【腐】ゆいいつのもの
「おーい、おとうと丸?」
ずんずんと廊下を闊歩する膝丸に髭切は声を掛けるが反応はない。
もしや、聴こえないのかと今度は大きい声で「弟!」と呼んでみる。
「…もう夜も遅い。静かになされよ」
膝丸は振り向きもせず、冷たく言い放つ。
一応、聴こえてはいたらしい。
聴こえながらも応えないと言う事は話す気はないらしい。
髭切はそれ以上話す事を諦めて、視線だけを持ち上げた。
部屋を出て来た時よりも高い位置に月が見える。
弟の言う通り、もう遅い時刻なのだろう。
どおりで眠い筈だ。
髭切がそんな事を考えているといつの間にか、自室へと辿り着く。
いつもより乱暴に開けられた戸にお隣さんが起きちゃうよと髭切はつい咎めたがやはり返事はなかった。
膝丸は予め敷かれていた布団まで歩くと、肩に担いでいた髭切を下ろす。
戸は乱暴に開けた癖に下ろす仕草は驚く程、慎重で。
そんなところが弟らしいと髭切が思っていると、背後からぎゅうと抱き締められた。
痛いぐらいの抱擁である。
「…弟?」
呼び掛けるがやはり、応答はなく、体に絡み付く腕の力が益々、強まるばかり。
そう言えば、さっきから弟の顔を見ていない気がする。
どんな顔をしているのだろう。
弟の様子を探る為、髭切は肩口に埋まる薄緑の髪に軽く触れた。
よしよしと撫でやると、少しだけ頭が上がり、顔が見えた。
痛みを耐えている様な苦し気な顔である。
ただならぬ様子ではあったが、まさか、そんな顔をしているとは思わなかった。
「…どうしたの?何処か、痛いの?」
苦痛が少しでも和らぐ様にと髭切は青ざめた顔へ手を伸ばした。
だけれどもその手は途中で掴まれ、遮られてしまう。
「兄者は…」
「うん?」
「鶴丸国永を好いてあられるのか…?」
「国永?」
何故、此処でその名が出て来たのだろう。
理解出来ない髭切は目を瞬たかせる。
「俺の横で随分と親しげに話しておられたではないか」
語る声はいつもより低く、瞳の虹彩は細まり、絡みつく様に髭切を睨み据えている。
その顔がどんな感情で現れるものかを髭切はよく知っていた。
昔、その感情を拗らせて、鬼と化した女を斬った事があるからだ。
ただ、どうして弟がその鬼と同じ顔をしているのか髭切には分からなかった。
片や、膝丸は一向に答えが無い事に苛立ちを覚えていた。
本心を指摘されたからこその沈黙なのかと鋭い牙を唇にぐっと食い込ませる。
あまりに強く噛み締めたせいか、皮膚がぷつりと破れたらしい。
唇にはぷくりと血が浮いたが、膝丸は気にも留めなかった。
「…俺にはもう厭いたのか?」
苦悶の表情でそう訊ねた膝丸に髭切は漸く、口を開いた。
「…だとしたら、お前はどうするの?」
返って来たのは答えではなく問いであった。
「僕がお前以外の誰かを好きになったらお前はどうするの?」
まさかの質問に膝丸は体を硬くした。
瞬間、脳裏に浮かんだのは鶴丸と兄の仲睦まじい姿だった。
やはり、髭切は鶴丸に想いを寄せているのだろうか。
例え、恋仲でなくなったとしても髭切と膝丸は源氏の重宝であり二振一具の双剣である。
それは決して揺るがぬ事実であり、兄弟刀として共に在り続ける事が出来るだろう。
離れる事はない。
でも、決して先に進む事は出来ない。
千年を越えて慕い続けた兄が他の誰かと番になるのを黙って見ている事しか出来ないのだ。
…そんな事、許せる筈などない。
誰にも渡すものか。
膝丸は掴んだままの手に力を籠める。
「俺は、絶対にあなたを他の者になどやらぬ。あなたが俺に厭き、好いた者が出来たとしても、その者を切り裂き、己の許へと取り戻す!」
言い終えた後で荒い息を吐き、膝丸は髭切を睨み据える。
いつもであれば、こんな顔を膝丸は決して見せなかっただろう。
追い詰められたからこその貌であった。
弟の宣言を聞いた髭切は目を円くしていたが、やがて、薄い笑みを口許に湛えた。
「…そこまで僕に執着しているなら何故、お前は日中、触れて来ないのだろうね」
兄の言葉に膝丸はぎくりと肩を弾かせた。
まさか―。
「まだ、僕の方が練度が上だからね」
その返事が答えだった。
夜毎のあの秘め事を髭切は知っていたのだ。
その行動に疑問に思いながらも敢えてその事を告げる事無く、看過し続けて来たのだ。
動揺に言葉も出ない弟に髭切は小さく息を吐く。
形の良い唇から零れた微かな吐息を聞き、膝丸はびくりと肩を竦ませた。
「…お前、ひょっとしたら兄弟としての情と恋を勘違いしているんじゃない?」
「なっ…」
それは思わぬ言葉だった。
驚愕により動けない膝丸を後目に髭切は更に言葉を重ねて言った。
「僕はお前にとって【大切な兄者】だしね」
だから、気持ちを間違えても仕方ないかもねと、髭切は伏し目がちにそう言う。
恋ではない。
殊更優しい声で言われているのにも関わらず、膝丸は斬りつけられた様な酷い痛みを覚えた。
他の誰でもない髭切から己の思いを否定する言葉など聞きたくは無かった。
この先を聞いてしまったら、心も体もぱきんと音を立てて折れてしまう。
「だから、もう…」
いいよと言葉が終わるするよりも先に膝丸は髭切の唇に齧りつく。
上唇と下唇をがぶりと噛み、牙をしたたかに食い込ませる。
「い…っ…!」
柔らかい部分に歯を立てられた痛みに髭切は小さく呻く。
その声を遠くに聴きながら、膝丸は食んでいた唇を離す。
髭切は意表を衝かれたせいか茫然と弟を見上げている。
漸く解放された唇には噛まれた痕と膝丸の唇に浮かんでいた血が付いていた。
「…ああ、あなたの唇が汚れてしまったな」
無感情にそう呟くと膝丸は髭切の唇に滲んでいた己の血を舌で拭う。
まずい。
己のものだからだろうか、拭った血が苦くてまずかった。
これが髭切の血であれば、恐らく美味であったに違いないと膝丸は胸中で思った。
「あなたの仰る弟は【大切な兄者】にこの様な真似をなされるのか?」
語尾を強めて静かに問えば、髭切は少し戸惑った様な顔をした。
「…しない、だろうね」
「俺があなたを【兄】としてしか見ていないのであれば、この様な真似はしない。
【弟】としてあなたの傍らに在る事さえ出来れば十分だと思えただろう。けれども違う」
一旦、言葉を切り、膝丸は改めて髭切を睨む様な強さで見据えた。
「日中にあなたに触れなかったのは触れてしまえば歯止めがきかなくなる事が解っていたからだ。
一度あなたに触れてしまえば、俺は朝も夜もなくあなたを求めてしまうだろう。
どれだけ拒ばれ様とも顧みず、甚振り、果てには傷つけ、壊してしまうかもしれん。
それを危惧するあまり、意識のない夜にしか触れる事が出来なくなってしまったのだ」
全て言い終えると膝丸は心の蟠りが消えた様な気がした。
ずっと、髭切に本心を隠し接していた事は膝丸自身が思っていた以上に負担だったらしい。
蟠りから解放された瞳からは一筋の涙がつうと流れて零れた。
「…ばかだね、お前は」
まるで子どもを叱る様な強さで髭切は言うと、膝丸の頬に零れた涙を指で拭った。
涙を拭う手のひらは優しく温かで。
己と同じ瞳の深い色に膝丸は自然と惹き込まれた。
「まだ、解っていない様だから言うけど、お前だから僕は全てを預けられるんだよ。心も体も、全部」
お前だから―。
その言葉が膝丸の耳にじんわりと浸透して行く。
「なのにお前ときたら、まさか、そんな事を怖がっていたなんてねえ」
やれやれとため息を吐いた兄に先程の強気は何処へやら、膝丸は顔色を失う。
「あ、兄者…」
おろおろと慌てふためく弟刀に髭切はもう一度息を吐くと、ぺちんと軽く両頬を指先で叩いた。
勿論、痛みはなかったが叩かれたお蔭で膝丸は冷静を取り戻した。
「いいかい、一度しか言わないから、よくお聞き」
兄の言葉に膝丸はこくりと頷く。
「お前の兄はお前の全てを受け入れられない様な脆い刀?」
「違う」
膝丸は即答した。
「あなたは俺よりも強い」
ああ、そうだと膝丸は心中で呟く。
髭切は膝丸よりもずっと強い。
あの夜とて、拒もうと思えば髭切は殴りつけてでも拒む事が出来たのだ。
だけれども、髭切はそうしなかった。
全てを受け入れて、膝丸と共に在る事を自ら選んでくれたのだった。
「でしょう。仮にお前が僕をどうにしかしようとしても、僕は簡単に壊れたりしないよ」
そう言い切ると髭切は膝丸の額に己の額で触れた。
重なる場所から互いの熱がじんわりと伝わって来る。
「だから、変な遠慮などしてないでお前の好きに触れればいい」
目の前で告げられた言葉に膝丸は一瞬、呼吸を止めた。
膝丸はゆっくりと少しずつ、言われた言葉を噛み締める。
そして、僅かに眉を寄せている兄の唇へとぶつかる様に触れた。
例の如く不意打ちだったが端より拒む気も無い髭切は弟の唇を受け入れた。
膝丸の長い舌は下顎から歯列の順に触れて、最後に髭切の舌の表面を撫でて刺激する。
今まで与えられた事の無い感覚にぞくぞくと体を震わせれば、刹那、膝丸の口許に笑みが浮かぶ。
満たされた笑みである。
本当は膝丸はずっと、待っていたのだ。
触れても良いと言う兄からの言葉を。
待ち続けていたそれが漸く手に入ったからこそ笑ったのだ。
尤も、髭切にその事が解る筈もなく。
膝丸は敏い兄に気付かれる前にと逃げる舌を掬い上げて、絡めて、強く吸う。
互いの唾液が交じり、生々しい水音に反応した体が徐々に熱を帯びて行った。
熱い―。
口づけだけでもこれだけ熱いのだから、目合ったりしたら一体、どうなってしまうのだろう。
髭切は熱を孕み始めた頭でぼうっとそんな事を考える。
その内に髭切の体は褥の上へと押しやられた。
洗い立てのシーツの冷たさを感じる迄もなく、また、口づけられる。
口づけの合間に膝丸は何度も兄者、兄者と、髭切を呼んだ。
手首を掴み、逃がさぬ様拘束している癖に、逃げないでくれと必死に目で訴えて来る。
そのちぐはぐな行動が何だか可愛らしくて、髭切はつい笑みを溢してしまう。
「お前は可愛いね」
声に出して伝えれば、膝丸は顔を顰めた。
普段ならいざ知らず、閨で可愛いと言われてもちっとも嬉しくない。
可愛さなど、これからする行為できっと、消え失せてしまうだろう。
ならばと膝丸は髪の隙間から覗き込んでいた耳朶をがぶっと齧る。
「んっ」
髭切はびくりと体を撓らせた。
膝丸の推測通り、そこは髭切の弱点だったらしい。
そうと知った膝丸は軟骨に牙を立てて、耳裏を執拗にねぶる。
ぬるりとした長い舌が耳の皮膚を撫でる度に痺れが毒の様に全身を侵して行く。
「は…ぁ…っ…」
今まで、感じた事のない感覚に髭切の唇からせつない声が漏れた。
「兄者は耳が弱いのだな」
何処か優越感を含んだ弟の物言いに髭切はむっとする。
幾ら可愛い弟とはいえ、弱味を握られるのは決して愉快なものではなく、強かに弟を睨みつける。
だが、そこに居る膝丸はいつもの従順な弟ではなかった。
兄の一睨みに却って不敵な笑みを口許に浮かべて、膝丸はぬけぬけとこう言ったのだ。
「兄者がお認めにならないならば、時を掛け、じっくり教えて差し上げよう」
爛々と輝く瞳で告げた弟に髭切は悟った。
可愛い筈の弟は閨だと性質が変わるらしい、と―。
しかし、気づいたところでどうしようもなく。
そもそも、我慢などせずに好きに触れていいと赦したのは他ならぬ髭切であった。
「…兄者。お慕い申し上げる」
これまたわざとなのだろう、耳許に吹き込む様に想いを告げて来た弟に髭切は色々と観念した。
まあ、いいか―。
髭切とてずっと触れて欲しかったのだ。
それが予想とは全く違う形でも、膝丸ならばいいと髭切は納得する事にした。
ただ、やられっぱなしはやはり、性に合わないと髭切は今度は自ら弟に口づけする。
「僕もお前が好きだよ、膝丸」
唇を離した瞬間にそう告げると膝丸の顔がみるみる喜びに満ちて蕩けて行った。
ああ、やっぱり、可愛い。
尤もそう思ったのは束の間で。
結局、夜が明けるまで髭切は弟に放して貰えなかったのだった。
翌日。
着替えの途中、髭切は耳に触れる。
一晩中、弄られたせいか、まだ熱い。
一方、慌てたのは原因を作った膝丸である。
髭切の首の辺りでくるまっていたハイネックのシャツを下まで下ろしつつ、すまないと深刻な顔で謝罪する。
閨で自分を責めていたのが嘘みたいなしおらしさだと髭切はぼんやりと思う。
大丈夫だよと頭を撫でてやれば、膝丸の背後にひらひらと誉れ桜が舞い散った。
「…あっ、そうだ」
急に思い出した様な声を上げた髭切に膝丸はびくりと肩を弾かせる。
「どうしたのだ、兄者」
「後で国永にお礼を言わないと」
ぴくり、膝丸の眉が動く。
後朝の場で他の者の名を挙げられるのは決して、愉快な事ではない。
まして、昨夜の疑惑の相手ならば尚更である。
「何故、奴に礼を言う必要があるのだ?」
嫉妬を隠さずに訊ねて来た弟に髭切は笑う。
「実はね、あのこに相談していたんだよ。お前が触れてくれないんだけど、どうしたらいいかなって」
衝撃の事実に膝丸はぎょっとする。
「そ、そうなのか?」
「うん。そうしたら、夜に自分の部屋に行くと言えばいい。そうすれば全て上手く行くと助言をくれたんだよ」
「…」
成程、急に髭切が鶴丸の部屋に行くと言い出したのはそう言う訳だったらしい。
そして膝丸はまんまとその策に嵌ってしまった様だ。
確かに鶴丸のお蔭で今があるのだが、どうも膝丸は素直に感謝する事が出来なかった。
髭切の為に此処までするのはやはり、特別な何かがあるのではと勘繰ってしまう。
そんな膝丸の心など知る由もない髭切は飽く迄、いつも通りであった。
「いいこだねえ、国永は」
そう言って笑う髭切に膝丸は密かにため息を吐いた。
「…兄者、鶴丸に礼をするならば、俺も共に行く」
「うん、そうだね。一緒に行こうか」
兄の了承を得た膝丸はほっと安堵しつつ、ふと、ある事を思い出す。
「ところで兄者、一つ、お尋ねしたいのだが…」
「なあに、おとうと丸」
「…俺は膝丸だ。それよりも兄者、何故、あなたは俺を尻好きなどと仰られたのだ?」
怪訝な顔つきで膝丸は訊ねた。
そう、実はずっとそれが頭の隅に引っ掛かっていたのである。
膝丸自身、尻が好きなどと公言した覚えはない。
まして、愛する兄の前でその様な破廉恥極まりない発言などする訳もなく。
なのに何故、髭切が己を尻好きと断言したのかがずっと、心に引っ掛かっていたのだ。
不本意極まりないと言った顔で訊ねて来た弟に髭切はこう答えた。
「だって、お前、僕が寝ている時にお尻にばかり触れていたから、てっきり、好きなものだと思っていたんだけど…」
ありゃ、違うのかいと確かめられた膝丸の顔はみるみる真っ赤に染まった。
正直、髭切の言う様に尻ばかり触れていたという自覚はない。
でもまさか、おおらかな兄の記憶に残るぐらい自分が尻に触れていたかと思うと恥ずかしくて居た堪れなくなった。
とうとう頭を抱え出した膝丸を尻目に髭切は無情にも言葉を続けた。
「あっ、でもお前が本当に好きなのはお尻じゃなくて耳みたいだねえ」
「なっ!」
「そうだろう、耳しゃぶ丸?」
にっこりと微笑まれた膝丸は色々と限界だった。
ぷるぷると体を震わせる。
「俺は膝丸だ、あにじゃああぁっー!!」
本丸中に膝丸の悲痛な声が谺する。
この後、膝丸が髭切に耳しゃぶ丸と皆の前で呼ばれる様になってしまい、大層、困り果てたのはまた、別のおはなし。
了。
ずんずんと廊下を闊歩する膝丸に髭切は声を掛けるが反応はない。
もしや、聴こえないのかと今度は大きい声で「弟!」と呼んでみる。
「…もう夜も遅い。静かになされよ」
膝丸は振り向きもせず、冷たく言い放つ。
一応、聴こえてはいたらしい。
聴こえながらも応えないと言う事は話す気はないらしい。
髭切はそれ以上話す事を諦めて、視線だけを持ち上げた。
部屋を出て来た時よりも高い位置に月が見える。
弟の言う通り、もう遅い時刻なのだろう。
どおりで眠い筈だ。
髭切がそんな事を考えているといつの間にか、自室へと辿り着く。
いつもより乱暴に開けられた戸にお隣さんが起きちゃうよと髭切はつい咎めたがやはり返事はなかった。
膝丸は予め敷かれていた布団まで歩くと、肩に担いでいた髭切を下ろす。
戸は乱暴に開けた癖に下ろす仕草は驚く程、慎重で。
そんなところが弟らしいと髭切が思っていると、背後からぎゅうと抱き締められた。
痛いぐらいの抱擁である。
「…弟?」
呼び掛けるがやはり、応答はなく、体に絡み付く腕の力が益々、強まるばかり。
そう言えば、さっきから弟の顔を見ていない気がする。
どんな顔をしているのだろう。
弟の様子を探る為、髭切は肩口に埋まる薄緑の髪に軽く触れた。
よしよしと撫でやると、少しだけ頭が上がり、顔が見えた。
痛みを耐えている様な苦し気な顔である。
ただならぬ様子ではあったが、まさか、そんな顔をしているとは思わなかった。
「…どうしたの?何処か、痛いの?」
苦痛が少しでも和らぐ様にと髭切は青ざめた顔へ手を伸ばした。
だけれどもその手は途中で掴まれ、遮られてしまう。
「兄者は…」
「うん?」
「鶴丸国永を好いてあられるのか…?」
「国永?」
何故、此処でその名が出て来たのだろう。
理解出来ない髭切は目を瞬たかせる。
「俺の横で随分と親しげに話しておられたではないか」
語る声はいつもより低く、瞳の虹彩は細まり、絡みつく様に髭切を睨み据えている。
その顔がどんな感情で現れるものかを髭切はよく知っていた。
昔、その感情を拗らせて、鬼と化した女を斬った事があるからだ。
ただ、どうして弟がその鬼と同じ顔をしているのか髭切には分からなかった。
片や、膝丸は一向に答えが無い事に苛立ちを覚えていた。
本心を指摘されたからこその沈黙なのかと鋭い牙を唇にぐっと食い込ませる。
あまりに強く噛み締めたせいか、皮膚がぷつりと破れたらしい。
唇にはぷくりと血が浮いたが、膝丸は気にも留めなかった。
「…俺にはもう厭いたのか?」
苦悶の表情でそう訊ねた膝丸に髭切は漸く、口を開いた。
「…だとしたら、お前はどうするの?」
返って来たのは答えではなく問いであった。
「僕がお前以外の誰かを好きになったらお前はどうするの?」
まさかの質問に膝丸は体を硬くした。
瞬間、脳裏に浮かんだのは鶴丸と兄の仲睦まじい姿だった。
やはり、髭切は鶴丸に想いを寄せているのだろうか。
例え、恋仲でなくなったとしても髭切と膝丸は源氏の重宝であり二振一具の双剣である。
それは決して揺るがぬ事実であり、兄弟刀として共に在り続ける事が出来るだろう。
離れる事はない。
でも、決して先に進む事は出来ない。
千年を越えて慕い続けた兄が他の誰かと番になるのを黙って見ている事しか出来ないのだ。
…そんな事、許せる筈などない。
誰にも渡すものか。
膝丸は掴んだままの手に力を籠める。
「俺は、絶対にあなたを他の者になどやらぬ。あなたが俺に厭き、好いた者が出来たとしても、その者を切り裂き、己の許へと取り戻す!」
言い終えた後で荒い息を吐き、膝丸は髭切を睨み据える。
いつもであれば、こんな顔を膝丸は決して見せなかっただろう。
追い詰められたからこその貌であった。
弟の宣言を聞いた髭切は目を円くしていたが、やがて、薄い笑みを口許に湛えた。
「…そこまで僕に執着しているなら何故、お前は日中、触れて来ないのだろうね」
兄の言葉に膝丸はぎくりと肩を弾かせた。
まさか―。
「まだ、僕の方が練度が上だからね」
その返事が答えだった。
夜毎のあの秘め事を髭切は知っていたのだ。
その行動に疑問に思いながらも敢えてその事を告げる事無く、看過し続けて来たのだ。
動揺に言葉も出ない弟に髭切は小さく息を吐く。
形の良い唇から零れた微かな吐息を聞き、膝丸はびくりと肩を竦ませた。
「…お前、ひょっとしたら兄弟としての情と恋を勘違いしているんじゃない?」
「なっ…」
それは思わぬ言葉だった。
驚愕により動けない膝丸を後目に髭切は更に言葉を重ねて言った。
「僕はお前にとって【大切な兄者】だしね」
だから、気持ちを間違えても仕方ないかもねと、髭切は伏し目がちにそう言う。
恋ではない。
殊更優しい声で言われているのにも関わらず、膝丸は斬りつけられた様な酷い痛みを覚えた。
他の誰でもない髭切から己の思いを否定する言葉など聞きたくは無かった。
この先を聞いてしまったら、心も体もぱきんと音を立てて折れてしまう。
「だから、もう…」
いいよと言葉が終わるするよりも先に膝丸は髭切の唇に齧りつく。
上唇と下唇をがぶりと噛み、牙をしたたかに食い込ませる。
「い…っ…!」
柔らかい部分に歯を立てられた痛みに髭切は小さく呻く。
その声を遠くに聴きながら、膝丸は食んでいた唇を離す。
髭切は意表を衝かれたせいか茫然と弟を見上げている。
漸く解放された唇には噛まれた痕と膝丸の唇に浮かんでいた血が付いていた。
「…ああ、あなたの唇が汚れてしまったな」
無感情にそう呟くと膝丸は髭切の唇に滲んでいた己の血を舌で拭う。
まずい。
己のものだからだろうか、拭った血が苦くてまずかった。
これが髭切の血であれば、恐らく美味であったに違いないと膝丸は胸中で思った。
「あなたの仰る弟は【大切な兄者】にこの様な真似をなされるのか?」
語尾を強めて静かに問えば、髭切は少し戸惑った様な顔をした。
「…しない、だろうね」
「俺があなたを【兄】としてしか見ていないのであれば、この様な真似はしない。
【弟】としてあなたの傍らに在る事さえ出来れば十分だと思えただろう。けれども違う」
一旦、言葉を切り、膝丸は改めて髭切を睨む様な強さで見据えた。
「日中にあなたに触れなかったのは触れてしまえば歯止めがきかなくなる事が解っていたからだ。
一度あなたに触れてしまえば、俺は朝も夜もなくあなたを求めてしまうだろう。
どれだけ拒ばれ様とも顧みず、甚振り、果てには傷つけ、壊してしまうかもしれん。
それを危惧するあまり、意識のない夜にしか触れる事が出来なくなってしまったのだ」
全て言い終えると膝丸は心の蟠りが消えた様な気がした。
ずっと、髭切に本心を隠し接していた事は膝丸自身が思っていた以上に負担だったらしい。
蟠りから解放された瞳からは一筋の涙がつうと流れて零れた。
「…ばかだね、お前は」
まるで子どもを叱る様な強さで髭切は言うと、膝丸の頬に零れた涙を指で拭った。
涙を拭う手のひらは優しく温かで。
己と同じ瞳の深い色に膝丸は自然と惹き込まれた。
「まだ、解っていない様だから言うけど、お前だから僕は全てを預けられるんだよ。心も体も、全部」
お前だから―。
その言葉が膝丸の耳にじんわりと浸透して行く。
「なのにお前ときたら、まさか、そんな事を怖がっていたなんてねえ」
やれやれとため息を吐いた兄に先程の強気は何処へやら、膝丸は顔色を失う。
「あ、兄者…」
おろおろと慌てふためく弟刀に髭切はもう一度息を吐くと、ぺちんと軽く両頬を指先で叩いた。
勿論、痛みはなかったが叩かれたお蔭で膝丸は冷静を取り戻した。
「いいかい、一度しか言わないから、よくお聞き」
兄の言葉に膝丸はこくりと頷く。
「お前の兄はお前の全てを受け入れられない様な脆い刀?」
「違う」
膝丸は即答した。
「あなたは俺よりも強い」
ああ、そうだと膝丸は心中で呟く。
髭切は膝丸よりもずっと強い。
あの夜とて、拒もうと思えば髭切は殴りつけてでも拒む事が出来たのだ。
だけれども、髭切はそうしなかった。
全てを受け入れて、膝丸と共に在る事を自ら選んでくれたのだった。
「でしょう。仮にお前が僕をどうにしかしようとしても、僕は簡単に壊れたりしないよ」
そう言い切ると髭切は膝丸の額に己の額で触れた。
重なる場所から互いの熱がじんわりと伝わって来る。
「だから、変な遠慮などしてないでお前の好きに触れればいい」
目の前で告げられた言葉に膝丸は一瞬、呼吸を止めた。
膝丸はゆっくりと少しずつ、言われた言葉を噛み締める。
そして、僅かに眉を寄せている兄の唇へとぶつかる様に触れた。
例の如く不意打ちだったが端より拒む気も無い髭切は弟の唇を受け入れた。
膝丸の長い舌は下顎から歯列の順に触れて、最後に髭切の舌の表面を撫でて刺激する。
今まで与えられた事の無い感覚にぞくぞくと体を震わせれば、刹那、膝丸の口許に笑みが浮かぶ。
満たされた笑みである。
本当は膝丸はずっと、待っていたのだ。
触れても良いと言う兄からの言葉を。
待ち続けていたそれが漸く手に入ったからこそ笑ったのだ。
尤も、髭切にその事が解る筈もなく。
膝丸は敏い兄に気付かれる前にと逃げる舌を掬い上げて、絡めて、強く吸う。
互いの唾液が交じり、生々しい水音に反応した体が徐々に熱を帯びて行った。
熱い―。
口づけだけでもこれだけ熱いのだから、目合ったりしたら一体、どうなってしまうのだろう。
髭切は熱を孕み始めた頭でぼうっとそんな事を考える。
その内に髭切の体は褥の上へと押しやられた。
洗い立てのシーツの冷たさを感じる迄もなく、また、口づけられる。
口づけの合間に膝丸は何度も兄者、兄者と、髭切を呼んだ。
手首を掴み、逃がさぬ様拘束している癖に、逃げないでくれと必死に目で訴えて来る。
そのちぐはぐな行動が何だか可愛らしくて、髭切はつい笑みを溢してしまう。
「お前は可愛いね」
声に出して伝えれば、膝丸は顔を顰めた。
普段ならいざ知らず、閨で可愛いと言われてもちっとも嬉しくない。
可愛さなど、これからする行為できっと、消え失せてしまうだろう。
ならばと膝丸は髪の隙間から覗き込んでいた耳朶をがぶっと齧る。
「んっ」
髭切はびくりと体を撓らせた。
膝丸の推測通り、そこは髭切の弱点だったらしい。
そうと知った膝丸は軟骨に牙を立てて、耳裏を執拗にねぶる。
ぬるりとした長い舌が耳の皮膚を撫でる度に痺れが毒の様に全身を侵して行く。
「は…ぁ…っ…」
今まで、感じた事のない感覚に髭切の唇からせつない声が漏れた。
「兄者は耳が弱いのだな」
何処か優越感を含んだ弟の物言いに髭切はむっとする。
幾ら可愛い弟とはいえ、弱味を握られるのは決して愉快なものではなく、強かに弟を睨みつける。
だが、そこに居る膝丸はいつもの従順な弟ではなかった。
兄の一睨みに却って不敵な笑みを口許に浮かべて、膝丸はぬけぬけとこう言ったのだ。
「兄者がお認めにならないならば、時を掛け、じっくり教えて差し上げよう」
爛々と輝く瞳で告げた弟に髭切は悟った。
可愛い筈の弟は閨だと性質が変わるらしい、と―。
しかし、気づいたところでどうしようもなく。
そもそも、我慢などせずに好きに触れていいと赦したのは他ならぬ髭切であった。
「…兄者。お慕い申し上げる」
これまたわざとなのだろう、耳許に吹き込む様に想いを告げて来た弟に髭切は色々と観念した。
まあ、いいか―。
髭切とてずっと触れて欲しかったのだ。
それが予想とは全く違う形でも、膝丸ならばいいと髭切は納得する事にした。
ただ、やられっぱなしはやはり、性に合わないと髭切は今度は自ら弟に口づけする。
「僕もお前が好きだよ、膝丸」
唇を離した瞬間にそう告げると膝丸の顔がみるみる喜びに満ちて蕩けて行った。
ああ、やっぱり、可愛い。
尤もそう思ったのは束の間で。
結局、夜が明けるまで髭切は弟に放して貰えなかったのだった。
翌日。
着替えの途中、髭切は耳に触れる。
一晩中、弄られたせいか、まだ熱い。
一方、慌てたのは原因を作った膝丸である。
髭切の首の辺りでくるまっていたハイネックのシャツを下まで下ろしつつ、すまないと深刻な顔で謝罪する。
閨で自分を責めていたのが嘘みたいなしおらしさだと髭切はぼんやりと思う。
大丈夫だよと頭を撫でてやれば、膝丸の背後にひらひらと誉れ桜が舞い散った。
「…あっ、そうだ」
急に思い出した様な声を上げた髭切に膝丸はびくりと肩を弾かせる。
「どうしたのだ、兄者」
「後で国永にお礼を言わないと」
ぴくり、膝丸の眉が動く。
後朝の場で他の者の名を挙げられるのは決して、愉快な事ではない。
まして、昨夜の疑惑の相手ならば尚更である。
「何故、奴に礼を言う必要があるのだ?」
嫉妬を隠さずに訊ねて来た弟に髭切は笑う。
「実はね、あのこに相談していたんだよ。お前が触れてくれないんだけど、どうしたらいいかなって」
衝撃の事実に膝丸はぎょっとする。
「そ、そうなのか?」
「うん。そうしたら、夜に自分の部屋に行くと言えばいい。そうすれば全て上手く行くと助言をくれたんだよ」
「…」
成程、急に髭切が鶴丸の部屋に行くと言い出したのはそう言う訳だったらしい。
そして膝丸はまんまとその策に嵌ってしまった様だ。
確かに鶴丸のお蔭で今があるのだが、どうも膝丸は素直に感謝する事が出来なかった。
髭切の為に此処までするのはやはり、特別な何かがあるのではと勘繰ってしまう。
そんな膝丸の心など知る由もない髭切は飽く迄、いつも通りであった。
「いいこだねえ、国永は」
そう言って笑う髭切に膝丸は密かにため息を吐いた。
「…兄者、鶴丸に礼をするならば、俺も共に行く」
「うん、そうだね。一緒に行こうか」
兄の了承を得た膝丸はほっと安堵しつつ、ふと、ある事を思い出す。
「ところで兄者、一つ、お尋ねしたいのだが…」
「なあに、おとうと丸」
「…俺は膝丸だ。それよりも兄者、何故、あなたは俺を尻好きなどと仰られたのだ?」
怪訝な顔つきで膝丸は訊ねた。
そう、実はずっとそれが頭の隅に引っ掛かっていたのである。
膝丸自身、尻が好きなどと公言した覚えはない。
まして、愛する兄の前でその様な破廉恥極まりない発言などする訳もなく。
なのに何故、髭切が己を尻好きと断言したのかがずっと、心に引っ掛かっていたのだ。
不本意極まりないと言った顔で訊ねて来た弟に髭切はこう答えた。
「だって、お前、僕が寝ている時にお尻にばかり触れていたから、てっきり、好きなものだと思っていたんだけど…」
ありゃ、違うのかいと確かめられた膝丸の顔はみるみる真っ赤に染まった。
正直、髭切の言う様に尻ばかり触れていたという自覚はない。
でもまさか、おおらかな兄の記憶に残るぐらい自分が尻に触れていたかと思うと恥ずかしくて居た堪れなくなった。
とうとう頭を抱え出した膝丸を尻目に髭切は無情にも言葉を続けた。
「あっ、でもお前が本当に好きなのはお尻じゃなくて耳みたいだねえ」
「なっ!」
「そうだろう、耳しゃぶ丸?」
にっこりと微笑まれた膝丸は色々と限界だった。
ぷるぷると体を震わせる。
「俺は膝丸だ、あにじゃああぁっー!!」
本丸中に膝丸の悲痛な声が谺する。
この後、膝丸が髭切に耳しゃぶ丸と皆の前で呼ばれる様になってしまい、大層、困り果てたのはまた、別のおはなし。
了。
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