四、スイセンが切なく咲く中で
時の流れは早い。今日は今年何度目かの練習試合。私はあれから猛勉強して、時に屋上庭園で花と幸村さんに癒されながら着々と知識を深めていった。
マネージャーとしての仕事ぶりも褒められるようになったし、前回の練習試合でもしっかりサポートできたと思う。
けれど、何度か練習試合を重ねたというのに、幸村さんが試合しているのを見た事がない。
理由は明白。幸村さんは二年生でありながらシングルスワンなのだ。彼まで回ってこない。
勝利はうれしいけど、幸村さんが活躍するのも見てみたい。飲料をカートに積んで運んでいると、横から勢いよくボールが飛んできて、積んだ箱が横倒しになってしまった。
「きゃあっ! いた……あっ! ドリンクが……」
「お嬢さん、大丈夫?」
見知らぬ人が手を差し伸べてくれる。咄嗟のことだったので、なんの警戒もなしにその手をとろうとした時。
「うちのマネージャーから離れてもらおうか」
幸村さんがすぐ側まで駆け付けてくれていた。聞きなれた声に安堵する。しかし、見上げればその声の主は少し怖い顔をしていた。
「せっかく助けてあげようっていうのに、そんな言い方ないんじゃねーの?」
「しらを切る気かい? 君が彼女目掛けてボールを放った事、気付いていないとでも?」
「えっ、どういうことですか?」
幸村さんに支えられながら立ち上がる。転がったドリンクも気になるが、幸村さんの言ったことも気になる。故意にぶつけてきたならこの人の目的は一体?
「##NAME2##、大丈夫?」
「は、はい、私は大丈夫です。でもドリンクが……」
「そんなものはいいよ、キミの安全が最優先だ」
転がったドリンクを拾おうと動くが、幸村さんに制止される。そして私の体を庇うように手を差し出し自分の後ろに隠した。
「さぁ、答えてもらおうか。どうしてこんな事をしたのかな? 俺たちの邪魔をするため? それとも……彼女の気をひくため?」
「フン。何の事かな。そっちこそ因縁つけてきてどういうつもりだよ」
一触即発
迂闊に口出しはできないけど、私は無意識のうちに幸村さんの服の裾を掴んでしまっていた。すると幸村さんは私の手を握ってくれる。大きく逞しい彼の手が私を守ってくれている。この行為が私に確かな安心感を与えてくれる。
「言い逃れする気かい? まぁそれなら……テニスで語ろうか。俺も今日は練習試合に出ようと思っていた所だ。シングルススリーで君を待つ。自分がした事の恐ろしさを俺が教えてあげよう。まさか逃げたりはしないだろう?」
「はぁ? ろくに試合出ない奴なんかに負けるかよ」
対戦相手は悪態をついて去っていった。とりあえず、おかしな事にならなくてよかった。
「あの幸村さん、ありがとうございます」
「ううん」
幸村さんは私の頭を優しく撫でてくれて、どうにか恐怖に怯えた心が落ち着いていく。でも私の目の前には、散乱したドリンクがあって、中身が出てしまっているものもある。なぜ? どうして? 不当な体験に涙が滲んでくるが雫を零さぬよう耐える。
「##NAME1##さん、怪我はなかった?」
「はい……」
「ごめんな、怖かったろう」
「どうして幸村さんが謝るんですか、幸村さんは悪くない」
怖くなかったと言えば嘘になるけど、幸村さんには何の責任もない。それよりどうしてこんなことになってしまうのか自分がわからなくなる。いつもそうだ。何が原因か自分でもわからないうちに、敵を作ってしまう。
「腑に落ちない顔をしているね」
「はい……。私、あの方とは面識がないはずなんです。どうしてこうなっちゃうんだろう……。私、知らないうちにあの方に何かしてしまったんでしょうか?」
「そんなことはないよ……多分彼は、彼の一方的な感情を自分の中で消化する事ができなかったんだろう」
「どういう事でしょう」
幸村さんがうつむく私の正面に顔を覗き込ませながら、困ったように眉を下げた。
「やっぱり気付いていなかったんだね。彼、会場に入ってからずっとキミを目で追っていたんだ。だけど、あんな卑劣な手を使って近付こうとするとは誤算だったな」
「そんな……」
「俺は少し気にしてた。彼がキミに興味があるのだと気付いていたから。それなのに、こんなことになってしまって……。やっぱり、俺はキミに謝らなければいけないと思う」
そう言ってくれるけれど、どう考えてみても幸村さんが謝る理由にはならない気がして首を横に振る。
「うーん、俺の謝罪をキミが素直に受け取ってくれるとは思っていなかったけど、やっぱり俺は自分の不甲斐なさが許せない。早く試合をして、スッキリさせたいなぁ」
幸村さんがドリンクを拾い始めてくれたので、私も慌てて一緒に拾い始める。悩んでいる場合じゃなかった。試合までにマネージャーの仕事をしっかりこなさなければ。
「##NAME2##」
「あ、はいっ」
「つい彼に対抗意識を燃やして名前で呼んでしまったけど、嫌じゃなかった?」
「全然、です」
少しむずかゆいけれど、なんだか親密な感じがして鼓動が高まる。
ああ私はなんて単純なのだろう。自分の口元が緩んでいることに気がつく。
「じゃあ、これからはそう呼ぼうかな。俺の事も好きに呼んでくれてかまわないよ」
「幸村さんは幸村さんですよ! 先輩ですし」
「そう? まぁ、キミらしいけどね」
ドリンクを抱えながら微笑む幸村さん。彼はやっぱりすごい。私の陰鬱な気持ちはもうすっかりどこかへ消えてしまった。美しい横顔はまるで聖者のよう。どこまでも神聖で、特別な存在に思えた。
けれど私はこの後、そんな彼に秘められた恐ろしさを知ることになる。