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SS

「おい!君島あ!俺が処刑法開発に費やした時間、知りたいよなあ!」
「いえ、一切興味ありませんが」
「ちっ相変わらずつまんねー奴だぜ」

とある日の昼下がり。練習に向かおうとラケットを持って部屋を後にし、寮のエレベーターを降りたところで、椅子に掛けていた遠野くんと鉢合わせをした。遠野くんの左膝は包帯でぐるぐる巻きになっている。そういえば彼が膝を壊してから一度もお見舞いに行っていなかった。戦線離脱しても全く変わらない遠野くんの態度に、私は思わず彼からさらに距離を取り、唇をぎゅっと結ぶ。秋の乾いた空気が廊下を包んでいる。金木犀の清涼な香りが鼻腔を擽る。

中学生を使って奴の左膝を封じた。煩い奴がいなくなり平穏が訪れたのも束の間。医務室から外出許可が降りた遠野くんは、獲物を見つけたと言わんばかりに遠吠えをやめようとしない。

私達の関係性は、あの試合前後で一切変わってはいない。それもそのはず、遠野くんは自分の膝を壊した元凶が、この私であるとはさらさら気づいていないのである。私は自分の手を一切汚さず、遠野くんとのダブルスを解消することに成功した。全ては私の手のひらの上、計画通りの出来事。駒は実によく動いてくれた。万が一に備えて複数の交渉を遂行させた自分の機転の良さにうっとりもしている。

それなのに何か物足りなさに心が搔き乱されそうになるのは何故なのか。心のジグソーパズルに、もやもやした鬱陶しさがピースとなって次々に埋まっていく。

「俺以外の奴とのダブルスはどうだ、君島?」

紫がかった長い黒髪がはらりと揺れる。遠野くんはもう一脚の空いた椅子を指さして続ける。私は見なかった振りをして腕を組み、冷淡に笑った。

「そうですね…皆さんプレイスタイルがバラバラで、合わせるだけでも勉強になりますよ」
「あ、そー。楽しくやってるようだな」

遠野くんとダブルスが組めなくなって残念です、だなんて一切思っていない。嘘でも本人には言ってやらない。たとえその言葉が表面上の関係性を維持するために必要だろうとも。私との会話なんてもうどうでも良くなった遠野くんは、膝にボールをぶつけた中学生を血祭りにあげてやると両指をわなわなさせて醜い奇声を発している。私の存在をすっかり忘れている遠野くんに冷たい一瞥を投げ、私は寮を後にした。


「サンサン、やりづらいとこホンマにないんか?」
「ええ。アナタが私に合わせて動いてくれるので、とてもやりやすいですよ。」
「ならええけど…」

遠野くん以外と組むダブルスの練習は、彼に答えた通り実に学びが多い。勿論組んだばかりの相手と噛み合わないことも多々あるが、それは誰もが必ず通る道。遠野くんともそうだったように、お互いにコミュニケーションを重ねていけば慣れていくはずだろう。ベンチで汗を拭い、スポーツドリンクを喉に流し込む。刻々と色を濃くしていく夕焼けに、そっと目を細めた。本日のパートナーが、居所の見つからないような表情で、私を真っ直ぐに見つめる。

「早くアツとのダブルスに戻れるとええなあ」
「…はい?」
「アツ、代表の座諦めてへんみたいやで」


パートナーなら知ってるて思ってたけど―――…
全身がこわばる。拭っても拭っても滴り落ちる汗が不快に胸元を濡らす。綺麗に舗装されたはずの地面に足元を取られる。すれ違うランニング中の選手たちが、息を切らす私を見て振り返る。風が木々の間を吹き抜け、カサカサと音を立てる。金木犀がより強く香る。パートナーが移送されても一度も訪れたことのなかったリハビリ施設に、私は思わず足を運んでいた。無機質でひんやりとした廊下から階下の室内を見下ろす。

「ぎゃあああああーっ!ぐっ!くそぉぉぉーーーっっっ!」

そこで見たのは周りを気にすることなく醜態を晒す無様な男の姿だった。思わず目が見開かれ、鼓動が激しくなる。魂を吸われそうになるくらいに美しい男の生き様を、私は今まで見たことがなかった。じわりじわりと心が締め付けられ、体の自由が奪われていく。呼吸が苦しい。十分に酸素を吸うことができなくなった。

私は何てことをしてしまったんだ―――…

いつも通りに振る舞っていた男の、こんな必死な形相を見ることになるとは思っていなかった。遠野くんが隠して私に見せなかったんじゃない、ただ私が彼のことを真剣に見ようとしていなかっただけだ。私は彼からテニス人生を奪ったのだ。何度も何度も過剰なまでに唾を飲み込む。遠野くんに対する後ろめたさが、波のように次々と湧き上がってくる。私は遠野くんの卑劣極まりないテニスが大嫌いだった。私がやったことは、テニスに真正面から愚直に向き合う彼の命を、自分の手を汚さずに騙し取るという、最低で卑劣極まりない行為だった。

ダブルスを解消することで遠野くんから解放されたかった。それなのに私は一生、警察に怯え続ける気の弱い殺人犯のように、後ろ暗さを抱えて生きていかなくてはならない。もはや主導権を握っているのは私ではなく遠野くんの方なのである。私達の関係性は、あの試合前後ですっかり変わってしまった。こんな感情になるなんて、全くの計画外の出来事だった。

私だってNo.7のバッジを楽々手にしたとは言えない。苦労して手に入れた勲章に、私はどれだけ執着できていただろうか。首元のバッジをぎゅっと掴んで遠野くんを直視する。私がこのバッジを剥奪されたとて、きっと彼のようにがむしゃらにはなれない。あくまでもスマートに冷静に、跡を濁さず芸能活動一本の生活に戻っていくだけだ。

必死でもがいても、足掻いても、No.8までしかのし上がれなかった無様な男。テニスを奪われた先にどこにも居場所のない、可哀そうな男。そんな男に自分のテニス人生は、ナンバー表記という概念を超えた向こうへと引っ張り上げられていたのだった。

「遠野くんと…ダブルスが組めなくなって…残念です…」

リハビリ室を見下ろせる窓に両手を貼り付け、ぽつり、ぽつり、と呟く私の声は驚くほど掠れていた。パートナーとしての遠野くんを失って、遠野くん以外の選手とパートナーを組んで、そこまでしてやっと気づいた。私のテニス人生には遠野くんの存在が不可欠だったということに。他の誰でもなく、彼にしかない勝利への強烈なまでの執着心、もはや美しさすら感じる誇り高きテニス哲学、自尊心と意地をむき出しにしたがむしゃらさが、私のテニスにかける情熱を引き上げてくれていた。

道路の真ん中で死にかけた犬を見捨てるような罪悪感が全身を襲う。もはや私に出来ることはなにもない。彼にしてやれることはなにもない。交渉材料すら見失った自分の無力さが胸の中をちくちくと刺していく。すっかりと暗くなった室内に、遠野くんの呻き声が響き渡る。もはや彼を醜いとは思えなくなっていた。彼の誇り高き生き様に、大いに感服させられていた。

遠野くんのことだ、また寮で出くわせば何事もなかったかのようにきゃんきゃんと鳴き喚いてくるのだろう。私は何事もなかったフリができるだろうか。いつか全てを自白し、彼に謝らなくてはならない。それは自分が解放されるためであるかもしれない。ただの自己満足かもしれない。そんなことをしたところで万全な状態の遠野くんは二度と戻ってこない。私は遠野くんのように、自らの美学を貫き続ける根っからの悪人にはなりきれなかった。ただそれまでのつまらない人間だったのだ。


孤独にリハビリを続ける遠野くんを残し、施設を後にする。雨粒がパラパラと眼鏡のレンズに当たり、視界を遮っていく。勿論傘はない。雨に打たれた脆い金木犀は持ち場を離れて散っていくのだろう。今だけでいい、今この瞬間だけでいい。心の中で抱えきれずはち切れそうになる罪の意識を、雨に洗い流してもらいたい。雨路がぴちゃりぴちゃりと音を立て、テニスシューズに冷水が浸る。どんよりとした空気に陰気な心が同期して呼吸がしやすい。何もかもを洗い流すまで、雨水は絶え間なく私を包んでいく。
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