【腐】さびしんぼ
ぱちり。
開けた瞳に飛び込んだのはいとしい弟の顔だった。
さびしんぼ
「おっ」
短い声と共に鶴丸はぴたり足を止める。
庭に面した縁側に親しい者の姿を見つけたからだ。
そこに居たのは髭切である。
起きたばかりなのか寝衣のまま、ぼんやりと庭を眺めている。
何か足りない気がするのは傍らに弟が居ないからだろうか。
あの弟刀が髭切の傍に居ないとは珍しい事もあるものだ。
何処かに居るのでは無いかと辺りを探ってみるが、やはり、見当たらない。
そう言えば、朝、日程表を確認した時に遠征部隊の中に膝丸の名があった事を鶴丸は思い出す。
昨夜の今日であの弟がよく髭切から離れる事を了承したものだ。
同行者の中に今剣と岩融が居たから、膝丸はあの二振りに引き摺られる様にして遠征に行ったのだろう。
何はともあれ、丁度、退屈していたところだ。
彼の刀を構うのもまた、一興と、鶴丸は縁側でぼうっとしている髭切に歩み寄る。
「よお、髭切。君が一人なんて珍しいな」
まるで今、気づいたかの様に声を掛けると淡黄食の髪がさらりと揺れ動く。
相変わらず、柔らかそうな髪だ。
「やあ、国永」
目を細めて返事をした髭切を鶴丸は上から下までじっと眺めてみる。
「昨夜の傷はすっかり治ったみたいだな」
「うん。肩叩き券だっけ?あれを使ったからぱぱっと治ったよ」
ほらと元通りとなった腕を見せて来る髭切に鶴丸は片眉を上げる。
「手伝い札な。しかし、ぱぱっとねえ…」
確かに今の髭切に傷はなく正常そのものだが、飽く迄、今、現在の話だ。
昨夜の傷はそれ程までに凄まじいものだった。
全身、刀傷だらけの血塗れ。
更に腕は千切れかかり、辛うじて皮一枚で繋がっていると言った有り様であった。
実に長い夜だった―。
当事者ではない鶴丸がそう感じたのだから膝丸は余計に夜の長さを痛感しただろう。
髭切が所属する第一部隊は新しい時代に出向いていた。
初めての時代に足を踏み入れる時、大抵、危険が付き物である。
敵の数や力量など、情報が一切無いからだ。
そして、後になって判明した事だがこの時代の敵は相当、手強かったらしい。
殆どの者が中傷状態に陥り、審神者が撤退を決めた刹那、運悪く、新たな敵と遭遇してしまったらしい。
しかも、敵はあの憎き金槍を含めた部隊で、その金槍が狙ったのは一番傷ついていた五虎退だ。
金槍の一撃を喰らえば、幾ら極の短刀とはいえ、重傷かあるいは破壊された可能性もある。
が、敵から打ち込まれた一撃を受けたのは五虎退ではなく、髭切だった。
要は庇ったのである。
いや、庇ったと言うのは恐らく正確ではない。
打刀には本能的に仲間を庇う力が備わっているらしいが、太刀にはそれがない。
馬上で己を振るい、目の前の敵をひたすらに切り裂く、それが太刀である。
だから、髭切の行動は五虎退を庇ったと言うよりは一番、仕留めがいのある敵に本能的に向かったと言うのが正しいだろう。
ともかく髭切は腕の一本を犠牲に敵の懐まで踏み込み、見事、仕留めて見せた。
金槍を仕留めた直後、敵部隊が完全に消滅したのを見届けると、ぷつりと意識を失ったらしい。
地面に倒れそうになった髭切を支えたのは五虎退の虎達で五虎退は泣きじゃくりながら付き添ったそうだ。
散々に傷ついた部隊は当然ながら、本丸へ強制帰還となった。
傷ついた刀剣達が次々と手入れ部屋に運び込まれ、さながら、野戦病院の赴きであった。
当然ながら一番初めに手入れ部屋送りとなったのは髭切だ。
手伝い札を使用した為、傷は瞬く間に癒え、千切れかけた腕もすっかり元通りとなった。
しかし、何故なのか、髭切はすぐには意識を取り戻さなかった。
その時、髭切の傍らに居たのは審神者と近侍だった鶴丸、そして膝丸である。
今、思い出してもあの時の膝丸は酷い顔色だった。
当然だ。
傷が癒えれば瞬く間に目を覚ます筈なのに、髭切はどれだけ待っても目を覚ます気配が無いのである。
あの時の膝丸の脳裏には最悪な事態が浮かんでいただろう。
だが、意外にも膝丸は顔色以外は冷静であった。
『兄者は決して、俺を置いては逝かない』
そう断言し、兄弟だけにして欲しいと審神者と鶴丸に申し出た。
審神者と鶴丸は膝丸の申し出を受け入れ、別室で待機する事にしたのだ。
それから何時間後に鶴丸は審神者と共に髭切が目覚めたという報せを膝丸から受け取った。
その時の膝丸の顔は兄が目覚めたと言うのに沈み込んでいて、それが妙に引っ掛かったのを鶴丸は覚えている。
昏い表情の理由は考えるまでもなく髭切だろうが、自分が席を外した後、兄弟の間に何があったかなど知る由もない。
ただ、目覚めた髭切に対し、膝丸が何を望んだかは想像に易い。
最愛の兄を失うかもしれないという恐怖はさぞ、骨身に染みた筈だ。
膝丸は片時も離れまいと、いつも以上にべったりと兄に張り付き世話を焼きたがったに決まっている。
しかし、髭切がそれを許さなかったのだ。
だからこそ、髭切はこうして一振り寂しく佇んでいるのだろう。
「君、渋る膝丸を無理矢理、遠征に行かせただろう」
鶴丸がずばり問えば、髭切は小首を傾げた。
「確かに渋ってはいたけど、無理にじゃないよ。行っておいでと言ったら、行ったしね」
「君に行けと言われたら嫌でも行くだろう」
「ああ見えてあのこは頑固だからね。自分で納得しなければ幾ら言っても聞かないよ。
それに遠征は惣領である主の命令だもの。きちんと、従わないとね」
「…惣領の命令、か」
よく言うものだと鶴丸は思う。
確かに審神者は膝丸を含む第二部隊に遠征を指示した。
だが、それは飽く迄、第一部隊が帰還する前の話である。
あの情深い主のこと、膝丸が髭切の側に居たいと申し出たら、部隊から外しただろう。
つまり、膝丸は審神者に交渉する前に髭切に強引に送り出されてしまったに違いない。
兄に強く言われてしまったら、心中はどうあれ、行くしかないだろう。
不満を胸に秘めながら、離れたに違いない。
やれやれと鶴丸は髭切の隣に腰を下ろす。
「君は昔から素直じゃないな」
「…そうかな」
「君の行動は兄としては満点だが、つがいの相手にする行動じゃないな」
半ば、呆れ気味に言えば、髭切はずいと距離を詰めて来る。
髭切は何をするにも距離が近い。
それは無意識下の行動なのだろうが、無防備に近づかれる度に弟刀に睨まれる身としては勘弁して欲しい。
まあ、今はそのおっかない弟刀も不在だから安心と言えば、安心なのだが。
鶴丸がそんな事を考えていると、髭切は口許だけで笑って見せた。
この笑みがまた曲者なのを鶴丸はよく知っている。
「僕はあのこの兄だからね。兄として弟を正しく導かないと」
「よく言えたもんだ。本当は寂しい癖に」
鶴丸の一言に髭切は瞳を大きく見開いた。
そして、白い肌がまるで顔料をこぼしたかの様に朱へと染まって行く。
「…僕、そんなに分かり易いかな…」
髭切は熱くなったのか、両手で頬を包み込みながら呟く。
彼がこんな顔もするのだと鶴丸が知ったのはごく最近の事だ。
「少なくとも君の弟は分かっていないだろうな」
鶴丸は断言する。
膝丸は兄の一挙一動に注視しては居るが、胸中を探れる程の余裕はまだ無いだろう。
日頃から髭切に振り回されているのがよい証拠だ。
今回も素っ気なく追い出されたと思い込んでいるに違いない。
「もっとそう言う顔を弟に見せてやりゃいいのに」
「出来ないよ、僕、お兄ちゃんだし」
「何なんだ、その拘り…」
鶴丸は眉を顰める。
どうやら、髭切にとって【兄】である事は譲れない事らしい。
それはきっと、髭切の矜持なのだろう。
だから、鶴丸はささやかな助言のみ、贈る事にした。
「惜しいな。今の君の顔を膝丸に見せりゃ、イチコロだろうに」
「いちころ?」
「もっと、君にめろめろになるって事さ」
「めろめろ…」
首を傾げつつ、髭切は考え込む素振りを見せる。
暫く考える素振りを見せたものの、やはり、無理だと言う結論に至ったらしい。
「国永は親切そうに見えて、意地悪だよね」
ぶうと頬を膨らませると、髭切はそのまま鶴丸の膝を枕にごろり、寝転がる。
「…硬い」
「おい、人の膝を枕代わりにしてどんな言い種だ」
「枕丸の膝は固くても気持ちいいのになあ」
おかしいなと本気で不思議がっている髭切に鶴丸はため息を覚えた。
「そりゃ、君。好いてる奴と野郎の膝じゃ好いてる奴の膝の方が心地よいに決まってるだろう」
それぐらい分かっておけと突っ込むと髭切は目を瞬たかせる。
「…そっか、あのこの膝だからか」
髭切はふにゃりと顔を緩める。
その顔は昨夜、死闘を演じたとは思えない程、無防備なものだった。
その笑みに何も感じぬ訳ではないが、どうも弟刀の顔がちらついてしまう。
弟刀と言えば―。
鶴丸は急にある事を思い出し、辺りを見回す。
誰の気配も無い事を確認すると鶴丸はほっと息を吐いた。
実は鶴丸、本丸の仲間達にあらぬ疑いをかけられているのである。
それは何かと言えば、髭切に横恋慕していると言うものだ。
無論、鶴丸にその気はない。
髭切は気安い仲間の一振りであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
髭切だってそうだろう。
だから、あらぬ誤解を受けるのは不本意だ。
けれどもどれだけ否定しても仲間達は納得してくれない。
それどころか、誤解を一番、真に受けているのが膝丸と来ている。
髭切と一緒に居る時、世にも恐ろしい眼で睨んで来るのは本当、ご勘弁願いたい。
以前、それとなく髭切に忠告してみた事もあるが、弟はいいこだから焼きもちなんてやかないよとのご回答で。
あれだけ判り易く弟が嫉妬していると言うのに、髭切は全く気付いていないのである。
弟も大概、盲目だが、兄もそうであるらしい。
他愛もない言葉を交わすのはいいが、膝枕をしているところを見られるのはまずい。
誤解が酷くなる一方だ。
そんな鶴丸の心配を余所に、いつの間にか髭切は目を瞑っている。
おいおいと鶴丸は呟く。
鶴丸ですらこれなのだ、この掴み所のない兄に膝丸も振り回されているに違いない。
振り回されているのは何だか癪に思えて、鶴丸は暫く、この自由過ぎる友に付き合う事にした。
それにしても―。
何にも動かされる事のないように見えていた髭切がまさか、弟と恋に落ちるとは驚きである。
鶴丸は髭切を恋や執着とは無縁な男だと思っていた。
弟の方は弟の方で九十九の時を経て、意思を持つ様になってからずっと髭切に想いを寄せていたらしい。
驚くべき一途さだ。
もしかしたら髭切も口にはしなかっただけで同様に恋煩っていたのかもしれない。
そんな二振りが人の身を得た事により、めでたく結ばれたと言う訳だ。
めでたい事だとは思う。
ただ、手放しで祝福してやれないのは先を考えてしまうからか。
人により結ばれた縁は人により切られる。
戦いの果てに待つのは避けられぬ別離だ。
縁を深く結べば結ぶ程、いずれ訪れる別れがより一層、辛くなるばかりだ。
もし自分だとしたら、きっと、耐えられないだろうなと鶴丸は思う。
必ず訪れる別れの秋に怯えて暮らすぐらいなら、いっそ、一線を越えない方がましだ。
例え相手にとって自分が特別でなくとも、傍らで笑い合えればそれで充分だと鶴丸は思う。
けれどもこの兄弟は違う考えの様だ。
「…君達は恐くはないのか」
それは率直な疑問であり、決して返事を期待したものではなかった。
けれども、寝入っていた筈の髭切の耳にきちんと届いたらしい。
瞑っていた筈の目が開き、目が合うと、さすがの鶴丸も少しばかり、驚いてしまう。
「起きていたのか、君」
「…こわいって何が?」
もう一度、不思議そうに髭切は訊ねて来る。
「…いずれ、この戦いも終わりが来るだろう」
「だろうね」
「戦いが終わったら俺達は本霊に戻るだろう。そうなればまた、離ればなれだ。
君と弟は今までずっと別れを繰り返して来ただろうが、今回ばかりは質が違う筈だ。
深く契りを結べば結ぶ程、離れるのが一層、辛くなる。それが怖くないのかと訊いたんだ」
自分には到底、耐えられそうにない道を選んだ髭切に純粋な疑問をぶつけてみる。
すると髭切は一切の逡巡もなく口を開いた。
「この身を得た当初は僕も兄弟のままで居るのが一番だって、そう思っていたよ」
「そうなのか?」
「うん。でもね、弟丸に想いを伝えられたら、どうでも良くなっちゃったんだよね」
その時の膝丸の姿でも思い出したのか、髭切は瞳を細めた。
「せっかく、触れ合える体があるのに今まで通りなんて勿体ない。
いつ来るか分からない先の事を考えるよりも、時間が許す限り弟と触れ合いたいし、一緒に居たいってそう思ったんだ。
だから、怖いとかはあんまり考えた事はないかな」
それは意外な言葉であった。
「…まさか、膝丸が君を口説き落としたとはなあ」
驚きだぜと思わず鶴丸が溢せば、髭切はそうかなと首を傾ける。
髭切がどう言う経緯で膝丸と結ばれたのか鶴丸は知らない。
ある日突然、髭切から何の気なしに告げられたのだ、弟と相思相愛の仲だと。
その報せ方は実に髭切らしいと思う。
そんな経緯だったから、髭切が躊躇う弟を口説き落としたのだと思い込んでいたのである。
けれども事実は全く逆だった様だ。
あの愚直な弟の事だ、形振り構わずに必死に想いを告げたのだろう。
その姿が髭切の心を動かしたに違いない。
ともかく、鶴丸が選ばず、立ち止まった道を二振りは選び、結ばれたのだ。
羨ましいと思わなくもない。
ただ、何もかも投げ捨てても良いと思える様な恋を鶴丸は知らない。
一体、それはいかなる心地がするものなのだろうか。
知りたい様な知りたくない様な。
せっかくだから、どんな心持ちか聞いてみるのもまた、一興かと鶴丸は視線を下ろす。
が、つい先程まで話していたにも関わらず、髭切は再び、目を瞑っていた。
どうやら今度こそ完全に寝入ってしまったらしい。
すうすうと寝息を立てる髭切に鶴丸はやれやれと息を吐く。
もう暫くしたら、起こして、部屋に押し込むか。
そんな事を考えつつ、鶴丸が近くにあった食べかけの煎餅にかじりついた時の事―。
背中に不穏な気配を感じ、鶴丸は顔を上げる。
「…思っていたより、早いお帰りだな」
開けた瞳に飛び込んだのはいとしい弟の顔だった。
さびしんぼ
「おっ」
短い声と共に鶴丸はぴたり足を止める。
庭に面した縁側に親しい者の姿を見つけたからだ。
そこに居たのは髭切である。
起きたばかりなのか寝衣のまま、ぼんやりと庭を眺めている。
何か足りない気がするのは傍らに弟が居ないからだろうか。
あの弟刀が髭切の傍に居ないとは珍しい事もあるものだ。
何処かに居るのでは無いかと辺りを探ってみるが、やはり、見当たらない。
そう言えば、朝、日程表を確認した時に遠征部隊の中に膝丸の名があった事を鶴丸は思い出す。
昨夜の今日であの弟がよく髭切から離れる事を了承したものだ。
同行者の中に今剣と岩融が居たから、膝丸はあの二振りに引き摺られる様にして遠征に行ったのだろう。
何はともあれ、丁度、退屈していたところだ。
彼の刀を構うのもまた、一興と、鶴丸は縁側でぼうっとしている髭切に歩み寄る。
「よお、髭切。君が一人なんて珍しいな」
まるで今、気づいたかの様に声を掛けると淡黄食の髪がさらりと揺れ動く。
相変わらず、柔らかそうな髪だ。
「やあ、国永」
目を細めて返事をした髭切を鶴丸は上から下までじっと眺めてみる。
「昨夜の傷はすっかり治ったみたいだな」
「うん。肩叩き券だっけ?あれを使ったからぱぱっと治ったよ」
ほらと元通りとなった腕を見せて来る髭切に鶴丸は片眉を上げる。
「手伝い札な。しかし、ぱぱっとねえ…」
確かに今の髭切に傷はなく正常そのものだが、飽く迄、今、現在の話だ。
昨夜の傷はそれ程までに凄まじいものだった。
全身、刀傷だらけの血塗れ。
更に腕は千切れかかり、辛うじて皮一枚で繋がっていると言った有り様であった。
実に長い夜だった―。
当事者ではない鶴丸がそう感じたのだから膝丸は余計に夜の長さを痛感しただろう。
髭切が所属する第一部隊は新しい時代に出向いていた。
初めての時代に足を踏み入れる時、大抵、危険が付き物である。
敵の数や力量など、情報が一切無いからだ。
そして、後になって判明した事だがこの時代の敵は相当、手強かったらしい。
殆どの者が中傷状態に陥り、審神者が撤退を決めた刹那、運悪く、新たな敵と遭遇してしまったらしい。
しかも、敵はあの憎き金槍を含めた部隊で、その金槍が狙ったのは一番傷ついていた五虎退だ。
金槍の一撃を喰らえば、幾ら極の短刀とはいえ、重傷かあるいは破壊された可能性もある。
が、敵から打ち込まれた一撃を受けたのは五虎退ではなく、髭切だった。
要は庇ったのである。
いや、庇ったと言うのは恐らく正確ではない。
打刀には本能的に仲間を庇う力が備わっているらしいが、太刀にはそれがない。
馬上で己を振るい、目の前の敵をひたすらに切り裂く、それが太刀である。
だから、髭切の行動は五虎退を庇ったと言うよりは一番、仕留めがいのある敵に本能的に向かったと言うのが正しいだろう。
ともかく髭切は腕の一本を犠牲に敵の懐まで踏み込み、見事、仕留めて見せた。
金槍を仕留めた直後、敵部隊が完全に消滅したのを見届けると、ぷつりと意識を失ったらしい。
地面に倒れそうになった髭切を支えたのは五虎退の虎達で五虎退は泣きじゃくりながら付き添ったそうだ。
散々に傷ついた部隊は当然ながら、本丸へ強制帰還となった。
傷ついた刀剣達が次々と手入れ部屋に運び込まれ、さながら、野戦病院の赴きであった。
当然ながら一番初めに手入れ部屋送りとなったのは髭切だ。
手伝い札を使用した為、傷は瞬く間に癒え、千切れかけた腕もすっかり元通りとなった。
しかし、何故なのか、髭切はすぐには意識を取り戻さなかった。
その時、髭切の傍らに居たのは審神者と近侍だった鶴丸、そして膝丸である。
今、思い出してもあの時の膝丸は酷い顔色だった。
当然だ。
傷が癒えれば瞬く間に目を覚ます筈なのに、髭切はどれだけ待っても目を覚ます気配が無いのである。
あの時の膝丸の脳裏には最悪な事態が浮かんでいただろう。
だが、意外にも膝丸は顔色以外は冷静であった。
『兄者は決して、俺を置いては逝かない』
そう断言し、兄弟だけにして欲しいと審神者と鶴丸に申し出た。
審神者と鶴丸は膝丸の申し出を受け入れ、別室で待機する事にしたのだ。
それから何時間後に鶴丸は審神者と共に髭切が目覚めたという報せを膝丸から受け取った。
その時の膝丸の顔は兄が目覚めたと言うのに沈み込んでいて、それが妙に引っ掛かったのを鶴丸は覚えている。
昏い表情の理由は考えるまでもなく髭切だろうが、自分が席を外した後、兄弟の間に何があったかなど知る由もない。
ただ、目覚めた髭切に対し、膝丸が何を望んだかは想像に易い。
最愛の兄を失うかもしれないという恐怖はさぞ、骨身に染みた筈だ。
膝丸は片時も離れまいと、いつも以上にべったりと兄に張り付き世話を焼きたがったに決まっている。
しかし、髭切がそれを許さなかったのだ。
だからこそ、髭切はこうして一振り寂しく佇んでいるのだろう。
「君、渋る膝丸を無理矢理、遠征に行かせただろう」
鶴丸がずばり問えば、髭切は小首を傾げた。
「確かに渋ってはいたけど、無理にじゃないよ。行っておいでと言ったら、行ったしね」
「君に行けと言われたら嫌でも行くだろう」
「ああ見えてあのこは頑固だからね。自分で納得しなければ幾ら言っても聞かないよ。
それに遠征は惣領である主の命令だもの。きちんと、従わないとね」
「…惣領の命令、か」
よく言うものだと鶴丸は思う。
確かに審神者は膝丸を含む第二部隊に遠征を指示した。
だが、それは飽く迄、第一部隊が帰還する前の話である。
あの情深い主のこと、膝丸が髭切の側に居たいと申し出たら、部隊から外しただろう。
つまり、膝丸は審神者に交渉する前に髭切に強引に送り出されてしまったに違いない。
兄に強く言われてしまったら、心中はどうあれ、行くしかないだろう。
不満を胸に秘めながら、離れたに違いない。
やれやれと鶴丸は髭切の隣に腰を下ろす。
「君は昔から素直じゃないな」
「…そうかな」
「君の行動は兄としては満点だが、つがいの相手にする行動じゃないな」
半ば、呆れ気味に言えば、髭切はずいと距離を詰めて来る。
髭切は何をするにも距離が近い。
それは無意識下の行動なのだろうが、無防備に近づかれる度に弟刀に睨まれる身としては勘弁して欲しい。
まあ、今はそのおっかない弟刀も不在だから安心と言えば、安心なのだが。
鶴丸がそんな事を考えていると、髭切は口許だけで笑って見せた。
この笑みがまた曲者なのを鶴丸はよく知っている。
「僕はあのこの兄だからね。兄として弟を正しく導かないと」
「よく言えたもんだ。本当は寂しい癖に」
鶴丸の一言に髭切は瞳を大きく見開いた。
そして、白い肌がまるで顔料をこぼしたかの様に朱へと染まって行く。
「…僕、そんなに分かり易いかな…」
髭切は熱くなったのか、両手で頬を包み込みながら呟く。
彼がこんな顔もするのだと鶴丸が知ったのはごく最近の事だ。
「少なくとも君の弟は分かっていないだろうな」
鶴丸は断言する。
膝丸は兄の一挙一動に注視しては居るが、胸中を探れる程の余裕はまだ無いだろう。
日頃から髭切に振り回されているのがよい証拠だ。
今回も素っ気なく追い出されたと思い込んでいるに違いない。
「もっとそう言う顔を弟に見せてやりゃいいのに」
「出来ないよ、僕、お兄ちゃんだし」
「何なんだ、その拘り…」
鶴丸は眉を顰める。
どうやら、髭切にとって【兄】である事は譲れない事らしい。
それはきっと、髭切の矜持なのだろう。
だから、鶴丸はささやかな助言のみ、贈る事にした。
「惜しいな。今の君の顔を膝丸に見せりゃ、イチコロだろうに」
「いちころ?」
「もっと、君にめろめろになるって事さ」
「めろめろ…」
首を傾げつつ、髭切は考え込む素振りを見せる。
暫く考える素振りを見せたものの、やはり、無理だと言う結論に至ったらしい。
「国永は親切そうに見えて、意地悪だよね」
ぶうと頬を膨らませると、髭切はそのまま鶴丸の膝を枕にごろり、寝転がる。
「…硬い」
「おい、人の膝を枕代わりにしてどんな言い種だ」
「枕丸の膝は固くても気持ちいいのになあ」
おかしいなと本気で不思議がっている髭切に鶴丸はため息を覚えた。
「そりゃ、君。好いてる奴と野郎の膝じゃ好いてる奴の膝の方が心地よいに決まってるだろう」
それぐらい分かっておけと突っ込むと髭切は目を瞬たかせる。
「…そっか、あのこの膝だからか」
髭切はふにゃりと顔を緩める。
その顔は昨夜、死闘を演じたとは思えない程、無防備なものだった。
その笑みに何も感じぬ訳ではないが、どうも弟刀の顔がちらついてしまう。
弟刀と言えば―。
鶴丸は急にある事を思い出し、辺りを見回す。
誰の気配も無い事を確認すると鶴丸はほっと息を吐いた。
実は鶴丸、本丸の仲間達にあらぬ疑いをかけられているのである。
それは何かと言えば、髭切に横恋慕していると言うものだ。
無論、鶴丸にその気はない。
髭切は気安い仲間の一振りであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
髭切だってそうだろう。
だから、あらぬ誤解を受けるのは不本意だ。
けれどもどれだけ否定しても仲間達は納得してくれない。
それどころか、誤解を一番、真に受けているのが膝丸と来ている。
髭切と一緒に居る時、世にも恐ろしい眼で睨んで来るのは本当、ご勘弁願いたい。
以前、それとなく髭切に忠告してみた事もあるが、弟はいいこだから焼きもちなんてやかないよとのご回答で。
あれだけ判り易く弟が嫉妬していると言うのに、髭切は全く気付いていないのである。
弟も大概、盲目だが、兄もそうであるらしい。
他愛もない言葉を交わすのはいいが、膝枕をしているところを見られるのはまずい。
誤解が酷くなる一方だ。
そんな鶴丸の心配を余所に、いつの間にか髭切は目を瞑っている。
おいおいと鶴丸は呟く。
鶴丸ですらこれなのだ、この掴み所のない兄に膝丸も振り回されているに違いない。
振り回されているのは何だか癪に思えて、鶴丸は暫く、この自由過ぎる友に付き合う事にした。
それにしても―。
何にも動かされる事のないように見えていた髭切がまさか、弟と恋に落ちるとは驚きである。
鶴丸は髭切を恋や執着とは無縁な男だと思っていた。
弟の方は弟の方で九十九の時を経て、意思を持つ様になってからずっと髭切に想いを寄せていたらしい。
驚くべき一途さだ。
もしかしたら髭切も口にはしなかっただけで同様に恋煩っていたのかもしれない。
そんな二振りが人の身を得た事により、めでたく結ばれたと言う訳だ。
めでたい事だとは思う。
ただ、手放しで祝福してやれないのは先を考えてしまうからか。
人により結ばれた縁は人により切られる。
戦いの果てに待つのは避けられぬ別離だ。
縁を深く結べば結ぶ程、いずれ訪れる別れがより一層、辛くなるばかりだ。
もし自分だとしたら、きっと、耐えられないだろうなと鶴丸は思う。
必ず訪れる別れの秋に怯えて暮らすぐらいなら、いっそ、一線を越えない方がましだ。
例え相手にとって自分が特別でなくとも、傍らで笑い合えればそれで充分だと鶴丸は思う。
けれどもこの兄弟は違う考えの様だ。
「…君達は恐くはないのか」
それは率直な疑問であり、決して返事を期待したものではなかった。
けれども、寝入っていた筈の髭切の耳にきちんと届いたらしい。
瞑っていた筈の目が開き、目が合うと、さすがの鶴丸も少しばかり、驚いてしまう。
「起きていたのか、君」
「…こわいって何が?」
もう一度、不思議そうに髭切は訊ねて来る。
「…いずれ、この戦いも終わりが来るだろう」
「だろうね」
「戦いが終わったら俺達は本霊に戻るだろう。そうなればまた、離ればなれだ。
君と弟は今までずっと別れを繰り返して来ただろうが、今回ばかりは質が違う筈だ。
深く契りを結べば結ぶ程、離れるのが一層、辛くなる。それが怖くないのかと訊いたんだ」
自分には到底、耐えられそうにない道を選んだ髭切に純粋な疑問をぶつけてみる。
すると髭切は一切の逡巡もなく口を開いた。
「この身を得た当初は僕も兄弟のままで居るのが一番だって、そう思っていたよ」
「そうなのか?」
「うん。でもね、弟丸に想いを伝えられたら、どうでも良くなっちゃったんだよね」
その時の膝丸の姿でも思い出したのか、髭切は瞳を細めた。
「せっかく、触れ合える体があるのに今まで通りなんて勿体ない。
いつ来るか分からない先の事を考えるよりも、時間が許す限り弟と触れ合いたいし、一緒に居たいってそう思ったんだ。
だから、怖いとかはあんまり考えた事はないかな」
それは意外な言葉であった。
「…まさか、膝丸が君を口説き落としたとはなあ」
驚きだぜと思わず鶴丸が溢せば、髭切はそうかなと首を傾ける。
髭切がどう言う経緯で膝丸と結ばれたのか鶴丸は知らない。
ある日突然、髭切から何の気なしに告げられたのだ、弟と相思相愛の仲だと。
その報せ方は実に髭切らしいと思う。
そんな経緯だったから、髭切が躊躇う弟を口説き落としたのだと思い込んでいたのである。
けれども事実は全く逆だった様だ。
あの愚直な弟の事だ、形振り構わずに必死に想いを告げたのだろう。
その姿が髭切の心を動かしたに違いない。
ともかく、鶴丸が選ばず、立ち止まった道を二振りは選び、結ばれたのだ。
羨ましいと思わなくもない。
ただ、何もかも投げ捨てても良いと思える様な恋を鶴丸は知らない。
一体、それはいかなる心地がするものなのだろうか。
知りたい様な知りたくない様な。
せっかくだから、どんな心持ちか聞いてみるのもまた、一興かと鶴丸は視線を下ろす。
が、つい先程まで話していたにも関わらず、髭切は再び、目を瞑っていた。
どうやら今度こそ完全に寝入ってしまったらしい。
すうすうと寝息を立てる髭切に鶴丸はやれやれと息を吐く。
もう暫くしたら、起こして、部屋に押し込むか。
そんな事を考えつつ、鶴丸が近くにあった食べかけの煎餅にかじりついた時の事―。
背中に不穏な気配を感じ、鶴丸は顔を上げる。
「…思っていたより、早いお帰りだな」
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