主≠監。
heat haze
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――――。
自分の荷物の入ったボストンを肩に抱えるくらい、いつもならなんてことはなかった。
日課といえばそうだったし、大量の飲料水だって、毎日タンクごと担ぎ運んでいる。
だからちょっとしたことで音をあげる……なんていうのも、本来なら程遠いシチュエーションではあった。
「偶然ですね……。フロイドは滅多に試合に出ないものですから、僕……あまり此処に来ることがないんですよ……まさかお会いできるなんて」
「――…ッ……ん、……そうですね…」
それは自チームの快勝後、挨拶を済ませて退場した面々はちょうど、列の最後尾を名無しが歩いていたときのことである。
メンバーチェンジののち、クールダウンをとっていた部員の一人に新しいアイシングを渡し、話をしながら後方へと去る。
途中、扉付近ではコートに向かい黙って一礼もすると、名無しは無事に試合が終わったことに胸を撫で下ろしていた。
顔を上げて振り返ればすぐに廊下に差し掛かって、残るは軽いミーティング……その為に、自分たちに宛がわれた控室を目指すだけだった。
目的の部屋までの直線を進むだけの簡単な工程。
そして角を曲がろうとした瞬間、名無しの表情はそこで一気に青褪めていた。
「名無しさん?」
「ッ……は…い…」
「……ふふふ」
「…っ……」
曲がり角、突如として見知った男に声をかけられれば、誰だって驚かずにはいられないだろう。
出会いがしらにぶつかったわけではなかったものの、肩からずれ落ちたショルダーベルトを戻すことも出来ず、バッグの底面が床につく。
例外なんてなかった……。
それに自分より遙かに背も高い、言うなればジェイドだってこのスポーツに適した長身の持ち主だったのだから、運動着やユニフォームではなく制服を着ていれば目立つのは当然だ。
このとき、誰が見ても他校の部員の身内と分かる、そんな風貌をした彼と言葉をかわした瞬間を、隣に居たチームメイトに隠すことは不可能だった。
が、せめて自身の動揺だけは絶対に見せまいと、名無しはその場で必死に平静を装った。
歩いていたのが自チームの最後尾で、本当によかったと思いながら……。
「っ……」
「おやおや……本当に偶然ですよ?お互いのチームは、試合の時間も使用していたコートも違っていましたが……僕の居たスタンド席からは、名無しさんがよく見えました」
「そ……そうですか……。でも、客席に居たのなら、なんでこんな場所まで……」
「それは勿論、フロイドには元々会いに行く予定だったんですが……貴方を見つけたので、先にご挨拶をと思いまして……。そろそろお会いしたかったところですし、……ね?」
「…ッ……」
「ナイスタイミングでしたね、ふふふ」
名無しはジェイドと顔をあわせてしまったことでその場に立ち尽くし、前進するのも一旦は諦めていた。
急に立ち止まれば、隣を歩く部員にも振り返られる。
挙句、自分たちの会話している様子も少し見られてしまえば、不思議そうにこちらを窺うのも当然だろう。
その表情を晴れさせる為に、自然体を演じる必要が名無しにはあったのだ。
まあ、平静を装った甲斐は一応あったのが、このとき彼女に齎された唯一の救いだろうか……。
すぐに追いつくからと潔く視線とジェスチャーを送れば、部員は納得して、案外とすぐにそこから離れてくれた。
ボストンを落としたときに響いた鈍い音も、身体のバランスが崩れたような仕草をとることでなんとかごまかした。
「ふふふ……」
ふと、自分を見上げながら交わす部員とのやりとりに、ジェイドが苦笑いしているのが横目に見える。
けれど今更からかわれたところで此処では何も声を上げられなかったし、名無しはあくまで演技に徹し、怪しまれないことだけを考えていた。
そして彼に呼び止められるがまま、同じ場所で暫く付き合わされる。
その会話によってこの後の予定も掌握されてしまえば、つまりそれは、名無しがこれから二人に縛られる運命にあったということだ――。
「やはり約束のないままこうしてお会いすると、どうしてか運命的に感じてしまいますね……フロイドも喜ぶと思いますよ?先程、メッセージを残しておきましたので」
「っ……、…分かったから、あの……今は待……」
「ええ……理解していますよ。色々気付かれると大変なんですよね?今の貴方は、どうやら男子部における紅一点のようですし……」
「……っ………」
「ミーティングなのでしょう?フロイドだって今頃はその筈ですよ……ちゃんと参加していれば」
「……ッ」
――素直に首を縦に振ることをやめたかった。
当然のように強いられた、突然の誘いに応じるのをやめたかった。
一人ひっそりと繰り広げた葛藤に、意味を成す瞬間など訪れない。
それくらい、自分が一番自覚している……。
「わたしは……どうすれば…」
名無しは結局言いなりになるしかなく、どうしたって拒めないでいた。
断れば後が怖いリスクも背負っている。
それがなくても、どうせ自分にジェイドを撥ね退けられる勇気も持てないでいる。
一度でも拒んで、もしも次が来なかったとしたら……。
そのとき正気でいられる自信が、名無しにはなかった。
放任され、時にはこんな子飼いも同然の扱いを受けていても、だとしても――。
「ジェイド……」
「そうですね……では、終わったら後で来ていただけますか?空いているロッカールームを一室、フロイドと一緒に押さえておきますから。ふふふ」
「ッ……ん…――」
ジェイドは名無しに暴力を振るうわけじゃない。
どころか、快楽の波に引き摺り込み、そのまま共に溺れさえしてくれる。
囁かれれば胸は高鳴ったし、離れなければならない時間が来れば、名残惜しそうな表情も大概は何処でだって見せてくれた。
「ではまた……のちほどお会いしましょうね、名無し――」
「っ………」
これだけ並べればただの恋人同然ともとれようものを、そういう立場にすらなれないのは、彼の傍にはフロイドがいたからだ。
いつまでも引き摺る棄てられない想い。
酷いことをされても。
怖くてどうしようもなくても。
気持ちがジェイドに傾いていても、それでも嫌じゃない自分も確実に存在している事実。
「……――」
悪魔のような笑顔を見せ、勝手に現れて、勝手に約束をとりつけられた。
背を向けて自分から離れゆく、そんなジェイドのただの後ろ姿にすら昂り、身体が火照ることが悔しくないわけなかった。
彼らの存在そのものが、名無しを興奮させているのだ。
思い出さないよう耐えた一日が最後の最後に無に帰して、彼女に言葉もなかったのはおおよそ自然な話だろう……。
会話の最中、何処かでその展開に期待をしてしまったことだって、本当に自分の卑しさ具合が腹立たしかった。
「…ッ……」
――その数分後。
名無しは何事もなかったかのように自分たちが借りていた控室へと向かうと、チームに合流して試合後のミーティングに参加した。
何食わぬ顔に、けれどまだ少しだけ震える手で、スコアブックをそっと開く。
自分の発言する番がきたときも、喉元には少しぎこちなさを覚えていた。
終礼の挨拶まできた瞬間、ポケットに入れていたスマホが振動しても動じずに上手く切り替えられたのは、是が非でも切り替えなければならなかったからだ。
そうしなければ、ここには居られない。
なにより、自分の居場所だけは絶対に守りたかった。
身体を既に支配され、心まで蝕まれていても、あの二人とは無関係であるこの場所だけは、絶対に……――。