ルシサン短編まとめ
その日も朝から雨だった。
以前までならば、庭に降り立つ前に彼が駆け寄って来る姿が見えたものだ。今はただ、誰もいない泥濘んだ庭を歩く。
出迎えがないのは雨のせいだ。雨粒に打たれながら、こちらを見上げる彼が風邪を引く心配をせずにすむ。
中庭を抜けると、奥には彼の部屋へと通じる扉がある。私以外の者が訪れることは滅多にないだろう場所だ。
扉に手を掛けようとして、やめた。それまでは彼を伴い扉を開けたので、確認する必要がなかった。
「どうぞ」と促されながら、二人並んで入った日々を思い出すと、胸部に違和感を覚え手を当てる。
ノックを二度。返事はない。
「サンダルフォン」
呼び掛けてみる。返事はない。
彼が部屋の中にいるのは気配でわかる。
彼は私を拒絶している。
「サンダルフォン、顔を見せて欲しい」
扉に小さな隙間が開く。渋々顔を出した彼が、私の姿を認めると慌てて扉を開いた。
「どうしてズブ濡れなんですか!」
「どうしてだろう」
私にもわからない。そう言うと、複雑そうな顔をしながら中に通してくれた。
「貴方なら、雨を避けるとかどうにか出来たでしょう」
頭を一通り拭いてから、次は翼の水気を拭ってくれる。久し振りの触れ合いに、胸部の違和感はすっかり消えてしまった。
「近頃君が顔を見せてくれないから」
心配していた、そう言おうとすると、サンダルフォンが窓の外を見る。
「庭の花を見ていました。この時期咲くあの花が、とても綺麗で、美しくて。雨で外に出れなくて、ここからはあの花しか見れないけれど、それでも」
サンダルフォンが生活する限られた空間であるこの部屋から、彼の目を少しでも楽しませるようにと中庭の植物は配置されている。四季を感じられるよう植えられた花々は、今紫陽花が見頃を迎えていた。
「一つの株に紫や青、桃色の花が咲くのが、まるで貴方の羽のようだなと」
いつからか、彼は笑わなくなった。その理由を知りたくて何度もここに通ったが、なかなか顔を見せてくれなかった。
「私は君のようだと思ったよ。君の全てを知っている気でいた。だが君は、まだ私の知らない色を隠している」
黙り込んでしまった横顔を見つめる。雨音が沈黙を包み込んでいく。
君にまた笑って欲しい。ただそれだけなのに、どうすればそれが叶うのかがわからない。
また君と珈琲を飲みながら、他愛のない話で笑い合いたい。しかし、そんな言葉も許されない重苦しい空気が流れるだけだった。
「また来るよ」
「来てどうするのですか?」
「理由が必要だろうか」
「必要です、俺には」
大粒の雨が、彼の膝を次々と打った。
「貴方には必要なくとも、俺には」
ままならないなと、ルシフェルは思う。彼一人を笑顔に出来ない己の、一体何が完全なのだろうかと。
「それでも会いに来るよ」
返事はなかった。だが、返事を求めるのは傲慢とも思えた。
雨が上がったら、君とまたテーブルを囲もう。雫に濡れた紫陽花を眺めながら、他愛ない話をしよう。
憂鬱な季節を終えて、君とまた珈琲を。
以前までならば、庭に降り立つ前に彼が駆け寄って来る姿が見えたものだ。今はただ、誰もいない泥濘んだ庭を歩く。
出迎えがないのは雨のせいだ。雨粒に打たれながら、こちらを見上げる彼が風邪を引く心配をせずにすむ。
中庭を抜けると、奥には彼の部屋へと通じる扉がある。私以外の者が訪れることは滅多にないだろう場所だ。
扉に手を掛けようとして、やめた。それまでは彼を伴い扉を開けたので、確認する必要がなかった。
「どうぞ」と促されながら、二人並んで入った日々を思い出すと、胸部に違和感を覚え手を当てる。
ノックを二度。返事はない。
「サンダルフォン」
呼び掛けてみる。返事はない。
彼が部屋の中にいるのは気配でわかる。
彼は私を拒絶している。
「サンダルフォン、顔を見せて欲しい」
扉に小さな隙間が開く。渋々顔を出した彼が、私の姿を認めると慌てて扉を開いた。
「どうしてズブ濡れなんですか!」
「どうしてだろう」
私にもわからない。そう言うと、複雑そうな顔をしながら中に通してくれた。
「貴方なら、雨を避けるとかどうにか出来たでしょう」
頭を一通り拭いてから、次は翼の水気を拭ってくれる。久し振りの触れ合いに、胸部の違和感はすっかり消えてしまった。
「近頃君が顔を見せてくれないから」
心配していた、そう言おうとすると、サンダルフォンが窓の外を見る。
「庭の花を見ていました。この時期咲くあの花が、とても綺麗で、美しくて。雨で外に出れなくて、ここからはあの花しか見れないけれど、それでも」
サンダルフォンが生活する限られた空間であるこの部屋から、彼の目を少しでも楽しませるようにと中庭の植物は配置されている。四季を感じられるよう植えられた花々は、今紫陽花が見頃を迎えていた。
「一つの株に紫や青、桃色の花が咲くのが、まるで貴方の羽のようだなと」
いつからか、彼は笑わなくなった。その理由を知りたくて何度もここに通ったが、なかなか顔を見せてくれなかった。
「私は君のようだと思ったよ。君の全てを知っている気でいた。だが君は、まだ私の知らない色を隠している」
黙り込んでしまった横顔を見つめる。雨音が沈黙を包み込んでいく。
君にまた笑って欲しい。ただそれだけなのに、どうすればそれが叶うのかがわからない。
また君と珈琲を飲みながら、他愛のない話で笑い合いたい。しかし、そんな言葉も許されない重苦しい空気が流れるだけだった。
「また来るよ」
「来てどうするのですか?」
「理由が必要だろうか」
「必要です、俺には」
大粒の雨が、彼の膝を次々と打った。
「貴方には必要なくとも、俺には」
ままならないなと、ルシフェルは思う。彼一人を笑顔に出来ない己の、一体何が完全なのだろうかと。
「それでも会いに来るよ」
返事はなかった。だが、返事を求めるのは傲慢とも思えた。
雨が上がったら、君とまたテーブルを囲もう。雫に濡れた紫陽花を眺めながら、他愛ない話をしよう。
憂鬱な季節を終えて、君とまた珈琲を。
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