ルシサン短編まとめ

「ルシフェル様、虹が」
 サンダルフォンが指差す先、空には七色の階が掛かっていた。
 昨夜降り続いた雨が上がり、雨粒に濡れる泥濘んだ中庭で二人、珈琲を楽しんでいた時のことである。
「あの虹の根本へは行けるのでしょうか」
「何故、そう思ったのだろうか」
「以前読んだ本に、虹の根本には宝物が埋まっていると書いてありました」
 無邪気にそんなことを言うので、虹がどういう仕組みで出来るのかという説明が喉の奥で止まってしまった。
「行ってみたいかい?」
 すぐに応えはなく、彼は言いづらそうに視線をカップの中へと落とす。
「もし、もしも、ですが……この空を自由に飛べたなら、あの虹の周囲を飛んで確かめてみたいんです。どんな風に見えるだろうかと、時々空を眺めては空想していました」
 その背に翼を持ちながら、彼は空をここから見上げることしか許されていない。役割を持たず、今のところはその肉体を正常に維持することだけを課せられている。そんな彼のささやかな願いが何故叶えられないのだろうかと、常々思っていた。
 考え込むルシフェルの様子に触れてはいけない事であったかと、彼はますます俯いてしまう。
「虹の根本を見に行こうか」
 まるで自分の制御下から離れてしまったかのように、その言葉はするりと口から抜け出ていく。驚き、顔を跳ね上げた彼の手を取り、ルシフェルは六翼を広げた。


 研究所から抜け出したのはこれが初めてではない。以前に一度だけ、ほんの僅かな時間であったけれど、サンダルフォンに空の世界の一部を見せたことがあった。その時はただ研究所の上空を暫し漂っただけですぐ戻ったので、何の咎めも受けることはなかった。
 遠く離れて行く研究所を振り返り、サンダルフォンは不安そうにこちらを見る。
「案ずることはないよ。根本を見たらすぐに帰ろう」
 安心させるように笑い掛けながらも、頭の片隅では虹の根本になど辿り着くことはないとわかっている。しかし並んで飛ぶ彼の鳶色の翼が嬉しそうに羽撃くので、もう暫く見ていたかった。
 ルーマシーの森の上を、七色にかすれゆく光を追いかけるように飛び続ける。サンダルフォンは稼働テスト以来の飛行であったので、まだそれほど早く飛ぶことは出来ないらしい。その速度に合わせながら、ゆっくりと虹を追い掛けた。
 飛びながらふと、サンダルフォンがこちらを見ていることに気付く。視線を合わせると、傍へと寄って来た。恥ずかしそうに頬を染めながら、耳打ちするようにして囁く。
「実は俺、こうしてルシフェル様と一緒に飛ぶことが夢だったんです」
 日が傾き始め、西の空が赤く染められていく。サンダルフォンの頬も、照らされて燃えるように赤かった。
 飛ぶのをやめたサンダルフォンが、遠く沈む夕陽と、染まりゆく空と森を見ている。虹はやがて空に溶けるように薄れていくだろう。根元へ辿り着くことは叶わず、落ち込んでいるだろうかと思った彼の横顔は、中庭でも見たことがないほど喜びに満ちていた。今この景色を共に見られただけで嬉しいと、そう物語っているのがわかった。
「貴方が護り、慈しむこの空の世界は、こんなにも美しい。それを貴方の傍らで見ることが出来て嬉しい」
 夕陽を受けてキラキラと輝く瞳は、もう二度と見ぬまま何千年も過ごすことになるかも知れない景色を眩しそうに見つめ、その景色を焼き付けるように瞼を伏せた。
「連れて来て下さって、ありがとうございます」
 こんな彼の顔をもっと見ていたい。そんな願いがルシフェルの中で首をもたげる。
「このまま、もっと色んな景色を見に行こうか」
 サンダルフォンが不思議そうな顔でこちらを振り返った。
 彼は知っているのだ、ルシフェルにはそんな暇はないことを。しかしルシフェルは研究所を振り返ることなく、彼へと手を差し伸べる。おずおずと重ねられた手を握り、指を絡めた。
「よろしいのですか?」
「うん」
 薄闇に包まれて行く中、次はどこへ行こうかと考える。ボートブリーズの市場の賑わいか、バルツの赤く燃える山か、いややはりアウギュステの海がいい。サンダルフォンはまだ、本物の海を見たことがないのだ。彼にはこの空の世界で、見ていないもの、見せたい場所がたくさんある。
 重ねた手を握り直そうとした時、あっとサンダルフォンが声を上げ、下方へと引かれた。彼の足を掴んだベリアルが、そのまま地面へ向けて蹴り落とす。
「サンダルフォン!」
 彼の元へ降りようとしたその時、ケルブに乗り現れた人影に動きが止まった。
「ルシフェル、何をしている」
 苦しそうに呻くサンダルフォンの傍へと歩み寄り、その喉元へ槍を突きつけたのはルシファーだった。
「ファーさんが直々に行かなくてもって言ったんだけどさ」
「ルシフェルの不具合だ、この目で見て確かめねばならんだろう」
 向けられた刃先から逃れるように、サンダルフォンが顔を背ける。それを許さないとばかりに肩を踏みつけ、身動きを取れないようにしてから顎を掴んだ。
「やはりコレがノイズの原因か。今すぐにでも廃棄してしまえ」
「待ってくれ、連れ出したのは私だ。罰を受けるなら私が」
「そんなものを与えてどうする。お前を正常に稼動させる方が重要だ」
 下位の天司がルシフェルを取り囲み、ルシファーの元へ降りるよう促す。彼らを振り払うわけにも行かず、ルシフェルは素直に従った。
「ルシフェル様は何も悪くない。俺の我儘にただ、応えて下さっただけで」
「フン、こんなモノ一つで不調を来すとは」
 まるでサンダルフォンの言葉が聞こえていないかのように、ルシファーは項垂れるルシフェルの方へと歩いて行く。
「友よ、どうかサンダルフォンは」
「いいだろう」
 槍の穂先が向けられた瞬間、ルシフェルの意識はブツリと途切れた。


「ルシフェル様、虹が」
 サンダルフォンが指差す先、空には七色の階が掛かっていた。
 昨夜降り続いた雨が上がり、雨粒に濡れる泥濘んだ中庭で二人、珈琲を楽しんでいた時のことである。
「あの虹の根本へは行けるのでしょうか」
「行けないよ」
 ルシフェルは言い切ると、手にしたカップに口をつけた。
「そうなのですか?」
「虹は大気中の雨粒に光が反射して見える現象だ。追いかけても追いつけないし、その根本へも辿り着くことはない」
 少し残念そうに肩を落とすので、水瓶の傍へ置かれたバケツで水を汲むと、空へ向けて撒いた。輝く水飛沫の中、小さな七色の光がかかる。
「虹だ!」
 水溜まりの上で小さく跳ねる姿を眺めながら、サンダルフォンが笑ってくれたことにルシフェルは安堵した。
「俺、いつかルシフェル様と本物の虹を確かめに行きたいです」
 ポツリと呟かれたそれに、ルシフェルは応えてやることが出来なかった。


おわり
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