
――だったら、これでどうです?
懐から出した「それ」を彼女に渡すよう、地面に放り投げる。
最初は怪訝そうな顔をし、恐る恐るといった様子で「それ」を見た彼女が驚く。「カゲマロ、」
「なんの真似だ? というかこれはなんだ」
「小刀ですよ。見ての通り刃物です」
「そうじゃなくて、」
「あなたが子分の私を信用できないと思ったら、いつでもそれで刺しなさい」
さっきまでは敵意一色だった幼い顔が、今度は困惑一色に染まる。
あまりにも突然の話だ。予想なんかまったくできない話だ。混乱したように小刀と斜堂の顔を何度も見比べ、驚きで開いたままだった口からようやく出たのは怒りの一言だった。「馬鹿!」
「カゲマロ! お前なに考えてんだ!」
「……あなたはあまりにも無防備です。私には見えませんが、きっとここには幽霊も少ないか……ほぼいないのでしょう。無防備で、ひとりぼっちで、それでいきなり人間を信じろ、なんてあまりにも無理な話でしょう」
ずいぶん前に「墓乃上さん」が言っていた話が本当なら、幽霊というものは明るく活気が溢れるこの学園を好まないらしい。
木々で鬱蒼としているものの学園の敷地内であるこの山も同様、幽霊が少ない、いても自我のない雲のような浮遊霊しかいない、とぼやいていたことがある。
そしてその感覚は今目の前にいる「お嬢さま」も同様に思っていたのか、明らかに狼狽えている。
「それでもあなたは、私を初めて人間の子分にしてやると言ってくれましたし、私は本当にあなたに尽くしたいんです。……その小刀は、私からの誠意です」
「誠意……」
「……まぁ、お好きなように受け取ってください。これでいつでも裏切った子分は処分できると考えれば、無防備な今よりは少し気持ちに余裕ができると思いますが」
彼女は恐れるようにそっと小刀を手に取り、割れ物を扱うよう僅かに鞘を引き、刀身を出す。
すっかり暮れた夕日の赤くぎらつく日差し、焚いた火の揺らめきがその無機質で鋭い刀身も照らす。
その目には騒がしい輝きとは反対に、目の前にいる男の様子は落ち着いた様子で変わらない。
――こいつは……こいつは一体なんなんだ?
「今のあなたに必要なものは余裕です。余裕がないから全員が敵に見えるし、下手に信頼なんかしていざ裏切られたら……と考えて怖くなる」
「……カゲマロ、」
「はい、」
「……お前は一体なんなんだ? なぜ私にここまでする?」
「言ったじゃないですか。私はあなたに憧れ、尽くしたいだけの人間です」
さぁ、綺麗な包帯に取り替えましょう?
そう笑いかける男の真意と、自分に向けてくる崇拝の感情――そして、自分を信じてみろと刀を渡してまで自身の誠意を強く見せてくるその態度に、今まで人間からの憎悪、嫌悪、悪意ばかり飽きるほど食べたお嬢さまは、内心怖いほど混乱していた。
人間からの愛情、好意という今までの人生、味も知らないまま飢えていたそれらを、まるで渡された刀の切っ先のように真っ直ぐ向けられ、なんと拒絶し怒ればいいのか、そもそも怒ること自体が正しいのか、なにも分からないままごちゃごちゃと絡まる頭ではうまく言い返せない。
「あ、ああ……分かったよ……」
そうやって一言、ようやく頷きひとつで返すのがやっとだった。