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四、スイセンが切なく咲く中で


「幸村さんがシングルススリー!?」


 切原くんが前のめりになりながら幸村さんを見送る。その横を聖者が闊歩するように幸村さんが歩いていく。


「赤也、そんなに騒ぐものではないよ」
「す、すんません……」


 肩に羽織ったジャージが揺れる。私の横を、爽やかなホワイトフローラルの香りが通り抜ける。その瞬間、優しくて、涼しげで、厳かな印象さえ与える彼のミステリアスな魔力に囚われ私は動けなくなってしまう。


「約束通りS3で来たようだね。その勇気は認めたいところだけど、彼にはお仕置きが必要だ。キミもそう思うだろう? ##NAME2##」
「あ……応援してます、幸村さん」


 思わず固唾を呑む。幸村さんの表情が一気に変わって怖いくらいだ。けれど、待ちに待った幸村さんの試合。瞬きするのも勿体無い。しっかり見なくちゃ。


「ほう、幸村が出るか……何があったんじゃ?」
「話すと長くなるのですが……」
「やはりお前絡みか」
「試合を観戦しながらお話を聞かせてもらいましょう」


 二年生が私の周りに集まってくる。幸村さんに釘付けになりながら、だいたいの経緯を話す。


「そうでしたか……それは許せませんね。幸村くんが怒るのも無理はないでしょう」
「いやでもよ、わざわざ試合でシメようって、幸村くんはどんだけこいつが絡まれるの気に入らなかっ……た」


 丸井さんは、あ、というような顔をしたまま固まった。


「丸井、それは言わんのがお約束じゃ」
「今のもしかしてヤバいやつ?」


 ポンポンと地面にボールを叩きつける音が止み、幸村さんがちらりとこちらを向いて不敵な笑みを浮かべたように見えた。


「幸村は地獄耳やき……」
「先輩達、見て! 幸村さんのサーブですよ!」
「あ、ああ……そういやお前、幸村くんの試合見るの初めてだっけ……」


 先輩達が一斉に静まり返る。なんだろう、この緊張感は。幸村さんのサーブが決まる。相手は動くことすら出来ずにワンゲームを立海が先取した。

 なんて綺麗なのだろう。流れるような仕草、完璧なフォーム、完璧な軌道。
 それはレシーバーになっても同じだった。完璧な打球。でも、先輩達は喜んで拳を上げるわけでもなく、不思議な程静かに観戦していた。


「幸村、やるつもりか……」
「故意にラリーを続けているようですね」
「おい、切原。お前もあいつの本当の凄さ、見た事がないじゃろ」
「本当の凄さ……」


 前のめりになって試合を観戦していた切原くんも、会場の空気の異様さに生唾を飲んだ。


 そういえば、ラリーを続けているものの、幸村さんはその場を殆ど離れていない。しかも、汗ひとつかかず、口元には常に微笑みをたたえている。

 それに、相手選手の様子が明らかにおかしくなってきている。ラケットを持つ手を不思議そうに見つめたままその場に立ち尽くして、返球する気力も失ってしまっているらしい。


「相手選手、大丈夫でしょうか? 体調が悪いんじゃ……」
「おまえさんは優しい子やのう。あんな目に遭っても奴に同情するか。じゃが、心配は無用。まぁ見ててみんしゃい」


 幸村さんが無表情のまま淡々とサーブを打ち込んでいく。地面にボールを打ちつけながら、ふいに彼が口を開いた。


「俺は自分に自信を持つようにしいる。だから普段はお前みたいな男がいても特に心配することはないんだ。だけどね……」


 幸村さんが語りながらサーブを相手コートに正確に突き刺していく。それはあまりに淡々としていて、一方的な試合だった。なぜこんなことになっているのだろう。こうなってしまっては、この試合にもはや意味はあるのだろうか。そんなふうにさえ感じてしまう。しかし続けて彼の口から語られた言葉は、ついに私にこの状況を客観視させる余裕を失わせた。


「だけど君は俺の大切なマネージャーを危険に晒した。彼女、どんなに怖かっただろうね」


 そこでついに私の都合のよい解釈が、思い過ごしでなかったことを悟る。幸村さんは、今確かに私のために戦ってくれているのだ。


「ほら、どうしたんだい? 練習とはいえ、これは試合だよ」


 幸村さんが対戦相手の真横にボールを打つ。対戦相手は、とうとう膝をついてラケットを手放した。


「見えない所からボールが飛んでくる恐ろしさ、少しは理解できたかな」


 幸村さんが相手の側へ歩み寄って声をかけるが、返事はない。可哀想なくらい、冷や汗をかいて震えている。
 ただ幸村さんの先ほどの言葉には疑問点がある。


「見えない所から、って……」


 私は試合を終えた幸村さんにタオルを用意しつつも、呆然としていた。彼はタオルを受け取り、軽く首元に当てるが、汗などひとつもかいていない。
 対戦相手は確かに手も足も出ないような状態だったが、コート上に立っていてボールは見えていたはずだ。仮に目が追いついていなかったとしても、飛んでくる方向は見失わないはずだ。

 ただひとつの可能性として、どこかで読んだある言葉を脳内で手繰り寄せる。幸村さんの完璧すぎるテニス。そして対戦相手の状態は、まるで……。


「……イップス……」
「だよな……?」


 私と同じく試合に釘付けになっていた切原くんと顔を見合わせる。どうやら彼も私と同じ可能性を見出していたようだ。


「イップスに陥る程の完璧なテニス……?」
「そんなの、アリかよ……」


 困惑する私たちの様子を先輩達が愉快そうに見ている。


「忘れたんか? おまんらの先輩は、神の子ぜよ」


 仁王さんにそう言われ、私は立海を全国優勝へ導いた一年生レギュラーの話を思い出していた。マスター、皇帝、神の子。

 幸村さんの後ろ姿を見ながら、私は改めてとんでもない人たちと青春を共にしている事に気付かされた。幸村さんが肩に羽織ったジャージが風になびく。彼はとうとう試合中一度も肩からジャージを落とすことはなかった。
 再び幸村さんの後ろ姿に釘付けになっていると、幸村さんが振り返る。


「##NAME2##……、怖がらせてしまったかな?」
「いえ、幸村さんの偉大さを改めて感じました」
「大げさだよ。俺は俺にできることをしているだけなんだから」
「それがすごいんですよ」


 こうして、シングルススリーは対戦相手が棄権のため、この練習試合は立海の勝利が確定された。


 なんだか色々あったけど、おかげで幸村さんの本当の凄さを知ることができた。正直少し戸惑った。無垢だと思っていた幸村さんに少しの闇を感じたから。けれども……けれども私は、そんな彼に益々惹きつけられていた。神であっても聖人君子である必要はない。敵意を露わにしてもいいし、闇を抱えていてもいいのだ。そしてその闇を隠すことなく共存させる幸村さんが羨ましいとさえ思う。美しいと思う。

 私は、人に嫌われたくないから、人に好かれるように振る舞っているだけなのかもしれない。自分の内面に目を向けてみると、時々自分が嫌な子に見えた。
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